雪を溶く熱

津尻裕之介

雪の光

 静かに白が降りてくる。この部屋の壁より少しだけ明るいそれを、須藤さんは雪と呼んでいた。それは私の腕に落ちて溶け、そこをじんじんと熱くさせた。


 窓の外から時折入ってくる空気は冷たくて痛い。須藤さんが来たときに感じるのと同じだ。暗闇の中で感じるあの冷たさはいつも、私の心をどうしようもなく、寂しく感じさせていた。


 目の前はいつも通りの真っ黒な空。だけどいつもより淡く見える。いつか須藤さんに聞いたとき、彼女は言っていた。夜空の色は黒だけど、紺色でもあるんだよと。これが紺色なのだろうか。大して変わらないようにも思える。


 もう一つ違うのが、夜に舞う白。私はこの景色を知らない。一年中雪の降るこの地域でそこにあるのはもちろん知っていた。だけど、数日前に両目の手術を終え、今日初めてその目に光を入れた私にとって、白と黒だけの世界はつまらなく思えた。


「この世界はたくさんの色で溢れているの」


 須藤さんの言葉を思い出して、ベッドの横に飾ってある花を見た。こっち方が沢山の色があって楽しい。


 その時後ろで、扉を叩く音が聞こえた。この時間だときっと須藤さんだろう。


「美冬ちゃん、目の調子はどう?」


 ゆっくりと扉を開けて入ってくる須藤さんを見て、私は思わず息を飲んだ。入ってきたのがとても綺麗な人だったからだ。


 雛鳥は初めて見たものを親と思い込む習性があると聞いたことがある。私のそれも、同じようなものなんだろうか。


「美冬ちゃん? 大丈夫? どこか具合悪くない?」


 私は他の人の顔を知らない。唯一、ひと目見て分かりそうなのは、二年前ほど前まで、目の見えない私の所に何度もお見舞いに来て顔を触らせてくれた男の子だけ。秋人と名乗っていたけれど、お父さんが言うには、同い年の幼馴染だそうだ。


 そんなことを考えている合間も、須藤さんがずっと私のことを見ていた。


 不思議に思って首を傾げると、今度は須藤さんがはっとした顔になって、慌てて首にかけてあった名札を見せてきた。


「須藤楓って言います。美冬ちゃんの、笹岡美冬さんの担当として、これまでお世話させてもらっていました」


 笑顔の須藤さんを見て、彼女は、私が彼女のことを分かってないと勘違いしているのだと分かった。


「あ、あの、違うの。須藤さんのことは扉を叩いた時から分かってたよ。音がいつもと同じだったから。それに声も」


 それを聞いた須藤さんは少し俯いてから、顔を戻した。さっきの笑顔が崩れて、少し変な顔になっている。


「じゃあ、どうして黙ってたの?」


「その、須藤さんのお顔が綺麗で、見惚れちゃってたの」


 次の瞬間、須藤さんが飛びかかってきた。何事かと思ったが、どうやら喜んでいるらしい。


「さっきはごめんね。本当は目を開ける時一緒にいてあげたかったんだけど、急に呼びだされちゃって」


 須藤さんは申し訳なさそうに言うと、私の頭を撫でてきた。私は須藤さんの手の温もりが好きだ。これを言うと、須藤さんはきまって、心が冷たいからかな、と言う。私はそれに、雪は冷たくても綺麗なんでしょ? と返していた。


 須藤さんが私のことを妹のように可愛がってくれるから、私も彼女のことを実の姉のように慕っていた。それでも、初めて顔を見た事で、より須藤さんのことが好きになった。


「ところで、どう? 私が美冬ちゃんに見せたかったこの雪景色は。壮大でしょ?」


「うーん、暗くてあんまり分からない。こっちのお花の方が沢山色があって楽しいよ」


 正直に答えた。ここで嘘をついてもなににもならないし、本当のことを言ったところで、今更私と須藤さんの関係が崩れるとも思わなかったから。


「そっか。星も出てないからね。まあ、確かにお花の方が楽しいかも」


 私たちは笑った。目が見えるようになったことは確かに嬉しかった。でも何よりも、大好きな須藤さんと、こうして目を見て笑い合えることの方が幸せに思えた。


 そんな私の大きな幸せを、扉を叩く音が邪魔をする。誰かが訪ねてきたのだ。こんな夜に、迷惑だなぁとも思った。でもその反面、もしかしたらと言う期待もあった。


「美冬、大丈夫そうか?」


 そう言って入ってきた男の人は、須藤さんの隣に椅子を持ってきて腰を下ろした。


「俺のこと分かるか? ほら、お祝いの花束だ、美冬」


「秋人さん?」


 その男の人から花束を受け取った私は、記憶の中の男の子の印象と照らし合わせていた。


 二年くらい前まで、毎日のように顔を触らせてくれた男の子。だから、二年の空白があって、彼が男の人になってしまったとしても、その声とその積み重ねどうとでもなるくらいのものだった。


「さん付けって、なんかよそよそしいな。秋人だけでいいぞ」


「美冬ちゃんはみんなにさん付けなの」


「そうなのか美冬? じゃあ慣れるまではさん付けでいいよ」


「美冬って呼びすぎじゃない? 気持ち悪がられるわよ?」


 須藤さんの強気な口調に、今度は三人で笑った。


 須藤さんが私の担当になってからもう五年。何年か前に二人が話していたのを聞いたことはあった。


「須藤さん、私怖いの」


 今日は良い日だ。目が見えるようになって、須藤さんと本当の姉妹のようになれて。その上、ずっと憧れていた秋人さんにまで会えたのだから。


「もうこんな良い日なんて、二度と来ないんじゃないかと思ってしまうの」


「そんなことないわ美冬ちゃん。生きていると辛いことが沢山あるの。でもその分嬉しいことも沢山あるのよ」


 そう言うと須藤さんはそっと手を握ってくれた。


「ま、私には、これ以上良い日はないのかもしれないけどね」


 須藤さんは隣を見た。横では秋人さんが、握り込んだ手を震えさせている。そして覚悟を決めたかのように私の方を見た。


「あ、あのさ、美冬」


 その口ぶりに、私も思わず背筋が伸びる。


「俺たち、結婚するんだ」


 秋人さんがなにを言っているのかよく理解できなかった私は、ただただ目を丸くしていた。


「俺は、隣にいる楓と結婚します。俺たちを巡り合わせてくれたのは美冬だから。一番初めに報告したかったんだ。それで、美冬には祝ってほしい」


 ここまで言われてようやく理解できた私は姿勢をもう一度正した。須藤さんがまだ手を握ってくれていたことに気が付いた私は、彼女の手を解いて、二人に言った。


「大好きな二人がご結婚なさるのは大変嬉しいことです。これからも仲良くしてください」


 二人は泣いて喜んでいた。目が見えるようになったばかりの私に、本当に言うべきか、きっと相当悩んだんだろう。


「今度、店を出すんだ。美冬ももう少し元気になったら食べにきてくれ」


 テンションが上がったのか、秋人さんが突然言い出した。どうやらこの二年間は海外で修行していたらしい。


 しばらくその二年間の事を聞かされた。少し疲れたが、まだこの部屋と、窓から見える景色しか知らない私にとっては、とても興味深い内容だった。



「ちょっと疲れちゃったみたい。もう休むことにするね」


 いろんなことが一度に起こったためか、どうにも少し疲れてしまったらしい。


「大丈夫? さすがにはしゃぎ過ぎちゃったのかな?」


 須藤さんが私の顔色を窺ってくる。


「大丈夫だよ。ほら、早く帰った帰った。須藤さんも、もう上がりの時間でしょ?」


 二人を追い出すように私はベッドから降りた。


「何かあったら連絡してね。すぐに駆けつけるから」


「必要ないよ。それに、この雪じゃすぐには戻って来れないでしょ。あ、あと須藤さん、やっぱり手温かいね」


 さっき握られた手を思い出してそう言った。


「心が冷たいからだね」


 須藤さんのその言葉に、私はただ、愛想笑いを浮かべているだけだった。




 二人が部屋から出て行った後、当然眠ることができなかった私は、ただ静かに、一人で窓から顔を出して外の雪を眺めていた。


 今頃、玄関の軒下で、秋人さんは須藤さんを待っているのだろうか。


 そういえば秋人さんの名字は知らない。


 須藤さんが須藤さんじゃなくなると思うと、少し寂しい気もする。でも、名前が変わったところで須藤さんは須藤さんだから呼び方は気にしなくてもいいように思えた。次は楓さんって呼んでみよう。


 ぼーっと外を眺めていると、車の扉の閉まる音がした。車はここからだと見えないが、秋人さんと須藤さんだ。


 車のヘッドライトの光が地面を照らす。すると、さっきまで鈍く光るだけだった雪が、その部分だけキラキラと、まるで夜空に浮かぶ星のように様々な色に輝き出した。


「夜にだけ見える光、それが星」


 いつか須藤さんが言っていた事を思い出した。


 紺色の空、白く輝く雪、その雪から所々顔を覗かせる木の、深い緑。そして、その木から落ちた、様々な色の木のみ。


「この世界はたくさんの色で溢れているの」


 須藤さんの言葉を思い出す。今まで信じられなかった光景が、目の前に広がっていた。


 窓のヘリに少しだけ積もった雪に穴が空いていた。顔を近づけようとすると、何かがポタポタと落ちてくる。私の涙が、熱を持った涙が、小さく雪を溶かしていた。


 さよなら、大切な人たち。さよなら、私の初恋。


 白と黒だけのつまらない世界は、私の目から溢れる熱で、まるで星屑のように輝いていた。


 遠くには、まだ二人の乗った車が見える。東の空が明るくなってきた。


 きっとこの世界は、どうしようもなくつまらなくて、それでいて美しい。


 産まれたての雛鳥は、初めて見たものを親だと思い込む。


 朝日が顔を出し、白が銀色に変わった時、紺と白だけのつまらない世界が、少しだけ懐かしくなった。

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雪を溶く熱 津尻裕之介 @Ryuhi

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