コロッケ弁当
柏木文香は、またかと思った。いや、今日の患者は一段と酷い。化粧する暇があったら患者の気持ち?生憎、こっちには仏様みたいな心は無いもんでね。
駆け足で病棟を移動すると、履き古したシューズの底がパカパカと音を立てる。癌患者からの心無い言葉を受けたって、医者という職業に待ったは無い。そんな文香に追い打ちをかけるように、すれ違った上級医がこう呼び止める。
「先生、清水さん担当?治療の説明上手くいった?」
「それが、担当を変えてほしいそうです。」
「…え?なんかあったの?」
「いえ、特に何も。治療方針はきちんと伝えていました。」
「また、変なこと言ったんじゃないの?柏木先生、たまにきついとこあるから。」
変なこと、とはどういうことか。男性と同じような発言を女性が言うと、性格がきついだとか勝ち気だとか言われる。
「ひとまず、引き継ぎのカルテをまとめてきます。」
何か言いたげな上級医の視線を振り切るように会釈をすると、目に入った女子トイレに逃げ込んだ。泣いてはいけない、と鏡に映る自分の顔を凝視する。目の下のクマも頬のシワも、美しい歳の重ね方とは程遠かった。まるで、女医として生きてきた日々がそのまま染み付いているかのようだ。
「女医か…」
自分の脳内で浮かんだ言葉を反芻する。周りの何倍も努力して、ようやく掴んだ医者という職業なのに、医者の前に女がつくのは、複雑な気分であった。
「弘樹、走らないのよー。」
ふと、女性の声と、その子供らしき足音が近づいてきた。慌ててハンドソープの蓋を押し込んで、手を洗う振りをする。
鏡越しに見えたその母親は、その子の手を取り、笑顔を見せた。病棟にいるのだから、きっと何かしらの病気があるに違いないのに、どうして笑えるのだろう。自分も、あんな風に優しく笑えたら、どんなにいいだろうか…。
「いけない、いけない。」
鏡の向こうの親子に気を取られている暇は無い。文香は頬を3回ほどぺしゃぺしゃと叩き、医局へと向かった。そこでは、同期の医師がPHSを手に、いつになく真剣な顔つきをしていた。
「俺、緊急オペ入ったわ。」
そう言うと、早速荷物をまとめようとする。そして、デスクの上の弁当に気が付いて頭を抱える。
「あっ!弁当買っちまったわ。」
オペは10時間以上かかるらしいから、賞味期限内に食べるのは無理だろう。可哀想に、とは思いつつ、自分にもオペで助手を務めるような仕事が回ってくればいいのにと思う。
「柏木、俺の弁当食ってていいよ。」
「え?」
最近は食事も栄養ゼリーで済ませることが多かった。気持ちはありがたいが、弁当箱の中身がコロッケであることを見て急に食欲が失せる。コロッケなんて糖質と脂質のかたまりではないか。
「何で嫌な顔すんだよ?ここの弁当、おいしくってさ。弁当売る人がまた良い人なのよ。」
副菜を見ると、ほうれん草の胡麻和えと、厚揚げの煮物で、バランスは悪くなさそうであった。米を半分ほど残せば、食事摂取基準を満たすことができる。そんな文香の顔色の変化を知ってか知らずか、同僚は弁当を彼女の目の前に移動させた。
「とりあえず、俺は行かないといけないからさ。じゃあまたな。」
椅子を引くことも忘れた同僚は、白衣を掴んで出ていった。
「油物は、控えているのだけれど…」
そう思いつつも文香は空腹だった。ひとまず箸を取り、副菜に手を伸ばす。出汁がふんわりと香る厚揚げは、中心部まで味が染みていて、一緒に煮てあるしめじとの相性がすこぶるよかった。その横に置いてあるコロッケにかじりつくと、シャクっと音を立てた。その味わいに、思わず目を丸くする。
「おいしい…」
揚げ物なんて、いつぶりだろう。なるべく効率的に栄養を取るようにしているから、主食でもないのにエネルギーにしかならないコロッケなど、食べるはずも無かった。しかし、この弁当を食べていると、理屈では説明できない何かが、体の隅々に行き渡るようであった。
いつも食べているビタミンゼリーの味を思い出した。特に不味くもないし、栄養的には完璧で、それで不自由は無いと思っていた。しかし、科学的に完璧なものが、必ずしも完璧に満たしてくれるとは限らないのだ。
文香は一端箸を置き、清水のカルテを開いた。病名と、治療方針と、各治療のメリットデメリット。そこに、患者の反応についてのコメントが一言も無い事に気付いた。
「私は、清水さんの気持ちを聞いたことがあっただろうか…。」
清水が自分を嫌ったのは、男女の違いだけではなかったかもしれない。
書きかけのカルテを閉じ、患者説明用の資料に目を通す。引き継ぎをする前に、もう一度だけ彼の話を聞いてみようと思った。
青木さんのお弁当 阿久津水輝 @tomato0525
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