【落語台本】素麺(そうめん)

紀瀬川 沙

第1話

▼四谷伝馬町 夜鷹そばの屋台


【ここは四谷伝馬町の辻角。時は、日もとっぷりと暮れた新月の夜。ここ数日来、江戸の町には長く梅雨空が広がっておりました。今日は雨こそ降らなかったけれども、一日中今にも降り出しそうな空模様であって、夜になっても分厚い雲が一向に晴れてゆきそうにありません。加えて、昼のうちから季節外れの梅雨寒となり、夜の今となっては梅雨寒も一段と冴え返っています。そんな真っ暗な夜に、寒さにうめくような螻蛄の音がやかましいなか、樫の木のそばで一軒の夜鷹そばの屋台が小さく明かりをともしています】


熊五郎   <うぅ、寒い寒い。いいところにそば屋があった。おう、おやじ>

そば売り  <へい、いらっしゃい>

熊五郎   <そば、くれい>

そば売り  <へい、温まっておりますんで今すぐ>

熊五郎   <ちゃちゃっと頼む。にしても、おやじ、もうすぐ夏だってのに、何だろうな、この寒さは。ねぇ、そこのお侍さん。寒いでしょう?>

客の旗本奴 <うむ>

連れの女  <寒うございますねぇ>

そば売り  <ほんとですねぇ。寒の戻りってのも、もう春じゃなし、梅雨に入ってだいぶ経つんですから、まぁ珍しいですよ>

熊五郎   <このところ蒸し暑くって、温かいそばなんて、すっかり忘れきってたところだ>

そば売り  <へへへ、忘れられちゃ困っちゃいますがね。あたしも、春過ぎてチト長く続け過ぎたかなとは思ってるんですが>

熊五郎   <昨日までの蒸し暑さじゃ、客なんて入るめぇ?>

そば売り  <いや、それがですね、少しぬるめにしたり、お客さんによっては冷たいのもお好みだったりするんですよ>

熊五郎   <へぇ、そんなもんかね>

そば売り  <はい、お待ちどうさま>

熊五郎   <あいよ。お、湯気の匂いがまたいいねぇ>

そば売り  <ま、屋台も畳まずにしぶとくやってたおかげで、今日みたいな梅雨寒にも出くわしたんでしょうな>

熊五郎   <久々だが、やっぱりうまいな。江戸っ子は二八そばに限る。うん、そうだな、こんな寒い日にゃ、これだよ、これ>

そば売り  <夏に向けて、食べおさめかもしれませんよ?>

熊五郎   <俺は暑かろうが食えるけどね。まぁ、ものには季節というのがあるからな。もしかしたらこれが最後かもな>

そば売り  <梅雨も明けたら、今度はこんなそばよりも、暑気を払ってくれるもののほうがいいでしょう?>

熊五郎   <でもそれじゃ、おやじの商売も上がったりじゃあねぇか?>

そば売り  <へへ、ご心配ありがたい。あたしゃあたしで、氷でも水菓子でも売れますんで>

熊五郎   <芝居でも変わり身が早ぇほうがいいに決まってら>

そば売り  <芝居ですか。そういえば、暑気払いには早すぎますが、こんな話があるんですよ>

熊五郎   <なんだい?そろそろ食い終わるが、それまでに終わる話かい?>

そば売り  <短気なことで。ええ、もちろん終わりますよ>

熊五郎   <で、なんだい?>

そば売り  <このところ、ここ四谷あたりでの噂話、お客さん、ご存知ありませんか?>

熊五郎   <もったいぶりやがって。知らねぇな>

そば売り  <そうですか。あたしもつい最近、聞いたんですがね。それ以降いろんな人から同じような話を聞くんですよ。今夜みたいな夜の話で怖いものだから、困っちまうもんで>

熊五郎   <ほう、怪談けぇ?>

そば売り  <ええ。話はと言いますとね、四谷の、町の名前は話によって違うんですがね、とある道ばたで、柳の木の下に夜な夜なびしょ濡れの女の幽霊が出るそうなんですよ>

熊五郎   <へぇ、美人なのかい?そこの姐さんみたいに>

女     <うふふ、お上手なこと>

旗本奴   <無用な口をたたくな>

熊五郎   <・・・>

そば売り  <いかんせん、幽霊なんで誰もじっくりは見ないから、わかりませんが。その女は見える人にだけ急に見えるそうで。見えた人が、あれおかしいなぁと思って目をとめて見ていると>

熊五郎   <見ていると?>

そば売り  <その女、最初は柳の木の幹に向かっているんですが、徐々にこちらを振り返るそうなんです。で、振り返りきると、その女の顔はなんと>

熊五郎   <なんと?あ、そば食い終わっちまった>

そば売り  <なんとですね>

熊五郎   <おやじ、悪いな。食い終わったんで行くぜ。お代はここだ>

そば売り  <あれ、あ~あ、せっかちなお人だ。まだ話は続くのに>

女     <うふふ、うふふふふ>

旗本奴   <いやはや、おやじ、残念だったな。あんな馬鹿な町人、放っておけ>

女     <うふふ、うふふふふ>

そば売り  <あはは、そうですな>

旗本奴   <で、話の続きはどうなんだ?>

女     <うふふ、うふふふふ>

そば売り  <それが、その女が振り返った顔はなんと>

旗本奴   <こんな顔じゃなかったか?>


【そう言う旗本奴の、うつむき姿勢から上げた顔には、驚くことに目も鼻も口も毛も、何もありません。のっぺらぼうというやつ。これにはそば屋のおやじもビックリ仰天】


そば売り  <う、うわぁぁ>

女     <うふふ、うふふふふ>

そば売り  <お客さん、大変大変。だんなの顔が>

女     <うふふ、うふふふふ。こんな顔じゃありませんでした?>


【そう言って今度は連れの女が、それまで笑い顔を隠すために背けていると思っていた顔を向ければ、おんなじにのっぺらぼうの顔】


そば売り  <うわぁぁ。誰か、助けてー>


【恐怖に叫んで主が夜の闇へと駆けていった屋台には、旗本奴と連れの女だけが残されました。梅雨寒はいよいよ風をともなって参りまして、小さな明かりが揺らめき始めています。旗本奴と連れの女は誰もいなくなった屋台の隅に回り込み、おやじが売り上げを入れていた木棚を探り、お目当てがあったと見え、ほくそ笑んでおります。その顔は無論、もうのっぺらぼうではありません。悪知恵が働くと申しますか、悪事を働いております。哀れなのは夜鷹そばのおやじ。はてさて、次のお話はいかがなりましょうか】

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