10-2

 押し込められた車はタクシーとしてもたまに見かけるミニバンで、色は白。ぴかぴかでもなければ薄汚れてもいない。スモークガラスにもなっていないので、却って怪しさは皆無だった。

「新海さん、大丈夫っすか!」

 運転席から振り返って言ったのは渡邉だった。助手席には岡本。

「お前ら何してんだ……」

「運転手っす」

「代表の監視です」

 渡邉と岡本の台詞が重なって、何がなんだかよく分からない。

「うるせえよ!」

「うお! シート蹴らないでよ代表! 借り物なんだからね!」

「うるせえっつってんだろうが!」

 柚木が外から車内に足を突っ込んだ不自然な体勢から助手席を器用に蹴っ飛ばし、その間に弘瀬が新海を後部座席に押し込んだ。

「じゃあ俺、行くからな」

「気をつけろよ」

「ああ。彼に謝っといて」

 弘瀬の声が遠ざかっていくのをぼんやりと聞いていたら、隣に柚木が乗り込んできた。新海の身体に覆い被さるようにしてシートベルトを引き出す。柚木の髪と肌の匂いが鼻先を掠め、新海は小さく溜息を吐いた。

 頭の中に勝手に浮かび上がる立体的な地図の上を、赤い矢印が進む。まるでゲームの画面を見ているようだとぼんやり考えていたらいつの間にか目的地についていた。

 先生、という男を初めて見た。というか、若干上の空だったので、最初は誰だか分からなかった。

 柚木たちを車で送って先生のところへ行ったことは何度もある。だが、そういうときも新海はクリーンサービスの奴らが建物の中に入っていくのを見送るだけだったから、先生本人は一度ちらりと見たことがあるだけだ。

 こじゃれたジャージの上下を着ていたので何かの作業でもするのかと思ったのだが、今日もやっぱりジャージだったから、もしかしたらいつもジャージなのかもしれない。坊主頭も相まって、学生スポーツの監督かなにかのようだ。

「なんだこのでけぇ兄ちゃんは? 背は志麻より小せえのか?」

 先生が新海を見下ろしてそう訊ねる。見下ろされていると言うことはストレッチャーみたいなものに寝かされているのだろう。意識が途切れ途切れになって、耳に入る話し声も飛び飛びになっている。

「背丈だけじゃなくて顔も志麻より小せえと思う。あと、ケツも小せえし脚も長えし格好いい」

「代表、その情報、今いる?」

「や、知らねえけど訊かれたから答えたんじゃねえか」

「孝春、俺は兄ちゃんのケツについては訊いてねえぞ」

「新海さん、大丈夫っすか! 先生、もういいから早く楽にしてあげてください!」

「渡邉、安楽死じゃねえんだから。代表が取り乱しちゃうからやめな」

「ええ!? 何すか、岡本さん、何が? えっ、待って痛い、何でそんな蹴るんですかあ、代表―!!」

「っせえな! 黙ってろ馬鹿!」

「擦過射創だな?」

「あ? ああ、そう、ちょい肉持ってかれてってけど、大したことねえ」

「肉……俺の肉……?」

「新海さんしっかりしてくださいっすよう! 治ったら肉食いに行きましょう代表の奢りで!」

「肉……なあ柚木、喪章な──?」

「え?」

「おい孝春、結局それでこいつ、何だって?」

 暑くもないのに汗ばんで感じる額に指先が触れ、柚木が先生に答える低く抑えた声が遠くに聞こえた。

「新海は俺の──」

 俺の、何だろう。その続きを聞きたかったのに、新海の意識は持ち主を顧みることなく勝手にどこかに行ってしまった。




 目を開けたら真っ白い天井、ではなく、見慣れた管理人室の天井が見えた。

「あ──?」

「あーっ!」

 胸元にどかんと何かがぶつかって一瞬息が詰まる。うぐっと声を漏らした新海の上に覆いかぶさるようにしているのは渡邉だった。

「渡邉……?」

「新海さんが目を開けたあ!!」

「お前……」

「何すか!」

「マジで眉毛薄いな……」

「はあ!? 第一声がそれ!? 俺の眉毛!?」

「こらこら渡邉、新海さんが潰れるって」

「だって眉毛! てかもう新海さん真っ青だし真っ白だしなんか死んじゃうかと思いましたようー」

「渡邉、二十二口径のショート弾で腿の肉削られても大体死なねえ」

「大体……」

「えーっ、俺は死ぬかも!」

「お前はペイント弾でも勘違いして死んじゃうかもね。ほらほら、あとは代表に任せて行くよ渡邉」

「岡本さん何気にひどくねえっすか!?」

 ぶうぶう言いながらも、渡邉は案外あっさりと岡本について行った。渡邉は憎めない駄々っ子みたいなところがある。聞き分けの良さを若干意外に思いながらも、柚木と二人になれて、新海は正直安心した。

 新海はクリーンサービスの面々全員が好きだが、だからこそ格好悪いところはあまり見られたくない。柚木に対する自分の気持ちを思えば柚木にこそそんなところは見せたくないと思いそうなものだったが、どう足掻いたって勝てないと納得しているせいか、意外とそうは感じなかった。

「運んでもらったのか──悪かったな」

 ベッドに起き上がったら腿が痛んだが、思ったほど酷くはなかった。鎮痛剤か何かが投与されているのかもしれない。

「いや、全然大したことねえよ。つーかほとんど渡邉にやらせたし」

 柚木はデスク前の事務椅子を持ってきて腰を下ろした。

「何日か痛むと思うけど、松葉杖とかもいらねえって。鎮痛剤とか抗生物質とかはそこな」

 デスクの上に置かれたビニール袋に目を向けて柚木は言い、飲む量やタイミングについてはメモが入っているからと言いながら椅子を回してゆっくりと回転した。

「ま、俺らも上にいるしさ」

「ああ」

「何かあったら呼べよな。手ぇ空いてるやつ寄越すから」

「指名はできねえのか」

「俺は高えよ?」

「定期を解約する」

 うはは、と笑ってまた椅子を回し、こちらに背中を向けた瞬間、柚木の笑顔がきれいに消えた。

 部屋の隅の古い飾り棚。伯父がどこかからもらった本や置物、雑多なものが詰め込まれた棚の扉に嵌ったガラス。蛍光灯を反射するその表面に強張った顔が映っていることに、柚木は気づいていなかった。

「じゃあ俺──」

「柚木」

 新海は、また笑みを浮かべて振り返り、立ち上がりかけた柚木の手を咄嗟に掴んで引っ張った。

「何?」

「喪章」

「え?」

「喪章の意味が知りてえ」

 寄る辺をなくした子供みたいな表情が、目の前の余裕ありげな笑みの向こうに透けて見える。まるで書棚のガラスに映ったように。そんな大人みたいな顔をしなくていい、と言いたかった。

「……今? 別にすごい秘密とか過去とか隠してねえけど」

「分かってるけど、今聞きてえ」

「いいけど、何でそんなこと」

 椅子に腰かけ直した柚木は普段より乱れた髪に手を突っ込んで掻き回した。突っ立ってしまった髪の先がふわふわと揺れている。

「あのさ、ほんと別に深い意味はねえの。ただ亡くなった人への哀悼の意を表してるってか、そう思わなきゃ駄目だっつー自戒っていうか──」

 右手の甲を新海に向け、傷を見せながら柚木は言った。

「これさあ、俺は狙撃手志望だったからアレだけど、そこ度外視すれば大した傷じゃねえんだよな、前の仕事では」

「大した怪我だろ」

「いや、だって手ぇ動くし」

「時々動かなくなんだろ」

 指摘したら一瞬怖い目で睨まれたが、柚木はすぐに目元を緩めた。

「……握力も普通の野郎くらいまでしか落ちてねえし、つーかな、あんな仕事してりゃもっとひどいことになる可能性が常にあるんだし」

 新海の常識では結構な怪我であることに変わりない。だが確かに、命が危険に晒される可能性が高い職業だ。動けるうちは軽傷と──それが正しいかはともかく──思っていても不思議はない。

「そんでさ、紛争地域にでも派遣されなきゃ日常茶飯事ってことはないけど、死人だって出るだろ。死体だって別にそんな珍しくもねえ。狙撃手になれなくなってなんか全部どうでもよくなって、それで流れで今の仕事始めてさ。何でもいいから注意喚起してくれるもんがねえと、片付ける死体のこともただの物体だと思うようになるだろうなって危機感が……危機感つーか、確信があった」

 己の中の空洞と無心で向き合い何時間も黙って蹲る。食うことも眠ることも考えることもせず、ただ生命活動を行っているだけのモノとなる。

 そう考えると確かにぞっとしないものがある。それが才能だというのなら、一歩間違えばどこかに踏み出してしまいそうな危うい才能と思えてくるから不思議だった。

 磨いた技能を生かす場を永遠に取り上げられ、転用できない能力を呪いみたいに抱える柚木。猛禽の刺青は新海からすれば単なる美しい模様だが、柚木にしてみれば容易に消せない希望の残骸、肉を突き破り骨に刺さったサボテンの棘みたいなものかもしれない。

「先生は、もう外せって」

 柚木は椅子ごとガタガタと喧しい音を立てながら移動したと思ったら勢いよく前傾し、新海の腹のあたりに突っ伏した。

「──喪章を?」

「そ。俺はもう生ける屍なんかじゃねえから取っちまって平気だってさ。でも」

「取りたくねえのか」

「取りたくねって言うか……心配だから」

「心配ねえよ」

 柚木の頭に手を載せて撫でてやったら、柚木は顔を横に向けてこちらを見上げた。

 腿の銃創なんてなんでもないと冷静に振る舞う柚木が、意識を飛ばしかけた新海を見てほんの一瞬浮かべた迷子の子供みたいに頼りない顔。

「さっきは、弱っちい新海が頓死したらどうしようって顔してた」

「……一発撃たれた程度であんた死んじゃいそうになってるし」

「元会社員で今はしがないビルの管理人は、一発撃たれただけで死んじゃいそうになるんだっての。でもお前、物を見るような目で俺を見たりはしてなかったぞ」

「それはだって、知り合いなら当然のことだろ」

「そうだな」

 身体を起こしかけた柚木は新海の手に軽く押し戻されると、抵抗せずにそこに留まった。

「それでいいじゃねえか」

「でも……」

 何か言い返そうとした柚木は結局黙り、そのまま考え込んでいるようだった。

「そんな難しく考えんな。産婦人科医だって患者相手に変な気持ちにならねえだろ、多分。お前だって同じことだ。遺体をものみたいに考えたとしても、それは仕事だからで、お前が人非人だってことにはならねえよ」

「違ったら?」

「俺がいるから大丈夫だ」

「……」

「お前の空っぽな部分を埋めるのが俺だから。俺がちゃんと見ててやるし、お前が足りねえところは補ってやる。俺だって人格者でも万能でもねえけど」

「でも新海」

「ん?」

「あんたはいつかいなくなる」

 柚木が何でもないことのように言ったから、意味を掴み損ねて新海は目を瞬いた。

「え?」

「だってあんたは普通の人だから」

 柚木の声は冷静だった。まるで無条件で守らねばならない規律を暗唱する兵士のように。

「今は職探ししてないかもしれない。けど、いつかはきちんとした仕事を見つけて元の世界に戻るだろ」

 彼女と話していた新海を、柚木はいつから見つけていたのだろう。

「今日、あのきれいな子と話してんの見て思ったよ。あんたスーツがすげえ似合う。できる会社員って感じだった。勿体ねえよ、そういう生活捨てるなんて。早く戻るほうがいい」

「柚木」

「だから、喪章はつけとくよ」

「……それならつけとけばいい」

 柚木の髪を梳きながら答えたら、柚木は一瞬酷く落胆し、そのことに狼狽したような複雑な表情を浮かべて目を伏せ、布団に顔を押し付けた。分かりやすくて馬鹿な奴だ。普段は得意な無表情が、肝心なときに使えない。

「だけど、お前が喪章をつけようと取っちまおうと、俺はどこにも行かねえよ」

 ぱっと上げた柚木の顔は、何とも言えない表情だった。

「でも」

「サボ子もいるし」

 言った途端に柚木の顔がくしゃりと歪み、唐突に涙が零れ落ちたから仰天した。ぼろぼろと零れる大粒のそれは、涙と言うよりは雨の雫か何かに見える。

「柚──」

「あんたが、」

 柚木は掌で乱暴に涙を拭いた。

「あんたが、俺の何かって……先生が」

「ああ──」

 意識を失う直前にそういうやり取りを聞いたのは夢ではなかったらしい。

「俺の、大事な人だって」

 柚木の肉の薄い頬を伝い、涙が口の中に入り込んだ。開いた唇から一瞬、僅かに覗いた歯に目を奪われる。新海の布団を握り締めたままの拳は、力が入りすぎて白っぽく色が抜けたように見えた。

「どうとでも取れるよな? そう思って言ったんだ──大事な友達とかって意味に……そしたら、渡邉、あの馬鹿が」

 柚木が思わずというふうに笑いを漏らす。

「あーっ、代表! 知ってたっす! 俺、よくわかんねえけど多分サボ子のあたりから知ってましたあ! ってよ」

 物真似が上手かったから新海も思わず笑った。柚木は両手でぐいぐいと顔を擦りながら続けた。

「マジで、石津がケイコに惚れてるみたいに好きなんすか! って訊かれたからうんって答えた」

 まるで何でもないことを話しているかのように流れていく言葉。

 気を付けて掴まなければ柚木の頬を伝う涙のようにいつか乾き、消えてなくなる。口を開きかけた新海を牽制するように早口になって柚木は続けた。

「そんで、そしたらなんか渡邉号泣しちまってさ。俺は心配で吐きそうだっつーのに先生はお前の処置もしねえで電報だ! とか意味わかんねえこと叫びながらどっか走ってくし、あんたは真っ青な顔して気絶してるし、岡本は渡邉の背中さすりながらおろおろしてるし──ドラマならそこから幸せな最終回なんだろうなって思うけど」

「何でそれじゃいけねえんだ」

「だって」

「お前は多分、無になる訓練ばっかり積んできて、色々分からなくなってるだけだ」

 新海は柚木の頭を両手で掴んだ。元取引先の女の頭が小さいとか言ったのは柚木だが、本人の頭だって十分小さい。両手に感じる髪の感触に、安堵と焦燥を同時に感じる。

 掌の下の頭蓋骨。この中に柚木がいっぱいに詰まっている。お前は空っぽなんかじゃないし、俺が守るほど弱くない。

 それでも時たま足元が覚束なくなるようだから、その時は頼りない管理人がいると覚えていてほしかった。

「新海……」

「綺麗に洗うとか、口実がなくても俺のところに来てほしい」

「でも俺」

 途切れた言葉の先は続かなかった。

 歯を食いしばって声を堪える柚木が新海の手首を掴み、顔を俯ける。右手の握力が明らかに左より弱い。左手に掴まれた新海の右手首は折れそうに痛いのに、もう片方が何ともないのが切なかった。

「柚木──なあ、柚木?」

 頭を下げて顔を覗き込む。

「なあ、ご両親は羊羹食うか?」

「……! んなの、知ら」

 柚木はついに決壊して、それ以上は言えなかった。

 新海の腹の上に突っ伏し声を上げて泣く柚木の頭を撫でながら、新海は窓辺に置かれた青々としたサボテンに目を向けていた。






「俺は何というか、本気で五年くらい寿命を削られたぞ……」

 ネクタイを勢いよく緩めながらソファに腰を下ろした新海を見て笑った柚木は、新海の隣に尻を割り込ませてきた。

 新海の腿の上にケツが半分乗っているが、傷はすでに完治しているから痛みはない。

「でもあんたすげえ落ち着いて見えたけど」

「そりゃお前、営業時代のスキルを総動員したからだ」

「父さんのがテンパっててすげえ笑えたな」

 脚を撃たれた後、クリーンサービスの奴らに柚木との関係がバレた。

 岡本は前からそんな様子が見えていたが、意外だったのはやはり渡邉が何となく知っていたということだろう。志麻、石津、堀田はまったく気づいていなかったらしいから尚更だ。

 それにしても気づかずにいた三人が揃って「あ、そうなんだ」くらいの反応しか寄越さなかったというのが奴ららしいというか何というか、何だかんだ言って肝が据わっているというか。

 それはさて置き、奴ら以外に柚木が新海とのことを伝えた相手がいる。柚木の両親だ。

 海外勤務が会社員人生の大部分を占める人たちらしく、色々な分野でマイノリティーと呼ばれる友人知人も多いと聞いた。

 とは言え自分たちの一人息子が、となれば途端に受け入れ難く感じてしまうのが一般的な反応だろう。息子の選んだ人なら歓迎するから顔を見せて欲しいという連絡が──柚木を通して──あった時は、さすがに本気なのだろうかと訝ったが、新海自身はいい機会だと思ったから行くと答えた。勿論行きたくて堪らないなんてことはなく、できれば避けたいことではあったけれど、柚木の家族に会ってみたかった。

「しかしまあ、短時間でよくあれだけ調べたっつーか……」

 柚木の父親は柚木の線を細くして学者風にし、年を取らせたという感じだった。母親は息子とはあまり似ておらず、小柄で丸顔、穏やかな感じ。ただ、鼻の形だけは何故か息子にそのまま受け継がれていた。

 一人息子が連れてくるのが女性ではないと分かった途端、父親は猛烈な勢いでメールし、SNSを開き、Skypeをし始めた、とは母親の弁。

「ほら、私たち会社員人生のほとんどをアメリカで過ごしているでしょう?」

 因みに、両親は同じ会社の社内恋愛だそうだ。

「たまたまなのかもしれないけど、私たちの周りではゲイカップルも特別珍しいことでもなかったなあ」

 父親は今までよその家庭や友人知人のこととしてしか知らなかった知識を一層深めるべく、知りうる限りのセクシャルマイノリティーの知人、またはその家族に、限られた時間の中で徹底したリサーチを敢行した。

 生憎新海は柚木が好きなだけだし、柚木も同様。多分正しくマイノリティーではないので彼らに対する知識は皆無と言ってよく、一緒にされてしまったら向こう様に申し訳ないような気がして何故だか恐縮してしまった。

 それでも、全力で息子を──そしてその相手を──否定するのではなく受け入れようとする柚木の父親の行動には胸が詰まった。偏見がないのは真実なのだろうが、このまま関係が続けば孫の顔が拝めないことには当然気づいているだろうに。

 頭に詰め込んだ知識と息子への愛情、それから新海への気遣いでパンパンになった父親は夕食の最中に突然ぱちんと破裂して、おいおい泣きながら手酌でウィスキーをがぶ飲みしていたが、まあそれはそれで見物ではあった。

「普段あんなじゃなくてどっちかって言うと静かな方なんだけどな」

 柚木は思い出し笑いをしながら上着を脱いでソファのひじ掛けに置いた。

「ふうん」

 大きな傷のある右手。ジャケットを離して戻って来たそれを掴んだら、柚木がこちらを見上げてきた。整ってはいるが可愛いとは言えない鋭い面立ちに微かに甘さが滲んでいると思うのは、多分自惚れなのだろう。

「なあ、柚木」

「何?」

「お前はまだ空っぽか?」

「──どう思う?」

 柚木はにやりと笑っていきなり立ち上がると、ドアに向かった。鍵をかけたドアに凭れて新海を見つめ、片眉と唇の端を引き上げた。

「とりあえず隙間があるかどうか確認する時間くらいはあんじゃねえかな」

「……お前、これから仕事だろ」

 ユズキクリーンサービスの仕事まで約十五分。因みに新海は酒を飲んできたので今日の運転は志麻が担当するらしい。

「まったく──」

 新海がつい笑ったら、柚木も笑った。

「十五分でどうしろってんだよ」

「十五分で何ができて、そんでどこまできれいに後始末できるか教えてやろうじゃねえの」

 立ち上がった新海の視線が窓枠を掠めて柚木に向かう。以前窓辺にあったサボテンは、今はもう置かれていない。

「頼むぞ、一人で掃除すんのは虚しい」

「俺を誰だと思ってんだよ」

 喉を反らしながら柚木が呟く。柚木の首筋はいつもの柚木の味がした。

「お前が出かけたら、俺も行くよ」

 新海が下唇に噛みつくと、柚木は掠れた声を漏らした。

 吐息が鳥の羽のように唇に触れる。最初は動かなくなった指先のようにぎこちなく、すぐに互いの体温に馴染んでひっかかりは消えていく。

 洗い落とせるもの、落とせないもの。埋められるもの、埋められないもの。何もかも満たしてやりたいなんて多分傲慢なのだ。だから、柚木の抱えるがらんどうごと抱いてやれればそれでいい。

「だから、お前も」

「うん──急いで帰る……」


 柚木が一人で暮らしていた部屋に新海とサボ子が引っ越して半年。

 今のところ、サボ子が枯れる兆候は見当たらない。

  



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ユズキクリーンサービス 平田明 @akeh

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ