竜暦1万飛んで52年 ィミーシャ :4

日、毒蝶、赤い手ぬぐい。


 柳の葉のように細長い刃が、木漏れ日を受けて冷たい反射光を放った。

 と、一人のダークエルフが思考を脳裏に結んだときにはもう遅い。状況を理解する猶予もなく、彼の視界は真横に倒れていた。

 北西平原を含むオーク族国家の支配地域において、戦で用いられる個人携行兵器は弓や弩などの飛び道具か、あるいは矛や槌といった長ものが常であった。対して、刀剣の類はそれらを補助する小型のものが専らとなる。それ故ダークエルフたちの目に、身の丈の半ばほどもある長剣を携えたハルルの出で立ちは奇妙なものとして映った。

 ましてやその戦闘技術は全く未知の代物である。オーク騎士たちの、敵を得物や鎧ごと遠間から打ち据えて無力化する闘いとは対極に位置する殺法。ハルルは瞬きひとつのうちにウシミ三頭分はある間合いを詰め切り、防具の隙間を一閃してみせた。

「殺すのはマズい、か」

 襲撃者の一人。その浅黒い首筋を長剣の腹で打ち据え、組み伏せながらハルルは周囲の様子を改めてうかがった。初手で首を刎ねることも考えたが、相手方を刺激しすぎる危険を考えて峰打ちにとどめた。……高速で振るわれた鉄の棒が後頭部を直撃して無事に済むかどうかは、肉体の頑丈さ次第であるが。

 周囲に潜む襲撃者たちが明らかに動揺しているのが気配でわかる。完全に包囲したと思っていたに違いない。彼らの常套手段なのだろう。実際、木々に紛れて音もなく、完璧な布陣が既に完了していた。

 だがそれは、獲物が疲れ果て、弱り切った状態であることを前提とした布陣だ。ハルルが思わぬ反撃に出た今、落人狩りの計画はほぼ崩れ去ったも同然のはずであった。

「さーてと、今のうちにさっさとずらかって……ん?」

 ハルルはこの状況からの生還をほぼ確信していた……が、しかし。今しがた倒したダークエルフに目をやったところで動きを止めることとなる。

「これは……」

 彼の装備品に、到底無視できないものをみとめたからである。——赤と青に塗り分けられた五角形の紋章。それはハルルにとって、嫌というほど見覚えのある意匠であった。

 神聖帝国を出発し、ひたすら西へ。ハイエルフたちの住む山林地帯の背後、大陸の正中線を南北に横たわる脊梁大山脈のすぐ向こう側では、とある特殊な鉱物が産出する。「炎の氷」と呼ばれるその黒い結晶は、大気に触れることで青い炎をあげて燃焼する性質を持っている。その炎は驚くほどの低温で、小人族の薄い素肌に触れたとしても短時間であれば火傷もしないとされる。よって「炎の氷」はまさしく炎と水の境界に位置する物質として、周辺地帯に生きる人々の世界観において神聖視されてきた。

 ゆえに、その一帯の支配者は自らの旗印に炎と水の相克、すなわち赤と青を用いてきた。その支配者の名は「騎士王」。彼の者の治める「騎士団領国」こそ、ハルルが今、真の忠誠を誓っている主君であった。

 が、今のハルルはそのツートンカラーに対して苦々しい表情を向けていた。主君に対して後ろめたいことがあるわけではない。しかめっ面の元凶は彼女の予想通り、すぐに木漏れ日の中へ姿を現した。

「——困るなぁ、虎目卿。そう派手に斬った張ったをされると、俺の立場が悪くなってしまう」

 それは、ある種の小型爬虫類のような軽薄さを連想させる声色の男だった。天を突くような長身と、赤黒い肌。極めつけの頭頂部から生える一本角は、彼が鬼族の偉丈夫であることを示している。

「ズジーニ……」

「おっと、睨むなよ。卿とはあまり戦りあいたくないんだ」

 鬼族の男は大げさに肩をすくめて応えた。赤銅色の胸甲に、黒いマント。ゴルゲットには、今ハルルの足元に寝ているダークエルフと同じ赤と青の紋章があしらわれている。

 ハルルはかぶりを振ってため息をついた。

「誰があんたに付き合うかっての」

「久しぶりの再会だっていうのに、あんまり驚いてくれないじゃあないか。俺は寂しいよ」

「貴公が来ているのには、ついさっき気づいたところだったからね……あの矢の術式、あんたのでしょ」

 命中とともに爆ぜる矢。爆発を伴う精霊術は、目の前にいる鬼族の男——ズジーニが得意とするものだ。妖精が使う術としてはいささか珍しいとは思っていたが……。時計草卿・ズジーニ。ハルルと同じ主に忠誠を誓う騎士が一人であった。

「なんだ、覚えてくれてたのか。こりゃ感動だ」

「はじめは妖精たちの仕業かと思ったけど。貴公、今はそこのダークエルフと仕事してるってわけ?」

 ズジーニはそれ以上、ハルルの問いかけに対して肯定も否定もしなかった。ただ、彼が片手を上げると、周囲に潜む気配が殺気を孕むのが感じてとれた。

「なるほど、ね……」

 さて、本来であるならば、二人の騎士の因縁についてこの場で一から十まで説明すべきところだろう。ただ、あいにくと今この物語の主人公には時間的にも、空間的にも、その余裕はない。ズジーニの登場によって、ハルルがこの場を離脱するべき理由は一気に20は増えたと言っていいのである。

「悪いな。俺も奴さんの頼みは断れない」

 ズジーニが意味深な台詞を追加で吐こうとも、残念ながら種明かしはもう少し先にさせていただくこととする。ハルルは急ぎ、新しい逃走経路を脳内で描き……


 次の瞬間、真後ろから何者かに襟首を掴みあげられた。

「!?」

 その驚きを、場にいた全員が共有したことだろう。誰もにとって予想外の出来事が起こった。少しでも不審な動きをみとめればすぐにでも対処できる用意がズジーニにはあったし、そもそもハルルの背後にはィミーシャの清流がきらめくのみであったはずだ。

 それは腕、であった。ズジーニの背丈を優に越そうかという大きさの、吸い込まれそうなほどの闇の色をした巨大な腕が、今まさに、その清流から伸び、一人の女騎士を宙へと吊り上げていた。なんということだろう。川の主だとでもいうのであろうか。漁場荒らしの罰がここにきて下ったということか。

『——助けに馳せ参じました、騎士様!!』

 驚くことは続く。漆黒の巨腕が声を発したではないか。よく見れば粘液状の物質で構成されていることがわかるその表面が、声に共鳴して細かく波紋を作っていた。

 突然の異常事態の連続の中で、いち早く脳の回転を再開させたのはハルルであった。落ち延びるとは、それすなわち異常の繰り返しと見つけたり。

 ハルルは突如現れた暗黒の粘体生物に向かって叫んだ。

「なんでもいいから助けてくれ!」

『合点承知ッ!』

 次の瞬間、ハルルの体は粘液の塊に飲み込まれ、視界は真っ暗に沈んだ。

「——“冥界の亡者め”……」

 外界の情報が遮断される直前、誰かが北西平原の方言で放った悪態だけが、確かにハルルの耳へ届いた。

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