第95話 悪いやつ
二学期の期末試験も無事終わり、冬休みに入った。順位は前回と変わらず9位で、学費免除万歳である。
そして休みに入ったということで、クラスの友人たちと退院祝いをした。千聖も一緒だったため、馴れ初めについて根掘り葉掘り訊かれたのは言うまでもない。
そういうわけで、秋鷹は素晴らしいほどに順調な毎日を送っていた。今日は影井家で、杏樹たちとまたも退院祝いをする予定だ。
クリスマスイブだからか、玄関はイルミネーションライトで飾り付けがされていた。秋鷹は白い息をそっと吐くと、インターホンを鳴らす。しばらくすると、
「――せ、しぇんぱいっ! お久しぶりです……」
待っていましたと言わんばかりに、玄関からエプロン姿の陽が出てきた。
「うん、久しぶり。テストどうだった?」
「ぜ、絶好調でしたっ。先輩が去年の過去問教えてくれたので」
「よかった。役に立ったみたいで」
秋鷹はにこりと笑う。連絡先を交換した後の数度のやり取りで、陽とは幾らか親交が深まっていた。あまり大したことは話していないが、彼女の表情を見る限り、かなり意味のある行為だったようだ。
「あ、あの……ちさとちゃんはいないんですか?」
「ああ、千聖は今日は来ないよ。用事があるんだってさ。何の用事かは聞いてないけど」
「そうなんですね」と陽は首を傾げながらも納得した。「とりあえず、寒いと思うので中に入りませんか? 温かいスープ、作ってありますよ」
「へぇ、それは楽しみだ」
秋鷹が漂ってくるいい匂いに鼻をヒクつかせると、陽は僅かにはにかんでから、くるりと背中を向ける。
「あ……待って、陽ちゃん」
「……はい?」
肩越しに振り返った陽に、秋鷹は鞄から取り出した紙袋を渡す。
「これ、陽ちゃんにお土産。受け取ってくれるかな?」
「い、いいんですか?」
「もちろん」と秋鷹が言うと、陽は「ありがとうございます」と頬を赤く染めて紙袋を受け取る。そのまま、ぱたぱたと家の中へ駆けて行ってしまった。
※ ※ ※ ※
「ねーちゃんは感謝してるみたいだけど、おれは許さねえからな。お前がいなければ、ねーちゃんは危険にさらされなかったんだ」
そう言ったのは、秋鷹の目の前で腕を組んでいるレンだった。そしてその隣のリンが、彼の頭にげんこつを食らわす。
「――いでッ」
「だめでしょレン! 宮本さんはおねーちゃんの命の恩人なの! その事実は変わらないの!」
「なっ、お前やっぱり! こいつのこと好きなんだろ?」
「そ、そんなんじゃないもんっ。わたしは、とても常識的なことを言っているのっ」
「ははーん。趣味わりーなぁリン。しかも、こいつ彼女いるらしーぜ。ドンマイ」
「だから好きじゃないって! この、ばかばかばか!」
と二人は兄妹げんかをしながら、リビングの方に行ってしまった。秋鷹はダイニングのテーブルにつくと、眼前に並べられている料理に感銘の声を上げる。
「ごめんなさい、レンとリンが。うるさかったでしょう?」
「気にしてないよ。それより、これすごいね。めちゃくちゃ美味しそう」
「今日はクリスマスパーティーを兼ねた退院祝いだもの。豪華なのは当たり前よ」
「クリスマスパーティーか……このメンツでやるとは思わなかったよ」
杏樹と会話しながら、秋鷹はちらと正面に座っている人物に視線を向けた。その人物は頬を掻いて苦笑いしている。
「いいのかな、僕も参加しちゃって」
「ひとりで部屋にこもってるよりはましでしょ。それに、お料理作りすぎちゃったから、お兄ちゃんにも協力してもらわなきゃ」
そう言ってどんどん料理を並べていく陽に、兄の涼は強く言い返せないようだった。どうやらこの家では、主導権は妹にあるらしい。
「まあ、僕にとっても都合が良いというか、なんていうか……」
「都合がいい?」
「あ、いや、こっちの話」
秋鷹が首を捻ると、涼は慌ててコップの水を飲む。そして杏樹と目を合わせると、お互いに、気まずそうに目を逸らした。
二人の間に並々ならぬ拗れ具合を感じ取った秋鷹だったが、気にせず、料理を目の前に置いた陽に話しかけた。
「もう食べていいかな?」
「は、はい。どうぞ、召し上がれっ」
秋鷹は箸を手に取り、ポテトツリーサラダを口に入れた。クラッカーの上にマッシュポテトが乗った料理で、陽の手作りである。
「……どうですか?」
「うん、美味しい。やっぱり陽ちゃんは料理が上手いな。お嫁さんにしたいくらいに」
「あ、あのっ、お世辞でも、嬉しいんですけど……その、あまりおだてないでくださいっ!」
「えっ?」
陽は顔を真っ赤にさせて涙目になると、秋鷹の肩をぽかっと叩いた。
「先輩なんて知りません!」
短いツインテールをふりふりと揺らしながら、陽はキッチンに駆け込んでしまった。それを見て、涼がわかった風に言う。
「あれはたぶん、怒ってないよ。陽が怒ったときは、もっと怖いから」
「実体験か?」
「そうそう実体験。僕は毎日怒られっぱなしだから」
なぜだか誇らしげな涼だった。そんな涼の前に料理を運んできた杏樹が、エプロンをほどきながら言った。
「食べないのかしら? 影井君」
「あ、うん。食べるよ。いただきます」
テーブルには、沢山の料理が置かれていた。クリスマスと言えばこれ、というようなフライドチキンにローストビーフ、ラザニアやシーフードパエリア。その他にも彩り豊かな料理が並んでいて、どれも当然のように食欲をそそって来る。
順番に手を付けて行く秋鷹だったが、キッチンに突っ立っている杏樹を視界に収め、不思議に思い手を止める。
「来栖さんは食べないのか?」
「私はこれでも小食なの。見ているだけでお腹は満たされるわ」
「それはちょっと小食すぎやしないか?」
「ふふっ、軽い冗談よ。本当は、これを作っている最中だったの」
と、杏樹はキッチンから出てくると、シフォンケーキをテーブルの上に置いた。
「これは私からのお礼よ」
「すごい。俺がここ最近で一番食べたかったものだ」
「ならよかったわ」
秋鷹が大袈裟に驚いて見せると、杏樹の口元が少しだけ緩んだ。彼女はそのままテーブルの端に座ると、淑やかに料理を食べ始める。彼女らしからぬ、異常な優しさを保って。
※ ※ ※ ※
会話という会話はなかった。強いて言うなら、秋鷹がする質問に涼がきょどりながら答え、杏樹が「ええ」か「違うわ」と口を挟むだけだった。
しかし、そんな秋鷹たちとは違って、リビングからは楽しそうな燥ぎ声が聞こえてくる。レンとリン、そして陽が三人で仲良くテレビゲームをしていた。雰囲気的に、あっちの方がパーティーをしているみたいだった。
時刻は十四時を回っている。秋鷹がこの家に来て、早くも一時間ほど経とうとしていた。
児童養護施設には門限があるらしく、小学生は十八時までに帰宅しなければならない。
とはいえ、それはシフォンケーキをすべて食べてからでも遅くはないだろう。
「影井……お前、髪切らないのか?」
シフォンケーキを口に入れながら、秋鷹が訊いた。涼は悩む素振りを見せる。
「もう、いいかな……なんか、これで慣れちゃったんだよね」
「ナスみたいだけど大丈夫か?」
「な、なす!?」
「まあ、お前がそのままでいたいって言うなら、俺はこれ以上口出しはしないが」
あたふたしている涼を見て、杏樹がくすりと笑っていた。
秋鷹が思うに、涼の容姿は前髪で顔を隠すほど悪くはない。素朴ではあるが、妹の陽は可愛らしい容姿をしている。いや、素朴というのは案外ほめ言葉なのかもしれない。ありのままの姿でも可憐だということだから。
と、秋鷹が顎に手を添えて頷いていると、数秒の間を置いて、涼が切り出す。
「そういえば、千聖のことなんだけど……」
「ああ、お前には言ってなかったよな。……改めて言う必要もないと思うけど、一応――」と秋鷹は言葉を区切り、やわらかに言う。「俺、千聖と付き合ってるんだ」
涼の顔が、複雑そうに歪む。しかし、秋鷹はあっけらかんとしていた。
「お前が言ってたこと、本当のことになっちまったな」
千聖が秋鷹と一夜を過ごすことになった原因――涼の勘違い。結衣が秋鷹たちの告白練習を目撃したことから始まったそれは、三ヶ月という短い期間でもはや周囲をも巻き込む壮大なものになっていた。けれど、涼はまだ、その全貌を知らない。
「千聖は、ものすごく嬉しそうだった」
ぽつりと、涼が言った。
「あんな千聖の表情、幼馴染の僕でも初めて見たかもしれない。たぶん、それくらい宮本君のことが好きなんだろうね」
「わかってるよ」
「宮本君は、どうなんだろうか。千聖のこと、どう思ってるのかな」
「もちろん、好きだよ」
その言葉は、自分が思っているよりも簡単に口にできた。しかし、それが本心からの言葉なのかを確認する前に、遮って涼が言う。
「それなら安心だね。これで心置きなく千聖を任せられる」
「ああ、任されたよ」
丁寧に頭を下げる涼を、秋鷹は少しだけ困った顔で見た。
彼は長い間そうしていたのだ。まるで、娘を送り出す父親みたいに。
だが、その静寂を破ったのは涼でも秋鷹でも、ましてや杏樹でもなかった。――秋鷹の真横で、ぱさりと何かが落ちる音がした。
「……陽ちゃん?」
そこで唇を震わしていた陽は、秋鷹と目を合わせるや否や、目元から涙をこぼして駆けだした。そして、迷わず階段を踏みしめて行く。
「え、ど、どうしたんだろう……」と涼が言った。「ちょっと僕、様子見てくるよ」
そう言って席を立とうとした彼を、秋鷹は引き留めた。
「――いや、俺が行く」
秋鷹の瞳は、床に落ちているカレンダーを映した。それを拾い上げ、ある部分に視線を当てる。
カレンダーには何個かの付箋が貼ってあったのだ。そこをめくれば、秋鷹の姿がカレンダー写真として載っていた。付箋が貼られている部分、すべてに。
「たぶん、俺が原因だよ。だから、少しだけ陽ちゃんと話をしてくる」
カレンダーを携えて、秋鷹は陽を追った。
階段を上って二階につくと、呆気なく陽の部屋は見つかった。ネームプレートに『よう☆』と子供っぽい文字で書かれているところを見るに、おそらくはここが彼女の部屋だろう。秋鷹はドアをノックした。
「……陽ちゃん。話があるんだけど、開けてくれないかな」
反応はなかった。だが、しばらくして、ゆっくりとドアが開く。
「入ってください……」
「あ、うん」
秋鷹は促されるまま、陽の部屋に入った。一見すれば普通の女の子の部屋だ。机の近くには友達と撮った写真が飾られ、ベッドの上には動物のぬいぐるみが何個か並べられ、全体的に薄ピンク色の印象を持たせる。
陽がベッドの上に腰かけたのを見て、秋鷹は迷わずその隣に座った。泣きべそ交じりの横顔が、すぐそばにある。
「先輩が悪いんです……先輩が……」
陽は秋鷹からカレンダーを奪い取ると、それをぎゅっと抱きしめた。鼻をすすりながら、必死に唇を引き結んでいる。
「うん、そうだね。ごめん」と秋鷹が言った。「さっきの話、聞いてたんだよね?」
「全部、聞いてました。先輩がちさとちゃんのことが好きだって言うところまで、ぜんぶ」
「そっ、か……」
「いいんです、それは。ちさとちゃんは、私よりかわいくて、私より料理ができて、なんでもできちゃう、凄い人なんですから」
陽は泣いていた。俯きがちに、自分の膝へ涙をこぼして。
「ちさとちゃんは、私の憧れなんです」そうして、ぽつぽつと語り始めた。「小さい頃から、私はお兄ちゃんの陰に隠れて生きているような、小心者の女の子でした。人とかかわるのが苦手で、いつも下を向いていて、子犬に吠えられただけでも足がすくんでしまうような、臆病者でした。だからなんですかね。お兄ちゃんやゆいちゃんが向けてくる太陽みたいな笑顔が、私には、とても眩しすぎました。……でも、ちさとちゃんだけは違ったんです。私と同じような性格なのに、まっすぐで、ひたむきで。こんな私にも馴染むような、温かな笑みを向けてくれるんです。それにちさとちゃんは、努力すれば人は変われる、ということを私に教えてくれました。凄いんですよ、ちさとちゃん。何もできない下手っぴな状態から、誰もがあっと驚くような状態にまで変わることができるんです。でも、そこには血のにじむような努力があって……」
「うん、知ってる」
秋鷹が頷くと、陽は泣き笑いを浮かべた。
「そんなちさとちゃんが憧れでした。だからいっぱい真似して、ちさとちゃんみたいになれたらって思って、料理もお勉強したし、髪型も一緒にしちゃいました」
「そうだったんだ。道理で、料理も上手いし、髪型も可愛かったわけだ」
「えへへ、嬉しいんですけど、私なんてまだまだです……ちさとちゃんの方がもっともっと、すごくて……私に勇気を与えてくれた、尊敬すべき人で。だからっ、応援しなきゃいけないのに……っ、ちさとちゃんの恋路を、祝福すべきなのに――」
ついには堪えきれなくなったのか、陽は肩を揺らして咽び泣いてしまった。そのちいさな体が、ふるふると震えている。
「泣きなくないのに、泣いちゃうんですっ……悲しくないのに、胸が痛いんです……っ、わたし、わだし、先輩のこと、好きだからっ」
「そうか……ありがとう」
そう言って、秋鷹は陽の頭を撫でた。けれど、彼女が泣き止むことはなかった。
「陽ちゃん、そんなに自分を卑下することないよ」
「うぅ……」
「まず、千聖と比べること自体おかしいんだ。陽ちゃんは今のままで、十分魅力的なんだから」
「……なら、先輩は私のことを好きになってくれますか? 先輩は、私のことを見てくれますか?」
つぶらな瞳で、陽が訴えかけて来た。
「先輩はずるいです……泣いてる女の子に優しくして、甘い言葉をささやいて。これ以上好きにさせて、どうするんですか?」
「うーん、どうするんだろうね?」
「誤魔化さないでくださいっ。先輩みたいな人を、チャラ男ってゆーんです!」
眉を寄せ、舌っ足らずな口調で怒り心頭の陽。なんだか酔っ払いみたいだ。
秋鷹は慌てて謝る。
「怒らないでよ。俺が悪かったから」
「いやです。先輩とこれ以上かかわると、私、どうにかなりそうなので」と言って、陽は秋鷹に背中を向けた。「出てってくださいっ。私、先輩の慰めなんて必要ありませんから」
「本当に?」
「ひゃっ、しぇんぱい……?」
秋鷹は陽を後ろから抱きしめていた。そして、数秒の沈黙の後、彼女の耳元でこうささやく。
「本当に、何もいらない?」
「なに、言ってるんですか……?」
「俺、実は悪い奴なんだ。陽ちゃんが思っているような、優しい先輩じゃない。もしかしたら、チャラ男よりもっと酷い人種かもしれない」
「それは、例えば、どんな……」
「んー? 今ここで、無抵抗な女の子を襲っちゃうくらい、悪い奴」
「先輩はそれで、いいんですか? 先輩には、恋人が――ちさとちゃんが、いるんですよ」
「もう戻れないんだ。俺は千聖以外の女の子とも、関係を持ってしまっている」
「その重荷を、私にも背負えって言うんですか? ……さっき、言いましたよね。私、ちさとちゃんが憧れなんです。先輩が私にさせようとしていることは、ちさとちゃんに対しての裏切りで……」
「うん、だから、あとは陽ちゃんが決めて? 俺はこれ以上、何もしないから」
「……襲わないんですか?」
「うん、襲わない。俺は陽ちゃんに後悔してほしくないんだ。だから、ゆっくり考えてほしい」
「先輩は、酷いです……襲ってくれた方が、楽だったのに……」
「酷いのは、自覚してる」
「先輩が、そんな最低な人だとは思いませんでした」
「それも、自覚してる」
「……でも、嫌いになれません」
「うん、知ってるよ」
秋鷹は抱きしめる力を先よりも一層強くした。陽の肩が、びっくりしたように軽く跳ねる。
しばらくそうしていると、秋鷹の手に自分の手を添えて、陽が口を開いた。
「……わかりました。私、先輩のこと、受け入れます」
「いいの? 本当に」
「はい。後悔する選択をするのは私で、それを行動に移すのも私が決めることです。だから、いいんです」
陽は震えた声でそう言うと、秋鷹に背中を預けた。
「一目惚れ、だったんです。委員会の会議室がわからない先輩に、会議室の場所を教えたあのときから……ずっと好きでした。でも、話しかけられなくて。ただ、目で追いかけることしかできませんでした。その想いが報われるんだと思うと、嬉しくて……例えそれが歪な形でも、触れられるなら、触れてしまいたくなっちゃうんです……」
秋鷹は、静かに涙を流す陽のツインテールを、後ろからやさしくほどいた。憂いを帯びたようなその髪が、ゆるい内巻きの癖を描きながら肩に触れる。
「一目惚れは、嫌いですか?」
「いいや、嫌いじゃない」
言って、秋鷹は陽をベッドに押し倒した。彼女が持っていた付箋の貼ってあるカレンダーが、音を立てて床に落ちる。
それから、二人の指先がぎゅっと絡められる。ひとりの女の子の、微かな嬌声を響かせて。
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