ハンバーグ弁当

 親切な男性が手を貸してくれたこともあって、渡辺知世はようやく全ての荷物を病室に運び込むことができた。


 「ありがとうございました。助かりました。」

 「いえ、入院は今日からですか? 」

 「はい、そうなんです。私じゃなくて、息子なんですけど……」


 男性の顔が少しだけ曇ったのが分かった。子供の入院となると、深刻な病気を想像するのだろう。


 「同じ階なので、また何かあれば言ってください」


 そう言って去っていったあの男性は、一体何の病気なのだろうと思う。しっかりとした口調とは裏腹に、その後ろ姿はひどく痩せこけていた。


 知世は、ふぅーとため息をつく。白で埋め尽くされたその場所は、見る者を追い詰めるかのように殺風景である。知世は、息子の弘樹が急性リンパ性白血病と診断された日のことを思い出した。狂ったようにセミが鳴く、うだるような暑さの日のことであった。


 入院費、治療費、病院までの往復費。毎日の生活だけでも目が回るほど大変だというのに、そんなお金、どうやって用意したらいいのか。とはいえ、離婚した元夫に頼りたくはなかった。自分でちゃんと育てられると、そう言って別れたのに。


 当の息子は呑気なもので、病院着に着替えると、早速持ってきたおもちゃで遊び始めている。戸棚の上を走っていくクルマ。ああ、あの上にはホコリが積もっているのではないか。


 「こら! 弘樹汚いでしょう、やめなさい」


弘樹はこっちを向くと、不服そうな顔をする。


「いいじゃん、ママのけち」

「けちじゃない! 弘樹のためを思って言ってるのよ、どうして分かってくれないの! 」


 思わず飛び出した強い口調に、弘樹は少しだけ泣きそうな顔になった。そうして、知世に背を向けて寝てしまう弘樹を見て、再びため息を付く。


 その時、外から女性の声がした。


 「お弁当はいかがですかー。おいしい、身体に優しいお弁当ですよー」


 お腹が鳴った。弘樹に病院食を食べさせるのに精一杯で、まだ何も食べていない。こんな時だというのに、自分の身体はまだ生きようとしているのだ。


 外に出ると、中年の女性がトレーを重ねたワゴンを押していた。その中には、おかずがぎっしりと詰まった弁当が並んでいる。


 「すみません、そのハンバーグ弁当を1つ下さい」

 「ありがとうございます。お子様にも人気のおかずですよね」


 そう言って、知世ににっこりと笑いかけた。知世ははっとした。もしかしたら、叱っている声が聞こえていたのかもしれない。


 「すみません、見苦しいところをお見せしてしまって」

 「見苦しいなんて、とんでもない。あのくらいの年の子って、一番大変ですよね」

 「そうなんですけど、あんな風に怒るの、今日だけじゃないんです。病気のことが分かってから、毎日毎日、ピリピリしちゃって」


 女性は、少しだけ黙った。そして、ゆっくりとこう答えた。


 「この間、同じようなことをおっしゃっていたお母さんがいらっしゃいました。心配になりますよね……」

 「そうなんです。でも、私がちゃんとしないと」


 言いながら、泣きそうになった。情けないお母さんでごめんね、と思った。そんな気持ちを察したかのように、女性は、お釣りを受け取った知世の手をぎゅっと握る。


 「大変な時は、誰かに頼ることも考えて下さいね。まずはそのお弁当で栄養補給です」


 張り詰めた気持ちが、きゅんと傷む音がした。


 「ありがとうございます。いただきます」


 病室に戻ると、早速弁当の蓋を開ける。迷わず、ハンバーグに手を伸ばした。シャキシャキの玉ねぎと、ケチャップの甘酸っぱさが優しかった。


 ハンバーグは、弘樹の大好物だった。幼稚園で遠足があった時は、早起きして作った。空っぽで帰ってきたお弁当箱の、嬉しいことと言ったら。知世は、本当はお金のことなんてどうでもよかったことに気付いた。お金のことばかり考えていたのは、病気のことを受け入れるのが怖かったから。


 弘樹は、いつの間にかすやすやと寝息を立てていた。変わっていった季節を告げるかのように、窓からキンモクセイの香りが流れ込んできた。弘樹の頬をそっと撫でると、愛しさがこみ上げてくる。


 知世はいつの間にかスマホを取り出して、ダイヤル画面を出していた。夫の番号は、まだ忘れていなかった。





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