第96話 初めての痛み

「ここら辺にしておこっか。そろそろ行かないと、やばいかも」


「んっ……はい、そうですね」


 秋鷹に唇を啄まれ、そのうえ頭を撫でられた陽は、とろんと垂れた瞳で彼のことをじっと見つめる。胸を曝け出すように、首の辺りまでたくし上げられたその服をそっとおろされ、ようやく自分がみっともない格好をしているのだということに気づいたようだった。

 ベッド脇に落ちていた自分のパンツを拾い上げ、彼女は恥ずかしそうに身なりを正し始める。秋鷹も脱いでいた服に再び袖を通しながら、ピロートークとはまた違う、初めてのとき特有の静やかな雰囲気を肌身で感じていた。ベッドのシーツには、微かにだが破瓜の残痕が染みついている。


「大丈夫? 無理しなくていいからね」


 彼女の体を支えながら二人して立ち上がると、ふいに、バランスを崩して陽がしなだれかかってくる。秋鷹はその華奢な体を受け止めながら、「大丈夫です」というか細く小さな声に耳を傾けた。


「ちょっとだけ、歩きづらいだけですから」


 まだ十六歳の女の子だった。法律上では結婚できる歳ではあるが、とは言っても、ろくにセックスのやり方などわからず、不安も大きいだろう。自分が何か別のものに生まれ変わってしまったのではないのかと、どこか困惑しているような感じだった。


「初めてが痛いって、話では聞いていたんですけど」


「うん」


「本当だったんですね」


 戸惑いながらも、照れたような表情を浮かべていた。


「ごめん、」秋鷹は陽の頭を撫でる。「もう少し、ゆっくりやればよかったね」


「いえ……その、気にしないでください。急かしたのは私です。それに、先輩は私に優しくしてくれたじゃないですか。特別な時間を私にくれました。それだけでも、私は充分だって思います。こんな痛み、先輩を想って感じる胸の痛みに比べれば、へっちゃらです」


 むしろご褒美だ、と陽は言った。

 なんだかこちらが慰められているような気分になるが、秋鷹は笑ってキスすると、改めて陽の手を取る。


「さ、行こ」


 促されるまま、陽は秋鷹の後についていった。


 時計を見れば、あれからだいぶ時間が経過していた。長居しすぎると怪しまれる、そう思った秋鷹は、陽を連れて部屋の外へと向かう。

 だが、階段を降り、リビングの扉に手をかけたところで、ふとその足は止まった。中からは見知った人物の話し声が微かにだが聞こえていた。


 涼と、杏樹だ。


「来栖さんに告白されて、考えたんだ。答えを出さなきゃいけないって」


「ええ」相槌を打つような、声。


「待たせるのも悪いかな、とも思って。だから、この場で言わせてもらえないかな。答えはもう出てるから」


 部屋の中はやけに静まり返っている。秋鷹が物音を立てないように耳を澄ませていると、隣で陽が「告白って……」と驚いたように、口元に手を当てていた。


 ——影井君とは、今はぎこちない関係性と距離感なの。


 そこで、杏樹が言っていた言葉が思い出される。

 なるほど、と秋鷹は思った。あのときの言葉の意味がこのときになってようやく理解されたのだ。杏樹が涼に告白をしていて、今はその返事待ちをしているのだと。


 しかし彼の口から放たれた言葉は、彼女にとって残酷以外の何ものでもなかった——。

 

「ごめん……来栖さんとは、付き合えない」


 静寂が、五秒ほど流れた。少しの沈黙の後、杏樹は「そう」と悲しげな声を発した。


「理由を訊いてもいい?」


「別に、来栖さんが嫌いなわけじゃないんだ」と涼は重々しく口を開く。「まだ、わからなくて。来栖さんが告白してくれてから、そのときからずっと、このことについて考えてきた。でも、僕はまだ過去の出来事を払拭しきれてない。そんな曖昧な気持ちで君とどうにかなろうなんていうのは、何か違う気がしたんだ」

 

「他に、誰か好きな人がいるってこと?」


 その問いに、涼からの返答はなかった。

 しばらくして杏樹が言う。


「わかったわ。これ以上、私もあなたとどうこうなろうなんて思わない。返事をくれた、そのことがいちばん重要なの。だから……気にしないで」


「ううん。こっちこそごめん、来栖さんにとっていい返事ができなくて……自分勝手だけど、できるなら、これからも友達でいてくれると嬉しいかな、なんて……」


「それはもちろんよ。ただ、自分に好意を向けている女の子を、あなたが今まで通り普通の友達として扱えるのなら、だけど」


 ふっ、と揶揄うように笑う杏樹に、涼は「あはは」と困ったような笑い方をしていた。一先ずは話に決着がついたようだが、杏樹にはまだ言い残していることがあったようで、


「あと、これは余談なのだけど……」


 しかしそのとき、彼女の言葉を遮るようにリビングの扉が開かれた。部屋に入ってきた秋鷹に、涼と杏樹が少し遅れて反応を示した。


 そして、秋鷹の背後から、陽がひょこっと顔を出す。


「あ、陽……」


 涼が思い出したかのようにつぶやいた。


「大丈夫、だったの?」


 訊かれて、陽は小さく頷いた。


「うん。お兄ちゃんこそ、来栖先輩と、何か話してたみたいだけど……」


「あ、そうだ来栖さん……今、何か言いかけてなかった?」


 杏樹ははっとして、視線を斜め下に置く。その表情は思っていたよりも翳りに満ちていた。


「いえ、なんでもないわ……それより、時間も時間だし、そろそろ片付けをしましょう」


 時刻は彼女の弟と妹の門限である、十八時に近づいていた。「あっ、私、手伝います!」と言った陽と一緒に、杏樹は台所の方へと向かっていった。秋鷹と涼はその雑用を任される。


 そうして一通り片付けが終わると、杏樹がリビングで寝ていたレンとリンに話しかける。


「ほら、早く起きなさい。もう時間よ」


 テレビゲームをしてはしゃぎすぎたのか、二人は目を擦りながら眠そうに起き上がった。それを微笑ましそうに見つめる杏樹は、二人の頭を撫でながら、ふと秋鷹に向いた。


「今日は、どうだったかしら?」


 おそらく、不器用ながら進めたクリスマスパーティーのその感想を聞きたいのだろう。杏樹にとってはそれが大事なことだったのかもしれない。

 秋鷹は少し考える素振りを見せると、それから何となしに微笑んでみた。


「楽しかったよ。料理も美味かった」


 そう言うと、彼女は目を細めるようにして微笑み返してきた。



※ ※ ※ ※



 名残惜しそうに手を振る陽に別れの挨拶を済ませてから、秋鷹は杏樹と共にすっかり暗くなった夜道を歩いていた。冬の日没は早いなと感じながらも、あっという間に彼らの住む児童養護施設に着いた。


「今日のところは勘弁してやる」


 杏樹の弟であるレンが、腕を組みながら秋鷹に言った。一方で妹のリンの方は、彼よりは幾分か大人な対応である。


「あんたずっとゲームして遊んでたじゃない。付き合わされたわたしの身にもなんなさいよねっ」


「はんっ、どうだか。てかリンお前、やっぱりこいつのこと庇いすぎだろ」


「かばってないもんっ、じじつを言ってるだけなの!」


「ひゅーひゅー、お熱いこって」


「もうっ、ばかばかばか!」


 すかさず逃げるレンを、真っ赤になった顔でリンが追いかけていた。そのまま二人は施設の方へと走っていく。


「仲、良いんだな」


 門の前でそれを眺めていた秋鷹は、隣にいる杏樹を見る。


「そうね。本当に……」


 その表情は微笑ましそうというよりも、どこか寂しそうと言った方が正しいのかもしれなかった。暗がりでははっきりとしたことがわからない。


「それじゃあ、私も帰るわ。ここまで送ってくれた矢先、申し訳ないのだけど、帰り道はわかる?」


「あーっと……来栖さん」


「なに?」


 名前を呼ばれて、杏樹が首を傾げた。


「少し、話せないかな」


 寒さのせいだろう、吐いた息が白かった。首元のマフラーで口元を隠しながら、秋鷹は念を押すように続けた。


「だめかな?」


 一泊、間が開いた。


「あまり、時間は取れないけれど」


「全然いいよ」許可が取れたことに、思わずホッとしてしまう。「とりあえず……すぐそこの公園ででも」


 公園の方に秋鷹が指をさすと、杏樹は黙って頷きを返した。これまでなら速攻で断りの文句が出てくるところだが、この日の彼女はやけに素直に同行してくれた。

 警戒心が解けたのか、それとも別に理由があるのか。いずれにせよ浮かない顔をしているということだけは、確かなことだった。それならば訊かないわけにはいかないだろう。

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セクシャルウーマナイザー じんまーた @jiomata

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