8-2
車を戻した新海が管理人室の中で無駄にうろうろ歩き回りながら待つこと一時間ほどで、ようやく岡本が戻ってきた。
柚木のことを心配していないわけではないのは顔色を見れば分かるし、洗いざらしの髪も、岡本が急いで戻ってきたことを物語る。それでもつい焦って岡本を問い詰めようとする新海の気持ちは、岡本の後ろから入ってきた志麻の飄々とした顔を見たら随分と落ち着いた。いつもと変わらないものを見ると、人は安心するらしい。
「そこ座ったら」
二人とも突っ立っているのでソファを指したが、志麻は首を振って、新海のデスクの前の事務椅子に腰を下ろした。遠慮したつもりなのだろう。岡本は落ち着かないのか立ったままデスクに尻を預けている。新海も歩き回りたい気分なのは変わらなかったが、無理矢理ソファに腰を下ろした。
「──で?」
「今、探してもらってますから」
さっき倉庫の前に来ていた男のことだろう。彼自身が探しているのか仲介なのかは知らないが、真っ先に連絡をしたのだから、そうではないかと思っていた。
「そうか」
「はい。俺らが自力で探すったって無理だし……見つけて、上手くいけば救出まで手回ししてくれるって」
それを聞いたら少しだけ安心したが、そもそもなぜ柚木が拉致されるのかがよく分からない。新海は煙草を銜え、落ち着かなく動こうとする脚を無理に組んだ。
「つーか、何であいつが誘拐されるんだ? 営利誘拐ってわけじゃねえよな?」
岡本は頷き、こちらは抑えきれなかったらしく、もぞもぞと足の先を動かした。
「そうっすね……代表んち、普通の会社員ですし、ご両親も。カイシャはまあそれなりに儲かってますけど、でも──誰がやったかは分かってんです」
「そうなのか」
「この間、堀田が怪我したことありましたよね」
少し前のことだ。運転していった現場で、なぜか堀田が怪我をして新海が作業を手伝ったことがあった。掃除をしていて肋骨を折るというのは一体どういうことなのだと思ってはいたが、詮索はしなかった。
「あれ、そいつのせいです」
「……でもあの場には死体しか──」
「現場に入ったら、まず代表が中の状態を確認するって説明しましたよね」
岡本は気が抜けたのか、志麻を無理矢理押しやって狭い椅子の上に半ケツで腰を下ろした。志麻は嫌な顔もせず、半分座面から落っこちかけた置物みたいに岡本の隣に座っている。
「そんであんときは堀田が代表の後ろからついてって──要は、死体になり切ってない奴がいたんです」
「それって──仕損じたってことか? その、何だ、殺し屋みたいなのが?」
「わざとっす! あー、もう!!」
岡本は溜息を吐いて両手で激しく頭を掻きむしった。大きな動きのせいで落っこちかけた岡本を、志麻が物も言わずに抱えて膝の上に尻を持ち上げる。まるでお父さんの膝に抱えられた幼稚園児みたいな状態だが、岡本は意に介さず続けた。
「代表が来るってわかってて、わざと殺さなかったんっすよ。後で仲間がとどめを刺しに来るとでも言ったんじゃないっすかね。だからそいつ、代表が入ってくなり死に物狂いで──ってまあ瀕死だったのは間違いないんっすけど、飛びかかってきて。堀田は巻き添えっていうか……まあ、言っちゃえば堀田が先に組み付いちゃったのが邪魔だったせいで代表が手こずっちゃったっていうか」
あの時柚木が不機嫌だったわけも、右手を庇っていたわけもようやく分かった、と思った。格闘して痛めたのだろう。そこでふと疑問がわく。新海が入っていったとき、クリーンサービスの面子以外、生きている奴はいなかった。
「その、瀕死で向かって来た奴は逃げたのか?」
「いえ? 代表が首折りましたよ」
岡本は何でもない顔でさらっと言って、ようやく気が付いたらしく、腹に回った志麻の手を払いのけた。
「俺に嫌がらせすんのが好きな困った野郎なんだとか──随分前に同じようなことがあったとき、代表が言ってました。だから、仲介の女にもそいつの仕事は回さないように言ってあったんっすよ。なのに今回は名前変えて依頼してきて、仲介はそれ気づかないで回して来たとかで」
それで、あのとき柚木が現場で女に抗議していた理由も明らかになった。
「拠点はアメリカにあるらしくて、しょっちゅう現れるわけじゃないっすね。今回も何年かぶりで。拉致されたからってさすがに生死にかかわる危険はないと思うんすけど──」
「けど?」
「そいつは代表のケツを狙ってるらしいんで、貞操の危機っすね」
「志麻!」
岡本が血相を変えたが、志麻は普段どおりのツラだった。
「志麻、お前、代表に殺されても知らねえぞ」
志麻は肩を竦め、見上げてくる岡本の顔を見返した。
「何でそれで殺されるか分かんねえけど、苦しまずに死ねそう」
確かに柚木を怒らせたら結構すごそうだ。元海兵隊と知ったらなおさらで、弾薬帯を袈裟懸けに両手にアサルトライフルを抱えた柚木が目に浮かんだが──多分装備は完全に間違っている──今はそんな想像で楽しんでいる場合ではないと我に返る。
「一応訊くけど……今更貞操とか言うってことは、相手は男だよな?」
岡本は座面からずり落ち結局また志麻に抱えられて溜息を吐きながら頷いた。
「女だったら、あの人元々見境ないんだしやっちゃえばいいっていうか、そういう意味ではあんまり問題ないんっすけど」
志麻に抱えられたままの岡本は、疲れた顔を新海に向けて寄越した。
「もうやられちゃってたらすんません新海さん」
なんで俺に謝るんだとかなんとか言う暇もなく、志麻が突っ込む。
「何遍も未遂で終わってるらしいから、今度こそ完遂すっかもな」
岡本は後ろ足で志麻を蹴っ飛ばした。
「だから何でそういうこと言うんだよ!」
「だから何でダメなんだ」
志麻の疑問はもっともで、岡本がぐっと詰まる。呑気にそんなことを考えている場合ではないが、岡本はやっぱり何かしら勘づいているらしい。
「何でもダメなの。つーかそういうことですから、なんか連絡あったらすぐ連携しますんで」
「……俺は手をこまねいてるしかねえんだな」
岡本は「俺もです」と苦笑して立ち上がり、志麻と一緒に出て行った。
水を要求したらペットボトルが口に押し付けられたので、柚木は起き上がり、口を漱いで床に吐き出してやった。ものすごく嫌な顔をされたが、そのくらい想定していない方が悪い。
ようやく嫌な味がしなくなって満足し、部屋を見回した。寝転がっていたらよく分からなかったが、内装からすると、どうやらホテルではないようだ。
窓にかかったカーテンが閉じられているからはっきりとは分からないものの、何となく、戸建てではなくてマンションのような感じがした。
薬とスタンガンまで使って柚木を拉致したわりに、奴は呑気にコーヒーを啜っていた。見られていることに気づくと、カップを持ったまま近づいてきて、にやにや笑う。
「この間は大変だったってなあ? 一人怪我したとか」
「どっかのクソの仕事がいい加減なせいでな」
「わざとだよ、わざと」
「どうだか」
鼻で笑ってやると、あからさまにむっとした顔をする。何年かぶりに顔を見るが、あまり成長はないらしい。
「失敗も、人のせいにするのも得意だもんな」
辛辣な口調で言ってやったら、頬にさっと赤みがさした。そうやってすぐ顔に出るところも変わっていない。あれから結構経つというのに。
普段は思い出さない──というか、思い出さないようにしている過去がふと立ち現れて、柚木は思わず舌打ちした。
今でも鮮明に思い出せる。手の甲に食い込んだ金属の感触、悪寒。誰かの悲鳴と、床に落ちたボトルが割れる音、零れたビールの匂い。
当時マリーンに籍を置いていた柚木の部隊の仲間にデイヴという奴がいた。その日柚木は勤務を終えて、デイヴと、その他数名とで馴染みのバーで飲んでいた。客は大半がマリーンの関係者で、誰もが警戒心なくほろ酔いだった。
当時まだ殺し屋ではなかったが十分やばい奴だったセスは、デイヴの弟絡みで、デイヴと揉めていたらしい。柚木も宿舎にデイヴを訪ねてきたセスを何度か見かけたことがあったが、デイヴが奴を嫌っていたから、柚木自身はほとんど話をしたこともなかった。
どうしてセスがそこまで極端な行動に出たのか、詳しいことはデイヴが口にしたがらなかったから知らない。
その夜、酔っ払いで混みあうバーにカチ込んできたセスが本気でデイヴを殺そうとしてナイフを持ち出し、柚木がそれを止めた。それだけが柚木の知っている事実だ。
大事な右手を差し出すほどの友情がデイヴとの間にあったわけではない。混乱状態で人が押し合いへし合いし、柚木は酔っていて、デイヴはもっと酔っていて、小さな運や不運が重なっただけの話だった。
デイヴは喉を裂かれずに済んで、柚木は将来を失った。
手が使えなくなることはなかったし、マリーンにだって望めば今もいられただろう。だが、柚木は当時、コースの修了を目前にしていた。目指していたのはスカウトスナイパーで、突然動かなくなり微妙なトリガーの絞りもままならなくなる右手では、例え予定通り配属されたところで使い物になんかなりはしなかった。
教官から目をかけられ、兄弟子と言ってもいい人からも認められ、内々では配属先すら決まっていた。鳥の刺青は、部隊の仲間の印だ。少し早いが、いいだろうと──若かったから、明日は必ず今日の延長だと思っていた。希望の嵩が今より目減りするなんて想像もしたことがなかったのだ。
手の甲を深く切り裂いた刃物と、脂肪の層と肉。真っ赤な血の間から露出した、半分千切れかけた腱。あの時、柚木の中から何かがごっそり消えてなくなった。
何もかもどうでもよくなって、契約期間が終わったときに除隊した。結局残ったのは、食わず眠らず何時間も、何十時間も置物のようにただひたすらそこにいられる技能だけ。
「……あれは仕事じゃないし、だから別に失敗じゃない」
歯噛みしながら言って、セスは忌々し気にコーヒーを啜った。
「そうかよ。だったら何で俺にこだわってんの。ほとんど話もしたことなかったってのに、あの後急に俺に付きまとうようになったよな」
「そりゃあんたとやりたいと思ってるからな」
「お前がゲイなのは知ってる。デイヴの弟と何があったのかは知らねえけど」
セスはコーヒーカップに口を点けたまま柚木を睨みつけたが、何も言わなかった。
考えてみれば、こいつとこんな長話をしたのは初めてかも知れない。今まではちょっかいをかけられて、それを振り払うだけで終わっていた。
「けど、ほんとは俺に興味がねえのも知ってるぞ。そうやっていつまでもこだわって、自分と折り合いつけるために俺を使うの、いい加減やめてくんねえか」
「お前が邪魔しなけりゃ」
「おい」
柚木が低い声を出したら、セスは一瞬気圧されたように黙った。もっとも、クリーンサービスの奴らとは違って、柚木が怖いなんてこいつは微塵も思っていない。もしあるとしたら、それは単なる後ろめたさに過ぎない──だからこそ、柚木は時に不自由になる手を更に不自由な状態にされて転がっている。
「俺が邪魔したからお前はあの店から生きて出ていけたんだ、忘れんな」
「──ありがたがれって言うのか」
「そりゃそうだろ、馬鹿みてえなこと訊くな、馬鹿だから仕方ねえけどな。お前がどう思ってんのかは分かってるけど、感謝されて然るべきだと思うぜ。お前のどうしようもねえろくでもねえクソ人生でもな、あの場でいきり立ったマリーンの集団に撲殺されたほうがよかったなんてことはねえだろ、ああ?」
「俺だって……お前は俺とあの野郎の間に割り込んで来たんだ」
セスはコーヒーカップをテーブルの上に置き、ほんのついで、というふうに右手を伸ばして、そこに置いてあったナイフを手に取った。国外から持ち込めたとは思えない大振りのそれは、ほとんど鉈の域だった。
まろみのある光がステンレス鋼と思しき刃を白く光らせ、今この瞬間の恐怖ではなく、あの時感じた絶望が柚木を揺さぶり知らず呼吸を浅くした。
「巻き込む気なんか──」
「……だったらあんなとこで襲うなんて話がおかしいよな。誰も彼も見境なく巻き込んで不幸にしたかっただけじゃねえか。ガキの癇癪と何が違うよ」
セスの白人らしくピンクがかった肌が青ざめて、半眼になった。怒らせたなあと呑気に考え、今回ばかりは本当にやられちまったりして、と他人事のように考える。
別に女じゃないからそれが一大事だってこともないが、したくはないし、もっと悪いことが起こる可能性だってある。ナイフを手に立つセスの能面のようになった顔を見上げ、ああ、これは後者だなと考えた。
「──ハル、お前を殺したって俺の気は済まねえけど、一瞬気は晴れるだろうな」
「ああ、そうかい。じゃあ好きにすりゃいいだろ」
「片づけはお前んとこに頼むか。クロエに仲介頼んでな」
「……あの女もお前も面倒くせえから嫌い」
セスはおかしそうに笑って、ナイフを左手──利き手──に持ち替えた。
「お前は知るわけねえけど、今日はマイクが死んだ日だ」
「知るかよ。ちょっと知ってる奴だけでもマイケルなんて何人もいるんだから」
突っ放しながらも、本当は知っていた。デイヴの弟のマイケル。柚木が療養中に自殺したらしいと噂になったが、勿論デイヴに訊ねたりはしなかった。
「まあ、そうは言っても……殺したって仕方ねえな。金ももらえねえし」
セスはどこか壊れた目を柚木に向け、ぞっとするような笑みを浮かべた。
「ところで、左手で引き金は引けるのか?」
「ただいまぁ」
「代表おぉ──!!」
渡邉が子供みたいな泣きっ面で柚木に飛びつき、すかさず蹴飛ばされて床に転がった。
「汚ねえ! 洟がつくじゃねえか、馬鹿野郎」
「すんませぇん!」
「あーあ、そんな足蹴にしなくても……あんたのことすっげえ心配してたんだから」
岡本が苦笑し、蹴られた渡邉自身も馬鹿みたいに笑いながら立ち上がって、石津が差し出したティッシュを受け取って洟をかんだ。
岡本と志麻が管理人室を出て三十分くらい経ってからだろうか、今度は石津が息せき切って飛び込んできて、柚木の居場所が分かって、これから助けが向かうらしいと言った。向かうって誰がだ、と訊ねたら、石津は力いっぱい「知らないっす!」と答えて寄越した。
何もできずおろおろするばかりなのは自分だけではないと分かって安心するやら落胆するやら。
申し合わせたわけでもないのに何となく喫茶店に集まってコーヒーを飲んでいたら、結局一時間か二時間かそこらして、柚木が何でもない顔を引っ提げて入口から現れた。
旧式のドアベルの音色が響いた瞬間喉が痞えたような気がしたのは自分だけではないだろう。新海は、カウンターの向こうで柚木を囲むクリーンサービス一同の、一様にほっとした顔を眺めて小さく溜息を吐いた。
「で、代表、怪我とかないの?」
岡本が柚木を上から下まで眺めて遠慮がちに訊ねた。身に着けているのは、拉致される前と同じ曖昧な色の作業着。胴長は脱いだのか脱がされたのか着ていないが、喪章はそのままだ。
カウンターに腰かけたままの志麻がぼそっと「ケツとか」と呟いたのが新海には聞こえたが、他のメンバーには幸い聞こえなかったらしい。
「ねえよー。いやーでもあとちょっと助けが来るの遅かったら左手切り落とされてたっぽい」
「はあ!?」
石津と堀田が目を剥き、渡邉は白目を剥きそうになった。
「つーか、アンヘルが来たんだけど。岡本お前、あのおっさん呼んだの?」
「まさか」
若干低くなった柚木の声に、岡本は慌てて首を振った。
「俺は仕入屋呼んだだけ。何か知らねえ奴と来たけど、そいつは関係なさそうだし」
「ああ──あの人が噛んでるならまあ、おっさんも訳のわからんことは言ってこないだろうからいいけど」
「そんで、誘拐犯はどうしたんだ」
新海が声を出すと、柚木はゆっくりこちらに顔を向けた。
少しだけ髪が乱れているが、普段と変わったところは見えない。いかさない作業服を着たままの柚木は、この数時間のことなどなかったような平静な顔で新海を見返した。
「アンヘルが持ってった」
「持ってったって……」
「仕入屋案件なら殺しはしねえと思うから安心。おっさんが一人で動いてたら分かんねえけどなあ」
柚木は歩いてきてカウンターに腰を下ろした。入れ替わりに志麻が立ち上がって岡本のところに行き、なにか言って叩かれた。多分、柚木のケツについて何かコメントしたのだろう。
「何されたんだ?」
やや声を潜めて訊いたら、柚木はあっけらかんと「何もー」と語尾を伸ばしていい、カウンターに突っ伏した。
「手首縛られて転がされてて、あとはお互い罵り合っただけつーか」
「……」
「嘘じゃねえよ。あのさ」
コーヒーをカップに注いでカウンターに置いたら、柚木は上体を起こした。カップを取ろうとして伸ばした手首に、赤く擦れたような痕がついている。
「シャワー浴びてえ。これ飲んだら行っていい?」
頷いたら、柚木は肩越しに振り返った。
「なあ、岡本」
「何? 代表」
「仕入屋に後で連絡するって電話しといてくんねえ? 俺、管理人室でシャワー借りる」
「了解。ごゆっくり」
岡本の言葉に大した意味はなかったのだろう。だが、こちらを向いた柚木はカップに口をつけがながら上目遣いで新海を見て、にやりと笑った。
「あ、あ……っ!」
真昼間から何をやってるんだかと思わないでもない。
いい年した男が二人、狭いユニットバスの中で、我慢のきかない十代みたいに。
「ちょ──も、てめ、この、新海っ」
気が遠くなるほど──実際、途中で叫び出したくなった──ゆっくり柚木の中に入れ、ゆるく掻き回す。お湯を貼っていない浴槽の底で膝をついた柚木は、もどかしい刺激に翻弄されてか、さっきから文句ばかり垂れていた。
「は──、やっ……早く」
「ごゆっくりって、岡本が言ってたろうが?」
何のことか分からなかったらしく、動くのも喘ぐのも数秒止めた空白の後、柚木は肩越しにこちらを睨みつけながら呆れた顔もするということをやってのけ、擦りつけるようにゆっくりと中で動かしたらまた苛立ったような声を上げた。
「馬鹿か、そ……んっ──」
流れるお湯で滑る浴槽の上を引っ掻くようにし、何度も滑る柚木の手。右手の甲の大きな傷痕はそこだけ白っぽく浮き上がって見えた。
志麻や岡本は貞操の危機だとか言っていたが、管理人室に上がってきて改めて訊いたら柚木は笑って一蹴した。
「あの野郎がゲイなのは本当のことだし、あいつらに説明すんのは面倒だからそういうふうに言ってただけ」
新海の首筋に両腕を絡めながら柚木は低い声で呟いた。
「まあ、本人もそういうふうに思わせたかったみたいだけどな。でも、そうじゃねえよ。俺が俺だからこだわってんじゃねえんだ、あいつは」
傷の上から手を重ね、柚木のうなじに舌を這わせる。ぶるりと震えた柚木の背が反って、新海の掌の下で右手がきつく握り締められた。
「──で、お前は、そいつにこだわってる?」
「はあ……? 何言ってんの、あんた……」
粘膜を引っ掻くように、ゆるゆると出入りを繰り返す。新海が動く度に途切れる声を、柚木はそれでも絞り出した。
「あいつは──あいつのせいで、俺は大事なものをなくして」
空っぽになった、と語る言葉が狭い風呂場に反響する。
「けど……、それは、運がなかっただけで──あ、あぁ」
意図的なものでなかったのだとしても、そいつは柚木の内に、外に傷を残した。
意図的でなかったのなら尚更、妬ましく、腹立たしかった。例え柚木自身がそいつに何のこだわりがないとしても。
腕を引っ張り、上半身を反らさせた。柚木の背中の筋肉が動き、蛍光灯に照らされ繊細な陰影を形作った。窓のない風呂場は、昼だろうが夜だろうが人工的な光で照らされて、隅々までが露わになる。
「新海──新海……」
前触れなく深く穿つと柚木の身体が跳ね、持ち上げられた右手が一瞬引き攣る。腰を掴んで揺すったら、宙に浮いた指先が、何かを探すように揺れた。後ろに伸ばされたそれが新海の首を掻き毟るようにして引き寄せ、頬が新海の頬にすり寄せられる。上気した柚木の頬は、降りかかるぬるい湯よりも熱かった。
「あのクソ野郎が……左手に、刃ぁ当てて、そんで」
一瞬「歯」かと思って違うと気付く。柚木は、手を切り落とされそうになったと言ったではないか。
「あんたのこと、すげえ考えた──あのいかれたおっさんがにやけ面でドア蹴破って入ってくるまでな」
新海の頬に柚木の吐息がかかる。入れたまま揺すったら柚木は腰をくねらせて散々喘ぎ、甘ったるく掠れた声で囁いた。
「あんたのことだけ──何でだろうな……?」
結局ごゆっくりにも程がある時間を費やした後、柚木は若干ふらつきながら、階段を昇って行った。
岡本あたりに何を言われるか、とぶつくさ文句を言いながら、それでも出て行く直前に、新海の唇に噛みつくようなキスをひとつ残して。
柚木が諦めざるを得なかったものの代わりになれるなんて思っていない。だが、少しでもその隙間を埋めることができるなら、と思わずにはいられない。
ドアを蹴破り殺し屋から奪い返すことはできないが、できないことをやろうとしたって仕方がない。
「なあ」
スマホを取り出しかけてみる。階段の途中と思しき柚木はすぐに応答した。
「俺もお前のことばっかり考えてる」
何言ってんだ、と笑った柚木は通話を切った。
新海は煙草を取り出して銜え、デスクに腰かけパソコンの電源を入れた。
「仕事すっか──」
少し遅くなったが、一日はまだこれから、始まったばかりだ。
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