第二十三話 幸せ
昼からは、中庭で二人、日向ぼっこをして過ごしていた。
抱き合いながら空を見上げ、ただ幸せを感じ続けていた。
彼女とまだまだ一緒にいたい。その一心は俺を躍らせる。
触れて、触れて、笑って、抱いて。
──そうして時は過ぎ、空は漆黒にまで染まった。
「綺麗ですね」
「ああ」
指と指を絡めて手を繋ぎ、肩を寄せ合うように寝転がって星空を見上げる。
ふと、今、彼女はどんな顔をしているのだろう、と思った。次第にそのことだけが頭を支配するようになり、慎重に隣に視線を逸らして、反応を盗み見ようとした。だが、顔を傾けなければ彼女の顔を視界に入れることは難しかった。
気づかれないように、少しずつ彼女の方へ頭を向けていく。芝生を潰す音は鮮明に耳に入ってきて、その度にまた慎重になる。だが、そのせいで繋いだ手に力が入ったり、足指の先が上がったりしてしまった。
そして、かなりの苦労を要して俺は彼女の顔を視界に収めた。
だが、考えることは向こうも同じだったらしい。こちらに顔の向いた彼女と目が合い、互いに瞠目した。
彼女は恥ずかしくなって、反射的に目を逸らしてしまうだろう、と思った。俺ももしかしたら、自然とそうなるかもしれないな、と考えた。
だが、もはや俺たちの間にはそんな羞恥なんてなかった。徐々に紅潮させていく、ふっくらとしたその頬。整った輪郭。引き込まれるような黒い瞳。俺は彼女の顔を目に焼きつけて、彼女は俺の顔をじっと見据えた。夜空に流れ星が通り過ぎても、深く意識も向けることなく互いに目を離さなかった。
「ねえ、湊」
「……何だ?」ふと切り出されて、少し声を発するまで間が出来た。
そして、彼女はくすりと微笑みかけて、言った。
「私がいなくなっても、……前を向いて、生きてくださいね」
その言葉は一瞬、俺の中の時を止めた。次第にゆっくりと瞬きをして、心の中でため息を吐いた。
訪れる静寂。何か言葉くらいは返そう、と頭を回転させるが、思考は自然と、どのようにしてはぐらかすべきかを考えるようになっていた。
ダメだ、と深く息を吐いて、心を落ち着かせる。俺は彼女の言葉に肯定しなければならない。肯定するべきなんだ、と自分に言い聞かせ、やがて意を決して口を動かそうとした。
その瞬間、ふと、彼女の目が潤っていることに気がついた。笑顔がもの悲しげになっていることに気がついた。
そんな違和感は、俺の意識を次第に彼女から外していく。
ほんの少し、大地が揺れていることに気がついた。
ほんの少し、森が騒ついていることに気がついた。
ほんの少し、風が荒ぶっていることに気がついた。
そうして、またしても、終わりは唐突にやってきた。
懐の無線機が、ノイズを乗せて、終焉を告げた。
『緊急出動、緊急出動。巨獣が再生を始め、既に鳥類が何匹かセーフゾーンを抜け始めた。これより〈ロシエント〉は出動の準備を整えたのち、地帯を関係なく鳥類の駆除にあたれ。あとの人間は今すぐ近場の建物まで避難せよ』
息を呑んだ。
胸が張り裂けそうで、心が絶望に染まって、次第に息苦しくなる。
声を存分に震えさせて、俺は無線機の声に反論した。
「……まだ、タイムリミットは来ていません」
『馬鹿を言うな。気持ちは分かる。さぞ苦しいだろう。だが──』
──瞬間、「すぐに行きます」と、フェリシアは声を上げた。
無線機が途切れる。
彼女は涙を拭って立ち上がる。
俺の反応をもの悲しげな目で盗み見て、玄関の方へ歩いていった。
また、彼女に触れたい。
また、彼女と話したい。
また、彼女と抱き合いたい。
また、彼女とキスをしたい。
なのに、運命が示すのは、いつだってそうだ。
いつだって唐突で、いつだって残酷なんだ。
やがて、遠ざかっていた足音は戻り始める。震える全身を上手く使って立ち上がり、ゆっくりと彼女の方へ振り返った。
彼女の握る弓は、旺盛に、小紫に燃え上がっていた。
そして、俺の目前まで歩み寄ると、次第に顔を綻ばせていき、──背中から一気に羽根を生やした。
「……行くな」そう声を絞り出して、ぎこちなく彼女の方へ手を伸ばす。その腕は純白の世界を彷徨うみたいにおぼつかなく動き、やがて、小さな肩を掴んだ。「行かないでくれ……」
「そんなこと言ってどうするんですか」彼女は優しく微笑んで、頬をほんのりと紅潮させた。「世界が危ないんですよ」
「分かってるさ……。だが……」途端に涙が溢れて、抑え込んでいた感情が爆発した。「だからといって、お前がいなくなるのは……やっぱり間違ってるだろう……!」
その訴えに彼女は応えることなく、すっと俺の手を下ろさせた。それが正解だと分かっていたが、途端にどんよりとした悲しみが身体にのしかかった。
やがて、彼女は俺の頬に手を添えると、くすりと微笑んで目を瞑った。そうしてそのまま、──優しい口づけをした。
時間にしてそれは、僅か五秒にも満たないものだったが、俺の足元には一面にアザレアの花畑が出来上がっていた。果てなく続くその世界は、そこにただ立ち尽くしているだけでも、俺にどことない幸福感を与えてくれる。
唇が離れると、たちまち世界はもとの景色を取り戻した。彼女は嬉しげな顔で何歩か後ずさり、目に涙を浮かべる。
そして、幸せそうに笑った。
誰にも負けない幸せを浮かべた。
「幸せを与えてくれて、ありがとう」
羽根を羽ばたかせ、やがてその体は宙へと浮かぶ。
「じゃあね、湊」
そう言って、たちまち空高くまで舞い上がっていき、──戦場へ飛んでいった。
「……嫌だ。絶対に──」
──瞬間、俺は掠れた哀哭を上げて、その姿を追った。
夜空を遮断する森の葉の隙間からは、彼女が散らした光の羽が道標のように降り注いでいる。そんな幻想的な森をひたすらに走り、懐に残っていた水晶は俺の感情に呼応するように輝かしく発光した。
たちまち森を抜けて平地に出ると、既に何匹もの鳥類が地に伏せて動かなくなっていた。血の匂いは強烈に強く、吐き気を催してしまいそうになるが関係ない。遥か先の地の上空では、二日前にも見た煌びやかな天使が舞うようにして飛んでいる。彼女へ向かって、足を前へ動かし続けた。
彼女のもとへ行っても、何もすることが出来ない。
運命も、未来も、何も変えることは出来ない。
それでも、不思議なことに、俺は彼女へ引き寄せられるように地を蹴っていた。足は止まることを知らなかった。ただただ、身体が彼女だけを求めていた。
やがて、空に残った巨獣の群れに弓をつがえる彼女。体を覆っていたオーラは、弦にあてがった矢へと一点に集約されていく。
そして、光が発射された瞬間、──夜空は煌めいた。
まるで世紀末かのごとく、銀河みたいな輝きの渦が夜空を支配した。爆心地からの突風はここまで襲ってきて、平地の砂が激しく荒ぶり、俺の体中を痛めつけた。
やがて、渦は風と同時に存在を潜めていく。もとの姿を取り戻した夜空には、たちまち一人の天使が映し出された。だが、羽根を取り巻いていた光は淡くなっており、ふと手からは武器であるはずの弓が離された。
そして、力を失ったかのように彼女は頭から落下を始めた。羽根はボロボロと崩れ落ち、やがて形そのものをなくしていった。
受け止めてあげなくてはならない、と思った。走りながら、酷い焦燥感に駆られる。身体の悲鳴を無視して、必死に彼女のもとへと足を動かしていった。
徐々に距離は近くなっていく。彼女と地面との間があと僅かになるその瞬間、俺は勢いよく前方に跳んだ。彼女を助ける一心で手を伸ばし、やがて、何とか宙で腕を掴むことに成功する。そのまま体を抱き寄せ、仰向けに返って彼女のクッションとなった。
地に引きずられた背中は阿鼻叫喚した。激痛に歯を食いしばりながらぎこちなく起き上がって、彼女に目をやった。
血の塊だ、と俺は瞠目した。全身から出血を伴った彼女は、惨たらしい有様で動かなくなっていた。
「フェリシア!」体を寝かせ、膝に頭を乗せて呼びかけた。「お願いだ……! 返事をしてくれ……!」
瞬間、彼女はピクリと瞼を動かした。やがて、苦しそうに視界を開放させると、俺の顔を見るなり薄く微笑んだ。
「ねえ、湊……」彼女は儚げな笑みを浮かべて訥々と続けた。「私……、幸せでした……。あなたといられて、とっても嬉しかったです……。大好き、だから……。……みな……とは……?」
「ああ……」彼女の手を握り締め、涙ながらに答えた。「俺も……お前のことが、大好きだ……!」
俺の返答に、彼女はうんともすんとも言わなかった。
ただ、嬉しそうに笑って、そっと、首を項垂れさせた。
全てを失った。
絶望感に苛まれた。
だから、俺は声を上げた。
憤りを、悲しみを、苦しみを、号哭として響かせた。
涙も止まらなかった。もうとっくに枯れていたと思っていたが、嘘みたいにそれはボロボロとこぼれ落ちた。
俺に愛情を与えてくれた人は、闘いの末に力尽きた。
俺に幸せを与えてくれた人は、この世から消え去った。
俺という人間だけを、ここに残して。
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