竜暦1万飛んで52年 ィミーシャ :5

 船、来たり。花、散りにけり。


 ハルルが次に目を開けると、眼前には一面の流氷が広がっていた。どうやら、外洋に面した岸壁の中ほどにある洞穴に寝かされていたらしい。なるほど、ここならばしばらく追手には見つからないだろう。

 凍海。北西平原の北側に広がる凍える海は雨季の終わりとともに、その海流でもって北の果てから無数の流氷を運んでくる。漂着する氷の故郷、北の果てを目にして還った者は史上、数えきれるほどしかいない。その中の何者かが曰く、その地には水晶の宮殿が立ち並ぶ。曰く、その地には値千金の財宝が眠る。曰く、——“その国”には冥界の亡者が住む。

 どこまでが本当のことだろうか?ハルルは傍らに座る存在、(今のところは)自らの恩人を見やった。

『間一髪でしたね、騎士様』

 巨人、であった。鉛色の鎧に包まれたその体躯はハルルのそれを三まわりは越すだろう。だが、ただ巨大なだけではない。むしろそれ以外の特徴が、彼(彼女?)を特異な存在たらしめていた。

 その巨体は、全てが暗黒色の粘体で構成されていた。吸い込まれそうな闇の色は、暗い色の凍土の中にあっても異様に目立つ。ハルルはその色彩に覚えがあるように感じて——一拍の後、新月の夜にのぞき込んだ海面の色にそっくりであることに思い至った。

 人型というにはいささか大雑把な、例えるならば雪だるまのようなのっぺりとしたシルエットの中で、頭部と思われる部位に浮かんでいる二つの青白い発光器がハルルを怪しく見下ろしていた。

「……まあ、その、助かったわ。実際厄介な状況だったし、かたじけないわね」

『なあにをおっしゃいますか!!』

 風貌の怪しさからは少々意外な、人懐こさすら感じさせる調子の返答が発せられた。音声に共鳴し、やはり粘体の表面が小刻みに震えていた。

 その巨人の正体について、ある程度ハルルは見当がつかないわけではなかった。

 高知能スライム。多くのスライムと呼ばれる大型の粘体生物は、せいぜい獣程度の知能しか有さないとされる。しかし極々わずかながら言語を操り、独特の文化を形成するようになる種が存在するのだという。

 ハルルに礼を言われた巨人、改めスライムは、嬉しそうに体を揺らした。

「私はキトの果てのハルル。貴公の名は?」

『おお……これはとんだご無礼を。我が名は囀る尖塔のアドミナ。武者修行のため、故郷を発ったばかりの未熟者でございます』

 なるほど。スライムに性別があるのかは分からないが、まるで幼い少女のような高い声で話すその様子は今しがた名乗った二つ名にぴったりだ。彼女……と呼ぶべき者なのだろうか。

『遥々北の果てから凍える海を越えて異境の土を踏み、あなた様のような騎士様に出会えたことは天恵というほかありません!本当に助けになれてよかった……』

 しかし異様な風体に似合わずよく喋る。スライムとは皆こういう種族なのだろうか?ハルルは面食らいつつも、疑問を投げかけた。

「それで、なんだって貴公は私を助けたの?」

 先ほどからこのスライム……アドミナはどうしてやたらとハルルに心酔しているような調子で喋るのだろうか。ハルルは気取られないように、逃走の準備を整えていた。

『よくぞ聞いてくださいました!』

 対してドミナは、じつに無邪気な声色でハルルに答える。その、どこか子供っぽさすら覚える様子からはとても敵意など感じ取れないが……。

『やっとの思いでこの地に上陸を果たしたわたくしでしたが、さてそれからどうしたものやら。東西南北どちらへ向かうかも決めかねて、この白い森の中を彷徨っていたのです。そのときです、騎士様を見つけたのは……』

 アドミナの語った話はこうだった。現地住民のダークエルフたちが妙に殺気立っているのを感じ取った彼女は渓流に体を溶け込ませて(!)潜んでいた。そんな折、魚を串焼きにしていたハルルを見つけたのである。上陸以来の空腹に耐えかねていたアドミナはつい、何度もその魚を盗んでは食べていたのだった。

『罪なこととは重々承知していましたが、己一人では兵糧を確保する手段がなく……』

「……」

 ハルルお手製の焼き干し魚を盗んでいたのはダークエルフたちでも、ましてや川の主などでもなく、この貪欲なスライムだったのである。

「どうりで気が付けなかったわけだわ。まだまだ私も未熟者ね」

 まさか沢の流れそのものが己を監視していたとは。ハルルは頭の中で、落ち延びる際の要注意リストに“水”と加えた。

『しかしわたくし、騎士様の行いに感銘を受け心を入れ替えました。己の苦難を二の次に、敗軍の将の墓標を建てる。あれほどまでに義のあるお方だったとは……』

 アドミナが行いを改める決定打となったのは、ハルルの立てた“カカシ”であった。よりにもよってゲルゲサの頭を突き刺したあのおどろおどろしいモニュメントを、彼女は墓標と勘違いしたのだ。ハルルはスライムたちの墓制に興味を惹かれるしきりである。

『だというのに、許せんのはあの賊どもです!誇り高き騎士の墓標を吹き飛ばしおって!』

 自らも一人の騎士として捨て置くことができなかったのだ、とアドミナは怒りをあらわにした。粘液質の体表面にさざ波がたつ。大迫力だ。

 かと思えば、突然キョトンとした風にスライムが静かになった。

『ですが……ぜんたい、騎士様はどうしてあのような輩に襲われていたのです?』

「よくもまあ、その調子であの状況に割って入ってこれたわね」

 呆れつつ、ハルルは懐から手の平大の女神像を取り出してみせた。ハイエルフの女性をかたどった、黄金の立像。ゲルゲサの兜にあしらわれていたものだ。「これよ」と掲げると、曇天から細く差し込む陽光を受けてきらめいた。オークたちの起源神話、その前段に登場する“うるわしき母”は、ハイエルフの女性の姿で描かれる。

 そして当代においては唯一、英雄ゲルゲサのみが皇帝から使用を許され、彼が生涯戦場で用いた旗印でもあった。

「今、彼の死が本国に伝わると困る連中がいるらしいわね」

 それは妖精族か、オーク族の一派か、はたまた全く別の勢力か。大国の君主の親征失敗という大事件を、己の意のままに利用しようという者はそう少なくないだろう。先帝の右腕であった英雄ゲルゲサが討ち死にしたとなれば尚更だ。

 まあ、ズジーニがあの場に出てきていた以上、事態はさらにきな臭い方向へ動きつつあるのだろうし、ハルルが襲われた理由はそれ以外にもあるのだろうが。この先はアドミナのような得体の知れない者に語る話題ではない。

 アドミナも、それ以上の詮索はしなかった。

『それじゃあ、騎士様はこれから……』

 かわりに、彼女の発光器が明滅する。不安半分、期待半分。そんな感情を示しているように、ハルルには思えた。

 そんなアドミナに何かしらの言葉をかける前に、ハルルは女神像を懐に仕舞いなおして立ち上がった。暗い灰色の雲に遮られて正確にはわからないが、漏れてくる光を見るに太陽は未だ高い位置にあるようだ。まだ、日暮れまでには充分な時間がある。

「……ゲルゲサ殿とは、約束したからね」

 何人ものオークたちが散った戦場の跡の方角をちらと見て、ぼそりとつぶやいた。

 その言葉を聞き逃さなかったアドミナの発光器がひときわ輝き、体がひとまわり膨れ上がった。詳細な事情をこのスライムは知らなかったが、言外の意思を汲めないほど鈍いわけでもない。

『あなたを助けて、良かった!!』

 その姿は目、鼻、口が曖昧であるというのに、ハルルがこれまで出会ったどんな種族の誰よりも感情豊かであるように思えた。

『それでこそ騎士、それでこそ英傑であります!』

 アドミナも立ち上がり、鼻息荒く(実際に鼻息が出ているわけはないが)ハルルに詰め寄ってくる。東から迫る夜闇のように大迫力だ。


『――わたくしも、お供いたします!』

 

 断れるものではなかった。

 得体のしれないスライムではあったが、得体がしれないからこそ、ハルルは彼女を突き放して往く手段をまるで思いつかなかった。

 ……かくして、妙な二人組が東へ、神聖帝国へと向かう道程を歩んでいったのだった。

「まずは、ウシミを拾いに行かなくっちゃね」


※※※


 竜暦1万飛んで52年秋の暦、3度目の満月の頃。若き皇帝の留守を突いた貴族たちの謀反により、神聖帝国の権力構造は大きな変化を遂げる。

 ボルボビーラス麝香帝が、再び自らの城へ帰ることはついになかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ハルルの焼け野原日記 ピータン空蝉橋 @hannmyou

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ