折れた絵筆

犬井作

折れた絵筆

 降る。降る。雨。降っている。降り続ける。落ちていく。濡らす。土は泥に変わる。第二ボタンの黄金が輝きを損なわれていく。視線の先で、投げ捨てたボタンが、汚れていく。

 あなたまで汚れてしまえばいいのに。

 だけど、汚れてくれない。あなたは。記憶の中で、いつまでも、輝いている。


「第二ボタンがほしいなんて珍しいね」


 あなたは桜吹雪を背にしていた。卒業式。喧騒をよそに、二人きり。いつもこうして、校舎の二階の踊り場で話していた。あなたは窓のくぼみによりかかって、いつもと変わらない笑顔を浮かべている。


「私、女子だけど」

「それでも」


 あなたは怪訝そうに眉を動かしたけど、いいよ、といってボタンを外した。そして私に手渡した。ありがとうと言うと、あなたは頷いた。あの日の笑顔が、焼き付いて、離れない。



 ○



 時間が経つにつれてあなたのことを忘れられると思ったのに、あなたは再び現れた。テレビの向こうで、あなたは変わらず微笑んでいた。気鋭の画家、二億円での落札。記憶と変わらない笑顔。あの踊り場で私にだけ見せていた笑みを、あなたはいま絵画の中の私に向けていた。


「サキさんはいつも同じモチーフを描いていらっしゃいますね」


 レポーターとあなたはIKEAにでも置いてありそうな、つるりとした緑色のソファに腰掛けていた。レポーターは熱心に身を乗り出して、絵を一瞥してあなたに言った。


「大学時代からずっと同じモチーフを用いてらっしゃいますね。この、ほんわりとした女性……これには、なにか意図があるのですか? このモチーフにどんな思い入れが?」

「中学の頃、いつも描かせてもらっていた女の子なんです」


 あなたはレポーターの目も見ずに答えた。あなたは絵の中の私だけを見ていた。


「意図はありません。小津安二郎が同じような映画を撮ってたように、ルドゥテが花の絵ばかり描いていたように、好きなものを描いているだけです」

「では質問を変えましょうか。画家が同じモチーフを繰り返し描くのはどうしてなのでしょうか」


 あなたはそう問われて初めてレポーターを見た。そして、ちょっと考えてから、ありきたりだけど、あなたの言葉を声に紡いだ。


「人類最古の絵の目的は、もしかしたら記録かもしれません。あるいは祝祭のためだったかも。だけど、どんな目的であれ、描かれたものは、描いた人が永遠に残していたいと思ったものだけじゃないでしょうか」


 髪型が変わっても、あなたは変わらぬ笑顔で言った。



 ○



 燃えている。黒い煙が高く空へ伸びていく。パチパチと、絵筆が、パレットが、汚れと一緒に、炎に包まれる。いつかこれが雨になると祖母が言っていた。先祖から受け継いできた畑で繰り返されてきた雨乞いは、形を変えてただのゴミの処理に変わっていった。だけど形が変わらないことが大切らしい。変わらないことは永遠を象徴するのだから。



 ○



 あなたがいたから私は絵を描くのをやめた。あなたの絵はそれだけ太刀打ちできなかった。あなたが象る美しさを見ているだけで満たされた。そんな自分に気付かされた。絵を、真剣に描いていれば、絵描きになれると思っていた私。そんな私は殺された。私は自分が絵描きでないと気がついた。今でも絵は描いているが、画材なんか私には不要だ。

なによりあなたが、私をそうだと気づいていなかったことに打ちのめされた。私が美術部にいたことも、あなたは知らなかった。

 あなたは先生に許可をとって、イーゼルを踊り場に広げて、休み時間になると絵を描いていた。まるで求道者みたいにせっせと空の絵ばかりを描いていて、たとえ意地悪な男子に蹴倒されても、落書きされても、気にせず新しい絵を描いた。一人であなたは完成していた。それを見ているだけで良かった。なのにあなたは私に気づいて、私を描くようになった。


「いつも見てるね」


 振り向いてそういったとき、気づかれていなかったと思っていた自分が滑稽だった。あなたは椅子の下に置きっぱなしのスケッチブックを開くと私に向き直った。


「動かないで」


 魔力に満ちた言葉だった。あなたは私を描いた。描いてる間、動けなかった。あなたが美しかったから。白い制服、短いスカートから伸びる脚、揃えた膝を支えにして動かす筆、伏せた顔に落ちた影、時折こちらに向ける瞳、それらは窓から射し込む陽射しのヴェールに包まれて、それ自体で一枚の静止画だった。

 しばらくして昼休みの終わりのチャイムが鳴った。あなたは私に絵を見せた。階段の半ばで、手すりを握って立ち止まる私がそこにいて、それは私以上に私らしかった。


「また描かせて」


 そういってあなたは教室に帰った。私はそこから動けなかった。見るだけで人を打ちのめす絵がこの世にあるとその時知った。遠く離れたところにではなく、手の届くところに。

 はじめは追いつこうと思った。同じことを、美術部の後輩を使って、やろうとした。だけど私はただ写し取るだけだった。あなたの真似事を繰り返すようになった。昼休みにあなたに描いてもらって、放課後はあなたになろうとした。そのうち、私は絵を忘れていた。自分自身の線を引こうとして、引けなくなった。

 好きだった夢二の模写をしたら、また描けるようになった。私は真似しかしていなかったと気付かされた。

 あなたのせいで。

 あなたがいたから。

 あなたがいなければ、知らずに済んだかもしれないのに。

 だけどあなたは、私を描いてても、私が絵を描いているだろうと気づいてもいいはずなのに、そんな事は求めなくて。あなたは変わらぬあなたのまま、私という存在を蹂躙した。線に書かれた私のほうが美しかった。

 だから卒業式で別れを告げた。あなたの第二ボタンを奪って、捨てて、汚して、蹂躙して、それから、自分の絵筆を、過去の絵を、すべて焼いて。

 そうして、私は自分を忘れた。



 ○



 あなたは知らない。あなたが作り出す永遠が、私の過去を燃やしたこと。過去の私はたしかに絵を描いていた。灰になった絵にはたしかになにかがあった。だけどあなたの永遠を知って、以来全ては奪われた。内面の変化は不可逆だ。一度形を変えればもとに戻ることはない。



 ○



 彼女の絵をテレビで見て以来、自分がズレていく感覚に苛まれるようになった。耐えられなくなったからだ。頭に焼きついた中学二年生当時の私と、私はひどく乖離していた。今の私より、過去の私のほうが私らしかった。そう思えば思うほど、私はあなたの笑顔を忘れられなくなって、私自身を否定したくなっていった。

 一人暮らしだったせいもあるかもしれない。仕事はしばらくしてやめた。一人で部屋にこもって、あなたの活動を追うようになった。あなたは私を描き続けた。私は私が社会にいなくても、社会で認められていった。そのうち、私が誰かを特定しようとする人がいることに気がついた。そう気づくと、恐怖を感じた。もしも今の私を世間が知ったら、世間が気づいたら。思えば思うほど、自分の存在が許せなくなった。

 私は死ぬことに決めた。あなたに知らせることはしなかった。誰も知らない所で死ぬべきだ。そう思ったから。

 海に向かうことにした。死体が見つかってしまっては困る。私という存在を消して、絵画の私だけを存在させる方法を考えたら、私に重しをつけて沈むことしか思いつかなかった。

 幸いにして貯金はあった。私は沖合に出た。太平洋に面した観光地で、貸しボート屋で売りに出ていたボートを買った。その日のうちに、出発した。

 進んで、進んで、進んでいくと、三時間もすれば海の他になにも見えなくなった。すれ違う船もなく、遠くに小島を見ることもなく、空と海がすべてになった。太陽にきらめく海は美しく、空と溶け合うようだった。ここがふさわしいと思った。私はエンジンを止めて、自分に重りをくくりつけた。

 舳先に立つと、心がすっと軽くなった。太陽が目を刺した。眩しい光に、窓辺に座るあなたを思い出した。私は目を閉じた。思い出が全てになった。私は私のいない世界を想った。そこには絵画の私がいる。誰かの手に渡り、展示され続ける私がいる。あなたが私を永遠にしてくれるから、もう私はいらない。心の底からそう思った。自然と、そのとき、脚が舳先を蹴っていた。

 浮遊感の中、気がつく。

 私を描くあなたを描けたのは私だけだったに違いない。

 私はあなたの真似をしたけど、あなたの線を真似したけれど、本当に象りたかったのは、私が見たものだったのだ。

 あなたに永遠は訪れない。



 ○



 喜緑エリが亡くなった翌日、東京は朝から雨雲が覆われた。一日中降り続ける小雨は夜桜サキの家にも降った。夜桜サキはその日も絵を描こうとしていた。だけどその雨の匂いを感じたとき、ふと涙があふれた。涙が止まらなくなって、絵は描けなくなった。

 その翌日は晴れだった。空は嘘みたいに青かった。夜桜サキは絵を描いた。だけど自分が描くものが、何かを失っている気がした。彼女は絵を描き続けたが、その欠落感が埋まることはなかった。

 彼女は三十歳の若さで亡くなった。交通事故だった。彼女が精神的に不安定だったと彼女の恋人はメディアに語った。夜桜サキの遺品のバッグからは、古いスケッチブックと、彼女の生まれ故郷である、静岡行きの新幹線のチケットが見つかった。

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折れた絵筆 犬井作 @TsukuruInui

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