頼りない街灯に照らされる細道の奥に、カノコの足音が吸い込まれていく。カノコは肌寒さを感じた。まだ夏は少し遠かった。

 やがて道は別の道と交差し、その奥には一本の電灯の光によって浮かび上がる大きなロボットの姿がある。この公園はカノコとトキタの思い出の場所であり、トキタとタタの今が在る場所だ。ロボット公園の敷地に足を踏み入れたカノコは、まっすぐに明かりの元を目指す。案の定、タタの姿はそこにあった。タタはベンチに座って、カノコが今朝していたようにロボットの滑り台を見上げていた。砂場にはそこを埋めつくさんばかりに花が描いてあった。

「タタ」

 カノコはタタに声をかけながら近づいていく。ピクリと反応したタタがこちらを向いた。

「なにしてるの?」

 タタの視線を受け止めながら、カノコはタタの隣に座る。タタの膝には透明なファイルに納められたリビング・ウィルがあった。

「考え事を」

 そっか、と言ってカノコも滑り台を見上げる。タタもロボットの滑り台へと向き直った。

「答えは出た?」

 カノコは問いかける。もちろん、トキタのことについてだ。しかしカノコはタタの答えを待たずに言葉を続ける。

「タタにとってのロボット工学三原則」

「はい」

「タタの信仰で、生き方」

「はい」

「トキタを生かすのか死なせるのか、どうしたいかは最初から決まっているんでしょ? 言ってごらんよ。それがきっと、トキタにとっても正解なんだよ」

 タタは手元の紙に視線を落とした。カノコはその横顔を見やる。

「分からないんです」

 分からない、とカノコは繰り返す。

「何が?」

「おっしゃる通り、ロボットに対する三原則は、今では強制力こそありませんが、確かに私が信じるものであり、私が生きる意味でもありました」

「うん、知ってるよ」

「なぜ私が、そこまで三原則に拘るかご存知ですか?」

 それは、と言ってから、カノコは答えに詰まった。

「それは……知らないな」

 タタは静かに語り始める。

「今の私たちロボットは、かつての人類が作ったロボットより圧倒的に知能が高く、曖昧さに頑健で、人とほとんど変わらない複雑さで思考ができるそうです。むしろ、人と同程度の水準に抑えられているくらい、なのだそうです。それは良いことであり、悪いことでもあります」

 カノコはしばらく思案し、そして答える。

「倫理とか哲学とか、そういう問題?」

「そうです。自分とは何か、なんのために生きるのかという、当たり前に通る問題に答えを出す時、人には様々な選択肢があります。それは子孫を残すという原始的な使命感かもしれないし、縋ることのできる神の存在かもしれません。しかし、ロボットは子供を産めませんし、ロボットのための宗教は存在しません。人間と同じように考え、感じることができるのに、全くフェアじゃないんです。そんな私たちロボットの数少ない拠り所が、三原則です」

 タタは立ち上がり、ファイルをベンチに置くと砂場のほうへ歩き始めた。

「だから、おっしゃる通り私の答えは決まっていたはずなんです。私は信仰に従えばよかった」

「そう」

「でも、分からなくなってしまったんです。トキタさんに生きていてほしいのか、死なせてあげたいのか」

「それで……リビング・ウィルを眺めながら改めて考えていたと」

「そうです。ヤナギさんには悪いことをしました。あとで謝罪に伺います」

 タタは砂場に屈みながら苦笑し、花を描き始めた。

「その紙を眺めていると、トキタさんを思い出すんです。その紙を用意したときトキタさんは、植物状態になるくらいならさっさと死にたい、頼むから生かしてくれるなよ、と冗談めかして私に言いましたが、本当にそうなるとは私は微塵も思っていませんでした。信仰かトキタさんかどちらを取るべきか、揺れ動いているんです。それは、どちらに対しても確固とした強い思いがないからです」

 初めてタタに会った時、彼女がこんなにも饒舌に喋り、感情を表現するとはカノコは思いもしなかった。ろくな反応を返さないのはタタがロボットだから、と知らぬ間に決めつけていたが、むしろ人に近いからこそ深い悲しみに囚われて動けなくなるのだ。

 どうやらタタのことを誤解していたようだ、とカノコは思った。ロボットが、タタが何かに思い悩むことなんてないんだと思っていた。

「そんなの、割と普通だよ」

「……そうですか?」

 カノコは肩をすくめて立ち上がり、タタと同じように砂場に屈むと、花畑の中央を手で消しはじめる。

「選択肢があって、どちらを選ぶか簡単に決められるときもあるし、そうでないときもある。私は、そうでないことの方が多いよ。一つの対象に相反する感情を向けて、そして葛藤する。好きでもあり嫌いでもある、生きていてほしいし死なせてあげたい。この不合理で複雑な思考のシステムは人間が与えられた解決不能の謎のバグで、一方で人間的であることの証明なんだよ。だからタタはなんだか、とっても人っぽい。まるで普通の」

 カノコは花畑の中央にできた空白に、トキタとカノコと、そしてタタの絵を描いた。

「三人とも同じ。みんな人っぽい」

「……私は人っぽくていいのでしょうか?」

「いいんだよ。トキタもきっと喜ぶ」

「そうですか」

 タタはくすりと笑い、カノコと出会ってから初めて、笑顔と呼べる表情を浮かべた。

 タタは立ち上がり、服についた砂を払いうと、ベンチに置いてあったリビング・ウィルを掴んだ。

「カノコさん、そろそろ帰りましょう」

「考え事はもういいの?」

「いえ、続きは家で。冷えてきましたので、カノコさんが風邪を引いては困ります」

「確かに、まだ夜は寒いね」

「カノコさんも一緒に考えてくださいますか?」

「そうだね、二人で会話するのも大事だよね。その前にヤナギさんに謝ろうね」

 タタは苦笑する。カノコは迷った末、砂場の絵を消した。立ち上がり、ロボットの滑り台を見上げる。そこには幼いトキタの姿が見えた。

「人よりも人っぽくて、だから僕はロボットがすき」

 三原則が決して強制的なものでなく、目指すべき道徳であったということが、タタが人より人っぽくなりえた一つの条件なのだとカノコは思う。

 タタはこれからもきっと、両価感情に振り回される。相反する思いを抱えて、選択に迷い、葛藤し、これだと決断し、切り捨てた方を見捨てることができず、中途半端で不合理な行動を取り、最後には違ったと後悔し、一方で満足もする。複雑であることはとても当たり前なことだ。

 合理的になれないという致命的なバグに振り回されること、つまり人間的であることそのものが、いつかタタの心の拠り所になれば良いなとカノコは祈った。

 カノコはポケットから花の絵を取り出す。

「あ、それ、私が描いたものです」

「勝手に一つ拝借しちゃった。ごめんね」

「いえ」

 カノコはタタの部屋の抽斗に同じ絵がたくさんあったことを思い出した。

「ねえ、今から病院行こう」

「面会時間ぎりぎりになりますが、よろしいですか?」

「トキタにお見舞いの花を贈りに行こう。それで、ちょっとヤナギさんに謝ったらすぐ帰る」

「しかし、つばめ屋さんはもう閉まって……」

 タタは、おお、と言って、まるで漫画みたいに右の拳で左の手のひらを叩いた。どうにも、人っぽい仕草だった。

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アンビバレンス・バグ 結城七 @yuki_7

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