第6話 激痛

 それから、前の部活のメンバーに「山元、お前、家事とか料理とかやってるの?」「偉いよなあ。また、いつでも部活に戻って来いよ。」と優しい言葉をかけられた。「ありがとう。」と言いつつも、戻る気なんて、一ミリもなかった。

 それからというものの、部活に行かずに真っすぐ家に帰るようになった。母さんが緊急で入院したことを、親戚の伯母さんに言ったみたいで、「ごはん、ここに作って置いておくから!」と大盛の揚げ物やらオムライスやらを作って置いてくれたおかげで、そんなにご飯を作らなくてもよくなった。月に2回くらいだけど。

 浩介が、「俺も部活辞めよっか?」と言ってきたけど、全力で止めた。「部活は、俺が勝手に辞めただけ。ウザい先輩がいただけだから。」と言っておいた。その代わり、食器洗いをお願いした。少しくらいなら、任せておいた方が、浩介も何も言ってこないから楽だった。


 1か月後、母さんが退院してきた。家に帰って、母さんは、あまりタバコを吸わなくなっていた。その代わり、両腕に傷が増え続けていた。手首だけにあった傷が、いつの間にか肘の部分にまで到達している。洗濯板みたいにボコボコした両腕を「夏は半袖が着られないから、大変。」と言っていた。切らなきゃいいのに。

 そして、夜中に手首を切って大泣きすることも増えた。大した怪我じゃないから、俺がなだめて終わっていたけれど、余りに泣き叫んで「死ぬ!」と言い出したら、救急車を呼ぶようにしていた。そのたびに寝不足にさせられるし、ただただ面倒くさかった。母さんが何をしたいのか分からなかったし、それ以上に、「ああ、母さんの病気、もう治らないんだな。」と割り切っている自分もいた。

 クラスで部活をしていないのは、俺だけだった。だから、勉強くらいはちゃんとやろうと決めていた。授業もきちんと受け、宿題も全部自力で解くようにした。それなのに、成績は上がらず、忙しいはずのみんなの方が、高得点を取っているのが気に入らなかった。こんなに努力している俺は、報われないのか、と。

 毎日の弁当を作る気力がなくなっていて、昼休みは、カロリーメイトを1本食べた後、机に突っ伏して寝るのが定番になっていた。本当は、寝ていなかったのだけれど。友達とコミュニケーションをとること自体、億劫になっていた。自分がついた嘘がばれる日が来るかもしれない。しゃべると、ボロが出るかもしれない。必要最低限の連絡的な会話以外しないようにした。昼休みは、周りでクラスの友達が話している内容に耳を傾け、その内容を、家に帰って、あたかも自分もその場にいたかのように話していた。

 溜まりにたまったストレスのはけ口はどこにもなかった。ただ、孤独な学校生活と、家で明るい学校生活の話を繰り返す。たまに、母さんが手首切って夜勤をする。寝不足のまま勉強する。

 しょうがない。しょうがないんだ。


 ある日、また、母さんが遺書を書いて夜中手首を切っていた。今回は、結構傷が深く、開いた皮膚から奥の薄いピンク色の肉が見えていた。さすがに、これは家でどうにかできないと思って、もう4度目の救急車に乗った。いつも通りのやり取りを終え、母さんを救急センターに預け、帰宅して、食事の準備と掃除をして、すぐ学校に行った。

 夕方、風呂から上がって、洗濯を回そうとしていた時、浩介が食器を洗っていないことに気づいた。

 「浩介、食器、早く洗えよ。」

 「後でやる。」

 「何か、やることあるの」

 「今、ドラマ見てるから、終わってから。」

 浩介はマイペースで、決まった時間に決まったことをやるタイプではない。でも、この日は、なぜか妙にイライラしていた。

 「あのさ、何で先に洗わないわけ?ドラマ観る前に、時間、あったでしょ。」

 「いいじゃん。別に寝るまでに洗い終われば、困らないじゃん。」

 「寝る時間が遅くなるだろ。」

 「俺、中2だし。小学生じゃないんだから、自分で起きれるし。」

 「いや、先に洗ってくれってお願いしてるだけじゃん。」

 「だから、今日は無理。今度から気を付ける。」

 「なんだよそれ。今度からちゃんとやるの?」

 「うるさいなあ。しつこい。寝るまでにやるって。黙って。」

 「ちゃんと返事ぐらいしろ!」

 「なんで、そんなどうでもいいことで俺がそんなに文句言われないといけないわけ? 兄ちゃん、母さんみたいだね。」

 カチン。俺は座っている浩介の頭を右足で蹴とばして、浩介の顔を、グーで殴った。倒れこんだ浩介は、すぐに丸くなって、体を伸ばす勢いを使って、俺の腹に蹴りを入れた。

 「調子に乗んなよ!」

 「うるさい!じゃあ、兄ちゃんが勝手に洗え!死ね!」

 そう言って、浩介は部屋に行き、家中に響くほどの音を立ててドアを閉めた。その後、家の中は妙な静寂に包まれた。


 そんなにキレる意味が分からない。「母さんに似ている」なんて、許せない。


 浩介が寝てしまって、しばらく台所で麦茶を飲みながら考えていた。冷静に考えて、俺が浩介に「皿を洗え」と言ったことは、明らかに理不尽だ。今まで、浩介が皿を洗わずに放置して朝を迎えたことなど、今まで一度もなかった。いつも、キチンと自分の役割を全うしていた。

 すべては、俺の怠けた性格のせいだ。友達もいない、部活も辞めた、テストで点数が取れない。やはり、俺は、母さんと同じ、「ナマケモノ」なのかもしれない。つまらないことでイライラして、弟に八つ当たりして、年下相手に暴力に訴えて。情けない。

 台所の引き出しの取っ手に、母さんが飲んでいた薬がぶら下がっていた。安っぽいビニール袋の中に、パンパンに白い紙袋が詰まっている。その中の一つをつまみあげ、中身を見てみる。白やベージュの錠剤が5個くらい入った包装が、蛇腹のようにつながっていて、「7月8日」「就寝前」など、細かく飲むタイミングが書かれている。これ、昨日の分じゃん。飲んでないのかよ。

 試しに、袋を開けてみた。風邪をひいた時に飲んだことのある錠剤と、大差ない。軽くて、床に落としたら見失いそうになるような、小さな粒。母さんは、これを飲んで、楽になっているのだろうか?俺も、少しは楽になれるのだろうか?

 コップに蛇口の水を入れた。薬が散らばらないように、そおっと封を開けた。ふと、背後を確認した。浩介は、起きてこない。掌に収まっている5つの錠剤を、口に放り込み、静かに水を飲んだ。水が喉から胃の方に流れていく感覚が鮮明だった。このとき、今日もろくに食事をしていないことを思いだした。

 薬というものは、飲んだらすぐに何かが起きるという事ではないと知っていた。でも、なんだかすっきりした気がした。明日から頑張れるかな。というより、浩介に謝らないといけないな。

 開いた薬の包装を、ゴミ箱の一番奥の方にねじ込んだ。少し汚れた手を洗った。急に眠気がきた。そして、母さんがいつも使っている座椅子を枕替わりにして、リビングで横になった。時計は、とっくに日付を跨いでいた。



 しばらくして、目が覚めた。時計は5時。いつも起きる時間だ。しかし、なんだこの頭痛は。意味が分からない。頭のてっぺんから首筋にかけて、猛烈に痛い。体を起こそうにも、頭が痛くて重くて、それどころじゃない。痛い。重い。苦しい。ああもうこれ、学校どころの話じゃない。なんだこれ。気持ち悪い。

 リビングを這って、電話台の下にある引き出しを開ける。体温計。寝転がったまま体温を測る。息が荒れる。苦しい。熱は?37.1℃?これで微熱?インフルエンザになったときよりきついんだけど。

 頭を必死に押さえつけて、体を丸める。痛みは一向に良くならない。ぐわんぐわんと頭から音がする。脳味噌の中で血が脈打つたびに、トンカチで叩かれたような衝撃に襲われる。なんだこれ。母さん、こんなもの飲んでんのかよ。

 どれくらい時間が経ったか分からない。廊下の方から音がする。浩介が起きてきた。俺は、全ての力を込めて、体を起こし、テーブルのいつものところに座った。

 「兄ちゃん、起きてたんだ。」

 「うん。」

 「昨日、ごめんね。」

 「あ、いや、俺こそ、ごめん。なんかイライラしてた。」

 「今日から、ちゃんとする。」

 「それよりさ。」

 「ん?」

 「ちょっと具合悪くて、朝ごはん、出来てないんだよね。ごめん。」

 「え?そうなの?」

 「熱測ったけど、微熱だった。」

 「学校は?」

 「とりあえず、自分で電話する。ごめんけど、今日の朝飯、適当に自分でやって。」

 「わかった。部屋で寝たら?」

 「そうする。」

 俺はすくっと立ち上がり、スタスタと部屋に向かう。部屋の扉を閉めたところで、また、あの頭痛が押し寄せてきた。布団に潜り込み、頭を抱え、丸くなった。痛い。重い。苦しい。眠いのに、眠れない。寝たいのに、寝れない。

 しばらくして、部屋の扉が開く。浩介が「学校、行ってくるね。」と一言言われた。

 俺は、浩介が学校に行った後、リビングまで這って行って、高校に電話した。担任が不在だったから、出てくれた先生に、「4組の山元は、今日、体調不良で休みます」と伝えた。


 そのまま、リビングで横になった。額から冷たい汗が落ちてくる。頭が痛い。苦しい。もがきながら、痛みが和らぐ体勢を探した。体を丸めてうつ伏せになり、額を床に付け、土下座をするようなポーズが一番楽だった。そのまま、意識が飛んでいった。



 目を覚ますと、頭痛は収まっていた。それなのに、ひどく気怠かった。時計は2時を指している。外は明るい。昼か。

 お腹は空いていたけれど、何もやる気が起きず、眠気が勝っていた。台所に行き、朝食用に買っていた薄皮クリームパンを取り出して、口に運ぶ。正直、美味くない。台所の小窓の向こうで、鳥が鳴く声が微かに聞こえる。今頃、5限目の真っ最中なんだろうな。

 休んでいて、何もしていないのが不安だった。部屋からカバンを持ってきて、勉強道具を机の上に広げる。とりあえず、数学。教科書の文字が、何かの記号にしか見えない。いや、記号なんだけれど、それを解読する余力がない。時間だけが過ぎていく。

 薬を飲んだことを、激しく後悔した。こんなことなら、飲まなきゃよかった。自分の生活すべてが乱れる。

 母さんは、自殺しようとするとき、この袋を10袋くらい開けていた。前回もそうだった。そんなに飲んだら、本当に死ねると思う。というか、母さん、よく生きてるな。俺は1袋で死にそうだよ。

 ぼーっとしながら、外を眺めた。すりガラスから、隣のアパートの黄ばんだ壁が太陽光を反射させて、こちらに降り注いでいる。薄汚い柔らかな光に、心が押しつぶされそうになっていた。ふと立ち上がって、洗面台の前に立った。自分の顔を見てみる。目の下のクマが目立ち、髪は寝癖が残ったまま。痩せこけた細長い顔が映し出されている。

 「おい、お前は、何がしたいんだ。お前はどうして、ここにいるんだ。学校に行くんじゃないのか。家族を支えるんじゃないのか。なんで頑張らないんだ。なんで逃げてるんだ。馬鹿じゃないのか。もっと頑張れよ!」

 鏡の中に映し出された自分が涙を流している。そして、放った言葉が反射して、心臓に突き刺さる。痛い、苦しい。締め付けられるような悲しみが溢れて、涙が止まらなかった。ふがいない自分が情けなかった。母さんにぶしつけな態度を取った自分を恥じた。浩介に八つ当たりして手をあげた自分が醜かった。こんな卑しい存在が、この世に存在していいものなのか。誰か答えを教えてくれ。俺は何のために生まれてきたんだ。

 もう、気力がなくなって来た。寝よう。部屋に戻って、布団にくるまった。泣きすぎて疲れていた。


 浩介は、何も変わらない様子で帰って来た。その後、俺に「これくらいなら」と目玉焼きを作って持ってきてくれた。「ありがとう。でも、具合が悪いから、いいや。明日の朝、食べるよ。」と言った。なぜか、その後、ぐっすり眠れた。



 あくる日から、いつも通りに学校に向かった。宿題は何一つ終わっていないけれど、体調不良で休んだことを知っていたらしく、先生たちから叱られることはなかった。

 いつも通りに過ごし、帰ろうとしたときに、廊下で、担任に呼び止められた。

 「山元、ちょっと、いいか。」

 「なんですか?」

 担任は、学校内では有名な「怖い先生」だった。生徒の態度に関わらず、「課題をやらないヤツは、努力が足りない。」と、指名した生徒が解答を出せるまで指名し続け、授業中に泣いてしまう子もしょっちゅういた。泣いても何をしても許されない。「答えを出す」こと以外に許される方法はなかった。俺は数学が得意だったから、その標的になることはなかったが、やはり近寄り難い人で、苦手な存在だった。

 俺、何かしたかな?

 担任は俺を、教室から少し離れた空き教室に連れて行った。恐ろしい拷問が始まるのではないかと思えるほどのプレッシャーだった。

 「お前、飯はちゃんと食べているか?」

 「は?は、はい。ちゃんと食べてます。」

 「夜は眠れているか?」

 「はい。」

 「一日、何時間くらい、寝れてるのか?」

 「あ、あの、家事とかなんとかして、その後課題したりしてますけど、ちゃんと寝られてます。」

 「いつも、何時に寝てる?」

 「えっと、12時くらいには寝てます。たまに1時くらいになるときもありますけど。」

 「起きるのは何時だ?」

 「ご、5時くらいです。」

 「一日、4,5時間か。もうちょっと寝た方がいいぞ。俺も、忙しいけど、6時間くらいは寝てる。それくらいは寝ないと、体が持たないぞ。」

 「は、はい。すみません。」

 「何か、困っていることはないか?」

 唐突に聞かれて、困った。たぶん、この前急に休んだから、「なぜ休んだか」を突き止めたいのかもしれない。怖くて、顔も見られない。うつ向きながら、質問に答えた。

 「いや、困ってません。この前は、急に休んですみません。ただ、体調が悪かっただけなので。」

 「お前、自分で電話してきたろ。なんで親が連絡してこないんだ。」

 「母は、早くに仕事にでていたので。自分で電話するように言われただけです。」

 「そうか。それならしょうがないか。」

 恐る恐る、担任の表情を伺う。担任は、いつもの怖い表情をしていたが、それよりも、困っている様子が窺えた。もしかしたら、本気で心配してくれているのかもしれない。

 「お前はな、クラスの中でも、特に悪いこともしていないし、課題もきちんとしてくる。難しい問題も、一生懸命解いてくる。それは、評価している。だけどな、部活、辞めただろ?最近成績も下がってきているし、この前急に休んだから、何か家とか学校とかで困っていることでもあるのかな、と思ってな。」

 「いや、何もありません。大丈夫です。」

 「そうか…。なら、しょうがない。とりあえず、ちゃんと寝て、食べるんだぞ。」

 「はい。すみません。」

 そう言って、俺はそそくさと教室を後にした。

 担任に、部活や成績のことで、怪しまれてしまった。でも、家族のことは言えない。言っちゃいけない。これは、俺が乗り越えないといけないことだ。ばれないように、ちゃんと、しなきゃ。

 自分が放った嘘が、自分を苦しめる。真綿でじわじわと首を絞めつけられている感覚。でも、それを決めたのは、自分。責任を取るのも自分。この痛みは、自分の責任。俺が悪いんだ。

 振り返り、巨大なK高の校舎を見つめる。ここには、自分の将来がかかっている。ここで評価されなければ、未来はない。テストで点を取る。きちんと授業を受ける。生活をきちんと成り立たせる。俺に課せられた試練は、これだけだ。なんてことはない。やり切るだけだ。例え、嘘をついてでも。


 その日、少し時間があったから、寄り道をした。


 「精神科で入院している、山元伸子の息子です。面会に来ました。いいですか?」

 受付に、そう言って、面会を申し出た。「そちらでお待ちください。」と言われたので、大きめの椅子に座って周りを眺める。受付のお姉さんは、受話器を取って、どこかと連絡を取っている。

 俺の周りには、他の受診患者らしき人が大勢いた。比較的、老人が多いように感じた。若い女の人もいるし、スーツを着た男性も座っている。精神科って、結構需要があるんだな。

 受付のお姉さんから「面会の許可が出ましたので、ご案内しましょうか?」と言われたが、「場所、知っているので、自分で行きます。」と言って断った。

 二重扉をくぐって、すぐ手前の小さな面接室のようなところに通された。白い壁に、一枚、花の絵が飾ってあるだけの殺風景な部屋だ。しばらくすると、母さんが入って来た。血色はあまりいいような感じはしない。というか、これがいつもの状態。腕には、傷を隠すためなのか、大袈裟に包帯が巻いてある。むしろ、その方がリスカしたことがはっきりわかってしまうんじゃない?と思えるほどだった。

 「今日、来る予定だったっけ?」

 「いや、時間があったから、来てみただけ。」

 「そうなの。看護師さんから、『面会の予定、ちゃんと連絡するように』って注意されちゃった。今度から連絡して。」

 「わかった。ごめん。」

 母さんは、そこから、病院の愚痴を言い始めた。看護師にすぐに注意される。同室の女の人の話し声が大きい。食事が沢山食べられないのに、ちゃんと食べろと言われる。薬の量が増えて、体調が悪い。先生が、薬の量を減らしてくれない。

 そんなどうでもいい話ばかり聞かされて、うんざりしていた。俺は、聞きたいことがあって来ただけだった。

 「で、母さんは、次いつ家に戻ってくるの?」

 「それなんだけど、今回の入院は少し長くなりそうだって。」

 「そっか。」

 「でも、今、外泊をお願いしてる。」

 「その時は、迎え、いるの?」

 「実はね、母さん、加代子姉ちゃんに連絡したの。それで、迎えに来てもらえる時に外泊しようと思ってるの。」

 「加代子伯母さんに連絡したんだ。それなら、俺の迎えはいらないね。」

 「ごめんね、いつも。とりあえず、お母さん、あんたたちに迷惑かけないようにするから。」

 「別に迷惑とかないけど。」

 「まあ、お母さんは自分でするから。ちゃんと食べて、寝て、学校に行くのよ。面会も、無理してくる必要ないからね。」

 「わかった。」

 母さんは、弱々しく話していた。自分でやると言ったけれど、自分でできるほど余力がある様にも見えなかった。俺は、「体に気を付けて」と母さんに伝えて、病院を後にした。

 俺は、担任からも、母さんからも「ちゃんと寝て、ちゃんと食え。」と言われた。けれど、それが一番苦しい言葉だった。


 言うのはタダかもしれない。でも、俺がそうしていたら、誰が家を片づける?誰が浩介の面倒を見る?自分の面倒を見ることができていない俺が偉そうに言えたもんじゃないけれど、俺は、ちゃんとしているし、頑張っている。自分のことをないがしろにしても、家族のために頑張っている。なのに、「自分を大切にしなさい」だってさ。俺の努力は無駄だと言いたいのか。

 帰り道、グダグダと頭の中で、担任と母さんの言葉を批判し続けた。そんな自分に、嫌気がさしていた。

 「俺、生きてる意味、あるのかな。」


 家に帰ると、浩介が食事を作ってくれていた。テスト前で、部活が休みだったらしい。豚と玉ねぎを、焼肉のたれで炒めたものだった。風呂も洗ってあったし、「今日は、俺がするよ」と言って、食器を洗うのも、明日の準備も、全部してくれた。俺は、食べ終わった食器を下げて、風呂に入って、寝るだけで良かった。

 有難い気持ちと一緒に、自分の必要のなさを感じていた。もう、俺がいなくても、浩介は自分のことはおろか、俺の分のことまでできるようになっている。

 俺は、ここにいなくても、問題ない。

 そう思うと、もうどうでもよくなっていた。


 母さんが外泊した時、加代子伯母さんが「ごはん、たまに作ってきてあげるからね。」と言ってくれた。俺が作るよりも断然美味い料理を、2~3日分、まとめて作ってくれた。俺は、いよいよ、することがなくなった。



 夏休みは始まったものの、K高では、夏期講習と言う午前授業が実施されていた。その後、他の生徒が部活に打ち込んでいる頃、俺は一人自宅に帰っていた。ギラギラと夏の日差しが眩しい中、とぼとぼと一人で歩く帰り道は、寂しさと虚しさがのしかかって、肩が凝った。

 夏休みは、正直、することがない。家のことは十分にする時間がある。学校の課題もしなければならない。それでも、今までに比べると、遥かに暇だった。時間を持て余していた俺は、家で一人、世間を批判するニュースや、東京のグルメについて放送しているテレビを見続けた。よくわからないドラマを見たりもしたけれど、大体、誰かが死んで、それを解決するまでで完結する決まりきったパターンで、つまらない。母さんが家に残していたタバコを吸ってみたけれど、不味くて煙たいだけで、楽しくもなんともない。ビールも飲んでみたけれど、一口目が不味すぎて、すぐに流しに捨ててしまった。

 母さんは、夏休み中に退院してきて、夏休みが終わろうとした時に、また手首を切って、入院した。母さんが入院する際、俺は、なぜか母さんの薬の袋から、3日分の薬を抜き取って、持って帰った。学ランのポケットにある小包装を手で確認しながら、麻薬の密売の手伝いをしている気分だった。家に帰って、薬をキッチンの戸棚に隠した。普段、浩介が絶対に触らないところ。誰の目にも触れないように気を配った。自分でも、何でこんなことをしているのか、分からなかった。



 2学期が始まってからというもの、完全に今までの生活に戻っていた。変わったことと言えば、伯母さんがご飯を作りに来てくれていたことぐらい。あとは、基本的に浩介と二人の生活。浩介は、部活が忙しいらしく、毎日朝早く家を出て、遅くに帰って来た。

 伯母さんが頻繁に来てくれるようになったから、食事の準備は忙しくなくなった。浩介も、自分のことは自分でできる。母さんが、外泊や入退院の手伝いを伯母さんにお願いするようになった。寝る時間も十分に取れるようになった。気づけば、自分のことに集中することができる環境が出来上がっていた。

 でも、俺は既に、家族のために部活を辞めている。家に1人で早く帰宅しても、勉強する時間はたくさんあるが、全くやる気にはならなかった。


 夜、部屋の天井を眺めながら、自分の生きている意味について考えた。友達と会話をしない学校、元部活仲間との気まずい関係、勉強以外にすることがない自宅、毎日毎日行き来する生活。楽しくもないし、これ以上楽しくしようという気にもならない。何もかもから逃げ、世俗から離れ、生殺しの状態で、だらだらと生かされている感覚がした。生簀の中で捌かれる日を待っている魚のような自分が、疎ましかった。いっそのこと、殺してほしかった。

 ん? 殺す? 自分を?

 ふと、戸棚に隠した薬のことを思い出した。そうか、その手が残っていたか。

 俺は、明日、朝、浩介にどんな言葉をかけるか、考えた。できるだけ不自然にならないように、あくまで自然な流れで。少しだけ、気分が高ぶった。明日、実行に移そう。そう思うと、心が軽かった。

 母さんも、こんなことを考えていたのかな…。



 「おはよう。」

 「…。」

 「兄ちゃん、起きてる?」

 「ん…。起きてるよ。」

 「どうしたの?」

 「ちょっと、具合、悪いみたい。」

 「顔色悪いね。」

 「疲れが溜まってたのかも。」

 「兄ちゃん、俺、学校行くけど。」

 「わかった。」

 「朝飯は?」

 「大丈夫。自分で適当にする。とりあえず休むわ。」

 「そっか。わかった。じゃあね。いってきます。」

 「いってらっしゃい。」

 浩介が、玄関から出て、ガチャリと鍵が閉まる音がした。上手くいったみたいだ。

 俺は、浩介が戻ってこない様子を確認して、起き上がった。洗面台に行き、いつも通り、学校に行く準備を始めた。顔を洗い、歯を磨き、寝ぐせを直した。鏡に映った自分の顔は、相変わらず痩せこけていたが、なんだか嬉しそうな表情をしていた。

 学ランに着替えて、テレビをつけてみた。

 「今日の1位は、おめでとうございます!やぎ座のあなた!気になるあの人と恋の予感!いつもより積極的に会話をすると、良いことが次々に起きます!」

 はは。そりゃあ、よかった。

 俺は、テレビを消して、台所に向かった。戸棚の奥の方に手を伸ばし、隠していた薬を取り出した。3袋。確かにある。

 袋を破ると、力が入り過ぎたのか、薬が床に散らばった。そのまま、次の袋も力任せに破いて、床に散らばせた。その次も。

 散らばった錠剤とカプセルとかき集めて拾った。うっすらとゴミが付着している。これくらいが丁度いい。

 手のひらに乗っかっている、15錠くらいの薬を、口に運んだ。蛇口の水を手ですくって、ごくごくと飲み込んだ。体の中心に、水と錠剤が侵入している。それが、腹の少し上の方で留まっている。俺は、しばらく、誰もいない部屋を、ぼーっと眺めた。

 この部屋で、母さんが暴れたことがあったな。その時、俺のウルトラマンのビデオを壊されたんだっけ。あれはショックだったな。大切にしていたのにさ。英語の教育ビデオは、ずっと置いてあるし。どういうつもりなんだよ。何回閉め出されたことか。母さんは、結局、俺らなんかより、自分のことしか考えてなかったんだな。浩介も、俺に「死ね」と言ったことがあったな。望み通り、そうしてやるよ。俺は、生きている価値のない存在なんだ。生きていても、これから先も、良いことなんてないんだろう。逃げ場も、救いの手も、何もない。ま、今まで楽しかったな。

 次第に、体が重たくなってきた。と思った次の瞬間に、強い眠気と激しい頭痛が襲った。俺は、部屋に戻り、ふとんに潜った。お腹の中が熱くなる感覚が増してきた。

 俺は、これを待っていた。

 脳味噌が爆発して頭蓋骨が割れそうなくらいの痛み。俺は、激痛に感謝していた。ああ、これで、ラクになれる。この世から消えてなくなることができる。今までついてきた嘘も、我慢してきた本音も、全部、闇に葬ることができる。


 意識が朦朧としてきた。

 俺ががここで冷たくなっているのを、だれが最初にみつけるのかな。

 そういえば、いしょ、書いてないな。かくこと、ないしな。

 じごくかな。じごくは、いまより、ましかな。

 そういえば、あさめし、たべてないな。

 かあさんも、こんなきもちだったのかな。


 つぎは、もっと、いいところに、うまれたいな…

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遠い星で、また会おう。 ヨウ @lxifxe

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