曇り硝子の裏
増田朋美
曇り硝子の裏
その日はひどく曇っていて、洗濯ものを干しても、意味がないので、多くの人がコインランドリーに行列を作っていた。単に曇っているからでだけでなく、洗濯機を使わなくても、こういうものがあるので、この方が便利という人も来ていた。洗濯物だけではなくて、そのほかのことでも、新しいものが出てきていて、今まで苦労してきたものが一瞬で終わってしまうという現象は、いろんなところで起きている。
その日、杉ちゃんとジョチさんは、コインランドリーで順番待ちをしていた。その日は、曇っているせいで、全部の乾燥機が使用されてしまい、空くのを待たなければならなかった。
「はあ、一時間待ちですか。まったく、自宅で洗濯をするのは、そんなにいやですかねえ。最近は、なんでも楽なほうへ行ってしまうのですかね。」
「そうだねえ、洗濯母ちゃんという言葉も死後になりそうだなあ。」
二人は、そういうことを言いながら、コインランドリーの待合所に座った。杉ちゃんが、設置されていた水飲み場から、水をコップに入れてジョチさんに渡した。
「ああ、ありがとうございます。」
ジョチさんは、それを受け取って、テーブルの上に置いてあった、新聞を取った。新聞と言っても、大手の新聞社から発行されているものではなく、学校のことや、教育のことを掲載している、地方新聞だった。
「何読んでるんだ?」
と、杉ちゃんが聞いた。
「ええ、教育者向けの、静岡教育新聞です。定期購読してはいないですけど、たまに読むと面白い記事が描かれているので、読んでみると面白いんですよ。」
と、ジョチさんは言った。
「へえ、何が書いてあるの?」
「まあ、地方新聞なので、たいした要件は載っていません。まあ、高校が見栄を張って大きな行事をしようとしているというか、そういうことでしょうか。面白いと言ったら、ここに載っている、小説も面白いんですけどね。」
と言って、ジョチさんはページをめくった。すると、小説の掲載は終了しましたという見出しがあって、小説ではなく、エッセイが掲載されていた。
「おい、何が書いてあるんだよ。」
と、杉ちゃんに言われて、
「ああ、学校にまつわるエッセイですね。なるほど、学校では絶対教えてくれないことですか。著者は竹村優紀。」
と、ジョチさんは答えた。
「竹村優紀だって?」
「ええ、竹村優紀さんです。僕たちが先日お会いしたあの人ですよ。竹村先生、前向きに活動されておりますね。教育分野の悪事をこうして抉り出すように書くのは、大変だとは思いますが。」
と、ジョチさんは言った。
「まあ、そういうのが仕事だと、本人もおっしゃっていましたし。」
「そのうち、製鉄所へも取材に来たりして。」
杉ちゃんとジョチさんは顔を見合わせた。
「まあ来たらきたで、思いっきりやらせてあげような。」
杉ちゃんはにこやかに言った。
「しっかし、この新聞は、本当に教育問題のいろんなことが書いてありますね。教師だけではなく、様々な職業の人が投稿しているけど、真偽が疑わしい投稿もあります。だから、このような新聞を作っても、教育問題は解決しないでしょう。」
ジョチさんはそういって、ふっとため息をついた。すると、洗濯機が一台開いたと放送が入ったので、二人は、洗濯機の前にいった。とりあえず、洗濯ものを入れて、稼働のスイッチを押す。
「ボタン一つで、洗濯から乾燥までやってくれるんだよな。」
と、杉ちゃんは一つ、ため息をついた。
「確かに、なんでもできてしまう時代になりましたね。この新聞の投稿も、メールで受け付けているそうですから、素人でも玄人でも、ボタン一つでなんでもできてしまうという、すごい世の中です。」
ジョチさんが言うと、杉ちゃんもそうだねといった。
「本当だ。これが果たして良いのか悪いのか、よくわからないね。」
二人は、そんなことを言いながら、待合席に戻った。待合席には、人がいなかったので、先ほどの教育新聞を、もう一度取ってみる。
「この投稿なんて、場違いもいいところですよ。多分、若い女性がしたものだと思うのですが、内容は母親がしんどいという内容です。学校教育とはまるで無関係な内容です。でも、このような公共の新聞に個人的な嫌悪感を投稿できるということは、逆に何も問題がなくて、平和ということになりましょう。」
「はあ、そうか、そういうことを考えている暇人が多いということだな。」
「まあ、暇人ではない教育施設もありますが、大手の施設は暇なんでしょうし、下位の施設は忙しいのでしょう。それが問題になる世の中ですけどね。」
「ほんと、その落差がもうちょっと縮まってほしい世の中になってくれるといいなあ。」
二人がそんなことを言い合っていると、乾燥機が音を立ててなった。
「まだ、終わるには時間がかかるよな。ちょっとお茶でも飲んでいくか。」
と、杉ちゃんが言った。ジョチさんはそうですねと言って、コインランドリーが所属しているショッピングモールのカフェを訪れることにした。もう、昼飯時刻に近かったから、カフェは営業していた。
二人がカフェに入ると、そこにはすでに先客がいて、何か真剣な顔をして、話をしていた。話していたのは男性と女性で、邪魔をしてはいけないなという雰囲気があった。
「それでは、これからも気を抜かずにやってくださいね。」
「ええ、ありがとうございました。先生がお話を聞いてくださってうれしいです。」
と、女性は椅子から立ち上がり、にこやかに礼をして、カバンをもって店を出ていった。女性というよりもまだ少女という感じがした。年齢的には若い女性に区分されていても、まだまだ幼いところがあり、とても大人の女性とはいいがたい。
「あれれ、なんだ。こんなところで、若い女から、金を巻き上げるのか?」
杉ちゃんが、ちょっとからかい半分でそういうことを言うと、
「金を巻き上げているんじゃありませんよ。彼女は私のところに、バイオリンのレッスンに来ている人なんです。まだちゃんと弾けるわけじゃないですけど、指の機能を回復させるために、レッスンしているんです。楽しみながら、指の動きを取り戻させるためにね。」
というその人。そのようなことを言うのは、やっぱりこの人だと、杉ちゃんもジョチさんもわかった。
「なんだあ、竹村さんじゃないか。」
「ええ、そういうことになりますね。」
と、竹村さんは、冷静な態度のまま、杉ちゃんに言った。
「確か、教育新聞に学校では絶対教えてくれないことって投稿してたよな?あれ、僕は読めないけど、ジョチさんは面白がって読んでたよ。また書いてな。」
杉ちゃんがカラカラ笑って言うと、
「ええ、確かにそのような投書はさせていただきましたが、あれをしたって何か変わるわけではありません。でもそうするしかないんです。あなたのような風来坊の方に、そのようなセリフは言われたくないですね。」
と、竹村さんは言った。
「なんだ。こういうやつが教育のことで口出しするのはおかしいというのかい?」
「おかしいのではありません。有害なんですよ。そもそも、あなたみたいに、のんべんだらりと毎日暮らしている方に、先ほどの彼女の悩んでいることは、わからないと思いますよ。理由を言いますと、彼女のような人は、あなたみたいなどうでもいい生活を送っている人のせいで、傷ついているのではありませんか。」
「というと、どういうことでしょうか。杉ちゃんのような方が有害なんて、なんでそうはっきり言えるのでしょう?」
ジョチさんが間に入ってそういうことを言った。
「ええ、言えますとも。あなたのような、方向性もなく、ただだらだらと生きているのが一番たちが悪いんです。やむを得ずそうしている人もいますが、それに罪悪感を持たないというのも悪いですよ。そういう人がいるから、一生懸命に取り組もうとする、子供や若い人が混乱してしまうのでしょう。一番の加害者は誰なのか、しっかり考えていただきたいものですね。」
「確かに、竹村さんの言うことも、倫理的に言ったら、悪いことではないのですが、それを全否定してしまうのも、良くないと思いますけどね。」
竹村さんに対して、ジョチさんが言った。
「いいえ、そうしなくちゃなりません。そうなったら、何もしていない、一生懸命やろうとしているのに、悪人となってしまう若い人がかわいそうでなりませんから。」
「まあまあ、それはそうなんだけどさあ、僕のことを悪人呼ばわりするのはやめてもらいたいね。」
と、杉ちゃんがちょっと不服そうに言った。
「本当にさ、僕は悪人として生きているつもりはないよ。いるだけで悪人とはしないでくれ。」
「でも、若い人達が生きやすい世の中にしていくためには、私たちがちゃんと態度で示してやらなければなりません。若い人に一生懸命やることは、決して悪事ではないと示してやるには、私たちが黙ってそれを実行することだと思うんです。そういうことを実現出来る世の中にするためには、あんたのような何も目的もなく、のらりくらりと生きている人こそ、有害なんですよ。」
「ゆ、有害ねえ。確かに僕、バカだけどさあ。有害と言われてしまったのは、生まれて初めてだなあ。それはちょっと言いすぎじゃないの?」
杉ちゃんと竹村は、堂々巡りのガチンコバトルを続けていた。その間にジョチさんは、遠くの方でパトカーがサイレンを鳴らしているのに気が付いた。しかもそれはだんだんにこっちへ近づいてきているような気がする。
「一体何ですかね。」
とジョチさんはそっとつぶやいた。杉ちゃんと竹村はまだガチンコバトルを続けていたが、カフェに、何人かスーツを着た人たちが入ってきた。いわゆる刑事と呼ばれる人たちである。
「竹村優紀さんですね。富士警察署のものです。ちょっとお話をお伺いしたいので、署までご同行願いたい。お願いします。」
「わかりました。」
刑事がそういうと、竹村さんは、何も迷いがない表情でいった。そんなこと、まるで慣れているという感じだった。
「ただ、飲食物の支払いがありますので、そこで待っていてくれますか。」
竹村さんはすぐ立ち上がって、レジのほうへ行ってしまった。一体どういうことだと、杉ちゃんもジョチさんも唖然としている。
「では行きましょう。よろしくお願いします。」
と、竹村さんは堂々とした態度のまま、刑事たちと一緒に行ってしまった。
「おい、どういうつもりだよ。彼がなにか悪いことでもしたのか?」
と、杉ちゃんが刑事の一人を捕まえてそう聞くと、
「お教えできませんよ。」
と、お約束のセリフを言うが、杉ちゃんが華岡と友人だというと、それではまずいと思ったのか、こういうことを言った。
「いやあねえ、ある若い女性が、薬物で逮捕されたのですが、その女性が、竹村先生のところでバイオリンを習っていたという情報が入ったものですから。」
「はあ、なるほど、」
とジョチさんが言った。
「そうなると、竹村優紀さんもその違法薬物にかかわっていたということですか?」
「い、い、いや、そういうことじゃありません。そういうわけじゃなくて、事情を聴くだけです。ただ、その、竹村さんが、逮捕した女性の、薬物に陥った理由を知っているか、というだけでして。」
「はあ、そうですか。今の態度じゃ、竹村さんが容疑者みたいな感じでしたね。それじゃあまずいでしょ。警察なんだから、もっとそこらへんをしっかりやってくださいませね。」
「あ、はい。わかりました。すみません、失礼します。」
ジョチさんがそういうと、その刑事はやいほいと、逃げていくように出て行ってしまった。
「まったく困りますね、警察も。すぐに容疑者がつかまればいいというものでもないですよね。」
「ほんとだねえ。」
杉ちゃんもジョチさんも、あきれて顔を見合わせた。
「とりあえず、お茶を飲んで、コインランドリーの洗濯物を取りに行くか。」
「ええ、そうしましょうか。」
二人は、やれやれとため息をついた。
その次の日、杉ちゃんと、ジョチさんが、やや遠方にある、手芸屋さんに行った帰り、タクシーに乗って偶然富士警察署の前を通りかかったときのことである。
「あれ、今出てきたの、花村さんじゃないか?」
杉ちゃんが、のんびりといった。確かにジョチさんにも見覚えのある顔だった。二人は、警察署の玄関前でタクシーを止めてもらい、花村さんに声をかける。
「おーい、花村さん。駅に行くんだったら乗っていきな。」
杉ちゃんが声をかける。
「ああ、すみません、じゃあ、お願いしようかな。」
と、花村さんは、その通りにした。
「今日は、なんでまた警察署に呼ばれたんですか?」
ジョチさんに言われて、花村さんは、
「ええ、あの、竹村先生のことで、ちょっと呼ばれただけなんです。」
と答える。なんですか、竹村先生と知り合いだったんですかとジョチさんが聞くと、
「まあそういうことですね、名字も似てましたけど、私と、竹村先生は、よくバイオリンと箏で共演していたんですよ。」
と、花村さんはにこやかに笑った。
「共演ですか。そんなことを、あの竹村先生が。」
「ちょっと信じられないな。僕のことを有害だという人が、箏と共演するほど、頭の柔らかい人だったかな?」
ジョチさんと杉ちゃんは、意外な顔をした。
「ええ、まあ、音楽に関しては、柔らかい方でしたよ。私だけではありません、ピアノとか、ギターとか、共演者は比較的多かったですよ。」
と、花村さんが言うので、杉ちゃんは、ますます不思議だなという顔をした。
「そうなんですか。僕もそんなことは知りませんでした。それで、竹村先生は、今どうしておられるのでしょうか?」
とジョチさんが言うと、
「ええ、私をはじめ、ほかの音楽家の方の証言もあり、釈放されましたよ。もう、ご自宅に帰って、原稿でも書いているんじゃないですか?」
と、花村さんは答えた。
「だったらよ。僕のことをなんで有害人物というんだろうか。僕、あんなことを言われてちょっと頭に来ちゃった。僕は、そんなに悪い奴じゃないと思うんだけどねえ。」
「ええ、確かに杉ちゃんは悪い人ではありません。それは、私も知っています。ただ、竹村先生は、どうしても、許せなかったんですよ。杉ちゃんのような人を、そうみてしまったんでしょうね。」
花村さんはちょっと苦笑いした。
「一体竹村先生は、どうしてああいう厳格な人物なんですかね。何かご存じありませんか?」
と、ジョチさんが言うと、
「ええ、昔はあの方は優しかったんですよ。でも、最愛の息子さんが自殺されてからは、すごい変わってしまいましたけどね。」
と、花村さんは答えた。
「息子さん?」
「そうなんです。なんでも、音楽学校に行くために、偏差値の比較的低い高校にいったそうなんですが、周りの生徒さんたちが、恐ろしく反抗的で、授業をほとんど聞かなかった人たちばかりだったそうで。私は、詳しくは知らないんですけど、たぶん、友達もできないで、寂しかったという面もあるでしょうし、教師が授業をするために、平気で汚い言葉をはいたりしたようですね。彼は、二年に進級を目前に自殺されたそうです。遺書には、もうこの学校にいるのは耐えられないって、書いてあったらしいんですよ。」
「はああ、なるほど。」
杉ちゃんとジョチさんは、しんみりとした顔をした。
「そういうわけで、竹村先生は、同じような被害にあっている子に、バイオリンのレッスンされるようになったそうです。中には重度の自傷で、手首の機能を失ったり、薬物の大量服薬が原因で、歩けなくなった子までいるとか。」
「お話は分かったよ、花村さん。でも、そのせいで僕を有害人物にはしないでもらいたいなあ。僕は少なくとも、息子さんを自殺に追いやった同級生とは違うんだからね。」
花村さんの話を聞いて、杉ちゃんは、苦笑して言った。
「確かに、いきなり有害だと決めつけるのは、いやな気持がしますよね。」
ジョチさんも、そういうことを言う。やっぱりどこの世界にも傷ついたひとはいるらしい。
「僕の店で働く従業員も、みんなそういうことで傷ついてますよね。二度と立ち上がれないような人もいる。それではかわいそうだと思いますよ。もちろん、立ち直るには、彼女たちが、頑張ろうという気になってくれないと、いけないんですけど。だから竹村さんも、それを促せるような人になってほしいなと思うんですけどね。」
「まあ、少なくとも、僕を有害人物とは言わないでほしいなあ。」
杉ちゃんはそればかり言っている。
「きっと竹村さんも、何回も受け入れようというか、普通に接しようとしたと思うんです。でも、竹村さんにとって、最愛の息子さんを自殺に追いやった同級生のことは、どうしても許せないんじゃないかな。人って、どうしても、過去にあったことを取り払うのは、難しいじゃないですか。みんな、事実に対して、その通りに動けばいいということは、できそうでできないでしょ。事実があるだけであったとしても、どうしても人間の目は、感情が正確に見えなくさせちゃうんですよ。それは、しょうがないというか、どうしてもそうなっちゃうというわけですよ。」
「逆にそれがあるから、人間関係も面白くなるんですけどね。それの負の面ばかり強調させてはいけませんが。」
花村さんとジョチさんは、相次いでそういうことを言った。
「そういう僕たちもそうなってますけどね。私が口で言ったこの言葉を、その音の通りにとらえられる人間なとどこにいるでしょうか。どこにもいやしませんよ。そういうことでしょ。」
花村さんが言うと、
「ええ、僕もそう思いますね。それはもう、人間ならではで、そうなってしまうわけで。」
と、ジョチさんも言った。
「そうなってくれたら、僕が悪人というレッテルも取ってくれるようになるかなあ。」
と、杉ちゃんはわらってそういうことを言っている。
「ええ、かなり長く時間がかかると思いますが、きっとなってくれると思いますよ。もちろんそうなりたいという思いがないとできないですけどね。」
と、花村さんが言った。
「そうか、そういう思いをさせなきゃダメか。」
杉ちゃんはカラカラと笑った。
お客さんつきましたよ、富士駅、と運転手が言っている。それでは、ありがとうございました、と、花村さんは笑って、タクシーを降りて行った。杉ちゃんとジョチさんは、その様子を、くもった窓ガラスの裏から眺めていた。
曇り硝子の裏 増田朋美 @masubuchi4996
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