キャンバスに落ちた涙はやがて

詩章

キャンバスに落ちた涙はやがて

 恋愛は数学と似ている。

 計算すれば答えの出るものが多い。絶対ではないがある程度の法則・公式・確率論が存在していると思う。それに加えて各々が性格・ルックス・世間的な地位・経済力など様々な要素から自分だけの基準を設定する。謂わば最大公約数的なものだと思う。そう考えると、やはり恋愛は数学と似た側面があるのだろう。


 これまでの経験から自分の中での理想像のようなものはぼんやりと固まってきたつもりだった。それでも、どんな人を、いつ、どんな風に好きになるかは本人にもわからないのだとつくづく思う今日この頃だ。




 友達と紅葉を見に近くの山に出かけた時のことだ。


 登山の経験があまりなかった私たちは紅葉で有名なスポットの中で、初心者でも気軽に登れる山を選択した。別に紅葉を見ることができれば山に登らなくても良かったのだが、日頃の運動不足を解消しようということになったのだ。


 当日。

 到着すると沢山の人で賑わっていたことに驚いた。こんなに沢山の人がいるんだ……


 人の多さに少し気が滅入った私だが、駐車場から少し歩いただけでも、景色は一変し気分も晴れる。

 凸凹した山道は、今まで舗装されたアスファルトばかりを歩いてきた私には新鮮で、木々のざわめきや空を覆い尽くす程の鮮やかな紅葉が私の歩調を無意識に早めた。


 開けた場所で見渡せば、山一面に赤や黄色が広がり、それはまるで絵の具を掛け合わせて綺麗な色を探しているパレットのように思えた。

 鳥のさえずりや草木を風が撫でる音、様々な自然の囁きが私たちを日常から切り離す。


 来てよかった。素直にそう思った。



 私は、先月付き合っていた彼とお別れをした。

 一目惚れだった。顔がどんなに好みでも結婚はできないんだなと実感したいい経験となった。

 最初は色々我慢しようと頑張っていたのだが、1年ももたずに私たちの関係は終わりを迎えた。その日から次はもっといろんなことを考えて慎重に恋愛を進めようと心に誓ったのだ。


 そんなことがあったからなのか、目の前に広がる景色が鮮やかに眩しく目に映る。

 いつか大切な誰かと一緒にまたここに来たいと、そう思った。


 頂上にたどり着いた時には程よい疲労感を伴っており、それがまた格別な達成感を与えてくれた。


 序盤で狂ったペースのせいか、体力のない私は途中でへばってしまい、ゆっくり休憩を挟むことにした。友達には先に行ってもらっていたので頂上で合流する予定だった。


 山頂で友達を探しているとスケッチブックに絵を描いている人がいた。私はそっと後ろからスケッチブックを覗き込んだ。集中しているようですぐ後ろまで行ってもその人は私に気づいていないようだった。


 水彩絵の具で描かれた目の前に広がる景色は淡く穏やかな色味で線も柔らかく、見た人の心をそっと包み込むような1枚だった。

 私の目からこぼれた雫がスケッチブックを滲ませる。

「ご、ごめん、なさい」

 声が震えて変なところで言葉が区切られてしまう。

 男性は少し困ったような顔をして私の様子を伺っている。

「いい景色ですよね」

 何も聞いてこない男性の優しさに、溢れた涙で視界が更に滲んだ。

「あの、とりあえず座りませんか? ここまで歩いて疲れたでしょ」

 そう言ってベンチの端に寄って私の座るスペースを開けてくれた。

「ありがとう、ございます」

 声を殺し泣く私。絶対私変な人と思われてるだろうな、これ。

 男性の方を見てみるとむせび泣く私の隣で黙々と絵を仕上げている。


 髪の毛はボサボサ。眼鏡のレンズは分厚く極度の近眼なことが伺える。一重で、爬虫類を彷彿とさせるような少し鋭い目付き。


 その瞳がふと自分に向けられた。


 彼と初めて目が合った。


 一瞬時間が止まったのかと錯覚するほど意識が彼に集中し、頭の中が空っぽになった。周囲に溢れた音が消え、自分の心音だけが強く響いている。



 彼が何かを私に差し出したことで、意識が現実に引き戻された。

「これ、どうぞ」

 スケッチブックから切り離された1ページを渡された。それは先ほど彼が描いていた絵だ。

 私の涙が滲む場所には、小さな私のデフォルメされた似顔絵が描き加えられていた。ちょうど私が滲ませたところに水色の涙の雫が描かれたかわいらしい泣き顔が落書きのように付け足されている。

「いいんですか? それに、折角キレイな風景画なのにこんなの描いたらもったいないですよ!」

 価値のあるものが、私のせいで台無しになってしまった。そう思った。

「ありがとうございます。でも、私は描きたいものを描いているだけなので。だから、これでいいんです。あの、受け取ってもらえると僕も嬉しいんですが、どうでしょうか?」

 多くを語らぬその言葉には、彼の性格が滲み出ているように思えた。それに、彼の言葉には確かな温もりを感じた。私がいままで会ったことのないタイプの男性だった。


 この人のことをもっと知りたいと思った。名前、年齢、性格、好きな色、好きな食べ物、それから……とにかく全部知りたい。

 絵を受け取りながらそんなことを思った。


 受けとる瞬間、彼の表情がわずかにほころんだように見えた。微笑むとまではいかないが、その眼差しにはたしかな温もりを感じた。

 彼の笑顔が、見てみたくなった。

「ありがとうございます。あ、あの、出会ったばかりでこんなこと言うのもアレなんですけど……私の話、聞いてもらえますか?」

 私はまだ、貴方と離れたくない。

 一緒にいたい。そう心から願っていた。

「構いませんよ。僕でよければ」

 男性はにっこりと微笑み答えてくれた。

 その瞬間、必死に押さえ込んでいたものが一瞬で弾けて、溢れ出した。

 




 貴方がいいんです。ありがとう。


[おしまい]

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