10-1

「……お帰り」

 柚木は珍しく眠たげに目を瞬き、枕に頬をつけたまま新海を見上げた。

 何でここにいるんだとか、何でお前の部屋でもないのにお帰りなのだとか、そんなことは別にどうでもよかった。

「ただいま」

 囁きながら耳殻を食み、圧し掛かる。

 柚木はくすぐったそうに笑って新海の首に腕を絡めた。引き寄せられ、間近で柚木の瞳を覗き込む。

 ブラインドの隙間から差し込む微かな月明かりに、柚木の刺青の猛禽が羽ばたき飛び立ってしまいそうな、そんな気がした。


 柚木は元職業軍人だけあって、目覚める時は一瞬だ。

 退役した途端そんな癖も消えてなくなるやつだっているだろうに、残念ながら柚木はそうではないらしい。

「ん──」

 半分寝ぼけたままベッドから出ようとする柚木の腰に絡めた腕を引き寄せたら、起きるから離せと言われた。

 しかし温かさが気持ちよかったので離さなかった結果、あっさり振りほどかれた上「しつけえな!」という罵声とともに胸のあたりを蹴っ飛ばされて低く呻いた。

 勿論、ものすごく手加減されていることは分かっている。柚木が本気で蹴ったら新海の胸骨は粉砕されているかもしれない。

「蹴るなよ……」

「俺は目が覚めたんだっつの」

 下着一枚の柚木は寝ぐせのついた髪に手を突っ込みながらその場で一度伸びをして、そうかと思ったら勢いよく床に飛び込み──新海にはそんなふうに見えた──腕立て伏せを始めた。

「お前そんなんでよくマッチョにならないな。ハリウッド映画の海兵隊みたいなああいう」

「は? 知らねえ、体質じゃねえか? あと食うもんとか……」

 さすがに柚木があんなガタイで「ウーラー!」とか吼えるタイプだったら抱けないだろうなあとかどうでもいいことを考えつつ、新海はベッドの上で上体を起こし、腕立て伏せを続ける柚木をぼんやり眺めた。

 拉致騒ぎがあった後、柚木の過去については一通り聞いていた。

 マリーン時代のことや右手の傷のこと、原因になった誘拐犯、セスという殺し屋の話も。刺青は柚木が所属するはずだったスカウトスナイパーの部隊のものだそうだが、公式のものではないことも。

 訊けば何でも答えると言った通り、柚木の中でそれらは別に隠すようなことではないらしい。ただ、自分から話したいことでもないから訊かれなければ話さないということのようだった。そうだとしても、ある程度柚木を知らなければ訊ねる材料だってないのだから、少なくとも一見さんの詮索お断りであることに変わりはないのだと思う。

 少なくともそこはクリアできたのだという気持ちと、もっと踏み込みたいという気持ちと、そうして踏み込みどうするのだという当然の疑問と。最近新海はそんなことばかり考えている。どうして喪章をつけているのか訊ねようと思って躊躇い、結局今に至るまで口に出していないのはそのせいだ。

 多分、他のことに比べたら些末なことで、隠すことでもないはずだと思う。だが、何もかも知って一体どうしたいのか決めてから訊く方がいい気がした。それが柚木のためなのか、自分のためなのかは自分でもよく分からなかったが。

「お前、昨日はなんでここにいたんだ?」

 いくら考えたって埒が明かないことを振り払うように訊ねたら、柚木は中途半端に肘を曲げた姿勢で腕立てを止めつつ微動だにしないという、一般人には信じ難い姿勢からこちらを見上げた。

「え?」

「いや、昨日。何でここにいたのかって」

「ああ」

 腕立て伏せが再開され、柚木は体重がないかのようにひょいひょいと自分の身体を上下させる。

 確かに腰は細くて尻は小さい。服の上からだと腕も脚も細く筋肉なんかどこにもついていないように見えるが、こうしてみると前言撤回、こいつには筋肉しかついていない。

「三日くらい寝てなくてさあ」

 柚木はようやく腕立てをやめて立ち上がった。こんなものではトレーニングにならないらしく、汗ひとつかかないどころか、腕立て伏せをした事実すら存在しないかのような顔をしている。

「一昨日は女んとこ泊まったんだけど、なんかこう、やることやっても眠くなんねえってなって」

「……」

「一人でいたら何も考えなくて眠れねえからそれが嫌で女と会ってんのに、意味ねえだろ?」

「まあ……そうだな」

「昨日もまた同じことになっても嫌だと思って。どうせ眠れねえならあんたと飲もうかなって思ったんだけど。留守だったけど鍵開いてたし──迷惑だった?」

「いや」

 迷惑どころか嬉しかったと伝えたいのに、言えなかった。

「新海?」

 黙り込んだ新海を窺うように見つめた柚木が僅かに首を傾げる。

「勝手に入って気に障ったんだったら」

「そんなことねえ」

「でも」

「本当だって。俺も今日は出かけるし、もう少ししたら渡邉とか出てくるぞ。飯の用意しとくからシャワー浴びてこい」

 柚木はほんの少しの間新海の顔をじっと見ていたが、結局何も言わず、頷いて踵を返した。新海も身体を起こして立ち上がった。放り出してあったデニムに脚を突っ込み、Tシャツをかぶる。シャワーは後で浴びればいい。

 冷蔵庫を覗きながら、なんだか当たり前の恋人か何かのようだと思ってまた嘆息した。


 


 柚木に朝飯を食わせて上の階へ送り出し、シャワーを浴びて支度を終えた新海は外に出た。

 新海は元々営業職のサラリーマンだ。

 新卒で入社した会社でそれなりに成績を上げ、ごく普通に勤務してきた。幸い高く評価してもらっていたし、人間関係で悩んだこともない。結婚を決めた女もいて、順調な人生だったと言えるだろう。

 シングルマザーの姉が子供の同級生の父親に懸想され、自宅で乱暴されかけていたのを助けるまでは、そんな調子で生きていた。

 もがく姉に圧し掛かったスーツの男。玄関ドアを開けた新海が目にしたのはばたつく姉のデニムの脚と、片方だけ脱げて転がったルームシューズのブルー、そして男のスーツの尻だった。

 サイドベンツの裾を鷲掴みにして男を姉から引き剥がし、尻もちをついたそいつを蹴り飛ばして姉を助け起こす。引き倒された男が何か言っていたがはっきり言って沸騰した頭には何も聞こえなかったし、例え聞こえていたとしても多分同じことをしただろう。

 思い切り人の顔を殴ったのは、成人してからは初めてだった。鼻骨がひしゃげる感覚がものすごく気持ち悪かった。

 そうして大人の都合で諸々を整理して、今は気楽な無職の身。いや、正確には伯父に雇われているから無職ではないのだが、いずれにしても一般企業の社員でいるのとはまるで違う気儘さだった。

 最近はすっかり思い出すこともなくなった会社の後輩が電話で新海に泣きついてきたのは、昨晩のことだ。引き継いだ顧客に対して粗相があって、向こうの担当部長が新海でないと話さないと臍を曲げてしまった、取り成してくれという話だ。

 急な退職だったので新海の顧客は数名の営業に機械的に割り振って引き継いだが、その後輩は若干天然なところはあるものの、仕事に問題はないはずだった。

 怪訝に思って詳しく話を聞いてみると、どうやら粗相というのは業務上のことではなくて、酒の席で先方が贔屓にしているプロ野球チームをくさしてしまったということらしい。

 原因は後輩に「好きな球団」情報をもたらした先方の担当者──そもそもスポーツに一切興味がない──の情報が間違っていたということのようだから、後輩に罪はないと言っていい。因みに、件の担当者にも悪意はないらしい。

 とにかく、原因が何であれ退職した身に何ができるわけでもない。社員でもない人間にそんなことを頼むなと叱った上で断ったが、電話の向こうの後輩が男泣きに泣き始めたから根負けして話を聞きに行った。それで柚木が来たときに事務所を空けていたのだ。

 後輩とは差し向いで話をしたが、結局、翌日数時間だけ客先に顔を出すことで話が付いた。

 久しぶりに腕を通すスーツは残念ながらあっという間に身体に馴染んだ。まあ、退職からそう経っていないのだから当然と言えば当然だが。

 客──いや、元客──と話し、頼りない後輩を許してもらい、先輩の面子を保てたと内心安堵した。別れ際にまた泣き出した後輩を引き剥がし、若干複雑な気分を抱えながら歩いていたら後ろから声を掛けられた。

「あれ、新海さん?」

「あ──」

 振り返ったら、退職前の客先の社員が立っていた。

「倉本さんじゃないですか。ご無沙汰してます」

「こちらこそ! もう新しいところに勤務されてるんですか?」

 通り過ぎた若い男が盗み見るように視線を投げていく。それも当然、彼女はかなりの美人なのだ。長身、小顔でモデルみたいに見える。ハイヒールのせいもあるが、百八十を超える身長の新海と並んでもそう差がない。沈みかけた太陽のあたたかい光が横から当たった笑顔は正に輝くようだった。

「いえ、今日はちょっと用事があってスーツ着たんですけど、まだ決めてないんですよ」

「急いで決めて後悔しても嫌ですもんね」

 頷きながら、もう彼女と一緒に仕事をすることもないのだろうなと思う。

 どんな仕事についたとしても新海自身は変わらない。だが、多分そうすることで柚木との関係は終わるだろうという確信があった。

 柚木は離れていくに違いない。まともな仕事をしている新海に迷惑をかけたくないとかいうまともな理由で。たまに届く宅配便がいい例だ。柚木の両親は電車で一時間もかからない場所に住んでいる。届いた荷物に嬉しそうな顔をするくせに、柚木が会いに行ったという話も聞かないし、一緒にいるときに電話がかかってきたこともない。

「まあ、急いでないっていうか営業はもういいかなって気もしてて、色々検討してます」

「そうですか。いい道が見つかるといいですね。応援してますね」

「ありがとうございます」

 少し世間話をして、彼女が歩き去るのをぼんやり眺めた。さようなら会社員人生、とか少しばかりの感傷に浸りながら。惜しくはないが、少しばかり寂しくはある。

 勿論会社員に戻れなくなったわけではない。雇ってくれる会社があるかどうかは求職活動をしてみないと分からないが、待遇や仕事内容にこだわらなければひとつやふたつはあるだろう。

 一度外したネクタイが苦しいとか、時間に縛られない生活がやめられないとかいうこともない。今すぐ戻れと言われたら何の抵抗もなく戻れるのにそうしないのは、戻る理由がないからだ。逆に言えば、戻らない理由ならあるからだった。

 この後は特別用事もなかった。戻る前に夕飯の買い出しでもして帰るかと考え、ろくに食わないくせにあれを作れこれが食いたいとうるさい男のことを思い出してうっかりにやつきそうになった。そのタイミングで背後から「新海?」と声がして、いよいよ幻聴まで聞こえ始めたかと本気で焦る。

「やっぱり」

 人混みというほどでもない雑踏の向こう側でポケットに手を突っ込んだまま首を伸ばしてこちらを見ていたのは柚木だった。

「柚木」

 名前を呼ぶと柚木は少しだけ目を細め、歩み寄る新海をじっと見た。まるで猫か何かのようだ。喜び勇んで駆け寄ってきたりせず、少し離れたところで澄ましている。

 さっきの彼女のほうが数段きれいなはずなのに、新海には柚木のほうが鮮やかな色を纏って見える。まるで決まった色しか判別できない虫か何かになったように。

「──どうした、こんなとこで」

「知り合いと昼飯食ってた」

「随分遅い昼だな」

「んー、でもまだ晩飯って時間じゃねえじゃん? それより何、あんたこそぴしっとして会社員みたいじゃねえの」

「元会社員だからな。知り合いは?」

「今日はあっちの奢りだから、今金払ってる。さっきの背の高いきれいなお姉ちゃんは?」

 柚木はにやりと笑って軽く新海の脛を蹴った。スーツを汚さないようにという配慮だろう、当たったのは靴底ではなくインサイドだった。

「いつから見てたんだよ。前の仕事の取引先」

「顔小さかったなあ。あんた手ぇでかいから掴めそうだよな、バスケットボールみてえに」

「いや掴まねえし」

「掴んでみたら?」

「俺を犯罪者にしたいのかお前は」

 柚木はおかしそうに笑ったが、どこかいつもと違って見えた。だが、心当たりは特になかった。どこからどう見ても知人以上ではない女性との立ち話にいちいち反応してもらえると思うほど自惚れてはいない。何か新海とは関係のない心配事でもあるのかもしれなかった。

「悪い、なんかレジ慣れてない子で」

 話を再開する前に向こうから男が歩いてきて柚木に声をかけ、新海に気づいて立ち止まった。新海と同じくらい背丈がある。どこかで見たことがある気がして会釈しながら内心首を捻っていると、柚木が男を顎で指し、新海に向かって「花屋」と言った。

「ああ……」

そう言われてようやく腑に落ちた。以前柚木達の現場に先着していた二人組の花屋の片方だ。あの時はいかにも花屋という感じの濃いグリーンのエプロンなんかをしていたが、今はごく普通の私服だったので思い出せなかった。

「知り合い?」

 花屋が柚木に向かって首を傾げる。

「うん。うちの会社が入ってるビルの管理人さん」

「ふうん。どうも、弘瀬です」

 男はにっこり笑ったが、目が笑っていない。

「初めまして、新海です」

 営業の習い性で名刺を取り出しかけ、実際にポケットに手を突っ込む寸前で我に返って手を引っ込めた。さすがに普段はそんなことはないのだが、さっきまで暫し営業モードに戻っていたせいだろう。柚木がこちらに目をくれ、弘瀬はちょっと首を傾げたものの、特段突っ込んでは来なかった。

「たまに新海に運転頼んでんの」

「ああ……そうなんだ。じゃあ知ってんの、あんたの仕事のこと」

「そう」

 あそこにいたのだから当然弘瀬もただの花屋ではないのだろう。そもそも花屋でない可能性もある。栗色に染めた短髪は常識的な色とスタイルで、特別崩れた雰囲気もない。柚木もそうだが、奴らは新海が想像する所謂裏社会の人間とは少し違った。

 人当たりがよくて、小ぎれいで、近寄りがたい雰囲気もない。以前一度だけ会ったアンヘルですら、直接話してみなければ柚木が言うほど危険人物には思えない。まあ、よく考えてみればあからさまに怪しい人物なら普通に暮らしていけないだろうから当然なのだが。

「そうか。それならいいけど」

 目つきが途端に柔らかくなった。弘瀬の目が笑っていなかったのは、そういう質だからではなくて警戒心の表れだったらしい。

「じゃあ、また連絡する」

「了解。お前どっち?」

「俺は駅に用事あるから」

 弘瀬が駅の方を指し、柚木が新海を見て首を傾げた。

「新海は?」

「俺も帰るからそっち」

「じゃあ俺も」

 くっ、と笑った弘瀬が「子供かよ」と柚木の腕を軽く叩き、柚木がうるせえなあと膨れて見せた。新海は小学生がじゃれつくみたいにしている二人を見て思わず笑い、先に立って歩き出した。

「こっちから行くか?」

「あ、そっち側から」

 弘瀬が角を曲がるように指示してきたのでその通りにする。

「駅裏に用があって、そっち側のが近いんすよ」

「ああ、ビルの一階の通用口抜けて郵便局のとこに出る道?」

「そうっす。詳しいですね」

「営業は歩き回るのが商売だったから──」

 新海は弘瀬の言っているビルに向かって進んだ。町中のごく狭い雑居ビルだが、一階に狭い郵便局があって、ビルの入居者以外にも大勢の人が常に出入りしていた。そこを通り抜けるとショートカットになる。

 ビルがある中道から出てきた海外の観光客らしい集団を数歩端に寄って避けた。

 飛び交う甲高い声。中国か、台湾か。新海には分からなかった。

 すれ違う彼らの抱える買い物袋が次々と身体に当たる。衣類量販店のビニール袋、シンプルなクラフト紙の袋。雑多なものが詰め込まれたそれはほとんどが軽く柔らかかったが、中には家電製品でも入っているのか、硬いものもあった。

 柚木に話しかけようと振り返る。弘瀬が集団の先頭の女性に乱暴に押し退けられ、アスファルトに開いた穴に躓いたから、咄嗟に手を伸ばし身体を寄せて弘瀬を支えた。

 袋が当たる。

 硬いものが。

 衝撃が。

 音はしなかった。いや、したのかもしれないが、外国語のかしましい話し声や携帯の着信音に紛れて新海には聞き取れなかった。

 唐突に右脚からがくりと力が抜けて、新海はバランスを崩してくずおれた。

「新海!?」

 柚木が押し殺した声を上げ、弘瀬の方に倒れかけた身体を引っ張った。スーツのラペルを掴む力強い指。弘瀬が無言で走っていく足音が聞こえる。観光客の声と、柚木の息遣いと、それから、それから──。

 痛い。

 焼けつくような痛みというのは本当に存在するのだとどうでもいいことにものすごく感心した。額からわっと汗が噴き出したと思ったが、慌てて額に手をやるとじっとりと湿っているだけだった。

 柚木にぐいぐい押され、よろけながら移動する。移動している自覚はなかったが、気が付いたらビルとビルの間の通りに押し込められ、酒のケースらしき筐体の上に座らされて柚木の顔を見上げていた。

「ゆず……」

「いいから黙れ、ちょっと見せてみろ」

 しゃがんだ柚木の頭のてっぺんに目を落とした。痛みのせいで頭がぼんやりする。

「何が、何でこれ」

「いいから」

 ぱっと顔を上げた柚木を見下ろしたら突然意識がはっきりした。そんなことはしなくていいと言ったのに、新海の脚の間に屈み込んだ昨晩の柚木。目を潤ませながら新海のものを頬張った顔を思い出したからだ。

 何を考えてるんだと己に突っ込む間もなく痛みが鮮明になって頭を直撃し、新海は思わず「痛え!」と声を上げた。

「何だ一体!? 痛え──!」

「あんた、撃たれたんだよ」

「打たれ……注射かなんかか……?」

「歩いてて注射打たれるかよ。銃だよ銃、鉄砲」

「はあ!?」

 声が情けなく裏返ったのは許されるだろう。新海の日常でウタレタ、という単語に頭の中であてる字は打撃の「打」で「撃」ではない。

 慌てて視線を下に向けなおすと、確かに左の腿に黒っぽい染みがあった。スーツの生地が焦げたのか裂けたのかしてほつれたように糸が出ている。痛すぎてどこが痛いのか分からなかったが、どうやらそこが銃創らしい。

「マジか──」

「大丈夫、掠っただけだ。ちょっと抉れて肉にちっせえ穴開いただけだからちょい我慢してろ」

「ちっせえ穴!?」

 思わずでかい声を上げたら、柚木は眉を上げて元気じゃねえかとちょっと笑った。

「小せえ小せえ、弾は入ってねえ」

「大口径なら足がもげ……」

「いやいや、いくら何でももげはしねえわ。散弾銃フルオートとかロケット弾かなんかでねえと」

 呑気に言って、柚木は立ち上がって再度「我慢しててな」と軽く言った。

 柚木の世界では大したことはないのかもしれないが、本物の銃を見たこともない新海にしてみれば撃たれただけで大事件だ。多分、痛いの痛くないのという話ではないのだと思う。恐らく未知の怪我に対する恐怖感が冷静さを奪っていた。

「てか我慢てな──!」

 思わず声を荒げた新海に、柚木は眉間に皺を寄せて舌打ちした。

「うるせえな、ガタガタ言ってっとガムテープ買ってきて傷に貼っちまうぞ」

「つったって……」

「泣き言言うな、男だろ」

「このマッチョ野郎──それ今の時代性差別だぞお前……っ」

「マッチョ野郎だってそうじゃねえの? 知らねえけど。いいから口閉じてろって」

「一体俺が何したって言うんだ」

「いや、あんたじゃねえよ。弘瀬だな」

 柚木は新海のスーツを探って勝手にハンカチを取り出し、畳んであるそれを傷の上に押し当てた。気休めにしか見えないが、違うのだろうか。

「弘瀬がよろけて、あんた、あいつを支えたろ? そのせいだ」

 そう言いながらも少しだけ表情を和らげた柚木は、新海の冷や汗が滲む額に手を当てて「すぐ戻るから」と呟き歩いて行った。街灯のある方へ出ていく柚木はただの黒い人影だった。シルエットすら曖昧なのは、新海の目が霞んでいるからだろうか。

 プロフェッショナルが大丈夫だと言っているのだから大丈夫なのだろう。多分。

 そう自分に言い聞かせて目を閉じる。滅茶苦茶痛くて吐き気がするが、確かに死にそうだという感じはない。

 花屋のとばっちりなんて笑ってしまう。これが例えば柚木の代わりに撃たれたなら不満はなかった。痛くても吐きそうでも、柚木にこんな思いをさせるくらいなら、死にそうでも歯を食いしばって笑ってやる。

 そこまで考えて顎を上げ、路地の上に広がる細長い夜空に目を向けた。切り取られた幅のない長方形。夜空と言っても黒くはないし暗くもない。ネオンが照らすそれは僅かに赤みがかっていて、白っぽい光が靄のようにその上を覆っていた。星は見えず、昼でも夜でもない中途半端な何かがそこにある。

 柚木が何より大事だった。どんな痛みにも耐えて見せると何の躊躇いもなく思うほど。いつからこんなふうになったのだろう。

 眠れないから女を抱いたなんて聞きたくなかった。眠れないなら何日だって付き合うから、俺のところ以外に行ったりするなと言いたかった。

 柚木の身の内にあるというがらんどう。できる限り埋めてやりたいと思っていた。それができているのかどうかは柚木本人ではないから分からない。だが、柚木が差し出してくれたものは間違いなく新海の中にあった小さな亀裂を埋めていた。その胸に止まる猛禽のざわめく羽根のように微かな動きで、新海自身が気づかぬうちに少しずつ。

 与えたい、隙間を埋めたいなんて傲慢だったのかもしれない。こんなときに、情けなくも痛みに涙目になりながら考えることでもないけれど。

 ショックか痛みでうとうとしていたのか、気が付いたら腕を掴んで立ち上がらされていた。掴んでいるのは柚木と弘瀬だ。

「新海、もうちょっと待っててな」

 柚木が名前を呼んでくれたから安心して力を抜き、新海は自分より背の低い男二人に引っ張られるまま、操り人形のように歩を進めた。

 


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