第94話 新たなる答え

 帰りのホームルームが終わり、涼は自分の席からすくっと立ち上がった。窓際の一番後ろの席。一人でいられる心地よい場所。

 つい最近まで、その場所は数人の少女たちによって賑やかに色づいていた。しかし、今は違う――。


「で、二人の馴れ初めはー? 気になる気になるぅー!」


「体育祭あたりから一気に仲が深まったような……」


「やっぱりその辺かー。てことは、かなり前から付き合ってたってことになるよね」


「そうなるな。喧嘩って言う喧嘩もないし、まあ順調だよ」


「羨ましい……あーしも秋鷹みたいな彼氏ほしいよー……」


 廊下側から聞こえる楽しそうな会話は、涼の心を曇り空のように憂鬱とさせた。窓の外には焼け爛れた夕空が満遍なく広がっているというのに。

 耳を塞ぎたくて、涼は急いで帰り支度をする。教科書を鞄に入れ、足早に立ち去ろうとした。

 

「――りょうちゃんりょうちゃんっ」


 そのとき、涼の近くに駆け寄ってきたのは、幼馴染の結衣だった。


「今日ね、ママがお料理作りすぎちゃったって言うから、もしかしたらおすそ分けしに行くかもしれないんだ。だから、覚悟しといてね!」


 ファイティングポーズをとった結衣は、涼の前でわざとらしく眉間に皺を寄せた。律義におすそ分けの報告に来たらしいが、その声は涼には届かなかった。

 

 涼が朝霧結衣という少女を思い描くとき、まず頭に浮かぶのは、清純で無邪気な性格だ。だが、その性格とは不一致な彼女の裏の顔を、涼は知っている。知ってしまった。

 今も目の前で咲き続ける笑顔の裏で、彼女は男の逸物を咥えていたのだ。露出させた肌を隅々までまさぐられ、蕩けた笑みで生温い快感を味わいながらも、涙とは違うものをそのももに滴らせていた。彼女の顔を視界に収めるたび、涼はそれを思い出す。

 記憶にチラつく想い人の情事が、今ここで純真に笑う結衣の姿と重なった。それに耐えられるわけもなく、気づけば涼の足は教室の外へと走り出していた。


 ――結衣も、千聖も、手の届かないところに行ってしまった。幼馴染という身近な関係が逆に残酷なまでの境界線を突き付けてくる。それ以上前には進めないのだと。それ以上先へは踏み込めないのだと。ある種の部外者的観念を涼に知らしめた。

 友達でも恋人でもない。まして親友とも取れない幼馴染とは、果たしてどういう存在なのか。


 それはもう、ただ家が隣同士というだけの他人でしかなかった。


「……あ」


 校内の駐輪場に着いた涼は、自分の自転車が消えて無くなっているということに気づく。

 幼馴染たちと会うことを避けるために自転車通学を始めたのだけれど、不慣れな所為で鍵をつけ忘れてしまったらしい。とはいえ、自転車を盗む輩がいるというのも少々驚きではあるのだが。


「キキーっ、キキー! 自転車通りマース!」


 黄色いヘルメットを被った小柄な少女が、涼の目の前を自転車で横切った。彼女はブレーキの金切り音を口で再現しながら、本物のブレーキ音と共に自転車を急停止させる。すぐ近くで、ヘルメットの脇から伸びる銀色の長髪が揺れた。

 

「うわっ、なに……!?」


「激突回避! よく避けてくれましたネ! 褒めて遣わします!」


 若干カタコトな日本語を放った少女は、自転車に乗ったまま涼の頭をなでなでした。


「って、マリー……危ないからそれ。もっと安全運転しなきゃ」


「ダイジョブですよ。自転車に乗り始めて早一年。拙者、自転車マスターになりつつあります!」


「人にぶつかりかけてたけど」


「見なかったことにしてくださいっ」


 にぱっと微笑みを向けられ、涼は言葉に詰まった。言い返そうと思ったが、やんわりと注意を促すことにする。


「もう、気を付けてよ? ただでさえ、マリーはよく転ぶんだからさ」


 視線を落とし、涼はマリーの脚を見た。キャラもののハイソックスで隠されたふくらはぎの上――右膝には、大きな絆創膏が貼ってあった。相当深い傷らしく、絆創膏の上からでも傷の状態がわかった。


「いやらしい目で、なにをそんな見つめているデスか?」


「あ、いやっ……うん、なんでもないよ」


「なんでもないことねーですよね?」


「えっ、どうしたのマリー?」


「おねーちゃんが言ってました。男の人は、女の子の脚を見て興奮するものだと」


「いやいやいや! 僕はそんなつもりで見たわけじゃ――」


「見ますか?」


 マリーが頬を紅潮させて、俯きがちに言った。涼はかぶりを振った。


「マリー。冗談でも、言っていいことと悪いことがあるんだよ」


「ワタシ、リョウになら見せていいと思ってマス……」


「その気にさせるようなことも、言っちゃダメだ」


 そう𠮟りつけてから、涼はやさしく笑いかけた。


「とにかく、自転車に乗るときと、むやみな発言には注意してね。そうしないと、事故が起きてしまうかもしれないし、勘違いしてしまう人も出てくるかもしれないから」


「あっ……」


 涼はマリーに背中を向けて、そのまま歩き去った。夕焼けた空を見上げながら、硬いアスファルトを踏みしめる。

 マフラーを忘れたから首回りが少しだけ寒い。寒いけれど、そんな涼とは違って、校庭で懸命に足を動かしている人たちは誰もかれも真剣で、汗だくになりながらも前を見据えていた。

 そこまで真剣になれるほどの意欲を、涼は失いかけていた。生きることが辛くなったわけではない。自分の望みはどう足掻いても叶うことはないのではないか、という痛切なまでの不安が、この先の希望を淘汰し始めていたのだ。

 昔付き合っていた彼女に振られ、好きだと気づかされた千聖にも振られ、続けて好きになった結衣には間接的に振られ。そうして恋愛に恐れを感じてしまうまでには、涼は自分の想いに自信を持てなくなってしまっていた。


「浮かない顔してますね」


 隣から、聞き覚えのある声がした。小麦肌を夕陽の色に染めた、後輩の柚木茜ゆずきあかねだった。それと同時に、涼は自分が足を止めていたということに気づく。普段は通りがかったところを茜に引き留められるというのが習慣だったが、今回は涼が引き留めてしまったような形になった。


「何かあったなら、お話くらい聞くっスよ」


「いや……」


「遠慮なく話しちゃってください。これでも私、人の悩みを聞くの得意なんです。友達の恋愛相談にも、毎日のように乗っちゃったりしてます」


「……じゃあ、いいかな?」


「どうぞどうぞ」


 茜は涼の隣に来ると、後ろ手に微笑んだ。涼は躊躇いがちに口を開いた。


「これは友達の話なんだけど……」


「先輩に友達なんかいましたっけ」


 茜が何かをつぶやいたが、涼は構わず続ける。


「友達には、好きな子がいたんだ。でも、その想いが叶わないということを知ってしまっているから、告白しようとも思わなかった。ただ想いを内に秘めて、今の関係を続けようとした」


「想いが叶わないって、その好きな子にも、好きな人がいたからですか?」


「ううん、違う。単純に、その子が友達に恋愛感情を抱いていなかったってだけ」


「なら、アタックすればよかったじゃないですか。もしかしたら、好きになってくれるかもしれなかったのに」


「できなかったんだ。恋に臆病だったから」


 涼は首を振って否定した。


「そんなとき、その友達に告白してくれた子がいたんだ。……衝撃だった。今までそんな予兆も予想もしていなかったから」


「それは、近しい間柄の人ですか?」


「うん、いわゆる幼馴染ってやつ。友達の好きな子も、友達に告白してくれた子も、どっちも幼馴染」


「その二人とは、仲が良かったんですか?」


「それなりにね。今はもう、わからないけれど」


「なるほど……」茜は顎に当てていた手をどけて、そっと吐息した。「それで?」


「友達は迷ったんだ。自分には好きな子がいるけれど、なぜか告白してくれた子に対しても、そういう感情を抱いてしまったから」


「恋愛感情のことですね」


「うん……でも、迷いすぎた。過去の恋愛を引きずるあまり、中々前に踏み出すことができなかった」


 涼は俯いて、奥歯を噛み締めた。


「それが祟ってか、気づけば、その二人には彼氏ができていた。とうとう、想いが届かなくなってしまったんだ」


「それは、その……なんて言ってあげればいいのか……」


「気にしてないって言ったら噓になるけど、柚木さんが心配するほどのことではないよ。ただ次に告白してくれた子に対して、何もできないでいるだけ」


「……は?」


「え、なに……?」


 眉をぴくっとさせて、茜が低い声を放った。涼は純粋にびっくりした。


「今、次に告白してくれた子。って言いました?」


「うん、言ったけど……」


「その友達、すっご~くモテるんですね」


 茜がじっとりとした目で睨んできた。


「ま、まあ、否定はできないけど」


 涼が気圧されて頬を掻くと、数秒の間を置いて、茜が盛大な溜息を吐く。


「答えを出せばいいんですよ」


「……え?」


「先輩が悩んでるのって、たぶん、告白してくれた子にどう返事をすればいいのか迷っているからですよね」


「そう、かもしれない」


 涼は内心驚きを隠せなかった。どうしてこうも的確で見透かしたような言葉が飛んでくるのかと、思わずにはいられなかった。


「詳しいことは私にはわかりません。私は当事者ではなく、ただ恋愛相談に乗ってあげているだけの後輩ですから。でも、先輩が恋に打ちひしがれて自信を無くしてしまったということ、そして、その所為で恋愛を恐れてしまっているというのは解っているつもりでいます。だから、敢えて言わせてもらいます――」


 茜は一呼吸入れ、涼の正面に立った。


「答えを出してください。悩んでいる暇があるなら、その時間を目一杯その子に使ってあげてください。答えはどんなでもいいんです。先輩にとって都合が良いものでも、相手を傷つけてしまうようなものでも。何もしないままでいるよりはましです。待たされている身にもなってみてください。辛く、ないですか……?」


「辛いと、思う……」


「だったら、わかりますよね。先輩はありのままの自分をさらけ出せばいいだけなんです。待たせすぎると、きっとまた後悔しますよ。先輩も、その子も」


 真剣そのものな茜から、涼は目を逸らせなかった。

 何がいけないかなんて、自分がよくわかっていることだった。やると決めてからの行動が遅かった。相手のことを考えたつもりでいても、実際は何も考えておらず、すべてが独りよがりだった。

 そんな自分を、変えることができるだろうか。いや、変えると決めたのだ。それが自分を想ってくれている人に対してできる精一杯の返礼だから。


「……なんか、年下の女の子に励まされる僕って、凄い情けないね」


 思わず苦笑する涼に、またも茜がジト目を向けてくる。


「今さら気づいたんスか?」


「ダメかな?」


「ダメダメです」


 茜は肩をすくめて首を横に振った。まるで自分の方が年上でもあるかのように。


「頑張れますか?」


「一応、頑張ってみるよ。僕にできることを精一杯」


「やっと男らしくなりましたね、涼先輩。顔がキリっとしてます」


「そうかな。そうであるといいんだけど」


 茜の目をまっすぐ見据えて、涼は微笑んだ。

 翳りゆく夕陽の滲んだ空が、少しだけ違う意味を持ち始めていた。それは明日への不安を助長するものではなく、今日という一日を素晴らしきものにする幕引きにも近かった。ただし、そこには一人の少女の想いも置いてかれる。


「なーにアドバイスしちゃってんだよ、私……」


 ぼそりと、掠れたつぶやきが沈んだ。



※ ※ ※ ※



「はぁ、疲れたぁ……」


 下駄箱で立ち止まった千聖は、今日一日のことを振り返って、やっと解放されたかとため息を吐く。


「案の定、質問攻めだったからな」


 秋鷹は下駄箱から靴を取り出しながら言った。


「ほんとよ。今時の若者って、なんであんなにも恋愛に興味津々なのかしら」


「千聖も同じく、今時の若者だけどな。……でも、公表してよかっただろ? 俺たちの関係」


 公表なんて言葉を使うほど大袈裟なことでもないのだが、自分たちの関係を下手に隠さなくてよくなったのは、心身ともにだいぶ楽なことだった。


「うん。これからは学校でもどこでも、堂々と二人で会えるわけだし」


「そうだな」


 秋鷹と千聖は顔を見合わせると、二人で微笑み合った。そうしていると、おそるおそるといった感じで横から声を掛けられる。


「少し、いいかしら」


 その声は杏樹だった。なかなか声を掛けられずにまごついていたらしい。秋鷹たちが反応すると、安心したように口元を緩める。


「宮本君に、言い忘れていたことがあるの」


「言い忘れていたこと?」と秋鷹が聞き返した。「それは、昼休みの続きかな」


「ええ。そんなに大したことではないのだけれど、うちの弟たち――そう、レンとリンが、宮本君と一度話がしたいっていうの。だから、今度時間を取れないかしら」


「それくらい構わないよ。――いいだろ? 千聖」


「うん、全然いいよ」


 千聖は何の躊躇いもなしに了承した。杏樹が目尻を下げて頷く。


「それで、場所のことなのだけれど――」


 そう言いかけたとき、下駄箱の陰から、ひょいっと勢いよく少女が飛び出してきた。


「それ、私のお家じゃだめですか!」


 ふんっと気合十分で、その少女は短めのツインテールを揺らした。


「……陽ちゃん?」


 と首を傾げたのは千聖だった。遅れて、秋鷹と杏樹も少女の姿を認める。だが、彼女は三人の視線が一気に集まると、俯いて身を縮こまらせてしまった。


「ひゃぅ……あの、えと、ごめんなさい……出しゃばりましたっ」


 ぺこっと頭を下げた少女――陽だったが、逃げ出そうとする彼女を秋鷹が引き留めた。


「陽ちゃん。それ、どういうこと? 詳しく聞かせてくれないかな?」


 思い返せば、今日一日、陽は秋鷹の周りをちょこちょこしていた。遠目から見つめてくるばかりで何をしたいのかよく分からなかったが、その答えをゆっくりと陽本人が話し出す。


「先輩の退院祝いで何かをしてあげたかったんです……でも、私なんかのお祝いとかいらないですよね。知ってます」


「別に、そんなことはないけど……」


 陽のネガティブ思考に、秋鷹はちょっとだけ反応に困った。それを見てか、杏樹が会話に割って入る。


「お家に招待してもらえるなら、ぜひお邪魔させてもらいたいわ。弟も妹も、あなたがいれば凄く喜ぶと思う」


「……本当ですか?」


「修学旅行のときはお世話になったもの。私は、あなたにもお礼がしたい」


「うぅ……それじゃあ、えっと、どうしましょう……? テストが終わった後の方がいいですよね?」


「そうね。冬休み辺りがベストかしら」


 秋鷹は退院したばかりだが、学校は近いうちにテスト期間に入る。さすがにテスト期間中は羽目を外せないため、冬休みに、というのは案外適切な判断だった。全然勉強していないわけだし。

 すると、千聖が胸の前で手を合わせた。


「なら、それぞれの予定もあるだろうし、その退院祝いの日にちは後日また決めようか。連絡先は皆持ってるっけ?」


「そういや、俺は来栖さんと陽ちゃん、どっちの連絡先も持ってないな」


「アタシも陽ちゃんの連絡先は持ってるけど、来栖さんのは持ってないかも……」


 と秋鷹と千聖は、同じように顎に手を添えながら杏樹をチラ見した。それを受けて、杏樹が視線を彷徨わせる。なんだか気まずそうだった。


「交換するか」

 

 そう切り出したのは、言わずもがな秋鷹だった。

 そして連絡先を交換することになるのだが、もしこの日、この場にいる誰かが退院祝いの場所変更を申し出ていたのなら、後に起きる事件の結末は、もう少し真っ当なものになっていたかもしれない。


 あるいは、秋鷹が関わることさえしなければ、あそこまで拗れることはなかっただろう。

 

 

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