彼女はオレンジジュース。私はジンジャエール。

甘香茶

彼女はオレンジジュース。私はジンジャエール。

 波のように体に染みこんでくる音とそれに合わせて草原のようにゆらりゆらりと動く群衆を尻目に、フロアの隅にあるカウンターの端でキンキンに冷えたジンジャエールを飲んでいた。あの幻想的で蠱惑的なある種の結界を外から眺めているのが好きだった。好きではあるが、あの中に入るのはなんだか恥ずかしいという、酒すら飲まず素面のまま抵抗している無様な姿でもあった。


ここに通いだして5年は経つであろうか。高校を卒業して大学でまで決まりきった生活をするのが嫌になって勇気をもって入ったのが始まりであった。それが私の大学デビューになったわけである。


「そこにいるのが好きだよね。いまかかってるの好きな曲だろう」


 カウンターの中、私を含めて数人――私以外は酔いつぶれているのだが――の子守りをしているここの店長が親しげに喋ってきた。


おさ、この曲かかるといっつも言ってくるよね。やめてくれよ。ここで聞くのが好きって言ってるだろ」

「わかったわかった。けど、これからもここから動かなかったら言い続けるぜ」


 店長はからかうようにそれだけ言って洗い場の方に去って行った。「おさ」というのは、私が初めてここに来たときまだバイト長で、他のアルバイトと年齢が離れていたらしいことから「おさ」というあだ名が知らず知らずのうちに定着したものだと解釈している。そのときの名残、いや、からかい返すために今も私が使っている彼に対するたった一つの武器でもある。彼が去ったあと、手元にあったジンジャエールを飲んだら急激に頭が痛くなって無性に腹立たしくなった。

 

 点滅を繰り返すストーリーのない洗脳的で快楽的な映像。キョクアジサシのようにエモと破滅的なキック音を渡り歩くDJのパフォーマンス。踊りと思考が止まった人々の織り成すミュージカル。まだ私はその脇役でしかない。風貌が冴えない、場違いと自覚している故に足は自ずと動かなくなってしまう。それでもホールにいると感じる一体感は心地よくていつでもここまで足を運んでしまう。


「ジンジャエール好きなんですか」

 

 こんなところでそんな質問を耳にするとは思いもせず横を振り向くと、大学生ぐらいの女の子がこっちを見て立っていた。いかにも初めて来たような垢抜けない出で立ちであった。


「待ち合わせかなにかかな。すまないすぐ場所を開ける」

 

 残ったジンジャエールを一飲みし家に帰ろうとすると、その女の子が呼び止める。


「ジンジャエール好きなんですか」

「えっと、普通かな……」

 

 意図が分からず、無難に答えて去ろうとする。美人局に引っかかったら面倒この上ない。


「……こういうところ初めてで。あのカウンターの方があなたの横で見るといいと仰られて……」

 

 おさを見る。小学生のようにニンマリした顔で私を見ている。何杯か飲んだジンジャエールの代金は返してもらうことを固く誓う。


「……長いんですか。ここ」


 話を聞くとありふれた話が始まった。友達にどうしてもと誘われ、着いたらその友達がいなくなったという百万回聞いた猫になりたい物語。オレンジジュースでもおごっておさに任せようと思う。

 

 と考えていた私はフロアの中に入れない愚か者ということをこれでもかと思い知らされた。オレンジジュースの彼女は根っからのだったのである。ハウスに合わせて体は揺れ、チップチューンでは飛び跳ねんばかり、聞いたことのないと言ったハードコアに興味を示し、挙句の果てにDJにアピールさえし始めた。


「見ていたらなんとなくそうかなと……」


 恥ずかしそうに言う彼女は音が聞こえてきたら体が勝手に動いてしまう性質なのだそうだ。子どものころ音楽会で自然とリズムを取りながら楽器を演奏していたところをからかわれ、この自分の癖をあまりよく思っていないらしい。そして今日、満を持して彼女を連れてきた友達はそのころからの幼馴染だそうだ。その友達が彼女を連れてきたくなる理由は、彼女がオレンジジュースを飲んでいるこの間だけで私にでも十分に理解できた。


 結局彼女がオレンジジュースを飲み干しても私はその場にいた。思考が彼女とフロアの真ん中と自分自身とをカタツムリのようにいったり来たりしていただけであった。


「ここで飲む飲み物はとってもおいしいですね。体の芯を温めてくれるような。冷たいのにおかしいですけど」

「……歓迎してくれてるんだと思うよ、この場所が。来るもの拒まず、去る者追わずだけど、馴染めるのはごくわずかだけ。君にはその資格があったってことだ。音に愛されてる。羨ましいよ」

「音に?」

「自分の感じたことのない雰囲気の中で体全体であれだけ楽しめるのだから。真ん中まで行ってきたらいい。とても楽しいはずだから」

「……変じゃないんですか。私」

「君が変だったらこの場にいるのは僕を含めて全員狂人だ」


 ある意味正しいというのは心に秘める。この場所を好いてくれそうな彼女に余計なことを言っても仕方がない。お客を一人増やした(であろう)功績をおさはもちろん認めてくれるだろう。


「変じゃないんですね。へへ……」


 口元が微かに綻んで大人が忘れてしまったであろう、混じり気のない純粋な感情が彼女から出ているのが感じられて、私も安心した。美人局はめられた記憶を脳から完全に消去するのには時間がかかる。


「さあ、フロアの中へ。きっと友達も待っているはずだ」


 人が1歩踏み出すところを見るのは気持ちがいいものだと親心のように思いながらジンジャエールをもう1本頼もうかとしたとき、彼女は振り向いて立ち止まっていた。


「来ないんですか」

 迷子になった子どものように今にも泣きだしそうな表情が私を見ていた。

「僕は」


 もうそんなに若くなくフロアの中心に入る勇気も捨ててしまった私は固まってしまった。なんで泣くのかわからなかった犬のおまわりさんの気分が今になって理解できてしまった。いつの間にか逃げ道はなく、それでいて未知に対峙しなければならない恐怖はいつになっても消えないのである。そしてそれに気づくとどんどん膨らむばかりだ。


「彼女さんが困ってるなら男ができるのはただ一つじゃないのかい?」


 振り向いておさの顔を認識したのと同時に背中を押されて彼女の横に並んでしまった。一方通行。先ほどの彼に対する怒りが舞い戻ってくるが、それであっても迷子の彼女を放っておくわけにはいかない。焚きつけてしまったのは私だ。曖昧に頷いて髪をかき回して彼女とともに人混みの中へ恐る恐る入っていく。


 音があった。目には見えない波としてしか知らなかった音が、体に直にぶつかってくる。荒々しいが逆らわなければ何ものよりも優しい。一体感のある人の揺れがそう感じられた。彼女と離れないように意識しながら、私は音に溺れた。千夜一夜物語。一期一会のお祭りの中に私は埋もれていった。


「今日は夢みたいな時間をありがとうございました。また友達と来ます」


 ここに来る人種の中で一番礼儀正しい部類に入るであろう彼女の言葉を受け取って駅へ向かう。早朝の街。小鳥がさえずり、人っ子一人いない、人類が消滅した後のような清々しさが夢の余韻を引き立ててくれる。帰ったら1日中寝るだけである。あの場に通って5年。神様のしわざかいつ行っても何か忘れられない出来事が起こるあの場所はもう私の故郷なのである。風が体にあたり、熱をやさしく冷ましてくれる。


 余談だが、あれから彼女とはあの場所だけでたまに会うようになった。本能的であった音に対する造形は理屈を持って日に日に強くなっている。親みたいな気持ちで次会うときはどれだけ成長しているのだろうととてもわくわくしてしまう。名前も年齢も知らない彼女。彼女はオレンジジュース。私はジンジャエール。それが妙に心地よく今夜もあの場所に足を運んでみる。


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彼女はオレンジジュース。私はジンジャエール。 甘香茶 @cancochap

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