第3話

▼駿河台 旗本と町人の住まいを隔てる坂道


【さて、第2話の最後で熊五郎とそば売りが激しい夕立に襲われた後のお話。江戸の町はあれから三日三晩、記録的な豪雨に見舞われておりました。もっとも、この大雨で幕府の学問所も書庫も水浸し、大雨の記録を記した書物も水浸し。今となってはこの雨が記録的かどうかも誰もわからないといったありさま。それでも雨は今も降り続けます。いよいよ町中水浸しになって、元のところに住んでいられない人々が、貴賤にかかわらず次々と追い出されて参りました。ここ駿河台の、旗本の住まいと町人の住まいを隔てる路地も例外ではありません】


熊五郎  <まだまだ降るなぁ。勘弁してくれ>

与太郎  <ほんと、ほんと。笠蓑なんて久々に引っ張り出してきたよ>

熊五郎  <俺もだ。あぁ、与太郎、もう全身びっしょびしょじゃねぇか。どっか穴あいてるだろ?>

与太郎  <え?そうかい?うわ、やだなー>

熊五郎  <しょうがねぇ。足もと気をつけろ。滑るなよ。とりあえず、この坂の上まで歩け>

与太郎  <家が床の上まで浸っちゃったんじゃ、どこにも行き場はないや>

熊五郎  <この辺、みんなそうだよ>

与太郎  <あ~、雨~、やめ~>

熊五郎  <坊主が祈ってもやまねぇんだ。与太郎のじゃ、とうてい無理な話だ>

与太郎  <へへ~。うわぁ、あぶない>

熊五郎  <つかまれ。だから、滑るなって。神田の下まで流れちまうぞ>

与太郎  <海に出たりして?>

熊五郎  <その前にお陀仏だ>

与太郎  <お~、怖い>

熊五郎  <いいから、上へ歩け>

大工仲間 <おう、熊公>

熊五郎  <おう、無事だったか>

大工仲間 <体だけはな。家は水に浸るでもねぇ、すぐに流れちまったよ>

熊五郎  <えっ、そりゃあ大変だ。無事なだけ良かったな>

大工仲間 <そう思うことにするよ。とはいえ、まず今晩寝るとこだ>

熊五郎  <俺らもそうだ。水の上で寝れるわけがねぇ>

大工仲間 <坂の上にのぼってんのは、何かあんのかい?>

与太郎  <別にないよ>

熊五郎  <いや、坂の上の大乗寺が大雨にも持ちこたえてるってんで、そこに逃げるんだ。握り飯もあるとか>

与太郎  <腹減ったー>

大工仲間 <そうか。一丁、俺もお願いするか>

熊五郎  <それがいい>


【雨が坂を浅い川のように流れるなかを、三人はへとへとになりながらのぼってゆきます。すると、熊五郎には聞き覚えのある声が】


そば売り <ちょいと、ちょいと。だんな。四谷のそばのだんな>

熊五郎  <ん?誰かと思えば。またか。そばのだんなは、お前のほうだろ>

そば売り <またか、ってのはないでしょう?>

熊五郎  <お前もこの辺の長屋にいたのかい?>

そば売り <そうなんですよ。貝殻町のほうです。それにしても、ひどく降られましたな>

熊五郎  <お互い。いや、江戸中か?>

そば売り <ですな。屋台もそば粉も全部パァ>

与太郎  <もったいない>

熊五郎  <与太郎は黙ってろ。まぁ、そば屋、命あっての物種だ>

そば売り <くしくも前に言ってた、夏を前に最後の商売になっちまいましたよ>

熊五郎  <それで、お前も大乗寺に行くのかい?>

そば売り <ええ。長屋は水に飲まれずに残ってんですがね、肥溜めがあふれちまって臭い臭い。雨と糞に追い出された格好で>

熊五郎  <笑うしかあるめぇ>

与太郎  <そーだねー>

熊五郎  <そうだ、あの根付は高く売れたのかい?>

そば売り <いや、あれから今まで降り続けですよ。売るひまもありゃしませんでしたよ>

熊五郎  <なんでぇ>

そば売り <そのうちに、あれよあれよという間の増水で、着の身着のまま、この通りです>

熊五郎  <でも家は流れはしなかったんだろ?>

そば売り <今となっちゃどうだかわかりません>

与太郎  <糞まみれ?>

そば売り <もう焼け糞です>

熊五郎  <この雨水じゃ焼けもしねぇ>


【水浸し、泥まみれのまま、一時の避難場所の寺を目指して歩いてゆきます。大雨に煙る道は目と鼻の先も白く煙り、視界もことごとく悪いなか、急に怒号が響き渡ります】


旗本奴  <見つけたぞ。そこのそば屋と連れ。待て>

そば売り <ひ、こないだの>

熊五郎  <よりによって、こんな日に。あいつらも雨に追いだされたくちか?>

旗本奴  <まさかこんなところで会うとは。このあたりの住人だったのか。俺らのことを覚えているか?>

そば売り <それはもちろん。もう何も後腐れもないと思いますが>

旗本奴  <いいや、あのあと、この女の根付がなくなった。心当たりないか?>

そば売り <まったくもってありません>

熊五郎  <おおかた、あの日の夕立にあわてて落としちゃったんじゃねぇですかい?>

旗本奴  <まさか盗ってはいないだろうな?>

そば売り <めっそうもありません>

熊五郎  <盗った?んなわけあるか>

大工仲間 <変なやっかいごとに巻き込まれたくねぇや>

与太郎  <お姐さん、寒そうだけど、大丈夫かい?根付、見つかるといいね>

女    <ふふ、ありがとうね。冷たい雨が身に染みちまって。寒くって>


【旗本奴の連れた女が大きくクシャミを致します。さらには、小刻みに震えて本当に尋常じゃなく寒そうな様子。その様子を与太郎が心配します】


与太郎  <ちょっと、ちょっと、お侍のだんな。お姐さんが震えちまってるよ>

旗本奴  <むぅ。なに、大事ないか?>

女    <ええ・・・>

与太郎  <熊さん、早く寺に行こうか?>

熊五郎  <そうだな。だんな、姐さんの体に障るといけねぇ。もろもろあったかもしれねぇが、今は同じ雨の下だ、とにかく坂の上の寺へ>

そば売り <そうだ、風呂敷にまだ濡れてない掛け布があるかもしれません。あった、あった。これをどうぞ>

旗本奴  <むぅ、か、かたじけない>

女    <ありがとうございます>

熊五郎  <いいってことよ>

そば売り <困ったときはお互い様です>

与太郎  <そーだーねー>

熊五郎  <寺のほうで煙が。あれはきっと炊事の湯気にちげぇねぇ>

大工仲間 <もう少しだ。足もと気を付けろ>


【こうして一行は、貧富・貴賤かかわらず災禍をもたらす大雨から逃れ逃れてお寺の境内にたどり着きます。そこは、広い敷地に周辺から来た避難民が集まってはいるものの、丈夫な屋根も床もあり、熊五郎が見たように炊事もせっせと行われておりました。無事に到着できて安堵の一行。これまで悪事や災いが立て続けておりましたが、はたしてどうなることやら。次のお話にて】

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