第4話 時間が解決してくれる

 白球をまっすぐ上に放り投げ、タイミングよくラケットで叩き、それと同時にコートの真ん中に向かってダッシュする。レシーブは大輔の方に飛んでいき、大輔がクロスにロビングを打つ。俺は、相手の後衛がストレートを押さえるために、右に走る。ボールが飛んできたので、1、2、3とステップを踏み、ボレーを打つ。

 「よし!」

 大輔とハイタッチをして、ボールを回収し、次のサーブに備える。

 今日は、新里中学校に練習試合に来ている。1勝1敗で迎えた団体戦の3戦目、島内中と新里中の2番手同士の試合だった。この試合が、今日の最後の試合だ。僕は、大輔と「得意の体力勝負に持ち込もう。」という作戦で、なるべく長くラリーを続けるように決めた。大輔は、極端に足が速いわけではないが、体力があり、どんな強いストロークも楽々返球することができる。でも、気が短いところがあるから、僕は要所を押さえてボレーに出て決めないといけない。それから、大輔は「根性で何とかなる」というタイプで、僕とは真逆だ。頑張っている姿を見せないと、すぐにキレる。「大輔と喧嘩せずに落ち着いてペアを組むことができるのは、洋介くらいだ。」という顧問の意向で、中2からペアを組んでいる。僕はもともと運動音痴だし、体も細い。ただ、自身があったのは、長期戦でも耐えられる体力とメンタルだった。いや、というより、ただ大輔が難しい奴、という事もあるけれど。

 5ゲームマッチの試合で、すでに2ゲーム目。1ゲーム先取したあとのゲームで、デュースアゲインを繰り返している。2ゲーム目なのに、すでに20分も経っている。作戦通り。大輔に、ロブを繰り返して体力を消耗させるようにして、僕も積極的にランニングボレーをしないようにした。「相手のミスでゲームを取る」という作戦だ。

 相手の後衛は、明らかに苛立っていた。そして、強くストロークをして、ネットに引っ掛けた。ゲームは僕たちが取った。

 「よっしゃー!ラッキー!」

 相手に聞こえるような大きな声でそう言って、ニコニコしながら、大輔とハイタッチする。これで、あとはいつも通りやるだけ。

 こんな姑息な作戦、自分らと同レベルの相手にしか通用しない。けれど、勝てるならなんでもいい。そんな感じだ。案の定、相手はどんどんファーストサーブをネットにかけて、マッチポイントは、相手のダブルフォルトで終わった。

 挨拶をして、コーチのところに行く。「2ゲーム目がよかったな。よく粘り勝ちしたな。」とありがたいお言葉をもらって、水分補給に向かう。

 「洋介、お前の作戦、めちゃ上手くいったな。」

 「たまには上手くいくもんだね。」

 「でも、最後くらい、洋介が決めたかったやろ?」

 「いや、勝てたから、どうでもいい。」

 「お前、前衛向いてないよ。走り込みして、後衛になれよ。」

 「大輔に合った作戦だし、大輔じゃないとこんなことしないよ。」

 「なるほどな。まあな。とりあえず、お前ももっとポイント取りにチャレンジしていけよ。」

 「はいはい。」

 大輔は、運動神経がいい。その上、自分にも他人にも厳しい。ストイック。昭和の頑固おやじみたいな性格をしている。

 

 練習試合が終わり、顧問が解散を指示。新里中は島内中の隣の学校だから、みんなで、歩いて帰ることになっていた。

 「明日の宿題、終わった?」

 「いや、全然。」

 「みんなで、これからやらない?」

 「いいね!答え写しあおうぜ。」

 「洋介、どうする?」

 「俺は、いいや。家帰って来いって、母さんがうるさいから。」

 「洋介のところのおばちゃん、厳しいもんな。」

 「ごめんな。また土日の昼に遊ぼうや。」

 「オッケー。じゃあねー。」

 みんなに手を振り、1人で家に向かった。


 俺は、中学校からソフトテニス部に入った。理由は単純で、中学校に吹奏楽部がなかったことと、ジュンペイが「おれ、テニス部いくわ。」と言っていたから。みんな初心者からスタートしたから、練習した分だけ順位が付く。もともと運動が苦手だった俺は、一生懸命練習して、中3の先輩が卒業した今では、レギュラーに選ばれている。部内でも1,2を争うレベルだ。ただ、島内中自体がそんなに強くなくて、市内の中心部の学校は部員数もレベルも桁違い。だから、県大会なんて夢のまた夢だった。

 テニスを始めるにあたって、たくさんのお金がかかった。ラケット、シューズ、ユニフォーム、ジャージ…。ただ、不思議なことに、母さんは「楽しくやりなさい。」と言って、お金がないなんて一言も言わなかった。

 浩介は、「兄ちゃんたちがいないクラブは面白くない」と言って、吹奏楽クラブを辞めた。器用にいろんな楽器をこなしていた浩介は、クラブの先生から「部費もコンクール参加費も全額免除するから、残ってくれないか。」と母さんに電話があったらしい。母さんも「これだけ言ってくれてるなら、続ければいいんじゃない?」と言ったけど、浩介は譲らなかった。「友だちがいないと面白くないから。」と。母さんも、それに対してヒステリックになることはなく、すんなりと浩介の要求を飲んだ。

 家に帰ると、もう母さんがご飯を作ってくれていた。母さんは「おかえり。手を洗っておいで。」と優しく微笑む。

 俺は、実は母さんが会社を辞めていることを知っている。たぶん、中学に入る前だったと思う。ただ、母さんは僕ら兄弟に「仕事に行ってくる。」とかいまだに言う。まあ、借金取りからお金を取られに来るようなこともないし、別にいいか、と思っている。たぶん、どっかの男からお金をもらっているんだろうな。ま、俺がいろいろ詮索する話でもないか。

 

 「母さん、今日、練習試合で新里中に団体戦で勝ったよ。」

 「そう。兄ちゃんは勝ったの?」

 「今日は珍しく全勝した。めっちゃ調子よかったんだよね。」

 「すごいじゃん。」

 「たまには、良い思いしないとね。」

 「もうすぐテストじゃない?勉強はした?」

 「まあ、ぼちぼち。宿題やっとけばそれなりに点数取れるし。」

 「そうね。心配はしてないけど、油断したらいけないよ。」

 「はいはい。」


 学校の授業は、そんなに難しくない。僕は、勉強自体は苦手じゃない。どの教科も、80点以上取れるし、数学と理科に関しては大体90点後半は取れる。中学校で学年10番くらいをキープしている。ただ、英語だけはやる気になれない。授業も話半分に聞いている。単語とかを適当に覚えていれば、80点くらいは取れる。まあ、適当でいいだろう。

 いつも通りに食事を片づけ、部屋に戻る。宿題は、とっくの昔に終えているから、刷る必要はない。いつも、学校から帰ってすぐに済ませている。明日の授業を確認して、カバンに教科書やノートを詰める。

 「今日、浩介は何してたの?」

 「友達の家に遊びに行った。」

 「ゲーム?」

 「そうそう。兄ちゃんのキューブのコントローラー、借りたから。」

 「勝手に借りてもいいけど、壊すなよ。」

 「壊れてないって。」

 俺は、ゲームの本体もソフトも持っていないが、コントローラーだけは持っている。友達の家で遊ぶためだ。中学から貰い始めたお小遣いをためて、リサイクルショップで買った。友達の家に行って、一緒にゲームをするためだ。浩介はまだ小学生だから、お小遣いをもらっていない。だから、貸してあげている。部活が忙しいから、浩介の方がコントローラーを使っている。もはや、浩介の所有物になりつつある。別に、いいけど。

 夜、天井を眺めながら、部活のことばかり考えている。今日、あんなに作戦がハマったのは快感だった。でも、やっぱり自分のミスが目立つ。レシーブを簡単にボレーされたりもした。ロブで逃げてアウトになることも多かった。一回だけスマッシュをアウトにしてしまった。明日の部活では、基礎練習をしっかりとやろう。



 毎日の部活だけが、楽しみだった。いじめられることはないが、クラスで仲のいい友達はほとんどいない。テニス部の友達といつも一緒に行動している。教室内で、大声で話している男女グループを横目に、静かに過ごしている。この方が、居心地がいい。

 「洋介、テスト近いから、ノート見せてくれない?」

 「いいよ。帰りまでに返してね。」

 「おう。サンキュー。」

 俺がクラスの主力メンバーに話しかけられる理由なんて、これくらいだ。いじめられないんだったら、これくらい容易いものだ。ま、俺のクラスでの存在価値なんて、この程度だ。成績もいいし、気にしない。

 来週頭から、2学期の中間テストだ。


 

 今日、俺は、頭を抱えて下校している。初めてみた。46点。俺が、英語で取った点数だ。やばい。やばい。マジでやばい。

 英語の、複数形のSを付けるのを根こそぎ忘れていた。授業でそんな話、していたか?

 いつもなら、テストの点数を、母さんにも浩介にもすぐに見せる。学年の順位もすぐに教える。だけど、今日はそんなことできなかった。いや、無理でしょ。

 「兄ちゃん、テストだったんでしょ?どうだった?」

 こういう時にばっかり、浩介が話しかけてくる。

 「まあ、あったけど。」

 「何点だった?」

 「まあ、それは、置いといて、小学校で何した?」

 「あれ、もしかして、悪い点とった?」

 にやりと浩介が笑う。あーもう嫌だ。

 「兄ちゃん、もしかして、英語?」

 「ちょっと、黙って。」

 浩介は、多分、俺の知らないところで点数を確認するつもりだ。俺は、英語のテストを小さくたたんで、ポケットに突っ込んだ。肌身離さず持っておこう。

 「兄ちゃん、テスト、どうだった。」

 「母さん、ちょっと、ちょっと…。」

 キッチンの端の方に母さんを呼び、浩介の見えないように、こそっとテストを見せた。

 「ありゃ、どうしたの?」

 「いや、俺も分からん。やばいよね。英語本気で勉強するからさ。大目に見て。」

 「別に気にしなくていいよ。期末頑張ったらいいよ。」

 「あれ、怒らない?」

 「怒らないもなにも、お母さんね、国語と数学と英語、赤点しかとったことないもん。」

 「え?そうなの?」

 「お母さんね、勉強苦手だから。46点?いい方よ。」

 母さんは、浩介に点数を言わない約束をしてくれた。浩介はしつこく「ねえ、何点?教えてよ。」としつこいが、母さんも話をそらしてくれている。


 夜、天井を見つめながら考えていた。俺は小さいころから英語のビデオを見ていた。母さんがしつこく俺に見せて、触れさせていたはずの英語。それが、いまだに好きになれず、中学でもさっぱり。そして、母さんも英語ができない。

 夜中、トイレに行くついでに、静まり返ったリビングに行き、テレビ台を覗き込んだ。奥の方に、カラフルな英語のビデオが、いまだに並んでいる。俺は、ウルトラマンのビデオを壊されたことを思い出した。母さんは、俺の大切だったものを壊して、使いようのないビデオを守った。偶然そうなったのかもしれないけれど、モヤモヤした。胸の中で、小さな虫の群れが、つむじ風のようにぐるぐると飛び回っている感じ。

 いかん、いかん。とりあえず、英語の点数は挽回しよう。

 そのまま目が冴えわたったから、机の蛍光灯を付け、46点の英語のテストを学ランのポケットから出し、ノートと教科書を開いた。いつも宿題になっている「やり直しノート」で、間違えた単語、文法、それがなぜ間違っているのか、教科書の何ページが参考になるのか、辞書を引くとどういう風に載っているのか。事細かにやり直しをした。周りは何とも言わないだろうが、勉強だけは俺の得意分野だ。プライドが許さなかった。こんなバカみたいな点数、取ってなるものか。日が昇るまで、英語と向き合った。


 次の日、部活の終わりに「英語の点数」の話題になった。俺は、いつも点数を友達に積極的に教えたりしない。みんなは、大きな声で自分の点数を言って、「洋介はどうだった?」と聞かれて、それに返事をするくらい。部活仲間は「さすが、洋介は頭いいなぁ。」と嫌味なく言ってくれていた。

 「洋介、今回のテストどうだった。」

 「実はさ、やらかしちゃって。」

 「え、そうなの?」

 「英語、46点だった。」

 「マジ?!洋介がそんな点数取るとか、珍しいね。」

 「英語の平均点、低かったんでしょ?たしか、45点くらいって聞いた。」

 「いや、俺やったら46点でも嬉しいけどね。」

 「大輔はいつも20点くらいだからね。」

 「そうだろ?洋介、お前な、46点とか高得点、自慢すんな!」

 「いや、どこが高得点だよ。」

 「うるせえ!俺は18点だぞ!」

 「いや、低すぎだろ!」

 「でも、ウェドネスデイは合ってたよ。」

 「何、ウェドネスデイって。」

 「は?お前、水曜日、知らないの?」

 「それ、Wednesdayだろ。ウエンズデイな。」

 「いや、Dの発音ないだろ。ちゃんと書いてある通りに言わなきゃだめだろ!」

 「18点の奴が、Dの発音気にしてどうするんだよ!」

 「うるせえ!俺はまじめだ!」

 部活仲間でゲラゲラ笑いながら、学校を後にする。俺の点数に対するこだわりは、大したことじゃないのかもしれない。でも、さすがに46点は心痛かったから、次の日からきちんと授業を聞くようにした。

 

 英語の勉強の甲斐があり、期末では87点を取った。英語の先生から「結構難しく作ったつもりだったけど、よく頑張ったね。」と言われた。俺は、きっと、嫌いなものから逃げていただけだったのかもしれない。

 小さいことを乗り越えると、小さな達成感があった。夏休みは、部活漬けで、楽しいことしかなかった。大会は、3回戦負け。だけど、友達とたくさん遊べた。

 母さんは、夏休み、ほとんど家にいた。




 もうすぐ11月だというのに、まだ暑い日が続いていた。学ランを羽織るかどうか悩ましい季節だ。「制服移行期間」というのは、厄介だ。俺としては、この痩せた体を隠せる学ランがいいのだけれど、暑がりだから半袖が良いな、とも思っていた。クラスの友達にも、ちらほら学ランの友達が増えてきた。今日はとりあえず半袖シャツで登校して、友達にいつから学ランを着てくるか、聞いてこよう。

 浩介は、「秋のスポーツ大会の朝練があるから。」と、いつもより40分ほど早く登校した。懐かしいな、小学校、そんなイベントがあったな。

 朝ごはんを食べている時、母さんがおもむろに話し始めた。

 「兄ちゃん、実はさ、お母さん、病院に行ってて、先生から『入院した方がいい』って言われたの。」

 「え、そうなの?」

 「うん。それでね、来週から、1週間入院できるんだけど、いいかな?」

 「お医者さんがそういうなら入院した方がいいと思うけど…。どこが悪いの?」

 「お母さんね、『うつ病』っていう病気なの」

 「それって、どんな病気?」

 「やる気がなくなったり、気持ちが沈んだりする病気。たぶん、お父さんのせいなの。」

 「そうなんだ…。」

 「だから、しばらくお母さん、いないけど、大丈夫?」

 「え…。ご飯は、どうしたらいい?米なら毎日炊いてるからいいとして、おかずとかどうしよう。」

 「適当に冷凍食品とか買っておくから、それで何とかして。あと、お金も少し置いておくから、足りなくなったら何か買って。」

 「わかった…。」

 「あと、火の始末だけは気を付けてね。お風呂の沸かし方は分かる?」

 「わかるよ。」

 「そう。じゃあ、来週の月曜から1週間、お母さん入院するから。」

 「お見舞いとかできる?病院はどこ?」

 「駅の裏の坂をのぼったところ。」

 「あ、新里中の上の方にある、レンガの建物?」

 「そうそう。でも、精神科だから、お見舞いは来ないでいいよ。体がわるいわけじゃないし。家のことだけ、お願いしてもいい?」

 「わかった。浩介には言ったの?」

 「こうくんには、まだ言ってない。今日、帰ってきてからちゃんと話をしようか。」

 こんな大事なことを、朝方、急にさらっと言われたのだから、一日、悶々としていた。そもそも、母さんは病院に通っていること自体、僕らに話していない。どうして、こういう大切なことを、母さんは話してくれなかったのだろう。

 うつ病って何なんだろう?

 この日、俺は、間違って学ランを羽織って登校していた。日照りが強く、暑い日だった。失敗した。天気予報は見ていたのに。

 


 その日の晩、母さんが、浩介に入院することを話した。浩介は、割と淡々と聞いていて、「わかった。治療頑張ってね。」と言った。そして、いつも通りの一日が終わった。部屋の電気を消して、布団に潜り込むと、浩介が話しかけてきた。

 「母さんの入院、知ってた?」

 「まあ、知ってたよ。朝、母さんが俺に先に話してくれた。」

 「うつ病って、なに?」

 「俺もよくわからない。精神科の病気らしい。」

 「でも確かに、母さん、ちょっと前からおかしかったもんね。」

 「どこが?」

 「いままで、キレて兄ちゃんを外に放り出したりしてたじゃん。でも、吹奏楽し出したあたりで、そんなことなくなったし、むしろ、優しくなったというか。」

 「それのどこがおかしいの?」

 「今までと違うってこと。母さん、昔から負けず嫌いで、怒ることが多かったのに。急に優しくなったし、いや、その方がいいんだけど、なんだか気持ち悪いというか。だって、兄ちゃんの言ってることが変わったりしてないし。」

 「俺が吹奏楽し出して、母さんが変わったんじゃない?」

 「俺もそう思ってたけど、兄ちゃんが変わったわけじゃないし、いや、俺も良く分からないけど、気持ち悪い。母さん、何か隠してるんじゃない?」

 「考えすぎじゃない?」

 「そうかなあ。」

 そう言って、話をやめた。別に母さんが優しくなったことはいいことだけど、浩介が言っていることも一理ある。隠し事? いや、考えすぎだろう。

 モヤモヤした気持ちは晴れることはなかったが、考えないようにしようとするほど、頭に「母さんが何か隠しているのではないか?」という気持ちが沸き上がった。俺は、部活に熱中することで、それを忘れることにした。



 

 電話の奥から、慣れ親しんだ男性の声がする。

 「おう。洋介、元気にしているか?」

 「うん。父さんは元気?」

 「ぼちぼちだな。」

 俺は、定期的に父さんと電話をしている。俺が母さんから外に放り出されたことをきっかけに、「月1くらいで電話しよう。何かあったら助けれるようにしとくから。」と言ってくれた。父さんはメモ紙に電話番号を書いた。俺は、カバンに大切にしまっている。母さんと浩介がいないタイミングを見計らって父さんに電話をしている。この電話は、父さんと俺の秘密だ。

 父さんは、今、コンビニの店長をしている。ばあちゃんがやっていた会社は、父さんの兄貴?と揉めて辞めたと聞いた。街の方のコンビニで、遠い場所だから会いに行けないけど、高校くらいになったら遊びに行こうと思っている。忙しそうだが、割と生き生きしている。

 「この前、英語のテストで46点取ったって言ったじゃん。」

 「おう。」

 「期末で87点取ったよ。」

 「へー、すごいな!さすが父さんの息子だ。」

 なんでもない会話だが、父さんと話すと気持ちがすっきりする。部活の仲間とか、父さんとか、男の先生とか、男同士だと話しやすい。

 「そういえば、父さん、『うつ病』って、知ってる。」

 「ああ、あれな。気持ちが沈んでブルーな気持ちになるとかいう病気な。」

 「そうそう、それなんだけど…」

 「あれはな、ナマケモノがなる病気なんだよ。仕事とか嫌になって、逃げるために病気って嘘ついているだけだ。大体、仕事で悩んだって、嫌なことに向き合ってガッツで乗り越えないといけないのに、それを病気と言って役所に申請して、楽をしてお金をもらうためのものなんだよ。」

 「あ…。そうなんだ…。」

 「で、なんでうつ病とか気になってるんだ?」

 「あ、いや、学校でそういう話を聞いてさ。ほら、先生が病んで休んだとか、友達が話してたから。」

 「あーでも、学校の先生は大変そうだからな。でも、病気で逃げちゃいけないよな。」

 「うん。」

 「その点、洋介は勉強で上手くいかなくても、ちゃんと乗り越えたもんな。さすが俺の息子だよ。」

 「ありがとう。あ、そろそろ浩介が帰ってくるから、切るね。電話してくれてありがとう。」

 「浩介が元気そうで安心した。またいつでも電話して来いよ。」

 俺は静かに受話器を置いた。咄嗟についてしまった嘘を、後悔している。学校で先生が病んだという話は事実だったが、母さんのことは言えなかった。

 母さんは、ナマケモノなのか? 一人でバタバタと仕事して、ご飯作って、俺らを吹奏楽クラブに入れてくれた。部費も、ラケットもシューズもユニフォームも、文句ひとつ言わずに買ってくれた。でも、母さんがいろいろお金を使ってくれるようになったのは、最近だ。ナマケモノになって、病院に行っているから、お金がもらえて、買ってくれるようになったのか?

 父さんの話のせいで、余計に混乱してしまった。でも、母さんがうつ病だという話を父さんにしなくて、よかった。しばらく、父さんに電話をするのは、やめよう。



 母さんは、予定通り入院した。入院中、母さんが大量に冷凍食品を買い込んでいてくれたおかげで、飢えることはなかった。でも、それじゃいけない気がして、肉や野菜をお小遣いで買ってみて、母さんがしているみたいに料理をしてみた。醤油を入れ過ぎて塩辛くなったり、肉が焦げてカチカチになったりした。浩介から酷評をくらいまくった。母さんは料理が上手なんだと痛感した。それから、部屋のほこりや髪の毛が気になるようになった。母さんは、毎日掃除機をかけて綺麗に掃除してくれたんだ。

 母さんの有難みは、いなくなって初めて気づくものだ。初日の夜、食べ終わった食器を洗いながら、少しだけ涙が出た。母さんは、これをしながら仕事もしていたのか。大変だったな。母さんは、たぶん、ナマケモノなんかじゃない。

 母さんが、安心して戻ってこれるようにしよう。掃除も、洗濯も、料理も、しっかりやらなければ。母さんを救えるのは、俺しかいない。


 浩介は「俺も手伝えることがあったら、言ってよ。もうそんなガキじゃないんだからさ。」と言ってくれる。そうは言うものの、弟に何か手伝いをさせようという気にはならない。俺は兄ちゃんなんだから、しっかりしないといけないんだ。浩介を支えるのは、俺しかない。


 それから、母さんは、3か月に一回くらい、入院するようになった。そのたび、俺は母さんの代わりに家事をした。日常的に母さんの家事を手伝うようにした。

 母さんのおかげで、この生活ができていることを理解したから、俺は、家族を支える決心をした。母さんがきちんと病院に行って、きちんと薬を飲んで、きちんと治療できれば、前までの生活に戻れる。母さんには時間が必要だ。その時間を、俺が作ればいい。それだけだ。

 


 そうこうしているうちに、受験生になっていた。

母さんは、「大学に行ける高校にしなさい。」と言い続けた。母さんは、ばあちゃんから「お金がないから大学には行かせられない。」と言われたことがとても嫌だったから、子どもには大学に行ってほしいと思っていた。

 個人的には、工業か商業に進学して、高校を卒業して働きたいと思っていたが、母さんも、担任も、大学進学を勧めた。「勉強が出来るのに、もったいない。」と。

 俺は、K高を受験することに決めた。県内では割と名の通る進学校だし、県内でも、ソフトテニスが強いことでも有名だった。担任には「もう一つ上のレベルのN高を狙ってみては?」と言われたが、俺は私立の高校に行くお金が家にないことを知っていたから、「確実に受かりたいので。」と断った。合格通知を持っていくと、母さんは両手をあげて喜んでいた。


 母さんの体調は、相変わらず良くならなかった。薬を飲んでいる姿を、よく見かけるようにもなった。母さんは、いつ、元気になるのだろう?


 きっと時間が解決してくれる。そう信じていた。

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