ボクシングをしてみた。

 板石さんの親類の人たちにより棺桶が運ばれて行く。ぼくらの出番はない。






「腹減ったな」


 確かにそうだ。板石さんの家を出る時に時計を見たらあと30分で正午だった。ぼくたち3人が伯父さんに導かれて肌色と紺色の混じったバスに乗り込むと、その脇から真っ白なバスと黒くいかめしい自動車が並んで走り去って行った。


「あれなんだ、いやバスはなんとなくわかるけど」

「霊柩車って言う車だね。あれで死体を火葬場まで持って行くんだ」

「そっか、あれがオレが最後に乗る車なんだなー、いやまたひとつ覚えちまったぜ」


 ぼくも最後にはあの車に乗る事になるのだろう。そう考えるとぼくは自然と手を合わせていた。そしてぼくが手を放すのとほぼ同時に、再びバスが動き始めた。


 最初は先に行った真っ白なバスと霊柩車を追いかけていたけど、すぐに別の方向に曲がって行った。そして今度は、ほんの数分も走らない内に止まった。




 考えてみれば当たり前だ。「お出かけ」があれだけで終わるはずもない。しかし今度の建物は一体何なんだろう。大きな体育館のような感じだ。中はいったいどうなってるんだろうか。またもや、なぜかわからないがワクワクして来た。


「まあ、そろそろ12時だからな。まずは昼ご飯だ」


 伯父さんに連れられて建物の中に入ったぼくたちを待っていたのは、空腹に強く訴えかけるような香りだった。その香りにつられておおっと言う声をぼくと薫が上げると同時に、はじめがあーと言う声を上げた。


「何だよお前、カレー嫌いなのかよ!」

「違うよ、そうじゃないけど」

「あっもしかしてお前昨日カレー喰ったのか」


 カレーが嫌いな人間などぼくは聞いた事ない。でもさっきのあーと言う声が歓迎していると言う感じじゃなかった以上、空腹ではあるのだろうけどカレーを食べたくはないと考えるのは自然な流れだろう。


 薫ははじめのそういう事情を察して昨日カレー食べたから今日は嫌なんだろうと言ったが、はじめはほおをふくらませながら右手を顔の前で振った。


「まさか弁当でも持って来たんじゃないだろうな、だったら帰れよお前」

「帰れって何だよ」

「まあまあ落ち着いてご飯食べようよ、おなかが空くとろくな事がないよ」


 ――――食事も出さないような冷たい人だとでも思っていたのかよ、そんな人たちとこれ以上いっしょにいる理由なんかないだろ――――――――薫が言いたいのはそういう事だろう。


 実際ぼくもお父さんに食事はどうなるのと言う質問をしたが大丈夫だからの一言で終わったし、実際に出そうと言う流れになった以上何も問題はなかった。







 

「お前の親ってどんな奴なんだよ」

「普通の親だよ」


 普通に見ている分には結構しっかりしていておいしそうに見えるお弁当だけど、ぼくたちがスプーンで口に運んでいるカツカレーと比べるとちょっとしょぼい感じに見える。


 この普段食べているそれ以上においしいカレーを断ってまで食べるほどの理由があるのかどうかわからない。せっかく本気で作った上で持たせてやったんだから残すなよとでも言うのだろうか、ぼくは二年生の時の遠足でバスに乗った時乗り物酔いを起こしてまともに動けなくなりお弁当を半分しか食べられなかった事があったが、お母さんからとくにその事を叱られる事はなかった。


 伯父さんははじめが食べようとしないカツカレーをほおばりながら、優しい目でぼくたちの事を見つめている。



「こんなうまいもんを喰わせてくれる人をさ」

「まあまあ、これはまだ前座なんだから。ああ前座ってのはいわゆる前置きの事で、この後に本番が来るって事だよ」


 これだけでも食事としては十分だったけど、その先にもっとすごい何かが来るとでも言うのだろうか。とは言えおなかがふくれて来ていたのもまた事実であり、これ以上何かを詰め込む場所があるのだろうかと言う不安も少しあった。





「ごちそうさまでした」

「いやまだ早いよ、今から一番おいしいのが来るんだから」


 カツは厚くて肉汁がいっぱいで、カレーはこれまでに食べた事がないほど辛みがあって少し刺激が強かったけどおいしかった。この後に来る、もっとおいしいのとは一体何なんだろうか。ワクワクするようなしたくないような不思議な気分になって来た。


「はい」


 真っ青な皿に乗せられた、丸くて白い玉。ふわふわした白い毛のかたまりのような不思議な玉。おそらくはお菓子なんだろう。マシュマロとか言うのとは違う、これまでに全く見た事がない様な不思議なお菓子。

 ビー玉の倍ぐらい大きさのその白い玉がぼくたち1人に1個ずつと言う形で置かれた。暗い顔をしながらお弁当を食べきったはじめの前にも置かれた。


「食べていいんですか」

「どうぞ遠慮なく、ああ手づかみで行っちゃっていいよ」


 ぼくが伯父さんの言葉の言う事を聞いてそのお菓子をつまもうとすると、薫がはじめをにらみ付けていた。喰えよ、喰えるだろと言わんばかりのにらみ方でありおどしと言った方がよさそうなぐらい強いにらみ方だった。


 でも確かに一口食べておいしくないからもういいですと言うのはまだともかく、食べる前から嫌だと言うのはよくないとぼくの父さんも言っていた。


「まあとりあえず喰ってみろよ。はい、いただきます」


 薫がそのお菓子をつまんで口に放り込むのとほぼ同時に、ぼくも同じようにお菓子を口に放り込んだ。










 なんだこれは。


 世界中の砂糖をかき集めてギュッとこの大きさに固めたような、これまでで一度も食べた事がないようであり、かつこれから先一度も食べる事ができないような味。

 砂糖ではあるけどただ甘ったるいと言う訳ではなく、ちょうどいい甘さが口の中に広がっていく。これまで食べて来たどんなお菓子よりも、いやどんな食べ物でも出せない感じがする不思議な味。

 しかしおいしくて甘いと言う事だけは間違いない味。一応隣にカレーを食べている時に飲んだ水の残りは置いてあったけど、この味を水で打ち消す気にはならない。ずっと、この味が口の中に残ればいいのにと思った。口の中で甘さと快感が広まり、そして鼻にも甘みが抜けて行った。







「そんなに気に入ってくれてうれしいよ」

 伯父さんの言葉でハッと気が付いたのは、5分は後の事だったらしい。それほどまでの間、ぼくはあの小さなお菓子の甘みを味わっていた事になる。ぼくがびっくりしながら隣を見ると、薫もはじめも同じような顔をしていた。


「すげえよ、すげえうめえよこれ!」

「これはいったい何なんですか?」

「砂糖玉だよ」


 しかし薫とはじめが出した声は正反対であり、そしてやはりぼくと近い反応をしたのは薫だった。


 よくわからないけれどおいしい、それでいいじゃないか。


 せっかく食べて欲しいと言って出して来た物に対してああだこうだと言うのは正直図々しく感じる。ましてやもう食べ終わった後だ。まあおいしかったからこそさらに食べたいと思い、それが何なのか知りたいと思うのは当然だけれど。


 しかし砂糖玉!あまりにもわかりやすい名前だ。確かに砂糖を固めたような色をした食べ物ではあったが、単純な砂糖の味とは違う気がする。どう違うのかはわからないが、砂糖玉などと言う単純な名前を付けてしまっていい物なのかどうか。


「もっとないのか」

「図々しい事言うんじゃないよ」

「あるよ」

「じゃあ早く出してくださいよ」


 薫がもっと食べたいと言い出したのは当然だろう、ぼくだってもっと食べたい。だからその言葉に対しすぐさまそんな説教じみた事を言ってくるはじめの態度は正直気に入らなかった。


 まあ落ち着いて考えればもっともっとと求めるのは確かに図々しいかもしれないが、ぼくたちと同じようにこの不思議なお菓子の味を噛みしめていたのであればもう少し浮かれ上がっても良かったんじゃないだろうか。

 その上に伯父さんからあっさりあるよと言われたものだからはじめはすっかりふてくされてしまったようで、両腕を組みながら伯父さんをにらみつけている。さっきはよけいな事を言うなよと嫌な気分になったが、こうなってみると少し同情したくなってくるから不思議だ。


 もちろんタダと言う訳には行かないけれどねと言いながら伯父さんがぼくたちを連れ込んだのは、この大きな建物の隅っこにあった小さな部屋だった。











 青い床に白いロッカー、隅っこにある赤と青の柱と白いロープ。テレビとかでチラッと見た事がある、プロレスとかボクシングとかの格闘技が行われるリングって物だ。

 テレビで見ているとずいぶんと小さく見えるけど、こうやってそばに寄ってみると実に大きい。


「なんだこのグローブ」


 そして、赤と青と緑色をしたぼくたちの手の大きさに合った三つのグローブ。伯父さんはぼくに青、薫に赤、はじめに緑のグローブをはめ、同じ色のヘッドギアって言う物をつけさせた。


「このリング上でちょっと殴り合いをしてもらう」

「なるほど、これで勝てばまた砂糖玉がもらえるって事だな」

「まあそうだね」




 わかりやすい話だ。どんなにみんな仲良くとか平等とか言った所で、ぼくは薫ほど足は速くないしテストで毎回100点を取れる訳でもない。どちらの話にせよ、力がある者が得をするのは当然の事だ。これから行われる殴り合いに勝つ事が、あの砂糖玉を手にする条件なのだろう。


「えーと3分ごとに1分ずつ休憩して、それを3回繰り返す。どっちかが参ったと言えばそれでおしまい、途中でもう勝負が決まったなと思ったら伯父さんがそれを言う事にする。そうならないまま3回終わった場合はやはり伯父さんが決める」

「引き分けってのは」

「ないよ、かならずどっちかが勝つ」

「よーしこうなったら絶対勝つからな、手抜きなんかしねえぞ!」







 ぼくは薫と時々似たような事をする。


 負け続きではあるが、3回に1回ぐらいは勝てている。でもその度に薫は負けると今のはわざと手を抜いてやってるんだからなと言い訳をするが、あまり間違っていないと思う。


 ぼくが勝った時は薫がヘマをした時であり、まともに戦う事とぼくが勝つ事はできない。あるいは同じようなヘマを何度もやらかしている気もするから本当にただの言い訳なのかもしれないが、ぼくにとってはどっちでもよかった。

 もちろん基本的に勝ちまくっている薫は気持ちがいいし、ぼくだってたまに勝った時の事を思い出してうれしくなれる。それでいいじゃないか。でも今回ばかりはそうも行きそうにはない。先ほど口にしたあのお菓子の味を思い出すだけで、またあの味で口の中を一杯にしたいと言う気持ちが込み上げて来る。

 いつも本気でやっているつもりだが、今回はもっとその上の本気で行きたいと言う気持ちで一杯になれている。


「よし、じゃあまずは」




 ぼくと薫がリングに上げられた。リングの脇で座っていた伯父さんのそれじゃ始めと言う声と共にカーンと言う甲高い音が鳴り響き、その途端に薫がぼくにパンチをして来た。



「おいどうした、今のが合図なんだろ」



 薫の言う通り、ぼくはカーンと言う音が試合の始まりの合図だと思わずついその音のした方向を向いてしまった。ぼくの事を殴ろうとしている相手を目の前にしてそんな事をすればどうなるか、答えは簡単だ。

 薫が放ったパンチをぼくは左の肩にもろに受けてしまい、元々よそ見をしていた事もあって体勢を崩してしまった。


「ルール違反じゃないんですか」

「開始って言ったんだろ、そういう事だ」



 はじめは薫のやり方をダメじゃないかと言ったが、ぼくは全く気にしていない。と言うか、肩を殴られて体勢を崩した所から立て直すのに必死でありそんな事を聞いているひまはなかった。薫はここぞとばかりに次々にパンチを打ち込んで来る、まあぼくが薫でもそうするだろう。


 こうなった場合どうするか、いつものケンカの事を思い出した。そういう時は一度逃げて、有利な状態になってから戦う。わざわざ不利な状態で戦う必要はどこにもない。だから逃げる事にしたが、このリングと言うのは見ているよりずいぶん狭い。

 路地裏やら空き地やらでやる時はいくらでも逃げようがあったがこうなってみるときつい。どこに回ってもパンチが迫って来そうでこわくて仕方がない。


 しかしそれでもなんとか逃げて体勢を立て直すと、連続でパンチを打って少しハアハア言っていた薫のほっぺたにパンチを叩き込んでやった。やったなと言いながら薫が反撃してくるが、これまで疲れていた分だけパンチが遅い。


 とは言ってもこっちだってさんざん逃げ回って来たわけだから疲れているのは同じでありなかなかうまく当たらない。やがてカーンと言う音が鳴った。


「おいもう3分かよ!」

「その通り、じゃあグローブの色と同じところに座って休んでね」


 自分としては20分ぐらいのつもりだったのに、3分しか経っていないと言う。これから同じ事があと2回も続くと思うと少し不安になるが、それでもやはりあのお菓子は食べたい。だから全力でかかってやろうと思った。



「絶対オレがあの砂糖玉を食べてやるからな」



 ぼくと薫の気持ちは同じだった。同じだからこそぶつかり合う、いつものじゃれ合いとは違う、まじめな勝負。再びカーンと言う音が鳴ると同時に、ぼくたちは何も考える事なく殴り合った。


 グローブ越しでも、薫の強いこぶしがどんどん飛んで来るのがわかる。そしてぼくのパンチが、薫のそれほど強力でない事もわかる。だからこうしてまともに殴り合うのは正しい答えではなかったのだろうけど、それでもぼくは殴り合った。


 あのお菓子が欲しかったし、そして向こうが正面から来ているのに自分だけひるんでいる必要もないと思ったからである。


 しかしそういう間違いをやってしまったらどうなるか、その答えは案外簡単に出てしまった。


 体力が同じならば強いパンチをたくさん喰らっているこっちの方が先にやられるのは当たり前の理屈だ。薫が少しフラフラしているなと思うと同時に、ぼくの体はあお向けに倒れ込んでいた。







「ああっ」

「ワン、ツー…しぶといねえ」


 伯父さんがテレビで見たようなカウントを取り、ぼくの負けだと決め付けようとする前にぼくは立ち上がれた。はじめはもうダメと言いたそうに女の子のような悲鳴を出していたが、ぼくとしてはまだ戦えない訳でもないと思っていた。

 でもやはり正面からやり合っては勝てない、逃げ回りつつすきを付くしかないと思った。だから逃げた。


「おい逃げるのかよ、あの砂糖玉喰いたくないのか」


 食べたいからこそこうしている。もちろんその事は向こうだって知っているだろうし、ぼくが逃げ回っているのと同じようにぼくを正面から殴り掛からせようとするやり方の1つなのだろう。

 ぼくはお菓子が食べたいから、あくまで逃げ回り続けた。だがその結果、次にカーンと言う音が鳴るまで大したパンチは打てなかった。

 正面から行くか、それとも逃げ続けるか。逃げ続けてうまく当てれば勝てるかもしれない。しかしそれは正面から戦っても同じだ。少しだけ迷ったが、結局これまでと同じように逃げ回る事にした。



「ファイナルラウンドだよ」


 ぼくは逃げた。薫のすきを探し求めた。極端な話、一発もパンチを受けなければぼくの勝ちのはずだ。

 だから逃げて、すきを見つけてはパンチを打ちにかかった。そして確かに当たった、でも当たればいいと思って殴りに行ったせいかこれまでにもまして利いていない。

 何発叩いても薫は平然としている。でも他に勝つ方法が思いつかない以上、この方法を取るしかなかった。


 だが結局、薫が一度も倒れない内にまたあの音が鳴った。










 

「いやさ、お前もお前のやり方でやったんだろ?それで負けたんだからあきらめろって」


 ぼくは一度倒れた、薫は一度も倒れなかった。伯父さんがぼくの負けだと言う判定を下したのは当たり前だ。


「砂糖玉は全ての試合が終わった後だってよ、まあそうだよな。で、次の試合は」

「どっちかにもう1回続けてやってもらう事になるけど」


 薫に負けた事は納得しているが、それでもお菓子は欲しい。どうしても欲しかった、勝ちたかった。疲れているのはわかるが、気分はまだ戦う気で一杯だった。だからぼくは手を上げて戦いたいと言った。



「元気だねえ、じゃあ第2試合もリングに上がってもらうよ。それで」


 言うまでもなく対戦相手ははじめである。しかしさすがにメガネをかけたまま殴り合うのは危険と言う事で伯父さんの手に持ってもらう事になったが、そうなると正直向こうは不利かもしれない。それにしてもこれまでずっと見て来たはずの顔なのにメガネがないとまるで別人のように見えて来るから不思議だ。


「それじゃ始めていいかな」


 気分は乗っているが体は疲れている、再びリングの上に登ってみると急に落ち着いて来てその事がわかってしまった。でも今さらちょっと待ってくださいだなんて事が言える訳もないし言い出す気もなかったから伯父さんの言葉にうなずくと、再びカーンと言う音が鳴り響いた。

 そうなった以上、やる事は1つしかない。


 はじめがどれだけ強いのかわからないけどこっちは疲れていて向こうは疲れていない、となるとさっきのようなことはできない。少し強引でもいいから押すしかない、そう思ってぼくは強引にパンチを放った。相手も同じようにパンチを放ってくる。






「おいどうした!」


 薫はそう叫んだ。先ほどのはじめの叫び声とは違う、なんかもっとおそろしい

物を見た感じの叫び声だ。


「ワン、ツー、スリー」


 伯父さんの声がやけに遠く聞こえる。なぜこうなったんだろう。自分でも全然わからない。やってしまったかもしれないと思った。










「テン!勝負あり!」

「まじめにやれよ!」


 いくら何でもおかしい。9分も戦って疲れているはずのぼくのパンチ一発で、はじめはどうして倒れてしまったのだろうか。やる気があるのかと薫がどなったのも当たり前だ。

 確かに強引に倒しにかかるためのパンチだったが、でもそれにしても薫には20発ぐらい同じレベルのパンチを先ほど当てたつもりだ。それで倒れなかったのにどうして今度は一発で倒れてしまうのだろうか。いくら体力の差があるにしてもおかしくはないだろうか。


「いやーものすごいパンチだったな、負けましたごめんなさい」

「お前、ふざけてるのかよ!」


 ふざけてと言うか、わざとでなければこんなはずはないだろう。そして顔を見てみると全然苦しそうじゃなかった、ぼくの方がずっと苦しそうな顔をしていたはずだ。

 全然最後までやり切らない内にこうして戦いをやめてしまうだなんていったい何のつもりだ。


「お前全然疲れてねえだろ、すぐ第3試合をやるぞ」

「えー」


 ぼくがまだリングの上にいると言うのに、伯父さんは強引にリングに上がる薫を止めようとしない。実際、はじめはぼくのパンチ一発で倒されたにしてはずいぶん元気そうだった。薫の方が疲れていそうだ。

 ぼくも少しはじめのやった事に対して腹を立てていたから、何も言わないままリングから降りた。


「あの、思いっきり殴っていいんだよね……」

「当たり前だ、そういうもんなんだから!あの砂糖玉がそんなにまずかったのか!」

「いや、全然、ものすごくおいしくって」

「だったらそれをかけて勝負だ、そういう舞台なんだろ!」



 はじめはメガネの下に隠れていた小さな目をうるませながらぼくの方を見たが、ぼくが伯父さんにつられてだまってうなずくのを見ると首を大きく振った。


「もういいか」

「いいよ」


 カーンと言う音が鳴り響くと同時に、はじめは右手を突き出した。先ほどぼくが見たパンチよりさらに弱そうであり、あれを何発当てれば薫を倒せるのかちょっと想像がつかなかった。


「やっとやる気になったのか、本当に世話が焼ける奴だ」



 薫は実に嬉しそうだ。無理もない。

 さっきのぼくとの試合は明らかにやる気がなかった。とりあえずその気になってくれた事が嬉しいのだろう。だったらぼくの時もその気になってほしかったが、そのおかげで簡単に砂糖玉がもらえる事になったのだからとまどいはあったが気分はそんなに悪くない。


 もちろんやる気と実力差は別物だ。薫のパンチははじめのそれよりもずっと強く、二発ではじめはふらついてしまった。


「おいどうした、まだ心構えがなってないのか」


 せっかくやる気になったのだからもっと本気で来いよと言いたいのだろう。もっともあれが全力であるのならば仕方がないが、そうでなければかえって失礼だと思う。

 落ち着いて考えてみればまだ1試合あるんだし全力を出してへばってしまってもまずいと言う判断をしたのだと言う事ができたからまったくダメと言う訳でもないが、それはそれで薫を甘く見ていると言う話であり十分に失礼だと思う。


「わかったよ……」

「そうだよ、そうだよもっと本気で来いよ、勝ちたいんだろ?」


 嬉しそうに言った薫に向けてはじめはパンチを放った。だがスピードもパワーも薫のそれとは違う。


 簡単によけられ、そして簡単に薫のパンチを受けてしまった。


「どうしたどうしたおい」


 薫がパンチを浴びせた上で放ったこの言葉もまた、ぼくがこれまでなんべんも聞いて来た軽口の1つに過ぎない。しかし、その軽口を耳にしたはじめの小さな目がいきなり大きく見開かれた。



「このっ、このっ!」

「どうしたどうした」


 やけくそとか言いようのない、でたらめなパンチの連続。もちろんでたらめすぎて当たらない事も多いし、当たった所で痛そうには思えない。それでもこれだけ打てば一発ぐらいいい当たりがありそうなものだが、これがぜんぜんない。

 一応攻撃するひまを与えないではいるけど、だからどうしたとも言える。


 あんなやり方をしていたらいつか疲れ果ててしまう、そうなる前に相手を倒さねばおしまいだな。そう思いなんとなくリングから目をそらしてみると、この部屋のドアの外に白いワンピースを着たぼくと同じぐらいの年齢の、髪をおさげにした女の子が立っているのを見つけた。


 あの子は誰なんでしょうかと伯父さんに聞こうとした途端、リングからとんでもない声が聞こえて来た。


「おいバカ、何をするんだよ!反則だろ!」

「それはダメだよ、あくまでも両手で戦うんだから!」






 なんと、はじめが薫の左のほおにかみ付いていた。どうしてそんな事をしようとしたのか全くわからない。これは殴り合いであってかみ付き合いじゃなかったはずだ、今までぼくたちの試合を見て来てわからなかったのだろうか。


「この大ウソつき!本気でやれ絶対勝ちに来いとかってさんざん言っておいていざ本気で勝ちにいったら反則だって!ふざけるんじゃないよ!逃げるな、逃げるんじゃないよ!」

「あのさ、ルールって言う物が……」

「先に言ってくださいよ!」


 そして伯父さんの手により引きはがされたはじめは顔を真っ赤にしてどなり声を上げている。伯父さんははじめを抱きかかえて必死になだめようとしているが、まるで聞く耳を持つ様子がない。


「お前ボクシング見た事ねえのか!」

「ないよ……!」

「わかったわかった、頼むからもう一回だけちゃんとやってくれるかな」

「仕方ねえなあ」

「絶対にかみ付いたりしちゃダメだからね、あくまでもパンチだけで戦うんだからそれを忘れちゃ絶対にダメだよ」

「はい…………」


 もう一度殴り合いを始めた2人の顔は、試合の前とまったく違っていた。


 薫の目はすっかり冷めきっていて、一方ではじめは敵意がむき出しの目をしていた。




「うー……うー……」


 はじめはまるで近所のブルドッグのようなうなり声を口から出している。移動中や葬式の時に出していた声とは全くちがう声、逃げなければどうなるのかわかっているんだろうなと言わんばかりの声。

 いったいどんな風にすればあんな声が出せるのか、全然うらやましくはないけど興味だけはわいて来た。



「まだだ、まだだ!」



 再びの殴り合いが始まってから2分ぐらいの間にはじめは2回倒れたけど、その度に顔を赤くして立ち上がる。もしぼくが道でいきなりこんな顔をした人に出会ったら間違いなく逃げ出すような顔だ。




「まだ」

「終わりだよ」


 そして3回倒されてもなお起き上がろうとしたが、そこで伯父さんに止められた。テクニカルノックアウトとか言うルールにより、3分間に3回倒されたらその時点で負けになるらしい。



「まあな、それがルールだからしょうがねえよな。悪いな」


 ぼくは一人っ子だが薫には中学1年生のお兄さんと小学校2年生の弟くんがいる。薫はその自分の3つ下の弟を見るような目ではじめを見下ろしながらグローブに包まれた右手を差し出した。もう戦いは終わったんだ、仲良くしようじゃないかと言うやさしい手であり、ぼくもなんべんもその手にふれて来た手だ。


 グローブ越しでもわかりそうなほど温かい手に対し、はじめは自分で立てるからよけいな事をしないでと言わんばかりにそっぽを向いた。

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