第22話 癌告知
胃がん告知
三崎伸太郎 05182024
デジタル大辞泉によると「受胎告知」は、大天使ガブリエルが処女マリアにキリストの解任を伝えたこと、と端的に書いてある。
平田良一も、医者から「残念ながら胃癌が見つかりました」と、端的に告げられた。年齢が60歳を超えたので家内の敬子と健康診断の延長で内視鏡による胃の検査を受けることにしたのは、クリスマス前の事だった。
「クリスマスって、ロクなことがなかったよね。キリスト誕生のお祝いの日なのに」病院に行く数日前に良一が敬子に言った。敬子の胃の内視鏡検査は一か月前に終わっていて、医者から大丈夫ですと診断されていた。良一も最初は敬子と同じ日に検査を受けるつもりだった。しかし、内視鏡検査では麻酔を使うので、送迎が義務付けされている。夫婦には、送迎をしてくれる知人の心当たりがない。それで、妻の敬子を先にと、一月前に内視鏡検査を受けらせた。妻には異常が見つからなかったが一月後に受けた良一に、医者は申し訳なさそうに胃がんの疑いがあると告げた。
「胃がん」良一の脳裏に、生まれ故郷である愛媛県の南に位置する小さな町での「乙亥祭り」と言われる秋祭りが思い出された。相撲が祭りの花形で、九州場所を終えた幕下力士数十人が参加する。大道商人の大道芸に胃がんの薬を売る商人がいた。ほれ、胃癌の胃の中はこのように…と彼は言いながら、ガラスの蓋のある小さな箱を取り巻いている客に見せ、胃がんの怖さを説明する。この薬を飲めばたちまち癌は消え失せるであろう。中学生一年生だった良一は、胃癌の見本と言われる小箱の中身が目の前を浮遊する時、どす黒い塊が胃の中を覆っているのを目にした。大道商人の最後の口上はこのようだった。病院や薬局で買えばウン万円。しかし、本日は父の命日。胃がんで死んだおやじの供養。さあ、お立合い。本日限り、数千円…買わないか…まだ買わない。よし、これでどうだい、五百円。これより安くはできないよ。胃がんで死ぬか生きるかだ。金の値打ちと命の値打ち、比べるわけにいかない五百円は投げ売りだ。さあ、どうだ。先ずサクラであろう男が買った。そして、瞬く間に五六人が薬を買った。経済成長の折、人々にはストレスがたまるのか胃癌で死ぬ人が増えてきていた。良一の脳裏には、小箱の中で胃の壁に張り付いている黒々とした異物が焼き付いた。
あの「胃癌」が自分の腹の中にある。黒々とした異物。根が臆病の彼は、医者の言うとおり、もう一度ランクを上げた内視鏡検査を受けることになった。
家内の敬子が運転する車でオコーナー・ホスピタルに着いたのは予定時間より三時間も早かった。これは、良一が妻を急がせたからだ。
「早く見てもらって、早く直さないと、僕は、きっと死ぬよ」と、とぎれとぎれにつぶやく夫に、妻の敬子は内心呆れていたが「癌」という言葉が彼女の心に黒いカーボン紙を置いた。夫の一つ一つの言葉がカーボン紙を通して心に刻まれる。自分の家族には癌で亡くなった人はいない。でも、癌で死んだという言葉はよく聞く。良一は、今年65歳になった。敬子は少し年上の姉さん女房だ。
年下の夫を私より早く死なせるわけにはいかない、そういう気概がある。もちろん医学的なことだから、敬子にはどうすることもできなかったが夫の良一は自分の料理を40年ほども食べて来た。こんなことを考えると自責の念にも駆られる。
「同じものを食べて来たのに・・・」と、漏らした敬子の言葉を耳にした良一は「きっと会社さ。ストレスを覚える仕事だし、それにコーヒーを毎日がぶ飲みしていたからね。頭をすっきりさせるためだよ。仕事にミスは禁物だから」と、力なく答えた。
良一は癌と宣告されて以来、元気がない。
「癌」を見つけた医者を信用できないと言い続けている。
「でも、早期発見だから、治療すれば治るわよ」敬子が言うと、いや僕は癌ではない、単なる胃潰瘍だと繰り返した。
良一は、アッパー・エンドスコピー(上部消化管内視鏡検査)を、麻酔使用で受けた。手術室からは車椅子で戻って来た。そのまま階下のロビーに車いすで動くと、敬子は良一を車に乗せた。
「どうだったの?」車を運転しながら敬子は助手席にぐったりして寄りかかっている夫に聞いた。
「気づいたときは待合室、何も覚えていないよ」
「そう。結果はいつ出るのかしら?」
「もう出てる。先ほど待合室でファイルを渡された」
「見た?」
良一はコクリと頭を振った。
「癌?」
「琳派に転移はないけど、ステージ三だって・・・」
「ステージ三?」
「幅が12ミリで深さが9ミリの腫瘍だって・・・」
「それが癌なの?」
「でもね。潰瘍かもしれない。オンラインで調べていたのだけど、潰瘍と癌は、区別が難しいらしい。生検の結果次第だろうね・・・」
家に帰ると、良一は本箱から一冊の文庫本を引っ張り出した。
「これ、これ」と彼は言いながらソワァーに腰を落とした。
良一の手にしている本の表紙には「癌回廊の朝」と書いてある。
「一度読んだことのある柳田邦男の本だけどね。癌と言われても胃潰瘍のこともあるらしいから」
敬子には、良一の言葉が本人の都合に合わせているように思われた。
「癌だと言われたのよ。すぐに治療を始めないと」
良一は読んでいた本から目線を外して敬子を見ると「うん」とだけ言った。彼の手にしてにしている本の表紙にある「癌」という言葉が敬子の目をとらえた。
夫が癌であることは、私より早く死ぬことだ。年下の夫が目の前で亡くなるのを看取る。色々な不安が浮き上がっては消える。
敬子は気を取り直すとキッチンに行き昼食の用意を始めた。良一の好物を考えなが料理をする。自分のどんよりした雨雲のような心とは裏腹に、窓からはカリフォルニア・ブルーと呼ばれる青い空が見えている。濃紺ではない淡い青。雲一つない空。
良一は昼食を普段通り食べた。彼は日ごろから大食いで、胃癌と言われても食欲は落ちていない。
食べながら「癌と戦うには体力が必要だって。だから、しっから食べて運動をする」と、自分に言い聞かせるように言った。
「そうね。負けないでね。治らないわけではないのだから」敬子は、できるだけ明るく言った。
「もちろんだよ。早期の胃癌だし、それに最近は医学も進歩しているわけだから」
「そうよね。大丈夫よ。きっと治る」
敬子もテーブルに腰を落とすと、軽く装ったご飯を食べ始めた。あまり食欲が出ない。当然だ。夫が癌と診断されると、妻たる者にも影響がでる。今までの人生が最終段階で大逆転するのだ。大体一般の夫婦という者は、仕事を退職した後にあれこれ自分たちの夢を実現しようと考えている。平田夫婦も同じで、長年アメリカで生活してきたが退職したら日本に戻ることを夢見ていた。そして、旅行をしたりおいしいものを食べたりと、陳腐ながら他人と変わりない夢を追っていた。しかし、家族の一人、主人の良一が癌に侵されることは全てが変わるということだった。まづ治療費の問題、そして、何年生存できるかである。胃がんの五年生存率は全体では71.4%、ステージ三では54.7%と書いてある。もしかすると、良一は後五年で死ぬかもしれない。
その後敬子は一人で生きることになる。
(運命)と、敬子は内心で考えた。諦めかけた人生の欠片(かけら)がコロリと転がった。
人は、まさかと思われることが身に降りかかると、雨の後にできる水たまりを覗き込むように深淵の淵に立ち、自分の境遇に身をゆだねる。深い途方もない深淵が水たまりの中にあり、予想のできない精神的な葛藤が水滴となって落ちていく。
敬子は昼食の食器を水洗いしながら、水道の水音に自分の心をゆだねる。できるものなら夫の胃の汚れ、胃癌という腫瘍を水で洗い流してあげたい。
家族の誰かが病気になると、時間も遅くなる。
のろのろとした時間を感じながら病院通いの日々が始まった。良一はまだ仕事をしているので、一週間に数日の休みを取り病院に行く。
最初は病理医に言われて「ポート」と呼ばれる点滴に使う器具を肌に埋め込む手術だった。右の乳首の上のあたりに消しゴム大の丸い器具が埋め込まれそこから首筋の静脈まで線が伸びている。そこに抗がん剤の点滴の針を差し込んで「キモ」と呼ばれる抗がん剤治療を行う。
数週間後から抗がん剤治療は始まった。
手術の前に抗がん剤を数回行い、癌細胞を小さくしてから胃を切ると言われた。抗がん剤治療は六時間ほどかかる。敬子はいったん家に帰り、家事をすましてから良一を迎えに行った。一目で良一は衰弱しているのがわかった。病院の玄関で彼の迎えると良一は敬子に肩から下げた小さなサイドバックを示して言った。
「これ、お土産でね、ポンプだって。中に抗がん剤とポンプが入っていて、終わる前に二日ほどかかるらしい。ほら、ゴボゴボと音がしているだろう?」彼は敬子にカバンを少し持ち上げて示した。彼の足取りは少しよろめいている。敬子は良一の体を支えながらパーキング場にある車に向かった。
帰り道、車のシートに身を置いてぐったりしていた良一が口を開いた。近くに、ケンタッキー・フライド・チキンの店があった。良一の好物のフライド・チキンも、彼の食欲の低下には勝てなかった。いつもなら、食べたいと言う良一だったが見向きもしない。
「柳田邦男の『癌回廊』を、点滴を受けながら読んだのだけれど吉川英治のことが書いてあった。彼は肺がんだったらしいね。あのような有名人でも癌になる」と、屁理屈な言葉を付け加えた。
家に帰っても、良一はぐったりとして元気がなかった。抗がん治療の患者は市翌々を失うと聞いていた敬子は、前もっていろいろな飲み物や柔らかい食べ物を買って用意していたが良一は見向きもしない。好物の食べ物や飲み物も受けつかない。冷たいものを食べると口の中がしびれると言う。無理に食べらせようとヤクルトの小さなボトルの封を切って良一の口元に持って行ったがケミカル臭いと受け付けなかった。水だけを少しづつ飲み目をつむって横たわっている。そんな夫を敬子は見下ろしながら胸を痛めた。
「良一さん。食べたいものはある?」仕方なく聞いてみた。
彼は少しつむっていた眼をあけ、無いと頭を振った。
「それでも、何かイメージしてみてよ。何か食べれるものがあるかもしれない。例えば、バナナとかリンゴとか…」
良一は目をつむった。彼の首から下がっている抗がん剤のポンプがゴボゴボと音を立てている
しばらくして彼は「…ドーナッツなら食べれるかもしれない」と言った。
「ドーナッツ? 分かった、ほかには?」
「何もない」「そう、ドーナッツ買ってくるね」
敬子は、ダンキン・ドーナッツに車を走らせた。
良一はドーナッツを、よく食べた。4個も食べた。
「あまりだべると糖尿になるわよ。大丈夫?」敬子の言葉に、これだけは食べれるとドーナッツの入っている箱を指さした。
「そう、良かったね」敬子も心底嬉しかった。何を料理しても受け付けないし、前もって買っていた乳製品や飲み物もダメだった。
二週間の間隔を置いて二度目の抗がん剤を受けると、良一の頭髪は抜けはじめ体重も10キロほど減った。見た目にも憔悴しきっている。
見かねた恵子は、良一の繰り返す「胃潰瘍」という言葉を信じてみようと思った。
「ねえ、病院変えよう」
「えっ?病院を?どこにするの?」良一が敬子を見た。
「スタンフォード。あそこは癌治療も優れているらしいわ」
良一は黙っていた。
敬子はスタンフォードの病院に電話を入れると、PETと呼ばれる胃がんの検査を予約した。
PETの検査結果が出た。
胃癌や、癌の転移は検査結果に記載されていなかった。
「ね、言った通りだろう。僕は胃がんではなく胃潰瘍だ」良一は、少し安心して繰り返した。そして、三度目の抗癌剤治療を取り止めた。
敬子は、安心できなかった。あくる日、再びスタンフォードに電話を入れると、もう一度アッパー・エンドスコピー(上部消化管内視鏡検査)を受け、異常な細胞の生検を再度受けたいと要求した。なぜなら、最初の病院は生検の結果を知らせてこなかったからだ。
そして一月後に、夫の良一はスタンフォード・ホスピタルで内視鏡の検査を受けた。フォングと言う台湾系の医学博士と研修生のチームで、結果はすぐに送られてきた。
診断の印象として、正常な食道。胃の小弯にある胃潰瘍か腫瘍。内視鏡で切除できず、生検が必要。胃の粘膜が萎縮していると書いてあった。
(悪くない)と、敬子は思った。
「ほらね。胃がんではないよ」と、良一は言った。
「でも、生検の結果が出るまでは安心できないわよ」
「そうだね。スタンフォードの外科医は70から90パーセントの胃を切ると言っていた。冗談じゃないよ。僕は嫌だね。それなら、死んだほうがまし。食べたいものが腹いっぱい食べれないとなると、生きている価値がない」
「少しづつ食べればいいわよ。生きているほうがいいじゃない。苦労してきたのだから。あんなに一生懸命に働いたじゃない」敬子の言葉に、良一は言葉を返さず診断結果に顔を戻した。
「生検の結果、待ちましょうね。そして、悪かったら外科の手術受けてね。お願いします」妻の言葉に良一は、少し考えていたが仕方ないね、とあいまいな返事をした。その言葉からは手術を受けるのか、自分の人生が終わるのを仕方が無いと思っているのかは判断できなかった。
「私も、出来るだけのことをするから」と、敬子は言葉を切った。
スタンフォードの生検の結果は「母の日」に届いた。良一は「MYCARE, STANFORD」の電子メイルを受け、スタンフォードのサイトで診断結果をオープンした。しばらく目を通していた。
「診断書に癌は書いてない。やはり癌ではない!」少し興奮気味に敬子に報告した。
「そう、良かったわね。プリントして私にも見せてよ」
プリンターが動き始めた。
敬子は診断書を三回も繰り返して読んだ。癌と言う言葉はなかった。「母の日」に生検の結果を送ってくれたのは、良い結果を送って少しでも安心させてあげようと言う女性の医学博士たちの配慮なのだろう。敬子は診断書に名を連ねる三人の女性の医学博士の名前を繰り返して確認した。
夫の良一に「よかったね」と言うと、良一は嬉しそうに「ありがとう。やはり結婚するなら、姉さん女房だね」と、言った。
「まだ、安心できないわよ。最初の診断が根強く残るから、定期的に診断を受けようね」
「うん」年下の夫は、子供のようにうなずいた。
(姉さん、女房か……)敬子は内心でつぶやいた。
終わり、7月7日、2024年、午後9時36分 七夕
おかし(お菓子)短編集 1の20、2の20 三崎伸太郎 @ss55
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