9
今日の現場はやたらと暑く、すべて終わる頃には、柚木は汗だくになっていた。
天気がよくて外気温が高かったせいもあるが、窓がでかかったせいもある。
リビングルームの南西面が上から下までのガラス張りになっていて、射し込む日差しがすごいのだ。居住する分にはいいことばかりかもしれないが、作業着に胴長、顔にはバラクラバで働く人間にはちっともありがたくない。
真っ白なカーペットの血の染みを落とし、床に染み込んだものもきれいに擦り取る。最終的にブラックライトとルミノールで海外ドラマの鑑識ばりに念入りに確認した後ようやくガレージに下りた。
閑静な住宅街で家はやたらと豪華だが、隣家との間にそれほど空間はない。だが、一階がガレージになっているので、少なくとも通行人に死体袋を目撃される心配はなかった。
荷物を積み込み、座席に落ち着く。暑いから、普段は被ったままのバラクラバを脱いだらルームミラーで偶然新海と目が合った。
新海は一瞬普通にこちらに目を向けて、その後、なぜか驚いたような表情を浮かべてまじまじと柚木を見た。
髪がぐしゃぐしゃだとか、汗まみれだとか、そういうことでは多分ない。単に洗ってもらうだけだった頃から、服を着ていないところもびしょ濡れのところも全部見られているのだから。
柚木はルームミラーから視線を外し、左肩のあたりで顔を拭った。喪章の端っこが皮膚に引っかかる。もう一度目を上げると、新海はすでにこちらを見ていなかった。
「よう先生」
「なんだ、汗まみれだなお前ら」
「……何してんの?」
「ラジオ体操」
「いや絶対違うと思う」
上下ジャージで坊主頭の宇津見は一見野球部の中学生に見える。ひょろひょろと背は高いが童顔なせいもあり、どこかしら少年っぽさがあるのだ。とはいえ、六十を幾つか越えた男を若者と見間違うなんてことはさすがにないが、遠目だったら一瞬勘違いするかもしれない。
知人から紹介されて初めて宇津見を見た時は驚いた。柚木のイメージするもぐりの医者とか元医者といえば、大体世を拗ねた目つきに銜え煙草、不精髭、よれた白衣──という感じだったからだ。
宇津見は大抵ジャージだが、着た切り雀とは程遠い。様々な色のこじゃれたジャージ、というかトレーニングウェアに身を包み、じっとしていることがない。
「今日はそっちに先客置いてあるから、そっちの部屋に頼む」
石津たちが宇津見の指示に従って回収したものを運び込むのを並んで眺めていたら、宇津見が相変わらずおかしな動きをしながら訊ねてきた。
「おい、
「何。つーか名前呼びやめてよね」
「親しさが出ていい」
「親しくねえだろ」
「最近は眠れてるのか?」
「んー、そうだなあ、まあそこそこ。体調は崩してねえよ」
「おお、そりゃあ重畳」
「つーか先生毎回それ訊くけど、あんた内科医でも精神科医でもねえよな」
「医者として訊いてねえもん」
左腕の付け根を右手で抱えるようにしてストレッチしていた宇津見は、伸ばした左手の先で柚木の腕の喪章をつついた。
柚木が一歩右に避けると、宇津見も一歩寄ってくる。
「先生、寄らないでください! セクハラ!」
裏声を出した柚木に嫌そうな目を向けつつももう一歩寄って、宇津見はもう一度、喪章の端を引っ張った。
「んなもんもう取っちまえ。そんでぐっすり寝ろ、青少年」
「もう青少年って年じゃねえよ」
「俺からしてみりゃお前らなんかどいつも青少年よ」
宇津見はひゃっひゃと笑って最後に大きく伸びをした。
「まあ、お節介は止しとくか。前よりちょっとは調子よさそうだし。それよりシャワー浴びて来いよ、汗くせえぞ」
ひらひら手を振る宇津見に顔をしかめて見せ、柚木はシャワー室へ足を向けた。
新海から着信があったのは、その日の深夜だった。
「悪ぃな、こんな時間に──寝てたか?」
柚木の寝起きはいつでも完全覚醒なので、声だけでは判断できなかったらしい。
普段なら仕事の後には大体新海のところに寄る。だが、今日はなんとなく新海の顔を見たくなかった。
いや、正確に言えば違う。新海に、顔を見られたくなかった、だ。
そういうわけで、今日は用事があるから行けないとメッセージを送って済ませ、先生のところから直帰したのだ。
今までだって必ず寄っていたわけではない。だが、車の中でのことがあるから、多分新海は察しているのだろうと思っていた。
案の定わかったという短いメッセージが届いた後はなんの連絡もなかったから、この時間に電話が来たのは驚きだった。
申し訳なさそうな新海の声に、「寝てた」と言ってやろうかと思ったが、おかしなところで常識的な元リーマンが気に病んだら困るからやめておいた。
「いや、起きてた」
「……眠れねえのか?」
新海の声が僅かに低くなり、柚木は掌で顔を擦って、腹の中だけで溜息を吐いた。
何だか知らないが、新海はやたらと鋭い。
相手が自分だからなんて自惚れる気はない。それでも、婚約していた女にもこうやって声をかけていたんだろうななんて思ってしまう自分が嫌だった。
「何か用なんじゃねえの?」
質問で返したら新海は少し黙ったが、結局それ以上追及はしてこなかった。
「ああ……あのな、悪いんだけど、お前んとこの事務所、一晩貸してくれねえか」
「え? 今から?」
「ああ。明日の朝まで」
「誰もいねえからいいけど、鍵ってあんだっけ」
「一応全室のマスターキーはある。使うことねえけどな」
「あんたが入るのは全然構わねえけど──」
普通の管理人ならともかく、新海には運転手まで頼んでいるし、堀田が怪我をしたときには手伝いまでさせている。今更見られて困るものなんてないし、それ以前にあそこには誰かに見られたらまずいものなんて置いていない。
「──何に使うわけ?」
柚木の質問に、新海は溜息を吐きながら答えた。
「寝る」
「え?」
「だから、眠るんだよ。夜中に悪かったな。じゃあ、借りるから」
それだけ言って切れた電話を耳に当てたまま、柚木は膝を抱えて座っていた一人掛けソファの上で首を捻った。
「お疲れー」
「──いや、お疲れじゃねえだろ、何しに来たんだ、柚木」
管理人室から持ってきたと思しき枕と毛布とともにソファに転がっていた新海は、突然点いた照明に目を瞬きながら起き上がってこちらを見た。
「何って、一応確認? 責任者として」
新海の足元にどさりと腰を下ろす。新海は柚木の尻の下から足を引き抜き、上体を起こした。
「お前の事務所でよからぬことを企んだりしねえぞ」
「いや、別に心配してねえけど。見られて困るもんなんかねえし。つーか、何で自分とこで寝ないわけ? 誰かいんの?」
できるだけさりげなく言ったつもりが、新海はちょっと黙って、そうしてにやりと唇の端を歪めた。
「──誰もいねえよ」
「別に」
確かに柚木は元々無表情な質ではないが、だからと言ってポーカーフェイスはできないということはない。寧ろ得意なほうなのだ。
それなのに、何故新海にはいつも見透かされるのかと思ったら腹が立って、新海の立てた膝に思い切り裏拳を当ててやった。新海は暫く膝を押さえて無言でぶるぶるしていたが、ようやく痛みが治まったらしく顔を上げて柚木を睨んだ。
「くそ──痛えなまったく……お前、今日は来なくて正解だ」
「……何で?」
「給湯器からなんかよく分かんねえんだけど水が出てな」
「は?」
新海は膝をさすりながら溜息を吐いた。
「すげえ勢いで噴出したんだよ、水が、部屋ん中に。割とすぐ止まったんだけど床が水浸し。まあ下は喫茶店だから漏水しても実質被害はねえけど、一応と思って伯父に連絡したらすぐ業者寄越すっつってな。給湯器の故障なのか何なのかよくわかんねえけど、それで作業すっからって業者に追い出された」
「はあ? つーかこんな時間に業者来てんの? おかしくねえ?」
言われてみればビルの前にワンボックスが停めてあったが、単なる駐車車両と思って気に留めていなかった。
「営業してねえよな、普通」
「普通じゃねえ知り合いがたくさんいるみてえ。なんか最近俺の周りはそんなんばっかだな」
「俺とか?」
「そう、お前とか、お前んとこの奴らとか」
「そりゃあ悪かったな」
「悪くねえよ。結構楽しいし」
新海が手を伸ばし柚木の髪を撫でるから頭を振って逃れる。
「やめろよ。じゃあ俺もここで寝てくかな」
自然とそう言っていた。新海は不思議そうに柚木を見上げる。
「ああ? 何でだよ」
「何となく」
どうせ部屋に戻ったって眠れない。
口には出さなかったが、通じたらしい。柚木が向かいのソファに転がろうと腰を上げたら、新海に手を掴まれた。
「なあ柚木」
「ん?」
「部屋に戻らないなら一緒に寝ようぜ」
「……そこ狭いからやだ」
「床は広いじゃねえか」
新海は立ち上がると事務所の中を見回した。
応接用と見せかけてメンバーの寛ぎの場所でしかないソファセットと、デスクが四つ。壁に並んだ鍵付きのキャビネット。後付けのパーティション式の壁とドアで区切った小部屋は、更衣室と制服の保管場所だ。ユズキクリーンサービスも一見普通の事務所の体は保っている。
とはいえ、キャビネットに保管されているファイルや資料はたまに受ける一般の仕事──例えば家族や知人に依頼された普通の清掃──についての書類で、メインの業務については当然ながら資料なんか置いていないが。
「床って」
「いいから来いよ」
枕を押し付けられたから受け取ると、新海は毛布を抱え、もう片方の手で柚木の腕を掴んで事務所の中を横切った。
商売柄、事務所の中は塵ひとつない。それは入った時に分かっていたらしく、新海はキャビネットの前にある空間に躊躇いなく毛布を拡げて、強引に柚木を引っ張った。
仕方ないから向かいに腰を下ろして胡坐を掻く。新海は苦笑して、柚木の腕から枕を奪い返した。
「訊かれたくねえことは訊かねえって、言わなかったか?」
「……別にそういう……」
「眠ろうぜ」
新海は横になりかけ、柚木を見て微かに眉を寄せた。
「柚木?」
「あんた寝て。俺ここにいるから。多分寝付けねえし」
仕事の日は特にそうだ。
身体の中の空洞に谺する声か、音か。耳を塞いでも聞こえるから、女を抱いて誤魔化していた。滅多に部屋に戻らないのは、居心地が悪いわけでも一人が嫌なわけでもなかった。眠れないからだ。そんなとき、彼女たちから慰めをもらっていた。眠れなくても、誰かが傍にいてくれると思ったら癒された。
「だから」
新海が肘をついて起き上がり、柚木の肩に手をかけた。
ゆっくりと押されて、毛布の上に倒される。
「新海、俺は──」
ウェストがドローストリングのワークパンツはあっさり引き下ろされて、新海の長い指が柚木のものを掴み出した。
「ちょ」
ちょっと待て、と言い終える前に新海の口に含まれる。脳天まで甘い疼きが駆け上がって、柚木は思わず新海の髪を掴んで握り締めた。
「……っ! やめ」
「さすがにここで入れたりしねえよ。シャワーも使えねえし、汚さねえから心配すんな」
新海の声が下腹部に直に響いて、柚木は身体を強張らせた。新海の口内の粘膜が柚木に纏わりつく。男も女も変わらない身体の内側。濡れていてあたたかくて、安心する。
「あ──」
舐め回され扱かれて、快感以外何も追えなくなった。新海の髪を掴んでいたはずの手をいつのまにか取られ、指を絡められていたことにも気づかなかった。
「抜いたら眠くなるから」
新海の声が遠くに聞こえる。
達した瞬間強く吸われ、堪え切れずに声を上げたことも遠かった。突然どこかから現れた睡魔が目の前に黒い幕を下ろしたように錯覚し、新海の手を握り返したことは覚えていた。
ブラインドの隙間から射し込む陽射しに目が覚めた。
目が覚めるとなると一瞬で覚醒するのは、マリーン時代に染みついた癖だ。もう離れて何年も経つのに、何故か抜けない。
布団の中で微睡むなんてずっとしたことがない。まだ眠っている奴の規則正しい呼吸を聞きながら、そういうのって気持ちよかったはずだよな、と思い出す。柚木は上体を起こし、肘をついて身体を支え、隣に転がる新海の寝顔を覗き込んだ。
新海の口でいかされた後のことはぼんやりしている。ほとんど夢うつつで、着衣を整えてもらい、新海に抱えられて眠りに落ちた気がする。そうして一度も目を覚まさなかった。
セスのナイフに右手の甲にある腱をほとんど断ち切られかけたあの日。血塗れの右手を見た瞬間に、自分が空っぽになったのを感じた。ずっと求めてきたもの、目指してきたものを失うのだと理解したからだ。
あれからもう何年も経って、何で今更自分の中の隙間が埋まると思ったのかは自分でも分からない。柚木のことはほとんど何も知らない、しかも男がそうしてくれるかもと期待するなんて。
「……確かに見てくれはいいけどな」
「──俺のことか?」
呟いたら返事があって、いつの間にか新海が目を開けていた。
新海は寝起きのどこかぼんやりした顔で微かに笑い、覗き込む柚木の頰に手を伸ばした。
「そういうとこだけ聞こえてるなんて都合のいい耳だな、おい」
「他にも何か言ってたのか」
「言ってねえ」
後頭部を掌で包まれたから、素直に抱き寄せられて新海の胸のあたりに顔を寄せた。薄手のスウェットを通して寝起きの人間の温かさが伝わってくる。
「新海──昨日、俺」
「無理に色々聞き出すつもりはねえからいいって」
「分かってるけど──」
新海の手が髪を撫でたが、柚木は、今度は避けずにされるままになっていた。
結局、新海は与えてくれるだけだ。何かを入れて欲しい、空洞を埋めて欲しいと要求するばかりで、自分はなにひとつ新海に与えてはいないのに。眠れない夜に抱いてもらって何も返せず、便利に新海を使っているだけではないと胸を張って言えるのか。
「なあ」
「柚木、もういいよ」
深く、お互いの中に沈んでいくようなキスをされ、柚木は新海のスウェットにしがみついた。
心地よさに、それこそ微睡んでいる気分になる。濡れた舌に口の中を撫で回され、何故かまた眠気が襲ってきた。
「ん──」
掠れた声が漏れた瞬間、ドアの外にバタバタと足音がした。
「おっはよーござーいま、あっ!? あーっ!」
「おはよう」
のっそりと身体を起こした新海は動じるふうもなくのんびり返す。勿論柚木も大急ぎで自分の位置を修正済みだ。ものすごい勢いでドアを開けた渡邉は、柚木と新海を交互に見て口を尖らせた。
「なんすか、キャンプ!? なんか二人だけでずるいっすよ代表ー! みんなでやりましょうよみんなでー!」
「どこがキャンプだよ」
苦笑した新海は身体を起こし、伸びをする。
「あー身体痛え……やっぱ敷物が毛布だけじゃきついわ」
「床、硬えからな」
「キャンプじゃないなら何でうちの事務所で寝てんですか?」
渡邉はコンビニ袋を持ってデスクについた。と言っても、渡邉にとってそこはダイニングテーブルくらいの存在でしかない。
「それに、寝るならソファで寝ればいいのに」
コンビニ袋からおにぎりを取り出した渡邉が首を傾げる。
「いや──新海ははみ出るからな、でかくて」
「あ、そうっすねえ」
渡邉はあっさり納得したが、新海がちょっと笑いを堪えるような顔をしたので、渡邉の目を盗んで睨んでおいた。柚木に睨まれて微かに笑った新海はくあ、と欠伸をして立ち上がった。
「俺も食うもん買ってくるわ。お前も何かいるか?」
「あー、じゃあ適当になんか。何でもいいや」
「ん」
まだ眠たいらしく普段よりのろのろ出て行く新海の後頭部の髪が一束跳ねているのを発見し、柚木は思わず笑いを漏らした。
「新海さん寝癖ついてましたね」
渡邉も気が付いていたらしく、笑って握り飯を頬張りながら続けた。
「代表、俺、新海さん好きですよ。俺ら普通じゃねえ商売してんのに、なんか普通に付き合ってくれるし」
「ああ……なんか、どっか感覚が鈍いんだろうな」
「そうかもっすねえ。まあでも、どこがどうでもいいっすよ」
渡邉はペットボトルのキャップを捻りながら柚木の方へ顔を向けた。
「代表も好きっすよね? 新海さん」
「……ああ、」
柚木は煙草を銜え、煙を吐き出しながら、囁くように口にした。
「すげえ好き」
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