赤い風船

スガワラヒロ

流れゆく紐を掴む手は

 柳瀬やなせ真由まゆには、両親がいないことへの悲観はあまりない。


 ――とだけ述べると我ながら親不孝者のように聞こえるが、そうした環境が当たり前だったのだから仕方のないことだとも思う。


 年端もいかぬ頃から母とは別居、父に至っては共に過ごした記憶すらない。これについてはお家事情であるし、誰かに話して同情を引こうなどとは微塵も考えないので伏せておく。


 とにかく祖父のところに厄介になって、その祖父が倒れてからは施設暮らし――それが簡単な経歴だ。


 しかし、何事にも終わりは来る。


 十八歳である。


 十八歳になれば施設を出なくてはいけない。


 もちろん大学に行くという選択肢はあり得ない。高校までは何とかなってきたが、この先はさすがに無理だ。国立に入れる頭は残念ながら持ち合わせていないし、私立の学費を払えるお金はどこからだって捻り出せない。


 後から考えても、働くのが唯一の道であったのだ。


 ただ――


 できるなら、自分を必要としてくれる人のために尽くしたかった。


 親にも必要とされなかった自分を必要としてくれる人がいるのかはわからず、黙っていても見つからないのは確かで、だからこっちから探しに行かねばならないと思った。


 そして今、真由はフリーターに収まっている。


 バイトを掛け持って旅費と生活費を稼ぎ、必要なだけ溜まったら次の町に移動する。住み込みで働かせてもらったこともあれば、女性用フロアを備えたカプセルホテルに滞在したこともある。ひどいときには――その「ひどいとき」はわりと多いのだが――野宿することもあって、無人駅が寝床としてなかなか使えることも覚えてしまった。


 この暮らしを始めてからもう二年。真由も二十歳になるが、望んだ出会いは今のところ得られていない。


 負けるもんか、と真由は思う。



     ◇ ◇ ◇



「――いらっしゃいませ! ご注文は?」


 ドアに取り付けられた鈴が鳴った。真由はすぐさまそちらを振り向いて、極上の営業スマイルを浮かべる。


 喫茶『風花かざはな』。


 この町で仕事を探そうと決めたとき、真っ先に選んだのがここだった。


 シフトは夕方から夜にかけて。最も忙しい時間帯だが、経験豊富な真由の目から見ても時給は決して悪くない。さらに住み込みOKとくれば、もう飛びつくしかあるまい。


 もちろん、こんな条件を出すのは店にとって負担であるはずだ。それでも募集をかけている以上は人手を欲していたのだろうし、その理由もあらかた想像のつくものではあったが、実際に働いてみて想像は確信へと変わった。


「ミルクティーひとつ、ショコラひとつですね。では少々お待ち下さい。……はい! 何か御用でしょうか? ――ああ、お手洗いでしたらあちらの突き当たりにございます」


 真由はお盆片手にテーブルの合間を駆け回り、次から次へと舞い込む注文を矢継ぎ早に処理してゆく。


 今までいくつもバイトをこなしてきて、フロアの仕事はほぼ完璧にマスターした。そんな真由をして忙しさを感じさせるほどの客足であった。




「お疲れ様、真由ちゃん」


 店じまいして後、一番に声をかけてきたのは『風花』の店長を務める美智みちさんだ。これだけ来客のある店を長いこと一人で切り盛りしてきただけでも驚きなのに、五歳になる一人娘の面倒まで見ているというのだから凄い。


 美智さんは真由よりも十個ほど年上である。十年というのはそれなりに重みある年月のように聞こえるが、さりとて自分が十年後ここまで逞しくなれるかというと正直だいぶ自信がない。


「美智さんも。毎日大変ですね」


「あはは。もともといろんな人が来てくれてたんだけど、最近また増えちゃって」


「最近、なんですか?」


「半年くらい前からね。真由ちゃん、人気あるのよ」


「はあ……」


 何と返したものか。労力を削減すべく雇ったのだろうに、これでは本末転倒ではないか。


「ま、おかげで繁盛してるからありがたいわ」


「……ならいいんですけど」


 内心の安堵に反して、真由の受け答えは妙に平坦な声音になってしまった。


 美智さんが切り出そうとしている話題に予想がついたからだった。


「――で、つまり真由ちゃんが来てからもう半年になるわけじゃない。そろそろ契約切れるんだけど、真由ちゃんはどうしたい?」


 やはりそう来たか、と真由は思う。事実としてそのことは真由にとっても悩みどころなのだ。


 旅費は溜まっている。


 バイトの求人情報も把握している。


「……ちょっと考えさせて下さい」


 あとは心持ちひとつ。だからこそ迷う。


 自分を必要としてくれる人のために働きたいと思っていた。


 ここは――この人たちは、どうなんだろう。




 翌日は『風花』の定休日だった。


 美智さんの「ちょっと美羽みうの相手お願いできる?」と、五歳になる美羽ちゃんの「ヒロインショー連れてって!」に逆らえず、真由は中心街のデパートを訪れていた。


 もちろん真由自身は特別興味があるわけでもない。演技を眺めるでもなく、上演中ずっとまどろみに身を任せていた。ろくな客ではない。とはいえ周囲を見回してみれば家族連れのお母様方は皆そのような手合いであって、娘たちの歓声を耳にして目を覚ましたと語る者の数は両手両足の指の数でも到底足りないと思われた。


 ちょうど催しが終わったらしい。真由が意識を取り戻したとき、美羽ちゃんが手持ち無沙汰にこちらを見つめていた。


「ああ、ゴメンね」


 小さな手をそっと握り、風船を配る着ぐるみたちの間をすり抜けてゆく。向かう先は階段だ。


「面白かった?」


「うん!」


 元気一杯の返事。自然と頬が緩んだ。


「よかった。これで思い出作れたね」


「おもいで?」


「ほら、私が来てからもう半年経つから」


 階段を下り、途中でエレベーターに乗り込んで、外の休憩スペースに出る。


 広場には自動販売機が並んでいて、真由はアイスを二つ買った。美羽ちゃんの好きなストロベリーを手渡すと、彼女は案の定にっこりと微笑む。真由が手を動かして頭を撫でてあげると、少女はくすぐったそうに声をたてて笑う。


「――半年たつと、どうしておもいで作るの?」


 ベンチに腰かけたところで、美羽ちゃんから質問が飛んできた。


 しまったと感じたがすでに遅い。美羽ちゃんは本気で不思議そうな面持ちを浮かべていて、こうなったときの彼女が容易に引き下がらないことは真由もよく知っていた。


 覚悟を決めるように呼吸をひとつ置いて、


「……そろそろお店やめて、別の町に移る頃だから」


「え? おひっこし?」


「私がね」


「ミウとお母さんは?」


「今までどおり」


 少女が何事かを考えるように押し黙る。


 今の話を整理しようとしてるんだろう――そう判断し、真由はアイスを口に運びながら天を仰いだ。


 空の青。


 雲の白。


 一点の赤。


「――赤?」


 呟いてから気づいた。


 風船だ。


 デパートの屋上から赤い風船が浮かび上がっているのだ。


 風に吹かれてふよふよと漂っている風船を、真由はついまじまじと目で追ってしまう。そういえば着ぐるみたちが配っていた。もらった子供が手放してしまったのだろう。ちゃんと持ってなきゃ駄目なのに。今まさに泣いてる最中なんじゃないか、とまで思考が及んだ。ちょっとかわいそうだ。


 そのとき、黙りこくってアイスをつついていた隣の少女がぽつりと口をひらいた。


「マユ、いなくなっちゃうの?」


 危うく聞き逃すところだった。


 真由は少し考えて、


「どうだろ。私にもわかんない。私は……」


 空を泳ぐ風船を指差し、


「――私は、あの赤い風船なの」


「マユが? ふーせん?」


「そう。風船は黙ってると飛んでっちゃうよね。飛んでどこに行くのかは風任せで、自分にだってわからない。途中で木に引っかかって萎んでいくかもしれないし、最後までどこにも止まらないで萎むかもしれない。誰かが掴んでくれるかもしれないし、くれないかもしれない。それも自分じゃわからない」


 とっさに捻り出したにしてはいい喩えだと思った。それくらい、あの赤い風船と自分とはよく似ている。


 必要としてくれる人のところで、と望んではいた。しかし、そんな人が果たして実在するのか。もちろん人手として欲してくれる人はいて、これまでも要求に応えることで生活してきた。その意味では充分必要とされてきた。


 ただ、風船が配られるのは色とりどりで華やかだからに過ぎない。


 同じくらいに見る者の心を楽しませる代用品さえあれば、風船でなければならないなんてことはない。


 そもそも風船だって、なにも浮かびたくて浮かんでいるわけではないのだ。風に運ばれて、浮かばざるを得ないから浮かんでいるだけだ。


 本当にそっくりだ。


「んー……」


 美羽ちゃんは沈黙し、やがて首をかしげて、


「でも、マユとふーせんはちがうよ?」


「……や、そりゃまあ所詮喩えだし、私がホントに風船なわけでは」


「ちがうの」


 真由の抗弁を遮って、少女は自分の考えを披露する。


「んとね。ふーせんはいっぱいあるから、ほかのと取りかえっこできる。でもマユの代わりはいない」


「――え」


「はじめはほかの人でもよかったけど、今はもうだめ。なんでかって、ミウたちと仲良くなったのはマユだから」


 一言一言、己の思考を確かめるようにして紡がれる幼い言葉。舌っ足らずな少女の声が耳から染み込み、脳ミソで意味を結ぶにつれて、真由の心は真っ白に熱を宿してゆく。


「もしマユがね、それでも自分のことふーせんだって思っても――」


 温もりを感じた。


 手元へと視線を落とせば、少女が小さな右手を伸ばして、こちらの左手を繋ぎ止めている。


「ミウが、ちゃんとつかんでてあげる!」


 真由はゆっくりと息をつく。


 どうやら今後のことを考え直さなくてはいけないようだ。もしかしたら美智さんは、こうなることを見越して美羽ちゃんの付き添いを頼んできたのかもしれない。


 理解した。


 ずっと望んでいた場所は、ここだったのだ。

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