第3話 居場所はどこに?
3人での生活にも慣れてきた。お母さんは、魚の絵が描いてあるトラックで、市内の家庭に食品を配達する仕事をしていた。毎日朝早くに出発して、夕方6時くらいに帰ってくる。僕と浩介はいつも一緒に小学校に行っていた。お母さんは7時には家を出ていくけれど、僕たちは8時くらいに家を出発する決まりになっている。
朝、6時半くらいに、僕たちは一斉に起きる。お母さんがキッチンで一本タバコを吸っている間に、僕は食パンを2枚、トースターに入れる。パンが焼きあがる前にテーブルを拭いて、冷蔵庫から取り出した牛乳とマーガリンを置く。その間に、お母さんが卵やウインナーを焼いてくれている。浩介は、ぼーっとテレビを見ている。お母さんは、「お兄ちゃんなんだから、弟の分まで、きちんとしなさい。」といつも言っていた。
3人で生活しだしてから、朝ごはんはパンに変わった。「白ご飯とみそ汁って決まってるんじゃないの?」と聞いて、「そんなに食べたいなら、自分で作りなさい!」とビンタをされたことがある。お母さんは一度怒り出すと、なかなか怒りが収まらないから、出来るだけ怒られないようにしていた。
朝食を食べた終わるかどうか、という頃に、いつもお母さんは仕事に向かう。
「ちゃんと、家に帰ってきたら、手を洗うのよ。それから、寄り道せずに帰って、机の上はきれいにしといてね。ご飯を炊くのも、忘れないでね。」
「わかってるよ。いってらっしゃい。」
お母さんは、アパートの駐車場に停めている会社のトラックに乗って、出かけて行った。それから、食器を洗ってすぐに、いつものようにビデオデッキにテープを入れる。
「兄ちゃん、また観るの?飽きないわけ?」
「いや、飽きてるんだけど、朝、観ないとなんか落ち着かないんだよね。」
「しかも、それ、途中で止まるじゃん。」
「それ。全部観たいのにさ。」
「観すぎて、テープ擦り切れたんじゃない?ウルトラマンが石みたいにされて、負けたシーンで、いつも止まるじゃん。ウルトラマン死んで終わりみたいな感じ。」
「お、よく知ってるね。ファンになった?」
「毎日毎日まいにちまいにち、同じもの何回も何回も流れてたら覚えるし。むしろ嫌いになったし。いい加減、小5にもなって、ウルトラマンって…。」
「はいはい。悪かったね。とりあえずBGMにしといて。」
正直、このビデオばかり観るのも飽きていたけれど、朝にウルトラマンを観る習慣がなかなか取れなかった。それに、周りには言っていないけれど、今でもウルトラマンが好きだ。特に、このビデオは大好きだ。ウルトラマン兄弟が沢山出てくるし、一度負けた兄弟が、力を合わせて悪を打ち崩すストーリー展開が大好きだ。ウルトラマンになれないことは分かっているけれど、将来、お金を稼げるようになったら、ビデオとか本とかたくさん集めて、もっとウルトラマンに詳しくなりたい、と思っている。ただ、浩介が言った通り、このビデオは何年も見続けてるからか、途中で止まってしまう。それも、ウルトラマンの敗北のシーン。
何か、不吉。
止まったところまで観て、いつも通り巻き戻して、写真入りのケースにしまう。朝のテレビは面白くないけれど、天気予報と占いだけ確認してから登校している。浩介のさそり座は4位だったけれど、僕のやぎ座は11位だった。11位って、嫌いなんだよな。12位なら、運を回復させる方法を教えてくれるけれど、11位って、何も救いようがない気がする。ラッキーアイテムは、ピンク色のハンカチだって。持ってねえー。
学校は、嫌いだ。最近、勉強を一生懸命して、100点を取った僕に対して、「自慢すんな、このガリ勉が。そんなんだから、足遅いんじゃない?」と言ってくるやつが何人かいる。確かに、僕はスポーツが苦手だ。でも、苦手なのは球技で、鉄棒とかマットとか跳び箱なら、他の人よりも上手だと思う。体も割と柔らかい方だし。
「おい、今日もガリ勉してんのか。なよなヨウちゃん?」
ヒロトは、リクヤを連れてやってきた。また始まったよ。
「やめてよ。それに、別に今は勉強してないし。その、あだ名も止めてよ。」
「は?お前がなよなよしてるのがいけないんだろ?」
「道徳の授業で、『友達が嫌がる名前で呼んだらいけない。』って、先生が言ってたじゃん。」
「はい、出たー!なよなヨウのガリ勉発言!きっも!」
「いや、でも、ヒロトだって、授業中、発表してたじゃん。」
「そりゃ、授業中ならするよ。でも、休み時間に先生の言う事聞くとかキモすぎ。死ね!カス!」
最初はかなり言われて凹んでたけど、だんだん慣れてきた。お母さんと一緒で、相手にすると、もっとひどい目に遭うと思ったから、ある程度言い返したら、黙っているようにしていた。
正直、今のクラスに仲のいい友達はいない。ジュンペイとは、3年生から別のクラスになった。たまに隣のクラスに行って、ジュンペイにそのことを話したら、「あんま、気にすんな。100点取った方がいいんだし、勉強していいでしょ。」と力強く答えてくれる。ジュンペイは友達が多いから、すぐに他の友達に呼ばれて、「ごめん。」と言ってすぐに他の友達と話し出す。ジュンペイは明るいし、人の悪口を言わない。話も面白いし、勉強も出来る。そして足が速い。すごすぎるよ。僕は、ジュンペイの悪口を聞いたことがなかった。羨ましいな。どうやったら、ジュンペイみたいになれるのだろう。
ある日、僕のクラスに転校生がやって来た。東京から来た背の高い女の子だ。その子の席は、僕の隣だった。きれいな服を着ていて、髪を二つ結びにして、きれいな髪をなびかせていた。
その子はアスカという名前で、東京の私立の学校に通っていたらしい。勉強が得意で、話が抜群に面白かった。男女関係なく、すぐに友達がたくさんできていた。すごい人だな、と思った。僕なんか、全然友達いないのに。
授業中、漢字の小テストが出された。テストを隣の子と交換して採点することになっている。僕は、勉強が得意だったから、いつも100点だった。その日、初めてアスカとテストを交換して、丸付けをした。アスカは字が上手で、答えと照らし合わせても、全部正解。僕と同じ解答。僕は100点を付けて、テストをアスカに返した。アスカから戻ってきたテストを見ると、70点と書いてあった。
え?なんで?
間違っているところを確認する。この画と画が1ミリ繋がっていない、突き出るところがドリルと比べると少し足りない、トメで書くところが若干ハライに見える。いや、確かに、先生は「少しでも間違っているところがあったら、厳しく見てね。」と言ったけれど。当然、僕はアスカに抗議した。
「いや、これ、細かすぎでしょ。」
「先生が、少しでも間違っていたら、ダメって言ったから。本当だったら、曲がりとかハネの角度とかちゃんと見たら、ほぼ0点だからね。」
「いや、確かに、字はアスカみたいに上手じゃないけど、大体合ってるじゃん。」
「大体じゃダメでしょ。先生が言ったじゃん。」
僕は、先生に相談した。これは厳しすぎるし、他の子とか見ても、大体で丸をもらっているのに、自分だけここまで細かくバツを付けられるのはおかしい。先生に説明したけれど、「先生も厳しくしなさい、と言ったからね。」と言った。先生はアスカを呼び出して、何やら話をしていた。たぶん、注意してくれているのだろう。席に戻って来たアスカが、小さい声で僕にこう言った。
「お前、ひねくれてんな。覚えとけよ。」
東京から来たお嬢様の様なアスカからは、想像も出来ない言葉だった。僕の手元には、「100点」と書かれた小テストが帰って来た。
その日から、だんだんと友達が離れていった。というより、あからさまに僕を避けるようになっていった。もともと、僕は友達があまりいない。このクラスでも、休み時間にキーパー役でサッカーに呼ばれるくらいで、取り立てて仲のいい友達もいない。けれど、それにしてもおかしかった。友達に話しかけると、返事もなく他の子のところへ行き、何やらこそこそと話をしている。漢字の小テストでは、アスカは適当に丸を付けるようになった。ドリルを見ずに100点を付けていた。「ちゃんと見てくれ」と言うと、前と言っていることが違うと言われそうだったし、100点だからいいか、と思っていた。
ただ、ヒロトが僕にいちいち絡んで来なくなった。良いことなんだけれど、不気味だった。その代わり、僕に話しかけてくれる人は、1人もいなくなって、サッカーにすら呼ばれなくなっていた。
僕は、配達係を担当している。先生に提出したノートやプリントを、決まった時間にクラスみんなに返却する仕事をする。僕はいつものように、カゴに入れられたノートを抱えて、名前の書いてある席に配っていた。すると、アスカと仲のいいミノリの席に、僕がノートを置いた時、ミノリが言った。
「キモ!ナヨナヨ菌が付くじゃん!」
そう言って、僕がノートに触っていた部分を、横にいるリンに擦りつけた。リンは、「やめてよー!」と言って、擦りつけられた部分を手で拭い、他の子のところに擦りつけに行った。そうして、「ナヨナヨ菌の擦り付け合い」という名の鬼ごっこが始まった。当番が配膳室に給食を取りに行っている時間で、先生もいなかった。クラス中大騒ぎになっていた。
僕は混乱していた。「何かした?何か悪いことした?」クラスのみんなが菌の擦り付け合いをして走り回っているところに、給食当番と先生が戻って来た。
「何を走っているの!」
先生が怒ってくれたおかげで、あれほど走り回っていたみんなが、「すみません。」と言って、すぐに大人しくなった。その後、鬼ごっこをしていた10人くらいの子たちは、みんなそろって手洗い場へ行った。ゾロゾロと不自然に手を洗いに行く子については、先生は叱らなかった。今は手を洗いに行く時間ではないはずなのに。
それから、毎日同じようなことが起きた。菌が付くと言われ、鬼ごっこが始まって、先生が叱ると、手を洗いに行く。そして、次第に、みんなが「菌」が付くことを嫌うようになった。僕がプリントを配ると、みんなが机や椅子に「菌」を擦りつけた。僕が使った掃除道具を「除菌しなきゃ」と言って、手洗い場に持って行った。何度席替えをしても、僕の隣に座った子は、漢字テストの交換を嫌がった。僕が授業中に発表すると、誰も反応してくれなくなった。
ああ、これが「いじめ」なのか、と実感してきた。テレビドラマとかで見るいじめは、友達に対してひどい暴力だったり、汚い言葉で直接罵られたりするイメージだった。しかし、ぼくの場合は違った。直接何かされることはなく、僕の周りで、僕のいないところで、ひたすらに悪口を言われている感覚。
毎朝、学校に行くのが憂鬱になっていた。朝の占いで1位の日でも、いつもと変わらない。学校の友達は優しくならない。僕は、天気予報を見た後、テレビを切るようにした。
ある日の夜、家で晩ご飯を食べ終わって、お風呂を済ませ、いつものようにテレビを見ていた。いつも通りのゆったりした時間だったのに、お母さんの様子がおかしかった。
「お母さん、なんかあった?」
「実はね、お母さん、付き合っている人がいて、一緒に住まないかって、相談されたの。どう思う?」
「え、嫌だよ。なんで父親でもない男の人と一緒に住まないといけないの。」
ここまで会話して、直感的に、「あ、やらかした。」と思った。完全に地雷を踏んだと思った。
「何?まだお父さんと住みたいわけ?だったら、お父さんのところにでも好きに行ったらいいじゃない!あんたたちは、まだ私を追い詰める気?!まだこれ以上私の自由を奪う気?!冗談じゃない!そんなにお父さんと住みたいなら、今からお父さんに電話して、拾ってもらいなさいよ!ほら!」
お母さんはそう言って、僕にビンタを1発。その後、倒れた僕のお腹を2回くらい蹴った。お母さんは、僕のパジャマの襟首をつかみ、携帯電話と一緒に、僕を玄関先に放り出した。ガチャリと鍵の閉まる音がした。玄関の奥で、ゴトンゴトンと音がする。今日は、音の方向から考えると、リビングをめちゃくちゃにしているみたいだ。ああ、また片づけしないといけないや。
ここに引っ越してすぐくらいに、ぼくが「お父さんに会いたいな。」と言ったことで、お母さんは急に怒りだし、僕に暴力を振るった後、家を閉め出した。開けてくれと泣きながらドアを叩いたら、家に戻され、「近所迷惑だろ」と余計にぶん殴られた。今日みたいに携帯電話と一緒に外に出されたこともあった。その時は、お父さんに電話して助けを呼んだら、お父さんが飛んできてくれた。お母さんとしばらく喧嘩した後、「お母さんの言う事、ちゃんと聞けよ。」と言って、お父さんは帰って行った。家に入った後、お父さんの悪口を言いながら、僕をひたすら蹴った。浩介は、僕がこういう風に余計なことを言ってしまうことで、お母さんから叩かれることを学んでいる。一通りの暴力の流れが終わって、お母さんが寝静まった後、いつも、「いちいち自分の意見を言わない方が身のためだと思うよ。」と厭味たっぷりに言う。浩介は、上手にお母さんからの暴力から逃げることができていた。
僕は、閉め出された玄関先で、星空を眺めた。今は5月で、かなり暖かくなってきたし、何より雨が降っていない。冬の雨の日に外に閉め出されたときは地獄を見た。今週は天気がいいから、油断してたなあ。
しばらくすると、奥で暴れている音が止まった。静かになってしばらくすると、お母さんのむせび泣く声が聞こえる。その後、浩介が玄関の鍵を開けた。
「おかあさんは?」
「台所。いつもと一緒。」
僕は、お母さんのところに行って、「ごめんなさい。もう二度と、お父さんのことは、話しません。お母さんが大好きです。ごめんなさい。」と決まった言葉を言った。返事は帰ってこない。ただ、お母さんの嗚咽の音だけが、台所に虚しく響いていた。声をかけてすぐに、僕は自分の部屋に行った。浩介が先に布団に入っている。
「お母さん、彼氏がいたの知ってた?」
「いや、知らなかった。正直、結構びっくりしてる。」
「どう思う?」
「いや、普通、嫌でしょ。お母さんと知らない男の人と住むとか、ナイ。」
「それならよかった。とりあえず、鍵開けてくれてありがとう。」
「いつものことだからね。明日は、リビング片づけるの手伝うよ。起こしてくれたら、だけど。」
「たまには、自分で起きろ。」
浩介は、小3のくせに、子どもっぽくない。頭もいいし、友達も多い。運動は僕と大差ないのに、どうしてこうも違うのか。僕が浩介に勝っているところは、身長と早起きくらいだろう。でも、こうやってお母さんから暴力された時に、いつも助けてくれる。妬ましい存在だけど、浩介がいてよかったな、と思えた。浩介と二人のこの部屋が、唯一落ち着ける空間だった。だから、浩介には、僕がクラスで「菌」呼ばわりされていることは、言えなかった。
朝、5時半に起きて、浩介を起こした。浩介は「早すぎ」と言って文句を言っていたけれど、素直に体を起こした。リビングは、それはそれは悲惨な状態だった。テーブルはひっくり返っているし、テレビの横の写真やら小物やらが床に散らばっていた。窓ガラスは割れていなかったものの、電話機を置いていた棚も倒れていて、横に置いていたビードロが割れていた。昔、3人で街に出かけた時に買ったお土産だったのにな。テレビの横のビデオテープが入ったラックも倒れていた。散らばったビデオテープの中で、小さい時の僕の写真が落ちていた。
ん?あれ…。
そこにあったのは、僕のちいさい時の写真が入ったビデオテープだった。遠めに見ても分かるくらいに、踏みつけられた形跡がある。拾い上げてみると、もうすでにいつもの手触りではなく、ビデオデッキに入れることができる形ではなくなっていた。
「兄ちゃん、それ…。」
「いや、丁度、調子悪かったし、朝、浩介にウルトラマンで嫌がらせしなくて済むし。気にしなくていいよ。それより、片付け、お願い。おれは台所やるから。」
早口でそう言った後、棚を元の位置に戻し、リビングの掃除を浩介に任せた。僕は台所にあった、大量のスナック菓子の袋と、缶ビールの空き缶を分別して捨てた。それから、灰皿にいっぱいに盛られた吸い殻を新聞紙にくるんで、ゴミ箱に投げ込んだ。掃除をしながら、心臓の音が体中に響いていることが気になった。
掃除が終わって、6時半ころになった。お母さんは、キレた次の日、会社に連絡して休みを取っているようだった。月に1回くらいだから、会社の人も大目に見てくれているのだろう。着替えを準備しているときに、浩介が、いつものビデオテープを持ってきた。「これは、さすがに…。」と言って、僕の机に置いてくれた。出来すぎた弟だ。僕は、ビデオテープを机の横のゴミ箱に捨ようとしたけれど、なぜか、手からビデオテープが離れなかった。しわくちゃの写真の中で笑っている小さなころの僕が、笑顔を見せている。複雑な気持ちを心の奥にしまい込むように、引き出しの奥にテープを投げ込んで、わざとらしくバタンと音を立てて閉めた。
その後、ちょっと時間が遅くなったが、朝ごはんを食べた。その後、いつものウルトラマンのビデオを見ることはなかった。つまらないニュースを眺めているときに、テレビ台の奥に、12本のカラフルなビデオが並んでいることに気づいた。昔から家にある、幼児向けの英語教育のビデオだ。全巻揃っている。
なんだか、悲しい気持ちになった。
家での出来事なんて、学校で言えるはずもなく(というか、言える友達もおらず)、「菌」呼ばわりはずっと続いていた。毎日たくさんの人とすれ違うのに、全然人と喋らない生活に慣れてきた。そんなある日、トイレから戻って教室に戻ろうとした時に、ジュンペイが話しかけてきた。
「今度、島内小に、新しく吹奏楽の課外クラブが出来るらしいよ!知ってる?」
「いや、知らない。吹奏楽ってなに?」
「よくわかんないけどさ、トランペットとかの楽器が出来るらしいよ!」
「へぇ~。面白そう。やってみたいな。」
「月1000円で良いらしい!おれ、入る予定だからさ、一緒に入ろうよ!」
「そうだね!親に相談してみる!」
「おう!じゃあ、体験入部の日、今度の金曜の夕方らしいから、そこでまた会おうね!」
「うん!」
もう何より学校で久しぶりに人と話していたのが楽しくて、なぜかドキドキしていた。友達と話すのって、めちゃくちゃ楽しいな。
そして、少しずつ冷静になってきた。え、親に相談するのか。習い事の話で、しかも月謝がある。これはやばいな。
ジュンペイが、以前、書道教室に誘ってくれたことがある。家から歩いて10分くらいのところだ。そこに無料体験に行ったときのこと。僕はとにかく字が汚かったし、お母さんは書道を習っていたので「行ってみたらいい!」と言ってくれた。書道教室は、たくさん子どもがいて、和気あいあいとしていて楽しそうな雰囲気だったし、実際楽しかった。「入会したい。」と先生に伝え、手続きの用紙をお母さんに持っていくと、「週2で月5000円も取るの?!高すぎ!そんなお金、うちにはありません!」と言われた。しょうがないから、ジュンペイに「うち、貧乏だから、お母さんがダメだって…」と言った。「そっか、親に言われたなら、しょうがないね。」と言って、ジュンペイは残念そうな顔をしていた。
音楽はよくわからないけれど、楽しそうだったから、やってみたかった。でも、お金の話はな、と思った。でも、ジュンペイと約束したし。どうしようか。
僕は、週間天気予報を見て、水曜日の夜は晴れると知った。よし、明後日の夜、お母さんに相談してみよう。帰りに、職員室の前に置かれた、「吹奏楽課外クラブ、部員募集中!」と書かれたチラシを持って、家に帰った。
水曜の夕方、お母さんに相談しようと、顔を覗き込んだ。今日は、機嫌が良さそうだった。窓の外を見ても、雨は降っていない。よし。
「お母さん、今日、学校で友達と話しててさ。」
「あら、学校で良いことあった?」
「まあね。それでね、島内小に吹奏楽が出来るらしくて、こんなチラシをもらったんだよね。」
「誰から貰ったの?」
「いや、先生が配ってて、ランドセルの中に入れっぱなしだったんだよね。ごめん。」
「うん。」
「それで、友達何人かと話してて、みんなで入ってみない?って誘われたんだ。火曜日、木曜日、金曜日の放課後と、土曜日の朝から、学校の音楽室で楽器をやるんだ。帰りは18時くらいになるんだけど。」
「へえ~。楽しそうね。」
「でね、月に1000円で、行けるんだって。」
「あら、安いのね。学童とかに入れるより断然いいじゃない。」
「でしょ。でね、今、帰ってご飯炊くのが、僕の仕事じゃん。それを朝のうちに米を研いで、夕方炊き上がるようにタイマーセットしておくから、行ってもいい?」
「いいよ。何年生から入れるの?」
「一応、3年生から入れるみたい。」
「じゃあ、こうくんと2人で行ったらいいじゃない。お母さんも、歌とか楽器とかしてる2人の姿、見てみたいな。」
「ホント!?じゃあ、行ってもいいの?」
「いいよ。こうくんは、どうする?」
「面白そうだから、行ってみようかな。」
お母さんは、あっけなく許してくれた。キレた時は止まらないけれど、いつもはこんな感じだ。チラシの下のところに、お母さんが僕たち二人の名前と、お母さんの名前を書いて、印鑑を押した。切り取り線をはさみで切った。
その日の夜、浩介に聞かれた。
「あんなチラシ、学校で配ってた?」
「いや、友達から貰った。なんか無理やり入れたみたいでごめんね。」
「いいよ。どうせ帰ってもすることないし。丁度いいと思う。」
あくる日、朝10分早く起きて、米を研いで炊飯器にセットした。久しぶりに、学校に行くことが楽しみになった。朝の星座占いを久しぶりに見た。2位だって。これは、ちょっといいかもしれない。
次の日の休み時間にジュンペイに報告しに行った。
「ジュンペイ!吹奏楽クラブ、一緒に行けるよ!」
「ホント!やったね!金曜の夕方、一緒に行こう!」
単純な会話だったけれど、僕はとても幸せな気持ちでいっぱいだった。
金曜日。いつも通り、菌の鬼ごっこをしているクラスメイトを眺めていた。でも、不思議と嫌な気持ちはしなかった。僕は、今日から、吹奏楽のクラブに行く。それしか頭になくて、何も気にならなかった。給食がおいしかった。
放課後、ジュンペイと一緒に音楽室に行った。すでに、浩介が音楽室にいた。
「こうくん、久しぶり!一緒に入るの?」
「うん。お母さんが、一緒に行けって。」
「そっか、こうくんも一緒にいるし、楽しみが増えるね!」
ジュンペイはどうして、こうも嬉しい言葉を掛けることが上手なんだろう。羨ましい。
音楽室には、ごちゃごちゃ人が集まって来た。全部で50人くらいいる感じ。ジュンペイと仲のいい友達が3人かいて、5人で一緒にどんな楽器をするか、たくさん話した。男子はみんな、僕と同じクラスじゃなかったから、菌呼ばわりされることもなくて、居心地が良かった。
僕たちは、トランペットやトロンボーン、チューバと言った楽器を体験した。マウスピースに口を当て、唇でブーブーとおならの音を出すみたいな感じで音を出す。マウスピースは、全員分あるわけではなかったから、友達同士ウェットティッシュで拭きながら交代で扱う。「うわ、間接キスじゃん!」とゲラゲラ笑って「ちょっと、お前、きたねえ!」とか言いながらやっていた。けれど、僕一人が汚いと言われることはなかった。
いろんな楽器を試して、みんなで「トランペットがいいね」と話していた。けれど、楽器の数が足りなくて、抽選になると言われた。それを聞いたジュンペイは、
「じゃあさ、みんなと一緒がいいから、パーカッションにしない?」
と言った。みんな、それに賛成した。僕は正直、楽器の種類なんてどうでもよかった。みんなと一緒なら、なんでもよかった。そこに、浩介が現れた。
「3年生の入部希望者、僕なんだけど。僕もパーカッションがいい。」
こうして、兄弟そろってパーカッションに入った。メンバーは、6年生の女子3人と、5年の男子5人、3年生の男子1人、計9人だった。
僕は、吹奏楽にのめりこんでいった。友達といる時間も楽しい。真面目にパート練習している姿を見て、パーカスの仲間は褒めてくれる。合奏練習の時も、指揮をしている先生から「スネアのリズムが正確だから、みんな、楽譜を見て演奏するなら、スネアの音でリズムを取ったらいいよ。」とアドバイスしていた。僕は、直接褒められたわけじゃないけど、とても嬉しかった。
コンクールにも参加した。僕たちはまだまだ素人集団だったから、銅賞(参加賞)をもらうのがやっとだった。書評にはいろいろ厳しいことが書いてあったけれど、その中に「パーカッションの男の子たちが楽しそうに演奏しているのが印象的でした。技術はこれから身に付くから、まずは音楽を楽しんでください。」というコメントがあったことを、先生が紹介してくれた。僕たちは、ハイタッチして喜んだ。クラブで唯一褒められたメンバーだった。
僕の身の周りで変わったことと言えば、クラスで僕に話しかけてくる友達が増えたことだ。同じクラブに通うホノカとサキナは、トランペットに所属している。今日の練習、進んだ?新しい曲の候補挙がってるけど、どれがいいと思う?といった、吹奏楽に関する話題だ。2人は、給食前の鬼ごっこには、いつも参加していなかった。後から気づいたけれど、僕のことを「菌」呼ばわりしているのは、クラスの半分くらいで、もう半分は特に気にしていなかった。吹奏楽と出会ってから、僕は学校が楽しくなった。もちろん、嫌なことはたくさんあるし、またヒロトとリクヤが「お前、吹奏楽に行って、調子乗ってるらしいじゃん。」と言いに来るようになった。
「吹奏楽とか、女の習い事だろ。きっも。」
「いや、4組のジュンペイと一緒に行ってるよ。あと、1組のタツヒコと、3組のリュウイチロウとも一緒だけど。」
「あ、そう。かっこつけんなや。」
僕は、毎日嫌なことを言われるけれど、以前よりつらくなかった。放課後の時間が楽しくてたまらなかった。
そして、不思議なことに、お母さんの機嫌もいい日が増えた。僕は、お母さんに吹奏楽の話をたくさんした。お母さんは、なんだか嬉しそうだったし、僕にツラく当たることもほとんどなくなった。クラスにいるのは相変わらず嫌だったけど、学校に行くのは楽しかった。
5年生の終わりごろ、音楽室にドラムセットが届いた。少し古いものだが、音はしっかりしている。先生曰く、「支援金を使って仕入れたもの」だそうだ。
「早速なんだけど、この楽譜、ドラムが必要なんだ。これは、学年末の地域のお祭りで、やる予定だ。パーカスの中で、誰がやる?」
先生がそう行った後、僕たちは顔を見合わせた。ドラムは楽しそうだけれど、みんなやったことがない。他の楽器よりも、遥かに難しそうだった。でも、みんな仲良く活動してきただけあって、押し付け合うこともしなかった。少しの間、沈黙が流れた。
「誰もやらないんだったら、僕がやるよ。」
僕は、気づいたら、そう言っていた。僕は、この後、「お前がやれよ」「いや、あんたがやってよ」と友達が押し付け合う姿を見たくなかった。それに、僕が我慢すれば、みんなが喜んでくれるだろうと思った。
すると、ジュンペイがこういった。
「先生、この楽譜って、難しいんですか?」
「そんなに難しい楽譜じゃないと思うけどな。」
「洋介は、初めてドラムをするわけだし、お祭りまで、あと2週間だけでできますか?」
「洋介くんのリズム感ならできると思うけど、もし難しそうだったら、オカズを引いて、簡単にすることもできるよ。それか、バスドラだけ大太鼓でやってもいいかもしれない。」
「洋介、どうする?」
いや、どうするったって…。
「いや、頑張るよ。」
ジュンペイは、最後まで、「無理するなよ」「手伝うから」と言ってくれた。パート仲間も、みんな応援してくれた。浩介だけは「兄ちゃん、本当にできるの?」と鼻で渡っていたけれど。腹立つ弟。
それから、基本の8ビートをメトロノームに合わせて叩く練習をひたすら続けた。合奏で、リズムを取れるようになってきてから、オカズの部分をちょこちょこと追加していった。僕も、「頑張るよ」と言った手前サボれないし、何より、先生が「洋介君なら出来ると思う。」と言ってくれたことに、応えたかった。僕も、認められている、必要とされている、そう思うと、練習はとても楽しかった。
お祭り本番、先生から、クラブのみんなにこう伝えられた。
「ごめん。これは僕の手違いなんだけど、ステージの上でやる予定だったんだけど、人数が多くてステージに乗らないことになったんだ。だから、今日はグラウンドの真ん中のあたりで椅子と楽器を並べてやるよ。」
最初は、「ふーん。」と思っていたけれど、楽器を搬入しながら、「今日、ここでやるの」「頑張ってね」と声を掛けられた。そこで気づいたのだけれど、今日は、後ろにお客さんがいるようだ。いつもなら、パーカスは一番後ろにいて、一番遠いところから知らないお客さんが見てくれていたけれど、今日は違う。知っている人が、近くで後ろから見られるんだ、と。
僕は、緊張と同時に、不安が募った。地域のお祭りには、島内小学校に通う子どもたちのほとんどが来る。今まで、クラスの嫌なことを言ってくる友達も来るはずだ。パーカスは遠いから大丈夫だと思っていたけれど、今日は後ろからも見られるとは思ってもみなかった。後ろからまた何か言われるかもしれない。折角の楽しい時間に 「菌」なんてまた言われるかもしれない。そう思うと、ドキドキが止まらなかった。
演奏する曲は全部で3曲。僕は、1曲目はグロッケン、2曲目はティンパニー、そして、3曲目でドラムを叩くことになっていた。最初、ドラムセットが並んでいるところを見かけた子どもたちや保護者が「ドラムなんて、この学校にあったんだね」「誰が演奏するか楽しみだね」と言っているのを耳にした。こわい。
アナウンスに合わせて、クラブのメンバーは入場した。僕はグロッケンの前に行った。その時、パーカスの後ろには、ほとんど人はいなかった。むしろ、鬼ごっこをしている子どもさえいた。興味がない人もいるんだな。
僕は、緊張をかき消すために、後ろを見ないことに決めた。先生の指揮をかじりつくように見た。いつもなら跳ね返って聞こえる音が、どんどん空に逃げていく。周りの音が聞こえにくい。パーカスは「第2の指揮者だ」と自分に言い聞かせた。指揮にだけ集中した。
そして、2曲終わり、合奏団の一番後ろの真ん中に置いてあるドラムセットに向かった。後ろには、合奏団を眺める保護者が3人くらいいた。その中に、お母さんもいた。「頑張ってね。」と言うような雰囲気でこちらに手を振っている。クラスの友達にみられたら恥ずかしいから、一瞬だけ目を合わせて、すぐにドラムセットに座った。スティックを握る手が震えている。コンクールでは、感じたことのない、こう、怖い感じ。僕は楽しく楽器を演奏するけれど、もしかしたら、クラスの嫌な奴がみているかもしれない。また、クラスで嫌なことを言われるかもしれない。どこか失敗したら、余計にいろいろ言われるかもしれない。ここにきて、色んな不安が迫って来た。ああ、どうしようか。
僕は、指揮者の先生だけを見ることにした。僕は、僕のやるべきことをやるだけだ。昨日の合奏でも、ミスはなかった。大丈夫。大丈夫。そう言い聞かせて、ドラムを叩いた。
演奏終了。緊張した。演奏中の記憶がない。ミスをしたのかどうかさえ分からない。とりあえず、終わった。よかった。ああ、もう早く帰ろう。
演奏終了のアナウンスが流れて、先生がメンバーに立ち上がるように指示し、みんなで挨拶をした。僕も、指示に従って、立ち上がった。コンクールの時とは違う方角から拍手の音が聞こえた。ふと、後ろを振り返ると、そこには、見たことのない数の人が僕の方を見て拍手をしていた。視線を集めていることだけは分かった。みんなが、笑顔で僕の方を見ている。大人もいる。僕と同い年の友達もいる。よく見たら、クラスの友達もいる。僕はあっけに取られて、そしてすぐに前を向きなおした。顔から火が出るほど恥ずかしかった。こんなに注目を集めたことはない。ああ、また明日嫌なこと言われる。吹奏楽、しなきゃよかった。ドラム、しなきゃよかった。
演奏後は、クラブのメンバーやらその保護者やらに、めちゃくちゃ褒められた。ジュンペイが、みんなに「2週間しかないのに、洋介、あれだけ叩けるようになったんだよ。」と自慢している。みんなが口をそろえて、「すごーい!」「洋介くん、かっこいいね!」と言っている。僕は、嫌だった。内心、「やめてくれ。もう、僕の話はしないで。」と思いながら、無理やり笑顔を作った。自分でも分かるくらい引きつっていたと思う。あー嫌だ。
家に帰って、お母さんが「すごくよかったよー。兄ちゃん、かっこよかったよー。あれ、難しいだろうに、簡単にやってたねー。相当練習したんじゃない?」と気持ち悪いくらいに褒められた。いや、褒められるのは嫌じゃないけど、そんなことヨソで言うなよ、と思った。
明日、学校に行きたくないな。
いつも通りの朝。カーテンを開けてみると、雲一つない晴れ模様。風もなく、小鳥のさえずりだけしか聞こえない。具合が悪い。朝ごはんがおいしくない。朝の占いは、7位。微妙すぎて気持ち悪い。
いつも通りの通学路。浩介は「昨日、別に失敗してなかったよ?何を気にしてるの?」と話しかけてきた。僕は「うるさい。」と一言ぶつけて、無言で登校した。あーこんな自分も嫌いだ。
いつも通りの教室。今日は教室に電気が点いていなかった。暗い。僕はさっさとランドセルを片づけて、すぐにトイレに行って、その後、他の学年の廊下をブラブラと歩いて、朝の時間を過ごした。教室に行きたくない。それでも、いつも通りにチャイムはなる。僕は教室に戻った。
いつも通りの健康観察。いつも通りに先生が僕の名前を呼んだ。僕もいつも通りに手をあげて返事をした。一番前の席に座っていたから事実は分からないけれど、みんなからの視線を感じた。けれど、後ろは見なかった。絶対、振り返ったら、またあの嫌な感じがする。もう嫌だ、早く、家に帰りたい。学校に来たことを後悔した。
1時間目が終わり、5分休憩の時間、僕は誰とも顔を合わせたくなかったから、トイレに向かう。
「昨日の、お祭りの演奏、見たよ!お前、すげえな!」
クラスのリーダー的な存在のコウタロウが僕を呼び止めた。
「いや、あれは…。」
「洋介が、吹奏楽のクラブに通っているのは知ってたけど、あんなに上手だとは知らなかった!いつから練習したの?」
「いや、練習はしたけど、別にそんな大したやつじゃないから…。」
「すぐかったー。今度、音楽室に行ったとき、叩いてよ!また聞きたいな!」
「そんな…。いや、1曲しかできないし、そんなに…。」
「それでいいからさ。というか、ドラム教えてよ!」
「ああ…。わかった。でもそんなに、上手じゃないか…。」
「ありがと!やったね!」
そういって、コウタロウは満足そうに去って行った。ああ、もうこれどうしたらいいんだ。もういやだ。保健室行こうかな。早退したい。
休み時間になると、いろんなわざわざ僕のところに友達が来て、昨日のお祭りの話をした。当てつけみたいに、僕のドラムの話をして、やたらと僕を褒めた。必死に作り笑いをして、「そんなに大げさにしないでよ。」と言うのが精一杯だった。
もう憂鬱な気持ちが止まらなかった。はあ、もう嫌だ。もう何もしたくない。
給食の時間。先生と給食当番が配膳室に向かった。僕は、当番の仕事がなかったから、机に顔を伏せて、寝たふりをしていた。すると、ヒロトの声が聞こえる。
「おい、お前、昨日かっこつけてドラム叩いてたらしいね。きっも。」
「ねえ、まだそんなこと言ってるの?」
「え、リン、お前、洋介をかばうわけ?菌がうつった?」
「馬鹿じゃない?もういい加減、そんなガキみたいなこと辞めたら?」
「そうよ。ヒロト、あんた、洋介が羨ましいんでしょ?ドラムできる洋介が。」
「は?羨ましいわけ、ないじゃん。こんな気持ち悪いやつ。」
僕の背中を誰かがポンポンと叩いた。顔をあげると、コウタロウが笑顔で僕にこう言った。
「今日の昼休み、先生に音楽室開けてもらえるように頼んだから。ドラム叩いてよ!今日の昼休み、暇?」
ぼくは、「ああ…いいよ…」とぎこちなく返事をした。コウタロウは嬉しそうに席に戻って「今日、一緒に音楽室行こうやあ!」とリクヤに言っていた。リクヤは「いいね。行く行く!」と楽しそうに話していた。ヒロトは、1人で廊下にでた。
「あいつのこと、気にしなくていいからね。というか、前はごめんね。」
リンが僕に、こそっと話しかけてくれた。
その日の昼休み、クラスの半分くらいの友達と、先生が、僕のドラムの演奏を聞きに来た。みんな、お祭りの時と変わらないくらいの拍手をくれた。
そこに、アスカの姿もあった。一人だけ、なんだか悔しそうな顔をしていた。
5年生はあと1週間で終わる。その日の帰りに、先生が「アスカさんが、6年生から、東京に転向します。明後日、みんなでお別れ会をしましょう。」と言った。あ、アスカ、転校するんだ。僕は寄せ書きに「短い間だったけど、ありがとう。」と一言だけ書いた。
6年生に上がるころには、僕にいちいち突っかかってくるのは、ヒロトしかいなかった。というか、ヒロトから友達が離れていったように感じた。僕とヒロトの関係は変わらなかったけれど、アスカがいなくなり、僕が「菌」と言われることはなくなっていた。そして、なぜか、修学旅行でヒロトと同じ班になった。ヒロトは、俺にばかりちょっかいをかけてきて、いつも隣にいた。変なの。
僕は、吹奏楽にのめり込んだ。そして、「ドラムの洋介」と言われるようになった。6年生の最後の音楽発表会でも、友達に楽器を教えた。卒業するまで、相変わらず友達は少なかったけれど、嫌なことより、楽しいことの方が増えていった。
このころ、お母さんは、転職したらしく、いつもよりゆっくり出勤するようになっていた。「最近、体調があんまりよくないの。」と言って、病院から処方されたような薬を飲むようになっていた。それのおかげか、お母さんが家でキレることはなくなっていた。
落ち着いた日々が続いて、こんな日々が一生続くんだと、信じて疑わなかった。
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