青木さんのお弁当

阿久津水輝

さばの味噌煮弁当

 「だ、か、ら、担当医師を変えてほしいって言ってんだ」


 精一杯の反感を込めて、清水貴司しみずたかしはそうまくし立てた。目の前にいる女医の、やけに綺麗に整えらえた眉が歪む。


 「ですから、清水さん。治療方針は私でも他の医師でも変わりません。何か特別な理由でもあるのですか? 」

 「知らねぇよ、化粧なんてしてる暇あったら患者の気持ちでも勉強したらどうだ? 」


 彼女は大きなため息を隠そうともしない。


 「分かりました。今日中に引き継いでおきますので」


 踵を返して、病室を出る彼女の後ろ姿に舌打ちをしながら、これだから女医ってやつは、と思った。プロ意識が全く足りていない。


 自分があの女医くらいの歳の頃は、がむしゃらに働いたものだった。中卒だと馬鹿にしてくるやつらを見返そうと、何日も会社に泊まり込んだ。何十年も必死で走り続けて、ようやく今のポストまで上りつめた矢先の、末期膵臓癌の宣告であった。


 仕事仲間、家族、近所の人。世話した相手は多かったはずなのに、誰一人として見舞いに来たりはしない。手塩にかけて育ててきた部下でさえ、電子メールを一通寄越しただけだ。あんなにしてやったのに、自分はこれっぽっちも報われていない。妻から離婚を切り出されたのも、もう随分も前のことであった。


 「失礼しまーす。」


 病室の入り口を見ると、和菓子の紙袋を下げた女性が入ってくる。


「吉田さん体調はどうー? 」


 見舞い客が来たかと思えば、自分のベッドはいつも素通りされる。あの吉田とかいう鈍そうな男より、価値が無いということだろうか。


 清水は、思わず逃げるように点滴棒を引いて、病室を出た。人気が多い場所には行きたくもなく、足は自然とベット数の少ない西棟に向かった。そこの1階のエレベーターホールで、弁当をトレーに並べている女性がいた。50代くらいだろうか、胸の名札に「青木」と書かれている。


 こんなところで弁当を売るなんて、マーケティングの欠片も分かっちゃいない。そうは思いつつも、プラスチックの容器にぎっしりつまったおかずは、食欲をそそった。そういえばもうずっと病院食以外のものを食べていない。


 「おばさん、そのさばの味噌煮を一つ」

 「はいよ。ありがとね。じゃあ今だけこれもどうぞ」


 そう言って彼女は、ペットボトルの緑茶を一緒に渡してきた。その容器の温かみに無性にイラっとした清水は、思わずまくし立てた。


 「そんなもの客に与えたって、損するだけだろ。大体、こんな場所で売ってたって、儲かる訳がない。仕事なら、もっと頭を使え頭を」


 その青木とかいう女は、少しだけ驚く様子をみせたが、すぐににっこり笑って、こう言った。


「お茶を渡すのは、お客さんのためじゃありませんよ。私が、お客さんの喜んでいる顔が見たいから。それだけです」


 てっきり反論か謝罪が帰ってくると思っていたのに、清水は面食らった。これほどの暴言を笑顔で受け流す人間が、この世にいるのかと。彼女が考えていたのは利益では無かった。


 そばにあったベンチに腰掛け、弁当の蓋を開ける。


 温かい。トレーの下には、電熱器が敷いてあったらしい。


 箸で摑むとほろほろと崩れるほど柔らかく煮込まれたさばは、口の中でとろけた。上品な脂身と、甘辛い味噌の味がいっぱいに広がる。


 人の作ったものを口にしたのは、何ヶ月ぶりであろうか。化学療法の副作用で食欲は湧かない上に、入院してからの日々は、清水の心をゆっくりと、しかし確実に蝕んでいた。話すのは医者と看護師だけ。医者も、回診で声を掛けるだけですぐに去っていく。鼻の奥がつんとした。清水は、自分が涙を流していることに気が付いた。


 「どうして、人生の終わりがこんな形なんだろうな」


 独り言のように呟く。彼女のように優しさを持って生きられていたなら、こんな風に一人で死ぬことも無かっただろうに。人は死ぬときにその価値が分かるのだと、誰かがそう言っていた気がする。


 「今からでも、遅すぎることはないですよ」

 「特別なことじゃありません。エレベーターのボタン一つ押すだけでもいいんです」


 そう言って彼女はそばにいた車椅子の患者を慣れた手付きで押すと、何事も無かったかのように、元いた場所に戻ってきた。


 その気取らない姿に、ふと自分は、してやったとしか言っていなかったことに気付いた。働いてやった、面倒をみてやった、養ってやった。でも、本当は違ったのかもしれない。人は、自分のために人に何かをするのだ。その人が笑顔になってくれるのが嬉しいから。


 自分も、自分のために誰かに優しくするのも、ありかのかもしれない。清水はふと、らしからぬことを考えた。この孤独な人生の終わりを、少しだけ、誰かのために使えるように。


 「うまかったよ」


 清水がエレベーターに乗り込むと、目の前にいる大きな荷物を抱えた女性が目に入る。女性が自分と同じ階であると分かってから、清水はようやく声を掛けることができた。


 「その荷物、お持ちしましょうか」


 思わず震えた声には、気付かれなかっただろうか。彼女は振り向くと、にっこり笑ってこう言った。


「助かります。ありがとうございます」






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る