第5話 嘘が嘘を呼ぶ

 俺は、K高に進学して、驚愕した。今まで学校のトップクラスだった俺が、平均点の場所にいる。テストはとても難しかった。授業の進度も早く、宿題の量もどっと増えた。俺は、「授業を聞いて、宿題しておけば、高得点が取れる。」と信じていたから、そうしたけれど、そもそも宿題の量が多すぎる。教科書のこのページ全部和訳してこいって、リーディングの先生、鬼だ。

 当然のようにソフトテニス部に入った。しかし、ここでも、レベルの差を見せつけられた。そこには、中学時代、何度もトーナメントのシードに名前を連ねていたメンバーが横に並んでいた。俺は、中学時代と違い、最下位からスタートした。当然ながら、サーブレシーブの正確さ、ストロークの威力、守備範囲の広さ。どれをとっても、一級品で、駆け引き以前のレベルの違いをまざまざと見せつけられた。それでも、一生懸命部活ができる楽しみに変わりはなかった。

 しかし、俺には「言えない事情」がある。だから、部活のあと、すぐに家に帰らなければならない。友達は、「部活のあと、一緒にジョイフルで勉強しようぜ。」「いいね!課題、教えてよ!」と楽しそうに話をしている。俺は、「ごめん、うち、門限あって、帰らないといけないんだよね。」と言って、いつも誘いを断った。「大変だね。」と言って、俺以外の同級生みんなは、一緒に反対方向に歩いていく。家に門限など、ない。あるのは、家事と宿題だけだ。

 母さんは、この頃にはとっくに家事をしなくなっていた。家に帰れば、キッチンの換気扇の下でタバコを吸っているだけ。たまにビールを飲んでいる。いつしか、ご飯を炊くのは浩介の仕事で、それ以外を俺がやっていた。

 友達と一緒に遊びたい。けれど、俺がいないと、この家族はどうなる?

 家に帰り、浩介が「部活お疲れ。」と話しかけてくる。俺は、「ああ。」と言って、洗濯機を回し、食事の準備に取り掛かる。学校の話など、一言もしなくなっていた。

 「兄ちゃん、部活、上手くいってないの?」

 「何?急に。」

 「いや、高校に行ってから、部活の話、しなくなったなーと思って。」

 「楽しいよ。今日も、友達と一緒に練習した。みんな強いんだよね。」

 「まあ、K高、ソフトテニス有名だもんね。」

 「ついていくのがやっと。レギュラーとかほど遠いよ。」

 そんな話をしながら、食事を済ませ、食器を洗い、室内に洗濯を干す。その後、リビングで宿題を広げる。課題に取り掛かる。母さんが一番に寝床に付く。その後、テレビドラマを見終わった浩介が「先に寝るね。」と言って、寝床に付く。

 家族が寝静まった後、なんとか宿題を終える。時計を見ると、もうあと5分で日付を跨ぐ時間だ。俺は静かに部屋に戻り、寝床に付く。

 朝は、5時ころ起きる。洗濯物を外に出し、朝ごはんの目玉焼きを焼く。みそ汁はインスタント。それと、自分の弁当を準備する。冷凍食品を詰めただけの、簡素な食事だ。その後、掃除機をかけると、浩介が目をこすりながら起きてくる。

 「兄ちゃん、寝てる?」

 「ちゃんと寝てるよ。」

 「昨日何時に寝た?」

 「11時には寝たよ。」

 「そうなんだ。ならいいけど。顔色悪いよ?」

 「熱はないから、大丈夫。それより、中学、朝練あるんだろ?さっさと準備しなよ。」

 「そうする。」

 母さんは、俺らが家を出た後に起きてくる。だから、作った朝食にラップをかけてテーブルに並べる。6時半。バスの時間が迫っている。俺は、カバンとラケットバックを抱えて家を出る。

 バス停まで歩いて20分。そこから、小一時間バスに揺られる。いつも座れない。この時間は、英単語の小テストに備えて、単語帳を開く。バスに揺られながら、単語帳に目を通すが、眠気が勝ってしまう。つり革だけを離さないように注意しながら、少し目を閉じる。休まらない。

 学校では、いたって普通に振る舞う。どんどん進む授業に食らいつく。隣で寝ている友達を、先生が注意する。俺は、とにかく寝ないことだけを意識して、顔をあげる。昼食の時間、クラスの友達と一緒に食事をしていたが、それ以上に眠たかったから、弁当をかきこんで、机で寝る。授業のチャイムに気づかず、先生に起こされて、午後。その後、部活に向かう。練習で声をあげ、球を拾い、順番にコートに入る。みんな、上手い。そして帰りのバスで、友達の誘いを断り、帰宅する。エンドレス。

 「山元、お前、何か疲れてない?」

 「いや、別に。」

 「なんか、目つきわるいぞ。」

 「もともとこういう感じだし。いちいち、うるさいわ。」

 友達にこういう態度を取ってでも、俺は授業と睡眠を優先した。だから、友達はどんどん俺から離れていく。いつしか、教室でも部活でも、友達と話をすることがなくなっていた。



 部活には、時間とお金がかかる。毎週の土日の部活は、いつもの登校時間に学校に来て、日が落ちるまで続く。週に1度は、市営のテニスコートに行き、他校と練習試合をする。バス代は自費。試合に出るのは、レギュラーの先輩たちだけだから、1年生は応援をする。コートの金網にしがみつき、必死で声を出す。意識が飛ぶ。

 「おい!山元!お前、先輩の試合の応援中に何寝てるんだ!やる気出せ!」

 「すみません!」

 2年の先輩から叱られ、顔をあげて、応援する。試合が終わった後、他の部員は学校に帰って練習をするという。俺は「すみません、門限があるので…。」と帰ろうとした。

 「おい、お前、戻って練習しないのかよ。」

 「いや、門限が…。」

 「親に頼んで、門限ずらしてもらえよ。高校生が門限7時とかありえないだろ。」

 「いや、そうは言っても…。」

 「そんな風に逃げてるから、お前、下手くそなんじゃないの?応援中に寝てるし、やる気、あるの?」

 「すみません…。門限があるので…。」

 2年の先輩が、辛辣な言葉をかける。わかってますって。俺は逃げてるだけなんです。もうそんな風に言わなくてもいいじゃないですか。

 疲れ切った体をバスの座席に沈みこませた。課題はもう終わってるから、帰ってご飯作って洗濯干して食器片付けたら、とっとと寝よう。

 「俺、なんで部活を続けてんのかな…。」

 心の中で、もうこれ以上は無理かなあ、と思いながら、とぼとぼと家に帰っていた。


 明日は学校だし、課題も終わっていた。珍しく、浩介が「洗濯、俺がしておく。」と言ったので、甘えさせてもらって、部屋に戻った。時計は8時を示していた。食器は明日片付けよう。そう決めると、布団の中で意識が一瞬で飛んだ。




 ふと目が覚めた。真っ暗な部屋。隣では、浩介が寝息を立てている。目覚まし時計を見る。1時かぁ。あと4時間は寝れるなあ。そう思っていると、ドアの向こうから、水の流れる音がした。お隣さんかな?と思ったけれど、どう考えても、うちの中から音がする。しかも、この音は、台所の方からの音じゃない。


 風呂場…?


 疲れた体を起こして、ドアを開ける。歩くと、ミシミシと古い木造アパートの廊下がきしむ音が気になった。静かに、静かに、進んでいく。母さんの部屋のドアが開いている。また、静かに廊下を進む。台所に、中身のない薬の袋が何枚も置いてある。その横に、小さな紙きれが置いてある。


 ようすけ、こうすけ、ごめんなさい。いままで、ありがとう。おかあさん、死ぬね。


 そこで、初めて、事の重大さに気づいた。風呂場に急ぐ。電気をつける。母さんは、浴槽にもたれかかる様にうなだれて、左腕の赤いバーコードのような切り傷に、蛇口の水を浴びせていた。浴槽の中に、赤い液体がたまり、洗剤の泡がたまっていた。母さんは、電気の明かりに驚き、俺の方を向いた。

 「母さん、何してるの!?」

 「お願い!死なせて!」

 「なんでこんなことするのさ!?」

 「もう、ムリ!死なせてよ!」

 母さんは、わんわんと幼児のように泣き出した。今まで見たことのないような、拙い叫びだった。俺は、急いでバスタオルを持ってきて、母さんの腕を押さえ、リビングに連れてきた。

 「なんで死なせてくれないの!?」

 「わかった、わかったから!」

 「もうムリなんだって!」

 「家のことは、俺がなんとかするから!大丈夫だから!」

 俺は、電話機をとって119番する。「母さんが、血を流して倒れてるんです!」と言って、初めて救急車を呼んだ。

 浩介が、何事かと起きてきた。母さんはしくしくと泣いている。

 「なにがあったの?」

 「ちょっと、説明は後。とりあえず、今から救急車来るから。あ、風呂場は見るなよ。」

 「なんで?」

 「いいから早く部屋に戻れ!殺すぞ!」

 浩介は、俺の表情を見て驚き、急いで部屋に戻る。その後、母さんが少し落ち着いてきた。小さな声で「死なせてよぉ…。」とつぶやいていた。


 救急隊員が到着した。体の大きな男性2人。

 「何があったんですか?」

 「死のうとしたみたいで、手首切って、風呂場で、血を流していて。」

 「とりあえず、救急車まで運びますね。息子さんですか?」

 「そうです!」

 「高校生?」

 「はい!」

 「お父さんは?」

 「いません。母子家庭です。」

 「わかりました。とりあえず、息子さん、一緒に来てくれる?」

 「はい。」

 とりあえず、部屋に行った。浩介が、怯えている。

 「さっきは、ごめんな。」

 「なにがあったの?意味が分からない。」

 「母さんが、手首切って倒れてた。」

 「ええ!?」

 「とりあえず、俺はついていく。浩介は、もう寝て、明日普通通り学校に行けよ。」

 「いや、無理でしょ!こんなわけ分からない状態で、俺を一人にするわけ?!」

 「いいから。」

 「いいから、じゃないでしょ!」

 「うるさい!言うこと、聞け!」

 浩介が、ビクッと体を強張らせる。

 「ごめん、細かい説明は後。とりあえず、母さんを病院に連れて行って、帰ってくるから。頼む。言うこと、聞いて。」

 浩介は、怯えたように頷いた。救急隊員が「弟さん、一緒でもいいけど。」と言ったけど、断った。こうして、生れてはじめて、救急車に乗った。


 救急車の中で、母さんはぐったりしている。小さい声で「ごめんね、ごめんね…。」とつぶやいている。ごめんじゃねえよ。

 救急隊員が、どこかしらと連絡を取っている。母さんの状況を見て、何かのタグみたいなものに「軽症」と書いていた。どこどこの受け入れできますか、みたいな話をしている。母さん、これ、軽症なのか。窮屈な社内で、ぎしぎしと担架のベッドが揺れる音がする。サイレンが街に鳴り響いている。外は、真っ暗で、どこに向かっているのかも分からない。母さんの腕に、包帯が手際よく巻かれる。作業の合間から見える傷は生々しかった。

 そうこうしているうちに、病院に到着した。母さんが運ばれて行く。それについていく。「息子さんは、ここで待っていてください。」と、病院の待合室に連れて行かれた。誰もいない病院、待合室だけに電気が点いていて、受付も奥の廊下も真っ暗だ。母さんは、死ぬのか?軽症と書いてあったから、死なないんだろうか?時計は2時を指している。寝る時間、あるかなぁ。


 しばらくして、病室に呼ばれる。母さんは、眠っているようだった。お医者さんが俺に話をしてくれた。母さんは、手に傷をつけただけで、命に別状はないと。そして、精神科の入院が必要だと。かかりつけの病院に連絡して、入院できるように手配したと。明日、転院の手続きのために、母さんを迎えに来てほしいと。

 「頼れる親戚はいる?」

 「…いません。」

 「明日、もしよかったら、誰か大人と一緒に、お母さんを迎えに来て。」

 「夕方に来たらいいですか?」

 「それで十分だよ。疲れだだろう?今日はしっかり寝てね。明日は、学校休んだ方がいいよ。」

 その後、病院がタクシーを呼んでくれた。お金がないと言ったら、お金はいらないよ、と言われた。それは申し訳ないからと話したけれど、タダで乗せてくれた。

 帰りのタクシーの中で、割増と書かれた料金メーターを眺めていた。お金はいらないらしいけれど、料金はどんどん上がっていく。帰って、小遣いから、お医者さんにお金を帰そう。と思っていたけれど、6千円を超えたあたりで「甘えさせてもらおう。」と気持ちが変わった。自宅について、お礼を言って、タクシーを降りた。タクシーの運転手さんは、終始無言だった。

 家に帰ると、浩介がリビングで突っ伏して寝ていた。風呂場をのぞくと、電気が点いたままだったが、蛇口の水が止まっており、元のきれいな浴槽に戻っていた。浩介、ごめんな。ありがとう。

 もう、時計は4時を回っていた。俺は、一度シャワーを浴びて、食器を洗い、いつも通り食事の準備をした。弁当も、いつも通り準備した。

 うつ病は、ナマケモノがなる病気。それが、友達にばれちゃいけない。俺は、いつも通り。何もなかった。そう自分に言い聞かせていた。

 「浩介、今日は、休んでね。学校に連絡を入れておくから。ご飯食べてね。」と書置きを残し、母さんの携帯電話を持って、学ランを着て、カバンを持って、家を出た。バスの時間よりだいぶ早い時間だったけれど、浩介にどう声をかけていいかわからなかった。7時くらいになり、母さんの携帯から「浩介は、熱があって、一日休みます。」と連絡を入れた。その後、電源を切り、カバンの底に投げ込んだ。いつも通りバスに乗ったときに気づいた。ラケットバックを持ってきていない。

 もう、いっか。

 母さんを、家を、浩介を、支えることができるのは、俺しかいない。そう感じていた。単語帳を開いたが、アルファベットが頭に入ってこなかった。


 放課後、職員室のドアを叩き、部活の顧問のところへ出向いた。普段、別の学年の授業を担当している顧問は、不思議そうに俺の顔を覗き込んだ。

 「あの…。先生、すみません。」

 「おう、山元、どうしたんだ?」

 「いや…実は、部活を辞めたいと思って。」

 「え?どうした?」

 「最近、部活についていけないし、家が貧乏で、遠征費が出せないんです。」

 「いや、それなら、無理に遠征に出なくてもいいって話はしたじゃないか。」

 「そうなんですけど…。」

 「他に何か悩んでいることがあるのか?」

 「いや。実は、部活に居場所がなくて…。」

 「いじめられてるのか?」

 「いや、そうじゃないんですけど、部活についていけないし、弱いくせに遠征も出れないし。それで先輩たちの足引っ張るのも嫌なので…。」

 「山元、お前、そんなに悩まなくても、楽しんでくれたらそれでいいんだぞ?」

 「いや、辞めさせてください。ごめんなさい。部活、楽しくないので。」

 俺は、そう言って、顧問の説得を振り切って、無理やり部活を辞めた。顧問からは「俺から、みんなには説明しておく。家庭の事情ってことにしておくから。あまり気にするなよ。」と言われた。そうなんだけど、そうじゃないんだ。涙が少し出て、顧問が俺の肩をポンポンと優しく叩いた。

「大丈夫、気にするな。」

そういうことじゃないんだ。


 俺は、帰りのバスに乗り込んだ。昨日の一件で疲れ切った体を座席に沈めた。一番後ろの席から、全体が見渡せる。基本的に全員が部活をする決まりになっているからか、K高の生徒は俺だけだ。窓の外から、雲一つない空が見える。それより、窓にへばり付いた小さなゴミが気になる。指で擦ってみたけれど、取れる気配はない。汚れは外側にある。俺の視界から離れてくれない。

 もう、俺はどうしたらいいのか分からないよ。


 いつもなら、もっと先のバス停で降りるのだが、今日はそうはいかなかった。大通りで一度バスを降り、電車に乗り換える。街の中心地にある救急センターだ。受付で母さんの名前を言い、転院に付き添うことを伝え、8階までエレベーターで上がる。エレベーターを降りてすぐ目の前の個室に母さんがいる。母さんは「ごめんね。」と言い、弱々しく返事をした。

 「ちゃんと、ご飯は食べた。」

 「うん。」

 「顔色悪いよ?大丈夫?」

 「うん。」

 「お母さんのせいで、ごめんね。」

 「わかったから、早くいこう。」

 俺は母さんの荷物を持ち、看護師さんにお礼を言い、タクシーに乗り込んだ。自宅まで、母さんと一言も口をきかなかった。母さんは何か話していたみたいだけど、俺が反応しないことを見て、口を開かなかくなった。

 家に一度帰って、母さんの入院用の荷物をキャリーケースに詰める。母さんは「今日で最後だから。」とキッチンでタバコを吸い始めた。どうせ、辞められないくせに。

 荷物をまとめ、再びタクシーを呼んだ。今度は、島内駅の裏手にある丘の上の病院が目的地だ。俺は、母さんを後ろに乗せた後、その横に荷物を置き、その後タクシーの運転手にお願いして、助手席に乗せてもらった。

 タクシーから見える道のりを覚えるつもりで、前を向いた。母さんは、何をしているのかは分からない。気にはなるけれど、振り向かないことにした。

 遠くの空を眺めながら、また、窓の汚れが気になった。指で触ってみたけれど、やっぱり外側の汚れだった。拭えない窓の汚れが、俺にへばり付いて監視しているような気がして、疲れる。母さんを送ったら、とっとと家に帰って休もう。宿題、どうしようかな。

 この時、朝から何も食べていないことを思い出した。


 精神病棟というものに初めて入った。エレベーターホールを抜けて、その奥に大きなガラスの扉がある。看護師さんがジャラジャラと腰に付けている鍵を使って、扉を開ける。バタン、と大きな倉庫を開けるような音がして、そのすぐ先に、もう一つ同じような扉がある。入院、というより、収監、といった感じ。母さんの病室に向かうまで、他の患者さんにじろじろと見られたような気がした。思ったよりも老人が多い。髪の毛を金髪にしたヤンキーみたいな人もいるし、大学生くらいかなと思うような普通な感じの人もいた。ただ、目が違う。うつ病の詳しいことは一切分からなかったけれど、この場所では、俺が明らかな“異物”であることだけは間違いなかった。母さんの病室は2人部屋。すでに、病室には母さんより少し若いぐらいの女の人がベッドに座っている。話しかけてはこないが、視線を感じる。もう、この空間にいること自体が苦痛になっていた。早く、この病棟から出ていきたい。母さんは、こんなところで生活していたのか…?

 俺は、看護師さんから「もう、帰ってもいいですよ。」と言われたから、「母さん、体、治してね。」と一言伝えて、すぐに病室を後にした。

 病院を出ると、正面に沈む夕日が見えた。丘の上から街を見下ろす病院。ここから見える夕日は絶景で、太陽に吸い込まれそうだった。

 ああ、世界はこんなに綺麗なのに、どうして、こんなことをしているんだろう。

 母さんから貰った五千円札、タクシーに使えと言われたけれど、俺は、坂を下って、駅の近くのコンビニに入った。友達が「やっぱり、エルチキが一番うまいよね。」と言っていたことを思い出して、エルチキを買って、店を出た。歩きながら口に運ぶ。噛んだ瞬間、肉汁が吹き出て、のどを通る。口から胃までの通り道を、肉と油が滑り落ちていく感触が手に取るようにわかる。今日、初めての食事。あっという間にゴミになったビニール袋を、帰り道の別のコンビニのゴミ箱に捨てた。そのままコンビニに入り、普段食べないおにぎりやお菓子、ジュース、アイスを買ってみた。1200円もの豪遊だ。店から出て、コンビニの裏の小さなくぼみに座り込み、空腹を一気に満たした。どれも、おいしいはずなのに、だんだんと味気なく感じてくる。食べきれなかったポテトチップスとアイスをコンビニのゴミ箱に突っ込んで、逃げるように家路についた。お腹がいっぱいなはずなのに、眠気はなく、心にぽっかりと空いた穴は埋まらなかった。

 俺は一体、何をしていたんだろう。何も飲み食いせず、家のことだけして、学校に行って、部活を辞めて、母さんの転院を手伝って、コンビニで訳の分からないものを食べて、お腹だけいっぱいで。俺は、何のために生きているんだろう。

 ブルーな気持ちと裏腹に、体だけが、勝手に家に向かっていた。


 家の玄関を開けると、いい匂いがした。みそ汁の匂い。目玉焼きの匂い。炊き立てのご飯の匂い。浩介が、台所に立っている。家のことはほとんどやっていないはずの浩介が、晩御飯を作っている。

 「ただいま。何してるの?」

 「あ、兄ちゃん、おかえり。飯、作っといたから、食べて。」

 「学校は、行った?」

 「いや、兄ちゃんに言われた通り、休んだよ。」

 「そっか。」

 「母さんは?」

 「今日、いつもの病院に入院した。とりあえず、1か月は帰ってこないらしい。」

 「そっか。また、2人だね。」

 「ごはん、作ってくれたの?」

 「たまにはね。兄ちゃんが作ってるの、いつも見てるし。」

 「そうなんだ。」

 「あれ、何か食べて帰って来た?」

 「いや、朝から何も食べてないから、お腹空いた。食べる。ありがとね。」

 初めて、弟の手料理を食べる。みそ汁には、豆腐とわかめが入っている。豆腐は、俺が作っているより、小さく切ってある。だしの素を入れていないからか、少し味気ない。目玉焼きは、端が焦げて、箸で切りづらい。塩コショウが、少し多めにかかっている。それに、醤油を垂らして食べる。いつもなら、あっという間に食べてしまって、自分が一番に片づけているのだが、食べ過ぎたせいか、思うように箸が進まない。少しずつ、少しずつ、口に運ぶ。

 どうして、コンビニなんかで満たしたのだろう。どうして、こんなに優しいのだろう。どうして、頼らなかったのだろう。目の前にいる浩介は、もう、中学2年生になっていた。俺が母さんを支えると決めた年齢になっている。弟なんだけど、大きくなっているんだよな。

 「ありがとう、おいしかった。」

 「え、全部食べてないじゃん。」

 「今日、朝からいろいろあって疲れて、眠気がきちゃってさ。先に寝る。」

 「まだ、7時だよ?」

 「うん。眠いから寝るだけ。これ、残ったやつ、朝食べるから、ラップかけて、置いておいて。絶対食べるから。」

 「わかった。」

 「風呂も、明日入る。俺のことは気にせずに、夜、適当に過ごして。」

 「わかった。」

 浩介は少し不満そうな顔をしていた。俺は、すぐに立ち上がって、部屋に逃げ込んだ。布団に潜り込んで、枕で顔を覆った。そして、泣いた。声が出ないように、泣いた。涙が止まらなかった。

 どうして、浩介に本当の気持ちを話さなかったのだろう。どうして、強がっていたのだろう。もっと早く、正直に、話したほうがよかったんじゃないか。どうして、浩介に「殺すぞ!」なんて言ったんだろう。どうして…。

 もう、自分がなぜ泣いているのかさえ、分からなかった。今まで、母さんの病気を隠すための嘘から始まった。嘘を隠すための嘘をつき続けて、そんな自分の嘘を隠すために、浩介にまで、嘘をついた。どれが本当の自分なのだろう。

自分で自分を責めるしかなかった。



 目が覚めた。いつ眠りに落ちたのか定かではない。横で、浩介が寝息を立てていた。時計を見る。5時。体だけは、いつもの生活をキープしようとしている。

 俺は、机の上の食べかけの夕食を胃に流し込み、台所で、昨日使われた調理器具と、食器を洗った。いつも通りの時間、いつも通りの朝。制服に着替え、カバンを確認する。宿題に全く手を付けていなかったから、必要最低限のところだけ、雑に処理した。

 嘘をついたのは、俺。そして、部活を辞めたのも、家族を背負ったのも、俺。俺が責任を持って、全てを背負う。浩介、お前には苦労させないからな。兄ちゃんに、任せとけ。部活も友達も何もかも失っても、浩介だけは、俺が守るからな。

鏡に映った自分に、そう宣言した。目は赤くはれて、クマがひどかった。それでも、いつも通りにバス停に向かった。もう、学校は勉強以外しないようにしよう。バスは、定刻通りにやってきて、俺も、いつもと何ら変わりない素振りでバスに乗り込んだ。

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