第2話

▼四谷伝馬町 夕立の迫る路上


【第1話から3日後、場所は同じ四谷伝馬町の路上です。3日前に夜鷹そばの屋台があった樫の木のそばには今やもう屋台はなく、青々とした草が生い茂っているだけであります。今日になっては梅雨の蒸し暑さがいよいよ高じてきて、夕方のこの時間でも、どんよりとした曇り空にむっとした熱気が籠っています。西の空では雲が黒ずんでいっそう厚くなり、時折チカチカと雲の中に稲光が透けて見えます。夕立の気配せまる道を、熊五郎が早足で歩いてゆきます】


熊五郎  <ピカッとやってやがる。急がねぇと>

そば売り <あ、ちょっと、そこの。ちょっと、ちょっと>

熊五郎  <あ?俺か?>

そば売り <そう、あなたですよ。あなた、先日ここのそば屋に来てくれたお人でしょう?>

熊五郎  <おう、いかにも。お前は誰だ?あぁ、あの時の店のおやじか?>

そば売り <そう、そう。先日はどうも。と言っても、あれからいろいろありまして、結局頂いたお代も消えてなくなっちまったんですがね>

熊五郎  <どうせ、おやじの酒代に消えたんだろう?こちとら急いでんだ。見ろ、じきにこっちにもザァっと一雨来るぜ>

そば売り <そうですか、それは用心しないと。でもまぁ、ちょっとお待ちなさいよ>

熊五郎  <しょうがねぇな。なんだい?>

そば売り <いやね、今ここに屋台はないでしょう?なんでか分かりますか?>

熊五郎  <知らねぇよ。こんな暑きゃあ誰もそば食わないから、やめたんだろ?>

そば売り <違いますよ。前にも言ったように、暑い時分にも少しは売れるんですよ。夕立の前に急ぐのは重々分かっておりますが、ちと、あたしの愚痴も聞いておくれ>

熊五郎  <なんか訳あり顔だな。ここで会ったが百年目だ、言ってみろい。傘も蓑もねぇ、降られたら降られただ>

そば売り <ありがとうございます>

熊五郎  <なにがあったい?氷屋にでもなったかい?>

そば売り <今からちょうど3日前ですか。お客さんがあたしの怪談話を最後まで聞かずに>

熊五郎  <あはは、そうだったな。悪かった、悪かった。あれから、どうなった?>

そば売り <いやね、あたしはあの時、女の幽霊の顔がのっぺらぼうだったと言いたかったんですよ>

熊五郎  <そうかい、そりゃ怖ぇ。で、もういいかい?>

そば売り <いやいやいや、今日はそれが本題じゃぁないんです。あの時、屋台にいたお侍と連れの女がいたでしょう?>

熊五郎  <いたな。なんか面倒な事情がありそうだった。思い出してきた、あの女、いい女だったな?>

そば売り <おたく、女の顔見たのですか?>

熊五郎  <おうよ。おやじは見てなかったのか?鼻筋の通った綺麗な女だった>

そば売り <注意して見てはいなかったですね。でもそれだと、話がおかしいなぁ>

熊五郎  <なにが?>

そば売り <あなたが駆けて行ったあと、あのお侍と女、のっぺらぼうだったんですよ>

熊五郎  <なんだ、短兵急に。のっぺらぼうは幽霊だろ?>

そば売り <違う違う。いや、幽霊ものっぺらぼうだ。だけど、あの人たちも、のっぺらぼうだったんです。「こんな顔だったろう?」という例の文句で。あたし、情けないことに驚いて逃げてしまって>

熊五郎  <あ~、そうか。おやじ、それはマンマとたばかられたな。どうせ誰もいなくなった屋台の銭が目当てだろう?>

そば売り <悔しいけれども、その通りなんですよ。きれいさっぱり持ってかれちまった。思い出しても悔しい>

熊五郎  <してやられたな。どうせ、かぶき者を気取る旗本の次男坊か何かだろう>

そば売り <なんだっていいけれど、稼ぎを騙して持ってかれたのが口惜しい>

熊五郎  <それで、あんたは同じところで待ち構えて恨みを晴らそうって魂胆かい?幽霊じゃぁあるめぇし>

そば売り <いえ、そんなことしても敵いやしませんよ。ただ、のっぺらぼうの正体だけでもわかれば、一矢報いたいというのはありますが>

熊五郎  <返り討たれて、人を呪わば穴二つ、ってか?>

そば売り <やめてくださいよ、縁起でもない。心なしか、雷鳴も近づいてきたような気が>

熊五郎  <桑原、桑原>


【そこに何と、偶然、あの旗本奴と女が通りがかります。男のバサラな羽織、女の鼈甲かんざしに紙入れ、急な実入りがあったためか、いずれも真新しい派手な装束であります。二人はそば売りには気づかずに、上機嫌そうにじゃれ合いながら歩いて参ります。それにしても、屋台のあった現場を数日後に通る、そのふてぶてしさと言ったら】


そば売り <あっ、あいつがはく刀は、あの時の>

熊五郎  <おぉ、噂をすれば。大丈夫かい、相手は刀ぶらさげてるぞ>

そば売り <えぇい、おっしゃる通り、穴二つだ。おい、待て、そこの奴>

旗本奴  <む、なんだ?お前は?>

女    <あら>

そば売り <知らないでは済まない。三日前、ここで。身に覚えがあるはずだろ>

旗本奴  <知らねぇな。俺たちは今ここを初めて通るんだぜ。なぁ?>

女    <うふふ、うふふふふ>

そば売り <その笑い方>

旗本奴  <女にいちゃもん付ける気か?>

そば売り <忘れるものですか。のっぺらぼうだのと、ふざけて。銭を巻き上げられた>

旗本奴  <だから、人違いじゃねぇか?>

そば売り <いいや、間違えないね>

旗本奴  <怖がって逃げたのはお前の勝手だ>

そば売り <ほら、本性が出た。なんであたしが逃げたって言えるんだね?>

旗本奴  <うるさい。これ以上、無用な言いがかりをつけるなら、こちらもこちらでこれに出るぞ>


【こう言って旗本奴が腰にはく刀の柄を一撫でしますってぇと、一緒に討ち果たされちゃかなわないと思った熊五郎が】


熊五郎  <まぁまぁまぁ。だんな。こいつも、重苦しい雨雲が近づいてきて、ちと気に障っちまったんだ。のっぺらぼうに驚いたとか言っておりますが、のっぺらぼうなら顔が分からないはずだのにねぇ。馬鹿でしょう?この通りだ、この場はどうかご勘弁くだせぇな。あとできつく言って聞かせますんで>

旗本奴  <無礼者。二度と因縁をつけるなよ>

熊五郎  <ははー。お、またピカッときた。いけませんぜ、だんな。これは早くしねぇとザァっときますぜ>

旗本奴  <・・・>


【旗本奴は渋々引き下がってゆきます。そのまま元の早足で家路をたどるんだか、連込宿へゆくんだか。残されたのは、そば売りと熊五郎です。どうなったかと思えば】


そば売り <・・・>

熊五郎  <危なかったなぁ。おい、大丈夫か?俺がいなかったら今頃、胴体まっぷたつだったかもしれねぇぞ>

そば売り <へへ。ありがとうございます>

熊五郎  <お、もう憂さは晴れたのかい?>

そば売り <へい。あの女の帯からそっとこれをせしめてやりましたんで、一矢報いてやりましたよ>

熊五郎  <高そうな根付を。やりやがったな>

そば売り <目には目を、歯には歯を、だ>

熊五郎  <しょうがねぇな。ただ、こうしちゃいられねぇ。気づいて戻ってくると厄介だ>

そば売り <ぽつぽつときましたな。急ぎましょう>

熊五郎  <盗人の片棒かついじまったのが心持ち悪いな>

そば売り <かたき討ちと思ってくだされば>

熊五郎  <馬鹿野郎め>


【そうこうしているうちに、西の空から立ち込めた黒雲が四谷にも痛烈な夕立を降らせます。二人はてんでバラバラに頭を守りながら駆け出してゆきます。この後は次のお話にて】

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