甘い目眩

麻城すず

甘い目眩

 内側に青く光る小さな石と、それから短いメッセージ。あたしの手の中、仰々しい赤いボックスに納められたシンプルな対のリング。


 はあ、と何度目になるか分らない深い溜め息が、幸せの象徴のはずの目の前のリングに向けられる。


 式はもう明日だというのに、あたしはたった今、陸斗りくとに別れを告げてきた。とはいえ、深刻なものではない。どちらかというと三分の二は勢いだ。


 きっかけは他愛ない事。


 独身最後のデートをしようと誘われて、気合いを入れて髪を巻いた。下ろしたてのワンピースを着た。陸斗が付き合い始めたばかりの頃にくれた真珠のピアスをした。足首を華奢に見せる高いヒールを履いた。久し振りに履いたせいで歩くのに苦労したけれど、でも妥協はしなかった。


 就職してからの二年間、一人暮らしをしていたあたしの家に、陸斗はしょっちゅう泊まっていたし、半同棲なんて状況でお互い段々ルーズになって。


 だから忘れないで欲しかったのだ。初めて二人で会った時、付き合い始めたばかりの頃、あの頃の頑張っていたあたしのことを。


 式の準備のために実家に帰り、数日会わなかった。おかげで久し振りに自分磨きに時間を割けた。ネイルや、エステ、美容院。


 陸斗といたら


「行かなくていいよ、そんなの」


 その一言で却下されていただろう。


「そんなのしなくたって、絵茉えまは絵茉だし」


 そうに違いないけれど、それでも可愛くしていたい。


 大好きで、決死の覚悟で告白した。陸斗と会う時はいつだって前の日から何回も鏡の前に向かって。陸斗と並んで歩く時、陸斗が恥ずかしくないようにちゃんとしなきゃ、可愛くならなきゃって必死だったあの頃。


 陸斗と朝を共にするようになってからは「準備で待たされるの嫌い」という一言で、それも出来なくなってしまって。必要最低限しか手をかけられないメイクや髪には、気合いの入った服も靴も似合わない。


 結婚して、それこそ毎日を共に過ごすようになれば、きっとルーズさは増していく。陸斗は頑張っていたあたしを忘れ、他の女の子に目を移すかも知れない。


 分っている。このネガティブ思考の正体は、マリッジブルーと言うものだ。劇的に変わる環境への漠然とした不安観が、全てをマイナス思考へ導いていく。











「あ、煙草切らした」


 喧嘩のきっかけはその一言から。デート中に入ったカフェ、そのオープンテラスに腰掛けた時陸斗が言った。


「あたし買ってこようか」


「いい?」


「うん」


 入口から来て、少し奥まったところにあるトイレへの狭い通路の自販機は、気付いていなかったのなら分り辛いだろうとあたしは陸斗の代わりに席を立つ。


 ヒールのせいでヨタヨタするのを悟られないようおぼつかない足取りでゆっくりと。けれど慎重に歩いていたはずが、近付いた目的地への油断からか、自販機の目の前で膝がカクンと折れてしまった。


 倒れかけたところを支えてくれたのは、煙草を買っていた、多分あたしより年下の男性二人組。狭い空間と、一人じゃない余裕。そしてやむを得ない理由とは言え、背中に回された手。そんな状況に若い男の人が調子に乗るのも分らなくはないけれど。


「オネーサン、可愛いね。一緒に遊ばない? これから飲みに行くんだけど」


 背中に回された腕が腰に降りる。驚いて強張った体に、もう一人が腕を伸ばし、手を掴む。


 場所が悪い。店内から死角になる場所では、入店してくる客がいなければ気付いてもらうのは難しい。下手をすれば、このまま連れ出されても誰にも分らないかも知れないのだ。


「コケそうになったのを助けてあげたお礼にいいでしょ。おごるからさ」


 知らない人にこんな風に迫られるのは怖い。ここで啖呵を切ることの出来る人もいるだろうけれど、あいにくあたしにはそんな度胸はなくて、ただ「離してください」と消え入りそうな声で頼むのが精一杯だった。


「連れになにか」


 背中から聞こえてきた陸斗の声に男達があたふたと消えて、助かったとほっとしたとき「ふざけるな」という言葉が投げつけられた。


「そんな格好して来るから変な男に絡まれるんだろ。なんで俺と結婚するのにそんな格好して来るんだよ」


 意味が分らなくて呆気にとられるあたしに、陸斗は苛立ちを隠しはしない。強い力で手を捕まれ、店の外に連れ出される。ヒールの足がもたつくのなんかお構いなしに。


「何なんだよその格好。歩けない靴なんか履いて。ワンピースだってこんな薄かったら体の線が丸見えだし。そんなにああいうナンパ目的の男に媚びたいのかよ」


 あたしが可愛くしたいのは、ただ陸斗のためだけなのに。なんで結婚を決めた相手の前で、他の男に媚びなきゃならないの。


「陸斗、ちょっと聞いて」


「何をだよ。もう二度とそんな格好するなよ、ふざけるな」


 横暴な言葉に、涙も出なかった。ただ、あたしの思いが空回りだったのが悲しいだけ。あたしの言葉を聞こうとしない陸斗にがっかりしただけ。


 黙って右手を上げる。


「……あたし、もう帰るね」


 直ぐに停まったタクシーに一人で乗って、ドアが閉まる間際に言った。


「話の出来ない人と、一生なんか過ごせない」


 走り出す車のフロントガラスを見つめた。残してきた陸斗の顔は見なかった。その後、陸斗からの連絡はこなかった。












 翌朝、あたしは式場となるホテルにいた。


 今さらあんな喧嘩で結婚しませんなんて言える訳がない。会社の上司、友達、遠くから来た親戚。皆が私達を祝福する為に来てくれている。


 陸斗にはまだ会っていない。誰も何も言わないところを見ると、ちゃんとここに着いてはいるんだろうけれど。


 着替えが済みメイクを終えた姿見の中のあたしは思い切り不自然だった。笑顔のない花嫁。どう考えたっておかしいに決まっている。


「式の間に着崩れるといけませんから、お写真撮りが先になります。新郎様はもういらしていますから」


 介添役の年配の女性に告げられる。陸斗に会う。堅い顔が益々堅くなる。


「そんなに緊張なさらないで。お写真は一生残るものですから笑顔でないと」


 昨日言い捨てた言葉にあるのは後悔。


 あたし達はこのまま結婚してしまっていいの?


 こんな嫌な気持ちを抱えたまま、永遠を誓えるの?


 でも謝る事なんか出来ない。


「絵茉」


 写真室の重い扉の向こうにいたのは、モーニング姿の陸斗。いつも無造作に立てている髪が、きっちりまとめられていてなんだか別人みたいだ。


 言葉を出せずにいるあたしと、こちらを見てやはり黙っている陸斗に構う事なく、立ち位置に導かれ、何枚かの写真を撮られる。


「うーん、二人とも堅いなぁ。特に新婦さん。せっかく綺麗になったんだからもっと笑わなきゃ」


 カメラマンの言葉に、陸斗が手をあげた。


「一分だけ、いいですか?」


 返事も待たず、あたしの手を引き写真室を出る。昨日より高いヒールに気を遣ってか、あんな強引さはない。


「来てくれて良かった」


 誰もいない廊下で、向かい合いまず最初に言われた。


「あのさ、絵茉がしたいなら明日から好きなだけしていいから」


「……何を?」


 言いたい事が分らず首を傾げるあたしに、陸斗は目を逸らさず言い切った。


「絵茉は今日から俺のものだから、他の男に盗られる心配ないだろ?  だから好きなだけ着飾ればいい。髪だって化粧だって、絵茉がしたいように」


「何言ってるの……?」


 本気で呆れた。


「あたしが可愛くしたいのは陸斗の為なの。結婚してもしなくても、陸斗に可愛いって思って欲しいからやってるの。何盗られるとかどうとかって。訳分んない」


「あー、悪かったな。どうせ独占欲強いよ。絵茉があんまり可愛くなるからただの彼氏のままじゃ心配だったんだよ。本当は絵茉がお洒落してくんの見てるとヤバいくらいニヤけるけど、他の男もそうだと思うとムカつくだろ。でもさ」


 陸斗はあたしの左手を持ち上げると、薬指の根元にそっと口付ける。


「もう俺のものだ。だから可愛くして。絶対に誰にも盗られないって安心感で、俺はこれから色眼鏡なしに絵茉の可愛いさを堪能出来る」


 付き合い始めてから今まで、どれだけお化粧の研究しても、雑誌に載ってる可愛い服を着ても、こんな風に手放しに褒めてもらえた事なんてなかった。


「絵茉、愛してる。ずっと俺のものでいて」


 陸斗が手を離してあたしの目に浮かんだ涙を拭う。そのまま唇が近付いてきて、そして。


「はい、それはお式の時にね」


 介添役の女性がニコニコと遮る。


「いい所をごめんなさいね。でもお時間が押しているものだから」


 全部見られていたらしい。動じない女性はニコニコとあたし達を再び写真室に導く。


「お、仲直りしたね。キミらみたいなカップルよくいるんだよー。式の直前に喧嘩して、でも大抵チューの一発でもかませば笑顔で仲直りだ」


 なんでそんな見ていたかのように。恥ずかしさにクラクラと眩暈がした。けれど悪くはない。


 それはきっと、初めて陸斗が見せてくれた、甘い甘い感情にあてられてしまったせいなのだろう。







 


 一時間後、憂鬱に染められていた対のリングは、お互いの薬指で染め直されていた。


 皆の祝福と、迷いのない愛情に。



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甘い目眩 麻城すず @suzuasa

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