8-1
湾岸地域にある人気のない倉庫が今日の現場だった。
漁港付近ならともかく、工場、それも稼働が止まった工場が多い区画だ。早朝のこの時間、人通りは皆無と言ってよかった。
カモメがやたら上空に見えるのは、どこかに水揚げされた魚か、これから何某かの成果を水揚げする船を狙っているからだろうか。
新海は、クリーンサービスの面々が装備を担いで倉庫の敷地に入っていくのをぼんやり眺めた。
住宅街や街中とは違って、目撃されるリスクはかなり低い。新海もどこか長閑な気分でドアの前に立った柚木──喪章がついているから、多分──の後姿に目をやった。
最近知ったが、現場に入るのは柚木がいれば、必ず柚木が最初なのだそうだ。
依頼は電話やメールで受け、一応の状況は把握してから現場に向かう。そうは言っても伝え忘れや間違い、漏れがあるのが当然だから、まずは現場を確認してから柚木が各人に作業を振り分け、指示に従ってそれぞれが作業をするらしい。
柚木がいないときは岡本、岡本も不在の場合は志麻。三人ともいない場合はそもそも仕事を受けていない。
今も柚木が最初に倉庫のドアに手をかけていた。大きな両開きの扉はいかにも倉庫の扉、という感じだ。押し開いた扉の隙間から柚木が中に入っていき、他の五人が整然と続く。
長くても数時間かかるということはないが、今日はどのくらいだろうか──煙草を取り出し銜え、ライターを探していたら、外で物音がした。何となく目を上げた新海は思わずライターを探す手を止めた。
倉庫の反対側から黒くてデカいシボレー──多分タホ──が突然飛び出してきたのだ。フロントガラスが光って運転手は見えない。暴走と呼ぶにはやや控えめな速度で新海の乗っているバンの横を通過していく。なんだあれは、と思いながら倉庫に目を向けて驚いた。バラクラバが一人、猛然とこちらに向かって駆けてくる。
助手席にすごい勢いで飛び込んで来るなり「追っかけて早くっ!」と怒鳴った声は岡本のものだった。
事情はまったく分からないが、ここで問い質したって仕方がない。
新海はエンジンをかけ、バンの車体をぶん回すようにして無理矢理方向転換した。自分で鳴らしておきながら、やる度に馬鹿みたいだと思うタイヤの音を響かせて、重たい車体がケツを振りながら渋々回り、勢いよく飛び出した。
「うわあ!」
岡本は助手席の中で転げながら右手でシートベルトを締め、左手でバラクラバを毟り取った。
「なんつーターンですか新海さん、バイクじゃねえんだから!」
「早く追っかけろっつったのはそっちじゃねえか。こんな図体で取り回しにくいってのにまったく……依頼人か? あれは」
前方を走る車は、人目がないのをいいことに結構なスピードを出しているが、こちらが追いかけていることにはまだ気づいていないのか、追いつけないほど速くはない。
岡本は新海の問いには首を振っただけで、若干身を乗り出すようにして真剣にシボレーのリアバンパーあたりを睨んでいる。
「仕事は大丈夫なのか」
柚木がいるから問題ないのだろうが一応訊ねる。
「大丈夫っす」
言葉少なに答え、岡本はスマホを取り出し前方に向けた。動画か静止画か知らないが、ナンバープレートを撮影しようとしているらしい。
岡本の横顔を一瞥し、新海はアクセルを踏み込んだ。仕事用に準備される車はきちんと整備されたものばかりだが、本来速く走ることが主目的ではないから、車種も走りに重点が置かれておらず、やはり加速が鈍い。
それでもスピードを上げて追い上げて行くとシボレーが近くなった。追いかけてくるのに気がついたらしく、あちらもスピードを上げる。新海は、火を点けないまま銜えていた煙草に気付き、膝の上に吐き出した。
「追いつけそうっすかね」
静止画を拡大してプレートを確認した岡本が、今度は動画の撮影をしながら訊いてくる。すでにシボレーはかなりスピードを出している。時間帯が時間帯だけに人も車も少ないが、田舎道ではないから皆無ではない。
タホもでかいが、このバンよりはずっと走れるし、警察に追いかけでもされたら新海たちだけが捕まる可能性もある。
「一応やってみるけど、分かんねえ」
言いながら思い切り踏み込む。シボレーはスピードを上げて交差点を右折した。信号が黄色くなって赤に変わり、右折の矢印が点灯する。前を塞ぐ右折車は一台しかいないが、マンゴーみたいな色の可愛らしい車で、速くはない。
左車線を思い切り突っ走って、左側からぶち抜きながら右折し、追い越して前に入る。マンゴー色を運転していた若くてかわいい女が目を丸くして見ているのが一瞬見え、悪い、と頭の中だけで謝罪する。
前を常識的な速度で走るコンパクトカーのケツぎりぎりまで食らいついて無理矢理左車線に割り込んだら、とりあえず前を遮る車はいなくなった。
スピードを上げ、ようやくシボレーの後ろに鼻面を寄せた。リアウィンドウもスモークになっていて、中は見えない。暫くぴったり後ろについて走ったと思ったら、シボレーは突然加速し、対向車にクラクションを鳴らされながら右折して、Uターンした。
新海は急ブレーキを踏みながら鼻面を対向車線に突っ込み、流れた尻を敢えて立て直さずにアクセルを踏んづけた。バンが傾きながら横滑りし、新海は持って行かれそうなハンドルを握って思わず喚いた。
「くそ、重てえな!」
「俺がデブなせいじゃないっすよ!!」
柚木とどっこいどっこいな体形の岡本が悲鳴なんだか文句なんだか分からない声を上げて助手席で足を踏ん張る。
危うく中央分離帯に突っ込みかけたが躱して車線に戻り、なんとか追いすがった。しかし、次の交差点で振り回された時点で新海は諦め、アクセルから足を離した。車通りが増えているし、この時間にやっているかどうかはともかく、この先はネズミ捕りスポットもある。
「悪ぃ、こっからは無理」
「了解っす。すみません、じゃあ戻ってください」
岡本は硬い表情を浮かべたままスマホを取り出した。柚木にかけるのかと思ったが、どうやら誰かにあの倉庫に来てほしいと頼んでいるらしい。新海はさっき膝の上に吐き出した煙草を取り上げて改めて銜え、火を点けた。ウィンドウを少しだけ開けると、煙がたなびいて流れていく。タイヤがアスファルトを踏む音が岡本の低い声にかぶさって聞こえた。
岡本が通話を終えて溜息を吐く。「吸うか?」とパッケージを差し出すと、岡本は礼を言って一本銜え、黙って煙を吐いていた。
元の倉庫に戻ったが、クリーンサービスの残りの奴らは作業中らしく、倉庫の前には人気がなかった。岡本が脱いだバラクラバを手に車を降りたので、新海も一旦車から降り、身体を伸ばした。普段は誰かに見られて話しかけられたりしないように車の中に籠っているが、ここに用のない人間が通りすがるとも思えない。
凝った身体を伸ばしていると、新海たちが通って来たのとは別の方向から男が二人歩いてきた。どこかに車を置いて歩いてきたのかもしれない。
二人組は一人が長身で新海と同年代、もう一人は標準的な背丈の若い奴だ。遠目だから細部は分からないが、長身の方はやたら男前で、手足が長い。
岡本の方で用があるのはこの男だけらしい。長い脚で悠然と歩いてきた男に岡本が駆け寄る。岡本はスマホを取り出し、どうやら一部始終を説明しているようだった。
若い方は連れが誰と何を話しているのかは一切興味がないといった様子で、そのまま倉庫を通り過ぎて新海の方に歩いてきた。
背格好は柚木と似た感じだが、柚木より少し背が高い。近づいてくるにつれ、似ているのは体形だけと分かった。
柚木は確かに迫力のある目つきをすることもあるが、こういう、何もかも削ぎ落したような、底の見えない鋭さは持っていない。それに、面構えから何から、柚木よりこいつのほうが男くさい感じがした。
「火、借してもらえませんか」
煙草を銜えながら男は言った。三十前だと思うが、やけに老成した目をしているせいか、子供っぽさは皆無だった。
「ライターのガス、切れたみたいで」
「どうぞ」
ライターを差し出すと、男は案外礼儀正しく「どうもありがとう」と言って火を点け、丁寧な手つきでライターを返して寄越した。
「お連れさん、何話してんのかな、岡本と」
「オカモト? ああ──」
男は眉を上げて新海を数秒眺めてから背後に目を向けた。
「さあ? 知らないっすね。俺はたまたま一緒にいたから連行されただけで」
「そうなのか」
「掃除屋がトラブったとか言ってましたけど、それが誰かも俺は分かんないんで」
それきり男は煙を吐くだけになり、新海も煙草を取り出し、黙って吸った。岡本が背の高い男に頭を下げて倉庫の中に戻って行く。男はこちらに向かって歩いてきて、声をかけるのかと思いきや、目の前の若い奴のうなじを片手で掴んで引っ張った。
まるで犬猫を連れて行くような無造作な手つきには、しかし見た目より力が籠っていたらしい。
若い奴の身体が斜めに傾ぎ、倒れる、と思った瞬間脚が翻って長身の方に振り抜かれた。蹴りが当たったと思ったが、長身はうまく躱したらしく、しれっとした顔で新海に会釈し、微笑むとさっさと歩いて行く。
蹴り損ねた相手に物凄い目つきをくれた若い方は、低い声で「くそったれ」と呻きながら、嫌そうな顔で連れの後から歩き去った。
仲が悪そうだなと思いながら二人の背中を見送って、新海は煙草を一本灰にしてからバンに戻った。
「拉致されただぁ!?」
バンに戻ってきたメンバーの中に柚木がいないのに車を出せと言われ、事情を聞いた新海は思わず声を上げた。
「まさかさっき追っかけた車に──」
「そうっす」
「何で言わねえんだ! だったら無理にでも追っかけたのに」
「だからじゃないすか」
とりあえず一旦撤収するという岡本に何も言えず、新海は黙ってハンドルを握った。勿論動揺はしていたが、岡本が案外落ち着いていたから、騒ぐのもどうかと思ってなんとか口を噤んだ。
自分だけが心配しているわけではない。他の奴らのほうが、新海よりは余程柚木との付き合いが長いのだ。
歯噛みしながら前を向き、新海はやけくそのように法定速度にぴったり十キロ上乗せの運転で、先生のところへ車を走らせた。
何かの薬を打たれた上に多分スタンガンも使われたからだろう、吐き気がした。
「最悪……」
ものすごく気分が悪い。
意識が戻るなり呟いたら誰かが声を出さずに笑う気配がした。
馴染んだ気配ではないが、それが誰のものかはすぐにわかった。言うまでもなく好意からではなく、どちらかといえば憎悪に近い。もっとも、憎しみは愛情と紙一重というのが真実なら、確実に愛情にはなりえないこれは憎悪ですらないのかもしれないが。
気配の主が誰か気づいたことには気づかれないように、目を閉じたまま低く呻く。頬の下には布地があって、寝心地は悪くないから、多分ベッドかそれに類するものの上にいるらしい。
近づいてくる気配。油断しているらしいそいつが真横に立つ。床にしゃがみ、覗き込んできた気配があった。柚木は素早く身体を起こし、奴の胸のあたりに向かって思い切り吐いてやった。
「くそ──!」
英語の悪態とともに思い切り頬を張られて仰向けに倒れたが、そんなことはどうでもいい。口の中は気持ち悪いがすっきりしたし、若干ではあるが溜飲が下がった。
ぶつくさ文句を言いながらそいつが離れて行ってから、柚木はやっと目を開けた。
天井はごく普通の白っぽい壁紙。しかし、病院や何かのものとは違う、高級感のあるクロスだ。頭の下にあるのは羽根枕。マットレスも悪くない。ということは、ホテルか、そうでなければ奴の一時的な住居か。
さっきから気づいていたが、両手は後ろで交差させられて手首を結束バンドで戒められている。脚は今のところ拘束されていないが、それが油断によるものなのか違うのかまでは分からなかった。
「まったく、相変わらずいい根性だな──ハル」
今は頭の中で勝手に日本語に翻訳しているが、かつては違った。まあいずれにしても、相手は英語しか話せない。柚木も言葉を切り替え英語で返した。
「お前に言われたくねえな、セス。それに愛称でも本名でも呼ばれたくねえし、つーかそもそも顔も見たくねえんだけど」
「そんなこと言うなよ。何年ぶりだ?」
吐き気も収まってしまったからつまらないが、とりあえず身体を捻って上を見上げた。上半身裸の男が、Tシャツを被りながら柚木を見下ろしていた。記憶と違わない顔がそこにあって、うんざりする。
中肉中背。自然にウェーブする髪はブルネット。しかし、明らかにアジア人ではない彫りの深い顔。一見感じのいい笑顔に向かって唾を吐けるものなら吐いてやりたいと思いながら、柚木は小さく溜息を吐いた。
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