第二十二話 最後の時
ブラボー地帯へ向かうまで、俺たちは互いに言葉を発さなかった。
彼女は多分、馬鹿みたいな俺に気を遣ってくれていた。それがたまらなく苦しくて、無理に笑顔を取り繕おうにも、一ミリも口角は上がらなかった。
セーフゾーンに着いて、おぼつかない足取りで外へ出る。乾いた風が、涙に濡れた冷ややかな顔を刺激した。
彼女は荷台に向かうと、弓を握り、矢を背中に担ぐ。そして、積んできた水晶から魔力を受け取ると、やがて弓は燃え上がるようなオーラを纏った。
「フェリシア……」掠れた声で、何とか呼びかけた。「本当に……、終わってしまうんだな……」
「はい」彼女はもの悲しげに微笑んで、俺を見据えた。「少し……、別れが気まづくなっちゃいましたね。赤坂さんの馬鹿」そう嬉しげな顔で、からかうように罵った。
やがて、彼女はゆっくりと俺へ歩み寄ってくる。苦しそうに笑って、頬を存分に紅潮させて。次第に彼女は駆け足になり、手と手が触れ合える距離にまで近づくと、俺の顔へ手を伸ばして、──唇を重ね合わせた。
俺は初め、それがキスだと理解出来なかった。何をしたんだ、と一瞬思考を回転させて、やがて、彼女の唇の裏側についた唾液の感触から、ようやく状況を上手く呑み込むことが出来た。不思議なことに、それほど実感というものが湧かなかった。
彼女は唇を離すと、次第に目を潤わせて満面の笑みを作り上げた。そして、俺の胸に倒れ込むように抱きつくと、訥々と話し始めた。
「私はあなたから、色んなものをいただきました。人に恋をするという気持ち。人を愛するという気持ち。人から愛されるという気持ち。それとは反対に、苦しい気持ち、悲しい気持ちも。……ですが、そんな日々を、総じて私は楽しかったと感じています。あなたがそばに、いてくれたから」
その言葉に、また俺は泣いた。何回泣けばいいんだよと、自分の両目を指で押さえて、必死に感情を食い止めようとした。
彼女は俺から離れると、やがて横を通り過ぎ、頼りない背中を向けて続けた。
「私はあなたのことが好きです。大好きです。これからずっと、あなたのそばにいたいです。あなたと生活して、あなたの子供を産んで、もっともっと、幸せを築いていきたいです。……いき、たかったです」
そして、彼女は振り返った。顔を満遍なく涙に濡らして、幸せという言葉の体現とも言うべき笑みを浮かべて、ピースの手を突き出した。
「さよう……なら」
その言葉を受け取ると同時に、砂嵐は巻き起こった。だが、体は鉛のように重くて腕が上がらず、俯いてその痛みを受け続けた。
やがて収まってきたところで、視界を開放させる。当然、彼女は目前にいなかった。
全身が震え出し、ストンと膝が落ちた。そのまま体は前へ倒れ、地面に両手をついた。
憤りを込めて、コンクリを掴もうとする。だが、たちまち力は入らなくなっていった。
仰向けに倒れて、曇り空を見上げる。両手を大の字に広げて、漠然と雲を眺め続けた。
俺も、フェリシアのことが好きだった。大好きだった。俺をいつも気にかけてくれて、優しい笑みを向けてくれて、愛情を与えてくれたのは、彼女だった。
俺だって、フェリシアとこれからも生活したかった。子供を持って、幸せな家庭だって築きたかった。
そんな夢は、呆気なく朽ちた。
体を起こし、戦場を見据える。空には一人の、神々しい天使がいた。
天使の矢は、次々と空中を舞う巨獣を撃ち落としていた。攻撃を華麗に避け、瞬く間に空を支配していく。そして、一筋の光の矢を放ち、集まった巨獣の群れへ大規模な爆発を引き起こした。
何キロも離れた場所の上空だというのに、顔を痛めつけるほどの突風はここまで襲ってきた。視界を腕で覆い、目を細めながら爆心地を見上げる。フェリシアという愛する人の姿を必死に探そうとした。
──彼女はたちまち、煙を切り裂いて中から姿を見せた。そして、羽根を羽ばたかせ、こちらへ一直線に飛び始めた。
みるみるうちに彼女の姿は近づいてくる。涙がボロボロと落ち始めて、彼女の姿はぼんやりとしか映らなくなった。
そして、彼女は次第に速度を落としていくと、やがて目前に降り立った。
「……ねえ、赤坂さん」俯きながら、彼女は震えた声で切り出した。「今、私の頭に、これでもかというほどの幸せが襲いかかってきています。……これが、天国なんでしょうね……」
頭が、真っ白になる。
「天国って、素晴らしいところですね……。全くもう……、怖いくらいです……」
そう嘆いて、彼女はゆっくりと俺の方へ歩み寄った。やがて手から弓を落とすと、俺の背中に両手を回して強く抱き締めた。
そして、彼女は「でも」とつけ加えて、言った。
「私……、天国よりも幸せなところ、見つけちゃってました……」
嘘だ、と思わず声に出した。彼女は顔を上げると「本当です」と笑って、俺を一点に見据えて続けた。
「あなたのそばにいることの方が、天国よりも、もっともっと幸せなんです……!」
また、息を呑む。
また、涙が溢れ出す。
彼女はやがて笑みを崩すと、しゃくり泣きながら紡いだ。
「危険だと感じたら……、すぐに逝きます……。ですから、それまで……、あなたのもとに、いさせてください……」
「……ああ」返答は、自分でも驚くほど早かった。自然と口が、そう動いてくれた。
そうして、彼女は泣き叫んだ。俺を強く抱きしめて、地平線の彼方まで届きそうな勢いで、わんわんと泣きじゃくった。
俺もまた、彼女と同じようにして、泣き喚いていた。
「二日以上は生かしておけない」それが、上層部から彼女に与えられた運命だった。
彼女を生かす、という決断そのものにも、かなりの反対意見が募った。だが、彼女に強制魔力膨張剤──指定の時間が過ぎた時、体内の魔力を膨張させることで身体を自壊させていき、やがて死に至らしめる薬──を服用させる、ということを条件とすることで、何とか可決を許された。
しっかりと服用の瞬間を収めた動画を上層部に提出して、ようやく、二人きりの時間は訪れた。
それから、料理を作った。
船に乗った。
外の世界のことを教えた。
好きなものについて情報交換をした。
そして、互いにしてほしいことをし合った。ハグをして、体温を直で感じ合って、唇を重ねた。幾度となくそれを繰り返してから、ぎこちなく舌も舐め合った。
彼女と過ごす時間は、とんでもなく楽しかった。
嬉しくもあった。
喜しくもあった。
悲しくもあった。
でも、幸せだった。
「ねえ、赤坂さん」その夜、ベッドの上で抱き合いながら彼女は言った。「明日でとうとう、お別れですね」
「悲しいこと言うなよ」昂っていた俺の心はたちまち鎮静した。「その瞬間まで、忘れさせてくれよ……」
彼女は俺の言葉にくすくすと笑った。「すみません」
「ああ」端的に返して、再度彼女を抱き寄せた。
それからしばらく間を空けて、彼女は楽しそうな口調で訊いてきた。
「寝る時間、惜しくないですか?」
「当たり前だろう」と、俺は笑った。「出来れば、一時もお前との時間を無駄にしたくないよ」
「じゃあ……、寝ちゃわないでくださいね」
「ああ。お前こそな……」
そう返すと、彼女はくすりと微笑む。やがて俺の首へ手を回し、満遍なく体を当てて抱き締めた。
箱庭の世界には、やることが何もない。でも、俺たちは退屈なんかではなかった。
二人が揃っているというだけで、何をするでもなく楽しくなる。嬉しくなる。愛し合うという感情はこの世で最も幸せなことで、気がつけば何時間も過ぎていた、なんてのは普通のことだった。
だから、俺たちが寝室から出た時、時刻は昼を過ぎていた。玄関口には船のおじさんから飯が配達されており、二人で食卓まで持っていくと、向き合って食事をした。
「湊さん」ふと、彼女は口の中を水で流し終えると、わざとらしくこめかみに指を当てて、考え込む素振りを見せた。「いいえ。湊……の方がしっくり来ます」そう恥ずかしそうに言うと、俺の反応を盗み見た。
「嬉しいよ」俺は率直な感想を伝えた。「敬語は直さなくていいのか?」
「はい」彼女は頬を紅潮させて、幸せそうな笑みを浮かべた。「もう馴染んじゃっているので、このままでいかせてください」
彼女の笑みに、思わずつられて顔が綻んでいく。
何気ない時間のはずなのに、俺はなぜか涙ぐんで笑っていた。
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