第二十一話 卒業へ





 結局、日を跨いでも落ち着けなかった。ナディアの死に対する悲痛は癒えることなく心を蝕む。フェリシアに作る笑顔でさえ、俺は忘れていた。


 本部に行き渡った資料の解析は徹夜で行われている。その結果によって、人類は今後の選択肢を変えてくる。俺はその夜、一睡も出来ずにいた。


 早朝の五時半。おぼつかない足取りでそっと洋館を出て、朝飯を取りに港へ向かった。


 車を停め、船の方へ歩く。船首で座っていたおじさんは俺の姿を見るなり、目を丸くして立ち上がった。


「話は聞いたぜ。あんた……お手柄みてえじゃねえか」


「そうですね……」乾いた声で笑い、首を項垂れさせた。「ですが、ここに至るまで、俺たちは……、どれだけの犠牲を払ってきたでしょうか……」


「馬鹿言うな!」彼は怒声を上げ、船から地上へ降りてきた。「確かにそうだが、早い段階で済んでよかったじゃねえか。もっと発見が遅ければ、世界はどうなっていたか分からない」


 早い段階で。その言葉に沸々と怒りが込み上げてきて、彼の胸倉を掴もうと飛びかかった。だが、無様にも彼の体術にあっさりと敗北した俺は、綺麗に受け身を取られて、海に転がり落ちそうになった。


「あんたの怒りはごもっともだ」彼は平然とした様子で口を開いた。「だが、ここで悔いても仕方がない。あんたのところには、あと一人残っているんだろう? 今はそいつの生存を喜んでやらねえと、いなくなった四人も浮かばれねえ」


「ですが!」


「今が踏ん張り時だ。俺にも、別に〈ロシエント〉の責任者でもねえってのに、あんたみたいに嘆いていた時期があったから、気持ちは理解出来ているつもりだ。苦しいだろう。だが、今を踏ん張って前を向かないと、お前は一生……この気持ちを引きずることになりかねない」


 そんなことを言われても、と心の中で呟く。


 だが、ふと脳裏に過ぎったフェリシアの笑顔に、俺の怒りはたちまち鎮静を始めた。


 ああ、そうだ。フェリシアは、残ってるんだ。


 全身に入っていた力は、すっと抜けていった。


「──赤坂殿」


 ふと俺を呼ぶ声に耳を澄ませると、工場の方から足音が近づいてきているのが分かった。


 振り向くと、足音の正体──軍服を着た丸眼鏡の女性──は口を開いた。


七瀬ななせ将官からお呼び出しだ。案内しよう」





 赤のカーペットに、純白に塗装された壁と、本部の最上階はまるで高級ホテルを連想させる造りになっていた。そんな廊下を丸眼鏡の女性はひたすらに歩く。そのあとを追っていると、やがて、彼女はある部屋の前で歩みを止めた。


 コーヒーブラウンの扉をノックし、ドアノブが回される。その先に広がったのは、十畳ほどの殺風景な空間だった。平地を十分に見渡すことの出来るガラス張りの壁に、真ん中に置かれた応接ソファと机。それ以外には何もなく、そんな一室でソファの前に立っていたのは、スーツを着こなした強面の男性。彼は俺を彫りの深い目で見据えると、ふっと顔を綻ばせて口を開いた。


「やあ、赤坂くん。私が七瀬だ。どうぞ入りたまえ」


 男性にしてはかなり透き通った声だった。俺は彼に従い、部屋に足を踏み入れる。すると扉は閉められ、空間は俺と彼の二人きりになった。


 彼は目前のソファに目を落とすと腰をかけた。腕で対面のソファを差され、「座りたまえ」と合図を送られる。


 そして、しっかりとそこへ腰を落としたタイミングで、彼は切り出した。


「ありがとう」


 たったそれだけ口を開いて、彼は深く、深く頭を下げた。何秒かその姿に気圧されていると、ふと状況を思い出す。


「七瀬将官、やめてください……」


「いいや、君の活躍には、我々は頭が上がらない。君が気づいたからこそ、世界の崩壊は免れたと言っても過言ではない」彼は両膝に手をついて声を震わせ、もう一度あの言葉を口にした。「ありがとう」


「そんな……、本当にやめてください」その言葉に、ようやく彼は渋々頭を上げた。「それに俺は、無断で洋館から〈ロシエント〉の一人を連れ出しましたから」


「……ああ」彼は思い出したように声を上げた。「だが、それによって事態が好転したのも事実だ。我々としては、君とナディアくんの活躍に免じて、今回は厳重注意だけにとどめておこうと思っている。次からは気をつけてくれたまえ」


「ありがとうございます」胸を撫で下ろして、頭を下げた。


「……で、だ」少し間を空けてから彼は立ち上がると、ガラス張りの窓へゆっくりと歩き始めた。「六時からの緊急ミーティングでも伝えられると思うが……」彼は十分な前置きを要して続けた。「戦争は、あと一ヶ月から二ヶ月は終わらない」


 その言葉に、思わず全身が震え上がった。脳裏にフェリシアの笑顔が浮かぶ。思いきり拳を握り締めた。


「なぜですか……!」


「研究部隊からの、資料の分析の結果が出た。要は、巨獣は体内に投入された魔力によって強大な力を手に入れた。なら、つまり、その魔力を抜き取ってやれば、強化された生命力も巨体も身体能力も、全てもとへと戻る。だが、既に巨獣は、魔力侵食率なるものが百パーセントにまで達し、かなり戦闘能力が向上している。〈ロシエント〉でも苦戦を強いられる中で、どうにも全ての巨獣の魔力を抜き取ろうと思えば、最低でも、それくらいの時間を要してしまうんだ」彼は冷徹にそう説明した。


「じゃあ……、フェリシアは……」


 こちらへ振り返り、彼は申し訳なさそうな顔で首を横に振った。


「何とか……何とかしてください!」何か策があるはずだと自分に言い聞かせて彼に駆け寄った。「フェリシアだけは、フェリシアだけは生かしてあげたいんです! お願いですから! お願いですから!」


「君の心情は察するよ」彼は俺の顔を見据えて、残念そうに息を吐いた。「だが、〈ロシエント〉の力が必要なんだ」


「そんなこと言っても……!」拳をさらに握り締めて高唱した。「あいつは……これからなんです……! 全部これからで……、生きて、幸せを掴んで、人生を歩んでいくんです! なのにどうして……! どうして!」


「すまない」彼は寂しそうな目で窓へ向き直った。「……すまない」力のこもった声で、もう一度その言葉は繰り返された。


「そんな……」全身が震え始め、がくりと膝から順に床へ崩れ落ちた。「何なんだよ……! ……何なんだよ……!」


 憤りをぶつけるようにして、床を殴りつける。


 幾度となくそれを繰り返して、やがて力は入らなくなっていった。


 もう、何なんだよ、これ。


 何でこんな結末にならなくちゃいけないんだよ。


 誰か、教えてくれよ……。


 フェリシアが助かる方法を、さ……。





 洋館に帰ってきた時、時刻は八時を回っていた。ミーティングに時間を要していたとはいえ、外で呆けているだけの時間も多かった。


 エントランスホールにフェリシアの姿はなかった。おぼつかない足取りで食堂へ向かうが、そこにも彼女はいなかった。


 飯を食卓に並べ、二階へ上がった。彼女たちの寝室をノックし、中から反応を伺う。だが、いくら経っても物音の一つもしない。仕方なく扉を開け、部屋に足を踏み入れた。


 五人用のシングルベッドの上に、寝巻き姿のフェリシアは、クッションを抱いて寝転がっていた。


「フェリシア」


 名前を呼ぶが、依然として返事がない。そばへ歩み寄り、寝顔を覗く。瞬間、彼女はそれを待ち構えていたかのように瞼を開き、俺を一点に見据えた。


 目尻は赤く、何度も擦った跡が残っている。まだその目は潤っており、頬も酷く紅潮していた。


「ナディアは、どこへ行ったんですか?」ふと、彼女は掠れた声で問うてきた。


 少し逡巡して、俺は「卒業した」と答えた。


「そうですか……」彼女は視線を泳がせたのち、クッションに頭を押しつけた。「戦争は、いつですか……?」


 戦争。そのワードで、一気に現実に引き戻された。


「戦争は、な……」


 そうして、訥々と彼女に現状を語った。戦争は終焉へ向かい始めるが、お前は二日後に戦場に行かなくてはならないこと。田淵たちが全ての元凶だったこと。話していくうちに、俺の中の憤りは次第に姿を見せてきた。涙が溢れ、最後の方は、もう自分でも何と言葉を喋っているのか分からないくらい、声が震えていた。


「赤坂さん」彼女は全て聞き終えると、俺の手を優しく握り締めて言った。「そこまで私のことを考えてくれているんですね。嬉しいです」


「嬉しい、か……」目尻を手の甲で拭いながら、半笑いで返した。「俺は、とんでもなく悲しいぞ……」


 その言葉に、彼女は起き上がると、そっと俺を抱きしめた。寝巻きという薄い生地を通じて、彼女の体温がこれでもかというほど伝わってくる。手触りが違うだけで、半ば直接体に触れているみたいな感覚だった。


 控えめな胸の膨らみを忌憚なく押しつけられ、やがて俺は謙虚さを捨てて彼女を強く抱きしめた。頼りない背中に手を回し、もう片方の手を頭に乗せる。儚げな髪を撫で、透き通るような匂いが鼻腔をくすぐっていく。形の整った小さな耳に手を持っていき、柔らかな耳たぶを親指で撫で回す。そのまま首筋へ指を下ろし、うなじを通じて背中へ手を回し、再度彼女を抱き寄せた。


「私は、あなたが何と言おうと嬉しいです。ママやパパ以上の、あなたからの愛情が」


「俺は、お前が何と言おうと悲しいままだ。それだけじゃない。耐えきれないほど苦しいし、涙が枯れそうなほど切ない」


 そう返すと、彼女はふふっと上品に笑った。「やっぱり私は、嬉しいです」


「もうすぐ死にゆくってのに、何言ってんだか」


「これほどの愛を知らないまま死ぬ方が、惨めでしょう?」


 そうかもな、と俺は吹き出した。


 その瞬間──タイミングとしては、最悪を極めていた──、懐の無線機からノイズが発せられる。やがて聞こえてきた声に、俺は息を呑んで絶句した。


『緊急出動、緊急出動。鳥類の巨獣が再生を始め出した。治癒速度が尋常ではない。今すぐアルファ地帯へ、〈ロシエント〉はブラボー地帯へ急行せよ』


 その命令に、すぐに従えるわけがなかった。全身が強張り、震え、憤りが支配する。


 同時に俺は泣きもした。ボロボロと大粒を落として、やがて堪えきれなくなって哀哭も上げた。成人して五年目の俺は、恥ずかしげもなく、赤ん坊のように泣きじゃくった。


 天を向いて、口を最大限にまで開いて、泣き叫んで、泣き叫んで、泣き叫ぶ。悲しみはいくら吐いてもなくなることなく、フェリシアの、背中をさする手は俺の涙を加速させた。




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