第4話

▼駿河台 町人の長屋が並ぶ路地


【江戸の町が大雨の水に飲まれた翌日、昨日まで三日三晩続いた大雨が嘘のように青空が広がっています。梅雨が明けたような空のもとですが、昨夜までの豪雨の爪痕はあからさまに残されたままで、この雨が決して夢ではなかったことを残酷に知らせます。気温はぐんぐんと上がるなか、道ばたの倒木、泥沼、倒れた家屋が嫌でも目に入ってきます。ここでは、他の町と同じく町内の片づけ・立て直しに奮起する人たちが】


与太郎  <熊さん、昨夜は寝れたかい?>

熊五郎  <おう、ぐっすりよ。成仏しちまうかと思った>

与太郎  <すごいや。こっちは寺のなかが騒がしくてもう全然>

熊五郎  <見かけによらず神経質なんだな>

与太郎  <見かけの通りだよ。そろそろ長屋だね>

熊五郎  <着いた。が、改めて見ると、こりゃあ、ひでぇありさまだ>

与太郎  <水は引けたけど>

熊五郎  <水が引けただけだ>

与太郎  <流れてきたものは引いてないや>

熊五郎  <家も倒れかけちまって。こんな流木、どうどかしゃあ>

与太郎  <泥も臭くてしょうがない。変な病気になっちゃうよ>

熊五郎  <きったねぇ泥からかき出すか。与太郎、手伝え>

与太郎  <わかったよ。あ~暑い、ここまで来るだけで、もうのどがカラカラだ>

熊五郎  <昨日の雨で水はもういらねぇと思ったが、皮肉なもんだ。雨のあとに働かなきゃいけない人様のこと考えろってんだ>

そば売り <お~い、みなさん、大丈夫ですかね?>

与太郎  <あー、昨日の>

そば売り <こちらの町の片づけも落ち着いたんで、来ましたよ。なにか困っていませんか?>

与太郎  <困ってるよー>

そば売り <手伝えることがあったら何なりと>

熊五郎  <ありがてぇ。頼むぜ>

そば売り <それと、この桶を置けるところありませんかな?重い重い。水を持って参りましたから>

熊五郎  <それもありがてぇ。近くの井戸はことごとく泥水で飲めたもんじゃなかったんだ>

そば売り <大雨のあとダメになる井戸も多いですからな。この水は大丈夫。午前中ちょっと出かけて汲んできましたよ>

与太郎  <いただきまーす>

熊五郎  <こら、まだ早え。一丁、働いてからだ。ほら、木の板。これで泥をかき出せ>

与太郎  <はぁ、はいはい>

そば売り <あたしにもひとつ。さて、やりましょう>

与太郎  <あ~あ、入り口すぐの流木が邪魔になっちゃう>

熊五郎  <しょうがねぇ。与太郎、そっち持て。せーので持ち上げるぞ>

与太郎  <せーの。はい>


【今日という日には江戸のあちこちでこんな風景が繰り返されております。嘘のような炎天下、手拭いで汗を拭きつつ、泥や障害物をどかしてゆきます。町の向こうからは戸板を叩く金槌の音などが響きます。元の生活に戻ろうとする江戸の庶民の力技といったところでありましょう】


熊五郎  <暑い、暑い>

与太郎  <くたくた。休~憩~>

熊五郎  <もうか?まだまだ>

与太郎  <今日一晩は寝れるだけの場所ができたよ。もういいじゃないか>

熊五郎  <もう一息だ、一気呵成にやりきっちめぇ>

与太郎  <うえー>

そば売り <まぁまぁ、張りきりすぎてもいけません。この空の様子だと、まだ当分は晴れが続きそうだ>

与太郎  <うんうん>

町名主  <おーい、お前たち。精が出るのう。ここの長屋はずいぶん仕事が早い>

与太郎  <あ、名主の爺さん>

そば売り <これは、これは。あたしは熊五郎さんの知り合いで、貝殻町の者です。今日は自分のところが早く済んだんで手伝いに>

町名主  <どうもありがとうござい。いや、雨でほとんど流されてしまい、何もおもてなしできず恐れ入ります>

そば売り <いえ、お気になさらず。熊五郎さんへの恩返しもありますから>

町名主  <へぇ、この乱暴者に恩ですか。あなたも珍しいお人だ>

熊五郎  <うるせぇやい。爺さん、ご覧の通りのひでぇありさまだ。これで店賃取ろうってのか?>

町名主  <それに関しては今少し考えてるところだ>

熊五郎  <存分に安くしてくれ>

与太郎  <こんなにして泥かき出してるんだ。銭もらいたいくらい>

町名主  <考えておくよ。そんなことより>

熊五郎  <そんなことじゃねぇや>

町名主  <いや、悪い悪い。お代とまではゆかないけれども、頑張ってくれるお前たちに、今日は良い土産があるんだよ>

与太郎  <水ならもうありがたくはないよ>

町名主  <それというのが、こんな暑い日にもってこいの、冷たい素麺だ。隣の町で大釜で茹でたんだよ>

与太郎  <おいしそー>

熊五郎  <そりゃあいいじゃねぇか>

町名主  <届けに来る者がそろそろ。お、来た来た。どうですか、氷水に茹でたての素麺だ>

熊五郎  <かぁ、つるつるっといきたいね>

与太郎  <片づけなんてやめていいだろう?熊さん?>

熊五郎  <そうだな。おい、そば屋のおやじも食ってけ>

そば売り <この暑い季節にそば売りはもうしてないんですがね。ぜひ、頂きます>

熊五郎  <そば屋が泥だらけで素麺食うってのも、何かの小話か?>

そば売り <小話になりゃいいんですがね。なりもしません。なんなら、これからは氷売りにでもなろうかと>

与太郎  <買うよー>

そば売り <へへへ>

熊五郎  <いんや、そば屋は素麺屋になりゃあいい>

そば売り <冬から夏に、商いも衣替えがいい>

町名主  <ほれ、素麺はここに。薬味は、ねぎにしょうが、梅と>

熊五郎  <あ、いや、爺さん、つゆはいらねぇや。俺ぁ梅だけでいい>

町名主  <ん?なんでだい?>

熊五郎  <梅雨の雨はもうたくさんだ。梅だけありゃいい>


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【落語台本】素麺(そうめん) 紀瀬川 沙 @Kisegawa

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