エピローグ





「苦労したもんだよな。わしも、あんたも」


 早朝の九時半。船首に座って、おじさんは海を眺めながらぽつりと呟いた。どこまでも広がる群青色に目を細め、少し、もの悲しげな顔を浮かべて。


「収束に向かい始めた今でも、わしは田淵たちに対する怒りが止まらねえぜ。こんなこと言っても、もう何にもならねえがな」


 そう言って懐からタバコの箱を取り出すと、一本取って火をつける。口に咥えて煙を吐くと、ふと彼は俺の方を振り返って問うた。


「あんたはどうなんだ? その様子じゃ、もう受け止めきれているように見えるが」


「そうですかね」俺は吹き出して、頭を掻いた。「こんな傷、癒えることはありませんよ」


「そうだな……」彼は申し訳なさそうな顔で海に向き直り、ため息を吐いた。「悪いな」


「いえ」俺は慌てて首を横に振った。「実は、そう言っていただけて嬉しかったです」


 彼は小首を傾げて、肩越しにこちらを振り向く。俺はそばの海に目を落として、過去を思い返しながら説明した。


「イザベラ、ルシアナ、カミラ、ナディア、フェリシア。その他にも、彼女たちの先輩にあたる〈ロシエント〉に、これから入ってくる、最後の〈ロシエント〉、そして、それ以外にも、戦ってくれた全ての人たち。……これらのことを思い出すと、胸が痛くなります。思わず、目を背けてしまいたくなります。……ですが、大切な人と、約束をしてしまったんですよ。前を向いて、これからを生きていくことを」


「……そうか」少し沈黙を挟んでから彼は相槌を打ち、顔を綻ばせた。


 それからふと、彼は腕時計に視線を落とした。そして、尻についたゴミを払い落としながら立ち上がると、俺に向き直って微笑んだ。


「じゃあ、もうそろそろ行ってみたらどうだ?」


「そうですね」


 ゆっくりと立ち上がり、薄く笑い返した。同時に、背筋を伸ばしたことで背中に激痛が伴う。少し時間を置いてからぎこちなく階段の方へ歩いていき、やがて船から地上へ降り立った。


「頑張れよ」


 そう言って、船首から小さく手を振ってくれる彼を見上げる。俺は軽く頭を下げて、それを去り際の挨拶とした。





 フェリシアが亡くなってから二日後──つまり今日──の八時、あの洋館には、最後の〈ロシエント〉が配属されることになっている。俺はまた、その管理者に任命されていた。


 洋館へ着き、ガレージに車を停める。外に出る前に、ルームミラーで髪型を確認し、軍服についた汚れを払っておいた。


 外の空気を吸い込み、荒ぶる心を落ち着かせる。どの要素がなぜここまで俺を緊張させて止まないのか分からないが、今俺は、まるで恋人の家に行くかのように身嗜みを整えていた。


 ぎこちなく足を動かし、玄関口に辿り着く。二度ほど深呼吸を入れたのち、ドアノブに手をかけようとしたが、一応初対面なので、客という立場の方がいいだろうと思い、慌ててインターホンに手を添える。自分の中のグッドタイミングに合わせて、ボタンを押し込んだ。


 一秒、二秒、三秒……とそわそわしながら中から反応を待つが、全く音沙汰がない。十秒ほど堪えたところで、仕方なくドアノブを回して扉を開けた。


「──いらっしゃ〜い!」


 ふと、その声と、下から破裂したクラッカーに、いつしかの記憶が蘇る。やや放心気味になりながら、俺は視線を下ろした。


「お前が新しい世話係の人っすね!?」ルシアナが楽しげに人差し指で差してきた。


「ふうん、あなた、なかなかに貧相な格好をしてらっしゃいますこと」カミラは俺の全身を眺め回すと、腰に片手を当てて、お嬢様のような口ぶりで罵ってきた。


「……よろしく」ナディアが無愛想な様子で、ほんの少し頭を下げた。


「赤坂湊さん、ですね。これからよろしくお願いします」フェリシアが両手を前に構えて、丁寧にお辞儀をした。


「すみません! 困らせてしまって!」イザベラがセミロングと、潤沢な胸を揺らして階段を駆け下りてきた。


 目前の光景に、気がつけば俺は涙を流していた。彼女たちは困惑顔を互いに向け合い、小首を傾げて俺を見上げる。


 少女の一人は一歩前に出ると、催促するように訊いてきた。


「お前が世話係の人で合ってますよね!?」


「……ああ」何とか声を絞り出して答えた。


 そして、顔を溶けてしまいそうなほど綻ばせて笑った。


「俺がお前たちの……、世話係だ」



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ロシエント アンヘル 卯月目 @Simakaze

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