お題:おきばし【置き箸】 ②自宅以外に備えておく自分の箸。

 和食が世界に浸透して箸を扱える人も増えたようだが、旅行した土地の食い物屋で箸が出てくるのは中国と韓国だけだった。しかも韓国では金属製の長い箸が出てきて扱いにくい。世界の多くの国ではスプーンとフォークが一般的である。


 中東のドーハでスークという市場に寄った。色鮮やかな香辛料に日常雑貨、服、アクセサリー、野菜、果物と1メートル四方ほどの小さな商店が狭い路地を挟んでひしめき合っている。

 インコやうさぎ、ラクダまで並び捌いたばかりの牛肉もある。大小様々なヤカンだけを軒先にぶら下げた暇そうなオヤジもいる。迷路とおぼしきその中心にモスクも建っているのが見える。ぶらぶらと散策しながら売り物の値段を聞いて回るだけで時を忘れる。


 そこにまるで日本のようなのれんを掛けた店が一軒あった。

 青紫ののれんには『冷奴』と漢字で書かれている。怪しい。でも気になる。

 扉はノブが着いたドアではなく横にずらすスライド式で磨りガラスを通して中に人がいるのが見える。こんな土地で日本食が食べられるのだろうかと冷やかし半分でドアを開けると、中には客が2人。いずれも屈強な腕と胸筋が盛り上がるひげを蓄えた典型的なイスラム人だ。


 店は狭くカウンターに椅子が4つで満席となる程度。主人も立派なひげをたくわえたタンクトップのムスリムである。ただ頭にハチマキを巻いている。終始談笑している客とは違いむっつりと押し黙りギョロリと黒い目でこちらを見る。


 何も言わず小皿に枝豆3個と割り箸が出てきた。お通しだろうか。これに手をつけたらもう引き下がれない。法外な値段を要求されても断ることはできないだろう。

 酒が欲しいところだがイスラム圏では禁止されている。割り箸を割り、枝豆をつまんで口に運ぶ。取り落とすことなく全てを食べることができた。男三人がこちらを凝視しているので食べづらい。


 枝豆を食べ終わると次は小皿に蕎麦が出された。灰色の細麺ではあるが、つゆはソースでわさびの替わりに辛子。口に入れると蕎麦ではなくスパゲッティだった。まあ日本食を真似して頑張っている方だろう。

 不味さを我慢して食べきると客の一人が喜んだ表情でハグを求めてきた。エアコンなんて無いので汗ばんだシャツが顔にぴったりとつき気持ち悪い。もう一人は親指でグッドのジェスチャーをしている。悪いがそっちの趣味は無い。


 少額をカウンターに置いて逃げ出そうとすると手を掴まれ引き止められた。『ニッポン、ニッポン』と楽しそうだ。

 もう一度座らされ、彼の金色の箸を渡された。主人は豆腐を出してきた。のれんにも書いてあったこれがこの店の自信の商品なのだろう。が、それはただのチーズだった。豆腐はやはり日本独自の製造が難しい食材なのだと改めて知った。


 多少恐ろしくもあったのだがどんな料理が出てくるのか興味があり、後日同じ店に何度か通った。顔を覚えられ金の箸を渡される。つまりはこれがボトルキープのような常連の証なのだろう。この店の金の置き箸は、割り箸で食べる最初の試験をクリアした者のみに使用が許されるのだ。

 中東では箸はまだ広まっていない。だから彼らは箸を使えるボクに対して大いに喜んだのだ。


 味はともかくまたこの国に来たらこの店に顔を出したい。

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打倒!広辞苑 ぶるうす恩田 @Blue003

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