Call my name
西条彩子
Call my name
人一人としていない舗装路を、平たい円形の
その様子を
「パラン。どうした?」
「なんでもない、ファーマー。スイーパーが通過しただけだ」
パランが答えながら箱を受け取った瞬間、露店が舗装路の下に格納される。
「スイーパー?」
青空の下で、人型の内骨格が剥き出しになった鉄鋼の輝きが増した。彼の身体の前面を覆う深い緑のエプロンが、吹き抜けた風にそよぐ。
二十メートルほど向こうの道端で、スイーパーがガシャガシャと音を立て、鉄塊にぶつかっていた。
パランはその光景にスキャンをかける。スイーパーが群がっているのは、パランの六世代前の型にあたる
人工皮膚のほとんどが剥がれ落ち、顔は左半分の白い内殻が見えている。
家庭用ロボットは見た目の生々しさから衣服の着用が義務付けられているが、そのリテーナーのボディには、布らしきものがところどころに付着しているだけだ。
ファーマーのボディに映り込んだ自身の姿をパランは見た。
家庭内において不快感を与えない容姿。白いワイシャツにブルージーンズ。栗色の髪は整い、製造から四年が経過しても、人工皮膚のどこにも損傷はない。
「どうした? 俺の目のセンサとスキャナはいかれて半径二メートル圏内でしか使い物にならねえから、何が起きてるかわからん」
ファーマーの問いにパランは答えた。
「古いリテーナーだ。地面にうずくまっているのをスイーパーが片づけようとしている」
「ならあいつだな。うちの客でツーブロック向こうの家の奴。最近ずっと
淡々と締めくくって、ファーマーは使えないという赤いカメラアイをチカチカと瞬かせた。
「名前は?」
「リテーナーの? そんなもんあるか。名付けられたお前のほうが珍しい」
いい身分だ、とファーマーは言った。パランはそれを受け流し、渡された箱の中のものをあらためる。
玉ねぎ、人参、キャベツ、かぼちゃ、ピーマン、鶏肉、豚肉。今日日農作物の、新鮮な素材そのものの需要はないに等しい。パランがこれらをファーマーから受け取る理由は、パランの主がそう設定したせいである。
パランのセンサが、近づいてくるメンテナーの識別コードを感知した。四角い箱の上に人型の上半身をつけたような内骨格剥き出しの鈍色のボディが、キャスターホイールを音もなく滑らせて鉄塊の元にたどり着く。
だがメンテナーはそれらを一瞥しただけだった。
「メンテナー」
パランが手をかざして呼ぶと、メンテナーは回しかけていた車輪の向きを変えてやってきた。
「おはようございます、パラン、ファーマー。どこか壊れましたか?」
中性的な音声で尋ねながら、太い二本のメインアームを持ち上げる。するとその下から扇のように、細いアームがじゃらっと音を立てて広がった。
左右六本ずつ十二本。先端はそれぞれドライバーやペンチ、スパナなど、異なる工具の形になっている。パランはファーマーを見ようとしたが、首を横に振り、リテーナーを指差した。
「いや。あれ、もう直らないのか?」
「直りません。劣化が酷すぎて手の施しようがないのです。これまで何度も代替部品をこの中で作って修理してきましたが、ツギハギに耐えられなくなりました」
スパナの形をしたアームの先が箱を叩く。中には3Dプリンタとその材料、オイルタンクが格納されており、メンテナーはそれらを用いて、この街のあらゆるロボットの修理を行っている。
「ファーマーのスキャナは君じゃ直せないのか」
「できません。コアシステムに紐付いていますから、私が直すには人間の命令が必要です」
「ああ……、人間か」
人間。この街で誰一人見ることもなくなった今、命令を受けるというのは到底不可能なことだった。
「な。だから俺もいずれ、ああなる」
ファーマーは舗装路の向こうを一瞥したあと、人間のような仕草で肩を竦めた。
その時、けたたましいアラートが鳴り響いた。続けて、今日の日の訪れを合成された音声が告げた。音に驚いたのか、一羽のトンビが滑空から羽ばたきに変え飛んでいく。
『おはようございます。西暦2208年3月16日、午前9時をお知らせします。極東ラムダ地区の天候は晴れ。現在の気温は27度、風速3メートル。ミュートウイルスのハザードレベルは3です。外出時には必ず防護服を着用し、厳重な警戒をしてください』
災厄を逃れた人間により、この非力な悪あがきのような無線放送が定刻通りに街中に流れるようになって二年。今となっては、この街を出歩く生きた人間はいない。いずれもみなロボットにより埋葬されたか、人知れず朽ちたかである。
それでもわずかな希望なのか、プログラムされた放送は、誰かに向けて今日を訴えている。
2206年2月1日。大気圏外から放たれた複数の小型輸送ポッドにそれは仕込まれていた。地上に落ちて開いた扉から、人為的に作られたミクロのウイルスの脅威が地球上に放たれた。
それを体内へ取り込んだ者に最初に現れるのは、喉が痺れるような感覚。続けて循環器系の不調が始まり、しまいには肺に穴を開け死に至らしめる。声も上げられず絶命することから、『ミュート』の名がつけられた。
感染者に合わせて変異するという性格を持つウイルスは、高い空気感染力と高い致死率を維持し続けた。
その蔓延は留まることなく、この極東にあるこの街をも襲った。今残る住人は、北に位置する小高い山のシェルターに避難できた者だけだ。それもいつまで持つかわからないでいる。
「なーんで人為的にウイルスなんて作っちまったんだか。人間ってやつはまったくわからん」
「そういう生き物なのですよ、ファーマー。地球温暖化が進むと散々言われていたにもかかわらず利を追求し続け、糾弾する声の大半は黙殺。陸地の三割を海に沈めた。挙げ句彼らは、地球には住めないと判断して月や火星へ逃げるように移住しました。それでいて今度は、地球の資源を求めての暴挙です」
細いアームをメインアームに格納しながらメンテナーは言う。
ロボット相手にどこが壊れてどういう修理を行うかを説明するような調子だった。
「武力による略奪は人類史上度々繰り返されてきました。人間は目先の利のために動く。でなければ我々に、創作発祥のロボット工学三原則に基づく行動原理など、与える理由がありません」
「そういうもんかぁ? 前に
「おや、故障した同胞がまた現れたようです。では私はこれで」
ファーマーの話を遮って、メンテナーはキュルッとキャスターを回した。
パランのセンサも、ワンブロック先の角からやってくるロボットの接近を感知する。だが、メンテナーやファーマーと違い、識別コードが黄色く点滅していた。居住区であるこのエリアにはいない個体のサインである。
足を引きずるような、ぎこちない直立二足歩行だった。舗装路を進むたび、人間なら不快感を覚えそうな金属音が不規則に鳴っている。
しかしそれ以上に異様なのはその出で立ちだった。異常事態を察知したのか、メンテナーが数メートルもいかないうちに静止して動かなくなった。
ガードマンの、銀とも黒とも判別がつかない内骨格の全身のところどころには穴が開き、破損した上半身の一部が腰から垂れ下がっている。頭部も左前頭が欠損していた。歩行が不自然なのは、縦に長く入った脚部の断裂が原因のようだ。折れてケーブルがむき出しになった鋼が地面を引きずって、時折火花が散る。
それにもかかわらずガードマンは、六十センチほどの長さのある白い箱をしっかりと抱いていた。
「おい、なんだこの音。どうなってんだ」
ファーマーの声に、パランはそのガードマンに対しスキャンをかけた。
所属はラムダ疫学研究所。この街に唯一残った、シェルターのある施設だ。
「疫学研究所所属のガードマンがこちらに向かって来ている。損傷がひどい。なにかの箱を持っている」
「疫学研究所から? 箱って」
「わからない。解析不能と出てくるが、メンテナーはわかるか?」
「臓器保存・運搬用の無菌ボックスです」
この場のどこにも、それが必要となる施設はない。病院はあり医療ロボットも常時控えているが、肝心の人間がいないのだ。
そのあいだにもガードマンは不格好な歩みを進めていた。が、限界を迎えたのか、住居一軒分ほど先のところでとうとう膝をついた。それでも鋼の腕は、無菌ボックスを抱いたままだった。
「直せるかわかりませんが、念の為見てきます」
「おい、危なくねえだろうな?」
再び動き出したメンテナーに向かってファーマーが呼びかける。パランのスキャナには、パランに影響を及ぼす危険の可能性を示すものはない。
「大丈夫だ。何があったかくらい聞いておこう」
メンテナーのあとを追いパランは歩き出す。ファーマーも後ろからついてきた。
しゃがみこんで近くで見ると、ガードマンの損傷具合がよくわかった。
識別コードから引き出した情報によれば、元は艶めいた銀色のボディのはずだが、すすによって黒ずんでいる。強い衝撃によってできた凹みや断裂、銃弾の痕。ボディの至るところで、ケーブルや骨格が剥き出しになっていた。眼球部分のカメラは左が機能しておらず、口は半開きになっている。疫学研究所からここまで二キロの距離があるが、移動もままならなかっただろう。
ファーマーがスキャナの精度を上げるためなのか、顔を近づけてじろじろと見た。
「こりゃあひでえ……。明らかに何かにやられた様子じゃねえか」
「ああ。どうだ、メンテナー」
「どうにもできませんね。ブラックボックスが無事だといいんですが」
細いアームの一本を伸ばし、メンテナーは、ガードマンの脇から凹んだ胸部をまさぐった。
人型のロボットはその部分に、不慮の事態に見舞われたときのための記録媒体が入っている。メンテナーに与えられた、メンテナンスのためのアクセス権限を行使しようという腹らしい。
それを尻目に、ファーマーの手が箱に添えられる。
「ファーマー、何をしてるんだ?」
「無菌ボックスってな、蓋を三回叩くと中の状態を表面に投影してくれんだよ。昔、神経質なお客にこいつでの農作物の取引を求められて知った」
ファーマーの銀色の指先が無菌ボックスの蓋をコココン、と叩く。すると白い蓋の中央に四角い枠が現れ、映像を映し出した。
映ったのは、赤ん坊の顔だ。
「……は?」
頓狂な声を発してファーマーは赤い目を瞬かせる。メンテナーが胸部を覗くのをやめ、モニタを凝視していた。
久しぶりに人間を見たせいか、パランのメモリで、パランのかつての主一家の画像が関連を示すように反応した。
「人、間……、だよな? 人形じゃないよな?」
目を閉じているその赤子は、ファーマーの言う通り一見人形のように見えなくもない。だがむにゃむにゃと動くすぼまった唇や、膨らむ鼻、痙攣するように動く瞼。ほのかに赤らんだ頬。どれを取っても、作られた人形にはない生気があった。
パランはモニタの消えた無菌ボックスに触れ、外周を確認した。
「このガードマン、どのくらいさまよっていたんだろう。箱の中の酸素が心配だな」
「おいおいおいパラン、悠長なこと言ってんじゃねえよ。こいつ襲撃受けてんだぞ?」
「だからなおさらじゃないか。この子が狙われたのかもしれない」
「でもよ――」
「――レ、タ……」
ギギッ、と金属の軋む音とともに、ガードマンの半開きの口が開き、声が漏れた。
「モッテ、ク……ノム……」
切れ切れの発音だったが、パランは解読しようと近い文脈をデータベースで探す。数多のコミュニケーションデータと言語解析から、それと思われるものにいきついた。
「『守ってくれ、頼む』」
この赤子を、ということだろうか。ファーマーと一緒になって顔を見合わせていると、メンテナーがやっとアームを脇から出した。その指先にマイクロチップが摘まれている。
「これに答えがあるはずです」
メンテナーが読み込んだチップの映像が、無菌ボックスをスクリーンにして投影された。疫学研究所のシェルターを襲ったのはドローン兵器で、物資輸送を装って侵入したようだった。
ロボットは人間に危害を加えることはできないが、プログラムされた兵器ならば話は別だ。ガードマンたちの応戦も虚しく、研究所の職員たちは呆気なく襲撃を受け、煙の舞う中白衣を血に染めていった。
映像は途中何度か乱れながら、やがてどこかの部屋にいる一人の女性研究職員に焦点が当てられた。
作業台に白い箱と、柔らかそうな白布に包まれた何か。それから彼女は慌ただしく動き回ったあと、白布のそれを腕に抱え、必死の形相でガードマンに近づいてくる。
彼女の頬は、自身のものか他人のものかもわからぬ血と、それをかき消したような涙のあとで濡れていた。
「こちらラムダ地区疫学研究所。所属不明のドローン兵器に襲撃を受け、職員も施設も壊滅的な状況。目的も不明、ですが、この子の情報が流出した可能性があります。それから先ほど、空気中に、ミュートウイルスの拡散を確認。ここはもう、誰も……」
彼女は顔を歪めて一度しゃくりあげ、言葉を消した。
致死率100%のウイルス。個人に合わせて変異するため、ワクチンも抗体も作れない。それが専門家たちの公式見解であった。襲撃そのものを逃れても、ウイルスが彼女を蝕むのは時間の問題だ。
それにもかかわらず彼女は、腕の中に視線を落とし、優しげに微笑んだ。慈しみに溢れ、別れを惜しむかのような表情をしている。しばらくそうしていたが、その腕の中を披露するようにガードマンに一歩近づいた。
先ほど無菌ボックスのモニタで見た赤子と同じ顔が、大写しになった。
「この子の名前はレイ。人類の希望になるかもしれない、特別な女の子なの。この街に残るあなたたちロボットに託し、命じます。どうかこの子を、レイを、守って――」
彼女の声はそこで切れた。直後ひきつけを起こしたような喘鳴が聞こえ、赤子が上下左右に揺れる。パランも見たことのある、ウイルスの罹患者の症状のひとつだ。
彼女はよろめきながら、抱いていた赤子を無菌ボックスに入れた。さらに何かの装置と手のひら大の端末のようなものも収め、蓋をした。
そのあとの彼女の声は聞き取れない。身体は崩折れたが口は動き、箱を指差して何かを訴えている。
だが、それを受けてガードマンが動いた。箱を手にしたところで映像は途切れた。
見終えた三体のロボットは、今し方のそれを処理をするためにしばし黙った。
「……守って、って言ったな」
ファーマーがローディングに手間取ったように告げる。
「ああ」
「ですがこの子も、感染しているのではないですか?」
メンテナーが当然のように言った。
だとしたら映像の中の彼女が守れと命じるのは不自然だ。この赤子もウイルスに侵され死ぬはずである。
だが、とパランは返事の代わりに無菌ボックスを三回叩いた。すぐに症状の現れた彼女に対し、モニタの赤子は至って健康そうに見えた。一体何が特別なのかは窺えない。
「可能性はあるとしても、このまま見過ごすわけにいかない。私のシステムは、今の彼女の発言を命令と受け取った」
パランは箱を抱いたガードマンの腕をほどく。
「君のブラックボックスを見た。この子は私が引き受ける」
恐らくもう聞こえてはいないだろう。どこかの回路がショートしているのか、灰色の煙が肩から細く昇った。
持ち上げた箱は十九キロの重量があった。箱の重さを引けば八キロ。月齢にして八ヶ月ほどと推測して腰を上げる。
「まずは医者だな。ファーマー、診療所についてきてくれ」
「ええっ、俺もかよ?」
「君には食材の確保をお願いすることになるから、この子の現状を聞いておくべきだ。それに」
手が使えないパランは、いまだ座り込むファーマーの目を顎でしゃくった。
「この子が成長したら、使い物にならない君のセンサとスキャナが直せるかもしれないぞ」
「ようし、行こう」
ファーマーは即座に赤い目がチカチカと点滅させて立ち上がり、パランが購入した食材の箱を代わりに持った。
「なら私は、このガードマンのメモリをもう少し見てみます。疫学研究所で何が起こっていたか、わかるかもしれない」
先がドライバーになったアームを振り動かしてメンテナーに頷く。
「わかった。じゃあ――」
きびすを返しかけたその時、急接近する何かをパランは感知した。
識別コードは『Unknown』。高周波の金属音を放ちながら、住居の上を時速六十キロのスピードで飛行し迫りくる。危険とみなしアラートが鳴った時にはもうパランたちの眼前で、鈍色の銃口を向けていた。
先ほどの映像で見たドローンと同じ型をしている。黒塗りのフレームの中の平たいボディからウランを検出した。プロペラはない。イオン化エンジンとガス噴射によって駆動している。詳細データが不明なのは、パランのアップデートがこの二年止まってしまったせいだろう。
「お、おい、なんだ、何が起こってる?」
「マイクロ原子力ドローン……」
「んなっ、なんだって!?」
「ガードマンを追ってきたのかもしれません」
銃口に熱源を認める。照準はパランの持つ無菌ボックスに定められている。
「行ってくださいパラン!」
メンテナーが右の太いアームをドローンに向けて伸ばした。ドローンはすぐに高度を上げ、その手が及ばない場所でまた照準を合わせようとする。パランは
しかし命じられた。守れと。人間に下された命令と自身のプログラムに、パランは従うのみである。
診療所までのルートを算出した。パランは走り出そうとしたが、それより先に動くものがあった。
ガードマンの持つ特殊警棒が放たれ、ドローンを正確に捉えた。バランスを失ったそれは高度を下げ、メンテナーのアームに捕まった。
「立派ですね、あなた」
ガードマンの行為をメンテナーが讃える。
その手は飛び上がろうと唸りを上げるドローンを掴んで離さず、ペンチになったアームでガスの噴射口を切り落とす。
さらに別の道具も次々使い、あっという間に外殻を外してしまった。
「私の仕事が増えました」
下半身の台の上に散らばった部品の数々に、ファーマーが唖然と赤目を瞬かせる。
メンテナーは、みすぼらしい骨格に剥いたドローンを雑巾のように摘み、パランたちを仰ぐ。
「人間を害される脅威がある以上看過できません。この小蝿の中は調べておくので、ドクターの元へ急いだほうが」
部品をバラッと地面へ落とすメンテナーに、パランとファーマーは頷いた。
診療所の白い建物を訪れると、無人の玄関にドクターの厳格な声が響いた。
「死人なら診れん。火葬場へ行け」
ぞんざいな口調にファーマーは首を竦める。
「死んでないんだよおっさん」
「そうなんだ、ドクター。せめて見てから判断してくれないか」
パランが掲げた無菌ボックスの蓋を、ファーマーの指が三回叩いた。
ややあって、ドクターから、「そのまま進んで消毒しろ」とやはりぞんざいに返ってきた。
ゲートの中へと進む。紫外線照射を受け、消毒液を浴び、赤外線の熱を当てられる。それが済んで、二人はようやく診察室に迎え入れられた。
滅菌された白い部屋の中央で、ドクターは白衣のポケットに両手を突っ込み、長机の前で待ち構えていた。
「それ、どうした」
五十代男性を模した品のいい相貌が、睨みをきかせている。パランは机に箱を置いた。
「疫学研究所所属のガードマンが持ってきた。開けていいか?」
「待ちなさい、もう一度モニタを見たい」
ドクターは神経質そうに蓋を叩き、中の様子を確認した。そして人間のようなため息を吐いて、蓋を重たげに持ち上げた。
それから内蓋を開け、さらに現れたステンレスの扉をスライドさせる。そこでやっと、中身にまみえた。
紛うことなき人間の赤子が眠っている。女性が入れた小さな端末と箱もあった。箱は空気循環装置だった。
ドクターが赤子を白布ごと抱え上げ、パランに「抱いてろ」と渡した。久しぶりに感知した人間の体温は、36.7度を示していた。
頭を覆うふわふわとした産毛が、寝癖と生え癖で渦のようになっている。ファーマーが顔を覗きこみ手を振ったが、目覚める気配はない。
「月齢九ヶ月に差し掛かってる女の子か。少量の麻酔を吸っている。ミュートウイルスもいないようだな。眠っている今のうちに血液検査をしておこう」
注射針を刺しても赤子は泣かなかった。
結果が出るまでのあいだにパランは、ブラックボックスの映像をドクターに見せた。ドクターは渋い顔のまま、無菌ボックスに入っていた端末に触れた。スキャンをかけてもドローンと同じように『Unknown』となる。
「それは?」
「カルテだ。医療機関でしか見ることができない。血液検査でもなんの感染もしてなかったが、さて」
言いながらドクターが端末をデスクに差し込むと、部屋がわずかに暗くなり、壁面にカルテのデータが並んだ。
被験者番号062、RAY。赤子に与えられた名前が大きく光っている。
「ほう、なるほど。確かにこのレイは特別な子らしい」
「彼女が言っていたな。何が特別なんだ?」
「あらゆる感染症を引き起こすウイルスに対して即座に免疫を作る、マーベラスベイビーだ」
「即座に? そんなことが可能なのか?」
「そのようだね。遺伝子操作に疫学も加えて、人間の設計図をそう書き換えた」
ドクターはカルテのひとつひとつに目を通しては、感心したようにうなずいた。
「ミュートウイルスは変異する。ゆえに人間はほとんど死んだわけだが、今言った方式で試験管で作られたのがレイだそうだ。凄まじい地球人の抵抗だな」
手元でうあ、と小さな声が上がり、パランはレイを見た。
ひと捻りしてしまえばすぐに息絶えてしまうような身体の中で、なにがみなぎっているのか、パランにはあずかりしれない。それでもこの腕の中の生命は、ロボットたちが守るべきものとして託された。
「いずれにしろ、我々はその子が我々に危害を加えることをしない限り、守らねばならない。成長して言葉を覚え、そこで命令されたら服従だ。そういうふうに、我々はできている」
「そうまでして人間が子孫を残す意味ってなんだ?」
「ロボット風情にわかるか。メンタルヘルスやフィロソフィーは専門外だ」
データをメモリに取り込んだのか、ドクターはカルテを消し去った。
「むしろお前のほうがわかりそうだがな。リテーナーとして三人家族と一緒に暮らしていたじゃないか。親に代わって赤ん坊連れて何度ここに来た?」
ドクターに突かれて、パランのメモリがまた反応を示す。
画像や動画で残る、元いたパランの主一家。乳飲み子の頃からともに暮らし、使用人としてより子守りの方に多くの時間を割いた。
「液体ミルクがあるから持っていけ。アレルギーも問題ない。感染症の心配はないかもしれんが、ほかの病気にかかる可能性はあるから定期的に来るんだぞ。ファーマーは新鮮な食材を用意してやるといい」
ドクターの声に反応して、離乳食のメニューとレシピがシステムの中で組み上がった。あの慌ただしい日々が、パランに再び訪れるようだ。
一時間ほどで診療所を出るとメンテナーがいた。元ドローンだった部品の山を下半身の箱に乗せ、披露するように十二本の腕を広げている。
「わかりましたよ。ドローンの製造場所は月。あの疫学研究所の位置と攻撃命令がプログラムされていました。目的は単純に残存する人間の殺害のようで、その赤ん坊を、逃げ出した者と見なして追ってきたようです」
「そうか。じゃあまた狙われる可能性はあるのか」
「ゼロとは言えません。が、こちらもメンテナンスネットを通じて同胞に協力を呼びかけました。一両日中に、心強い戦士たちが揃いますよ」
そう言ってメンテナーは、左右の太いアームでパンチを繰り出した。
パランはうなずき、「ありがとう」と告げた。
「ところで、その、レイはそのまま抱いていて平気なのですか?」
「免疫がすっげえマーベラスベイビーだってよ。俺の用意する食材で育てるんだ。んで、真っ先にスキャナとカメラを直すよう言わせてやる」
ファーマーが食材と液体ミルクの入った箱をジャグリングし、明るい声で言った。
メンテナーとわかれたあと、ファーマーとともにパランの家に向かった。
毎日パランが手入れをする芝生のある庭には、子ども用の砂場と小さな滑り台が設置してある。
『この子がもう少し成長したら、ブランコとジャングルジムを建てよう』と、かつて主は言っていた。
「いいか、パラン。レイにまず教える言葉は、『スキャナ』、『カメラ』、『直せ』だぞ」
玄関先にファーマーが荷物を置きながら、鋼の指をパランに突きつける。
「何を言うか。健康に成長させることが先決だ。なあ」
赤子を抱いているせいか、子守りをしていた時に染み付いた、覗き込んで語りかける言動がふいに出た。ファーマーもからかうように赤目を点滅させてレイを覗く。
するとその時、レイの目がぱちりとあいた。
大きな黒い瞳がきょろきょろと動き、何かを求めるように首が回る。その目がパランと合ったときはよかったが、ファーマーを見たレイは顔をくしゃっと歪めてしまった。
「ファーマー、すまないが帰ってくれ。君を見たせいか泣きそうだ」
「ちょ、ええ?」
「それに、寝起きはぐずりやすい。また今度」
「あ、ああ……」
名残り惜しそうにするファーマーを追い返し、パランは家の中に入った。
リビングには、使う者のいなくなっていたベビーベッドがある。弾力のあるプレイマットの脇のおもちゃ箱からは、溢れんばかりのおもちゃが積んであった。
あとで、物置にしまいこんだ新生児用のおもちゃを取りに行こうとスケジュールを立てる。衣類もそうだ。キッチンの棚の奥に、哺乳瓶や食器セットも眠っている。主の妻は、服や物を捨てられない人だった。
その中で育った女児は、片づけが苦手だった。片づけさせようとすると、『もっと遊ぶ』と顔を赤くして泣きそうになった。
今泣きそうになっているこの子のように、くしゃっと顔を歪めていた。
「ああ、よしよし、もう大丈夫だ」
プログラム通り、向かい合うように抱き、背中をさする。ゆらゆらとした独特の揺れ方も、鋼の身体は覚えていた。
ふああ、と泣き出したレイをなだめながら、パランは家の中を歩く。この子が歩き回れるようになるまで、あと何ヶ月かかるだろう。
歯が揃うのは、喋るのは、あとどのくらいかかるだろう。
「ファーマーはああ言うが、まずは私の名前を覚えてほしいな」
久しぶりの赤子を抱いたパランの中で、主に言われた言葉が蘇る。
『君の名前は、パランにしよう』
「私の名前は、パランだ」
『意味はね、フランスの国の言葉で、親というんだ』
今は亡き女児や、主やその妻に呼ばれるたび、親であれと命じられたとパランは認識していた。
積み木をぶつけられても、ボールで転ばされそうになっても、危害を加えられたとは判断しない。そういうものだと理解していた。
それがなくなった今、メモリの中だけで再生される彼らの言葉や笑顔は、処理に手間取るものとなっていた。
「君が私の名前を呼んでくれるのを待っているよ」
しゃくりあげる声を聞きながら、パランはレイの耳元で、やわい声音で囁いた。
Call my name 西条彩子 @saicosaijo
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