退屈

退屈


私は昔から幸せ者だったと思う。そこそこ良い大学を出て、そこで出会った好みの女性と結婚。繁忙期以外は定時で上がれるような大手企業に勤め、同期の中では出世頭とまではいかないものの、順調に出世し、若くして部長まで登りつめた。子供は二人、犬と猫を一匹ずつ飼い、都会のそこそこ良い所に住み、近所よりも少しばかり大きな家に住む。住宅ローンもあと五年もすれば完済だ。



絵に書いたような幸せな人生を歩んでいる。不満は今のところ特に無いが、どうにも刺激と言うものが足りない。悩みといえばこの位なのかもしれないが、今の自分には死活問題だ。毎日の代わり映えの無い仕事。変わり者と思われるかもしれないが、そろそろ忙しい仕事の案件でも欲しいところだ。まぁこんな時期は可愛い子供たちの為に休日家族サービスをするのも悪くない。この間新しく出来たテーマパークにでも連れてってやろう。


そんな幸せを噛みしめながらもつまらないと退屈していたある日の事だった。優秀で可愛い営業社員が、地方よりこちらへと移動になったと言う。男性社員達が盛り上がる中、これだから独身者たちはと心の中であざ笑う。口に出せば、もちろんブーイングの雨嵐だろう。その後、朝礼で、彼女を紹介されたが、確かに可愛いが普通の若い子だと感じ、そのままデスクに戻って、コーヒーをすすった。今日も、私は黙々と積まれた仕事を片付けてゆく。


その日は、社内で彼女と話すことは無かった。その後、日課であるジムへと通い、黙々と走っていると一人の女性が私に話しかけてきた。

「あら、田丸部長ではないですか?」

会社関係の人間にこんな方がいたかと思ったが、名前を知らない事がばれては失礼である。

にこりと微笑みながら、相手に向かってぺこりと頭を下げる。

あまり会社関係の人間とは飲み以外で出くわしたくはない。

内心子供の様に(げぇ。)と思っていると、女性がそのまま言葉を続けた。


「田丸部長もトレーニングなさっているんですね。」

よく聞くと、その声はどこかで聞いた声だった。今日の移動してきた部下の吉野君ではないだろうか?

「君は、吉野君か。雰囲気が違うからちっとも気付かなかったよ。」

内心少しめんどくさいと思いながらその女性へと笑顔言葉を掛ける。

営業という仕事柄、人の特徴に関しては気遣っているので、内心ほっとした。

仕事中彼女は髪を下ろしているが、今はトレーニングのためかまとめていた。

少し派手な印象を持っていたので、化粧を落としたためか、童顔に見え、なんとも同じ人物なのか疑問に思う程だ。

その日は、5分程話、私もトレーニングに戻りたかったので、30分程鍛えてから帰った。

彼女の方は、音楽を聴きながらずっとランニングマシンで走りこんでいた。

やはり、女性となると偏見だが、体重を減らすのを目的としているのかもしれない。

彼女との接触があまり無かった事に少しほっとしながら、夕食に間に合うよう家路を急いだ。


家に帰ると、「おかえり。」と扉の音を聞きつけた妻と子供たちの声がリビングからし、犬と猫が玄関まで仲良くかけてくる。2匹の頭を撫でてやって、靴を脱ぐと、肉を焼く良いにおいがした。そういえば妻が今日はハンバーグを焼くと言っていたなと思い出しながら、子供たちの声がやけにご機嫌だった事を思い出した。着替えて、スーツに着いたペットの毛を取ると、手を洗いリビングへと向かう。


リビングへ向かうと、子供たちが、珍しく妻のテーブル準備を手伝っている。大好物のハンバーグがよっぽど楽しみなのだろう。こんなところが、愛らしくて、さぁパパも負けてはいられないとキッチンに向かう。ちょうど妻は料理を終えたところで、結婚する前にほれ込んだ優しい様子でクスリと笑って、「パパのお仕事はもうないわよ。」と言ってくる。私はおどけて拗ねたようにビールを冷蔵庫まで取りに行った。


食事を終えると、妻と子供達は宿題に取り組み、私は少しテレビを見てから、その横で本を読む。妻は、子供たちが宿題を終えると食器の片づけをし出したので、夕食準備が手伝えなかった分妻が食器洗い機から取り出して拭いた食器を元の位置に戻していく。「あら、珍しいじゃない。手伝ってくれるの?」ふふっと綺麗な笑顔で笑ってくれるので、「あぁ。子供たちが少しうらやましくなってね。」と言って続ける。いたずらにぎゅっと妻を抱きしめると、子供たちが「うわっ。イチャイチャしてる!」と生意気を言ってそれぞれの部屋まで逃げて行った。


次の日、相も変わらず、日々同じような仕事を淡々とこなし、部下に仕事を振り分ける。吉野君は優秀な様だし、仕事が少し遅れている篠原の分を担ってもらうのがいいだろう。そうすると、以前同じ業務をしていた飯野に、指導を任せよう。あいつは、そこそこ顔も良いし、仕事もできるが、まだ独身だ。これを機に吉野君と交流が持てたら奴にとっても良いかもしれない。お節介なことを考えながら飯野と吉野君を呼び出し、指導係としてつける事を説明する。近くの席の篠原が、やはり仕事量の荷が重かったらしく、ほっとしたような、複雑な様な顔をしていた。若いうちは、うちの会社は経験を多く積ませようとするので、彼女に担当してもらう業務も後々増えてゆくだろう。

また、今日も仕事を終え、ジムに向かう。若い頃から運動部で、独身時代は体力作りをするために通っていたので、すでに毎日の日課のようなものだ。仕事上がりに汗をかくのがなんとも気持ちがよい。体調によって30分程から1時間のうちに切り上げるので、家庭にも影響が出ない良い趣味だ。それに会社の連中はこういった事に興味が無いらしく、滅多に知った顔を見ないのも解放感があってうれしい。


なのにだ、今日も今日とて彼女を見かけてしまった。会社で別れたばかりなので少しばかり気まずい。出来れば気付かないで貰いたいがそこまで広いジムではない。それは難しいだろう。目が合った瞬間、にこりと笑ってきたので、気付かれたかと思いながら、私もにこりと返した。それだけでよいのに、出世のために仲良くしようと思っているのか、近づいてくる。「田丸さん。今日もトレーニングですか?」彼女がニコニコと人懐っこく話しかけてきた。私はバーベルを掛けて、起き上がり愛想笑いをしながら、応じた。「君も精が出るね。体力づくりかな?」「えぇ。まだ本格的にお仕事につけてはいないけれど、後々体力勝負になってきますもんね。」褒められたと思ったのか、からからとご機嫌に笑いながら、話してくる。


「まめな男性って素敵ですよね。」綺麗な笑顔をしながら彼女がそんな風に言ってくるから、内心少しうろたえた。まとめ髪できれいな顔がさらけ出されている。白い肌が艶やかだ。いったら失礼になるかもしれないので言わないが、私の中で、彼女の印象はゆで卵みたいだと思った。「はは。そんな風に褒めたってなにも出ないよ。おじさんをからかわないでくれ。」と私は月並みな言葉で誤魔化して、早くトレーニングに戻ろうと、「じゃぁ。また。」と言おうとした。「私、ランニングマシン以外であまり鍛えたことないんですよね。」しまった。と思った。「今度やってみると良い。」と言葉をはさむ前に、「筋トレは美容にも良いって言うし、教えていただけませんか?」と言ってきた。あぁしまった捕まった。と後悔したが、正直若いお嬢さんに教えるというのも悪い気はせず、時計を見ながらなんとか40分で切り上げ、そそくさと家に帰った。


家に帰るともう夕飯の準備ができていて、いつも通りに家族みんなで食卓に着いた。娘が友達と映画に行くための小遣いを強請り、息子が俺もと言いながら友達の話をする。それを夫婦で聞きながら、相槌を打ち、食事を終える。いつも通りの子供達のお勉強の時間が何だか今日はいたたまれなく感じて、今日は俺が勉強を見てやると子供たちに言うと、妻には今日はゆっくり本でも読んでいるように言った。


そうすると妻は、じゃぁ先にと言って、夕飯洗い物を済ませに行き、私は子供達の質問に答える。やはりこの年頃になると、小学生の問題等特に困る事は無いのか、宿題の質問はすぐに止んでしまい。友人関係など人生の質問コーナーになった。恋愛の話になると、娘が生意気に「お父さんに言うわけないじゃん。」と言ってきて、少し複雑な思いをする。やはり年頃の女の子だ。この反応はいるんだろう。息子に関しては、「えー好きな子とかダッセー。女なんかうるさいばっかで興味ねぇし。」と良くわからない反応をして格好付けていたが、小学生の頃はこんなもんかとほほえましく思った。そのうち、私と妻の昔の話に移り、その日は子供たちに散々からかわれた。


今日もいつも通りにオフィスで仕事に励んでいると、私の席に近い三人の若い男性社員の話声が聞こえた。やはり美人というのは噂になるらしい。「吉野さんって意外とトレーニングとか好きらしいよ。」噂好きの篠原が飯山や斎藤に話しかける。飯山が、「華奢だからあんまりそんなイメージなかったな。」と言う。斎藤が興味ありげに、「お前どこのジム通ってっか知ってんの?通えば仲良くなれんじゃね。」などと話している。(これ以上会社の人間が増えてほしくないな。ジムを変えるか。)と思っていると、「いや、それが教えてくれねーんだよ。ジムでは集中して鍛えたいらしいぜ。」と篠原がまた残念そうに言う。


私は(あれ・・・?)と疑問に思ったが、まぁ1カ月のお試し期間中に彼女の方がジムを変えてくれるかもしれないと心の中でひっそりと歓喜していた。斎藤が若者らしい言葉で、「あー。一緒にジム行って鍛えるとか続きそうだし。あこがれるよな。彼女とシックスパックゲットなんて。」とまたチャラついた事を言っている。篠原が「だよねぇ。」なんて言い、斎藤にその腹をまず何とかしろと突っ込まれている。飯山が、そんな二人を気にせずに、「ストイックな女性ってかっこいいよな。」と爽やかに言いった。私が(おっ・・・。)と思っていると、吉野さんが帰ってきたようで、若い連中が静かになる。彼女が「何のお話ですか?」とにこやかに聞くと、飯山が「吉野さんのジム通いがギャップがあってかっこいいって話だよ。今度一緒に行っても良いかな?」と答える。斎藤がじろっと飯山を見るが、大して気にしていないようだ。


吉野さんは少し迷った後、「私一人でトレーニングする方が好きなんです。」と答えた。「えぇー。」と斎藤の残念そうな声が聞こえる。その話題が終わった後、散り散りになった頃に私が書類に目を通した顔を上げると、吉野さんが会釈して人差し指を口に当て、私にしーっとサインを送ってきた。しまった。とまた思ったが、その場はとりあえず愛想笑いを返しておいた。


ジムについて、今日も同じようにトレーニングにいそしんでいると、また彼女がやってくる。あぁ、今日もかと少しがっかりするが、どこか胸躍っている自分がいるような気がして、誰もいなければ大きく頭を振っていただろう。「田丸さん。今日もご一緒してもよろしいですか?」と言ってきた。断るのも気まずいと理由をつけて、今日も彼女の提案に乗ることにした。




「田丸さんって絶対もてますよね。」


斎藤が酒を飲んでご機嫌に言ってくる。今日は、吉野君の歓迎会を部署内で行っている。「何を言ってんだ。お前は。おべっかばかり使いやがって。」とお調子者相手に私も砕けた口調になってしまう。「いやぁ。本当ですよ。結構イケメンだと思いますよ。」と篠原も言ってくる。「結構ってなんだよ・・・。」と言いながら次々注いで来る酒を受けていると、「いやぁ。俺。女の子で田丸さん上司だったら不倫してたと思うわ。」とまた斎藤が言う。不倫という言葉で、一瞬吉野さんの事が頭を過ったが、すぐに頭から消す。篠原が「お前じゃ変なギャルみたいで多分相手にされてないだろ。」と突っ込んで、仕返しに腹をつつかれている。「気持ち悪い事いうんじゃない。」と返すと、飯山までおべっかを言ってきた。「でも、結構ガタイも良いですよね。なんか鍛えてたりするんですか?」「あぁ。ジムに通ってる。」と言うと、うるさい男たち3人が「「「おー。」」」と感嘆の声をあげた。斎藤が思い出したように、「あっ。吉野さんもジム通いしてるらしいっすよ。案外同じジムだったりして。」と言ってくる。一瞬どきりとしたが、そう言えばあまり知られたくなさそうだったのを思い出し。「へー。見たことないな。違うところじゃないか?」とごまかしておいた。実際、私の通うジムは1カ月の内は体験入学できるが、一人で鍛えたいと同僚に言う位だ。近いうちに移るに違いない。


ちらりと彼女の方を見ると、女性社員達とお酒を飲んでいる。一瞬こちらを向きかけたのがわかったが、目が合う前にまた、三人の方へ向き直す。ちょうどそのタイミングで、飯山が「俺。吉野さんマジでタイプなんです。」と言ってきた。何も悪い事などしていないのに、少しヒヤリとしたが、「お前良い男だし。年も近い美男美女でお似合いじゃないか。」といってやる。すると、カシャンと音がした。


そちらを向くと、どうやら吉野さんがはしを転がしてしまったらしく、年配の梅沢さんが代わりにはしを注文してあげていた。それを見て斎藤が「普段あんなしっかりしてるのに可愛いとこあんだなぁ。」と言った。それから、「飯山。俺も負けねぇからな。」と言い出した。だが、直ぐに篠原に「お前じゃ多分無理だよー。」と言われ、今度は仕返しに頬をつねっている。


斎藤もこの部署では、仕事が早く、飯山と双極の位置の出世頭だ。そんな二人を微笑ましく思いながら、「がんばれよ。」と言い、ちょうど箸の交換に来た店員が来たので替えの飲み物を頼もうとすると、今度こそ吉野さんと目が合った。にこりと微笑まれたが、私は何故かまた、しまったと思った。


そろそろ、彼女がジム通いを始めて1カ月だ。ここのところお喋りのせいもあり、ジムでの時間が少し長くなってしまっている。それに、妙に会社といる時と違い、幼く見える時があり、愛らしく見える時がある。寂しくはあるが、出来れば他所へ移ってほしいというのが本音なのだ。というのも最近、私の勘違いかもしれないのだが、彼女が私の体格を褒めて、さりげなく腕や腹筋に触ってくるようになったのだ。


しかし、若い女性特有の好奇心かもしれないとなんとか私は踏みとどまっていた。たしか、年齢は10近く違うので、兄か父親の様に思われているのかもしれない。子供もいるしきっと所帯じみたところが、警戒心を解いているのだろうと自分を納得させた。


今日は来ないに違いないと思いを、巡らせ、妙な違和感を吹っ切るためにも疲れ切ってぐっすり眠りたいと、ハードワークをすることにした。私が一心不乱に鍛えていると、後ろから甘えたような女性の声が聞こえた。


「田丸さん。今日は精が出ますね。何かあったんですか?」私が驚いて振り向くと、彼女が後ろに立っていつものように微笑んでいる。ジムを移らなかったのか・・・。残念な気持ちの中にほんの少し嬉しさを見出してしまって、私は自分を殴りたくなった。


今日は、いつもより早くトレーニングを切り上げ、速足で家路を急いだ。家に着くと、シチューの良い香りがし、子供達の明るい声が聞こえる。走ってきた犬猫をいつも以上に甘やかし、わしゃわしゃと好き放題撫でると、少し落ち着いて来た。犬はぶんぶんと激しく尻尾を振り、猫はばしばし尻尾をたたきつけてとっととリビングへと行ってしまった。犬が何かを察したのか私の頬をなめてくる。「おいおい。」と笑って、犬を解放し、部屋着へと着替えて手を洗う。


今日は、夕食の配膳前に帰宅できたようなので、私は妻の手伝いをする事にした。「あら。珍しいじゃない。」なんてふわりと笑われると、ぎゅうと胸が締め付けられる。「たまには良いだろ。」といってシチューの皿を並べてゆくと、娘が宿題をしていたらしく、テーブルを拭いて問題集を片付けに行った。息子はゲームをしているので、「ご飯だぞ。片づけなさい。」と注意する。「良いとこなのに。」とぶーたれるので、「ママ特性のシチュー食いたくないのか。」と言ってやると、渋々片づけだした。


食事を終えると、また子供達が、妻と共に宿題をする。それでも今日はどうしても二人きりになりたくて、また、妻の片づけの手伝いをする。この間と同じように妻に抱き着くと、また子供たちがけらけらと逃げって言った。しかし、今日はなぜだかどうにも妻に甘えたくなって、ぐっと前より強く抱きしめた。「どうしたの?最近あまえたね。」そのまま、首筋にぐりぐりと頭を押し付けると、洗い物を終えて妻が私の頭を撫でてきた。「嫌なことでもあったの?」頭を撫でられるのは普段はそこまで好きではないが、何故か今日ばかりは落ち着く。どう答えてよいのかわからなく、静かに妻の手を受け入れるしかない。少し最後にぎゅっと力を入れてから。妻が拭き終わった皿を片付けた。


ソファに座ると、猫が隣に寄ってきて、ぴったりと寄り添ってくる。こいつなりの慰め方なのだろうか。すると、妻が隣に座ってきた。「何かあったなら。お話きくよ。」温かい紅茶を手渡されて、何故か、ぐっと心に刺さるような気分がしたが、どうにも妻に話して良いのか、また、私の勘違いではないかと思うと気が引ける。「違うんだ。季節の変わり目で俺もちょっとガタが来てるみたいだ。」そう言うと、紅茶を一口啜ってテーブルに置き、妻を再び抱きしめる。肩口にぐりぐりと頭を擦り付けると、「体力バカのあなたが珍しい。今日はゆっくり休もうね。」と言って、優しく背中を擦ってくれた。





「田丸さん。土日ってジムに通われないんですか?」



今日も彼女と共にジムで鍛えていると唐突にそんな事を聞かれた。私はにこりと笑顔を貼り付け、「休日は家族サービスがしたいんだ。」と答えた。少し自分への牽制も込めて言う。彼女の口角が一瞬ひくりと上がった気がしたが、先程訪ねてきた笑顔のまま、「さすが、田丸さんですねぇ。奥様とお子さん達がうらやましいです。」とおべっかを言ってくる。「だから何も出ないよ。」と笑って言うと、「私もそんな素敵な旦那様がいたらなぁ。」と甘えたような声で言われた。「飯山なんかどうだろう。中々イケメンだし、年も近いよな。」と言うと、今度は拗ねたように、「確かに尊敬すべき先輩ですし、素敵ですが、私は筋肉質な人が好きなんです。」と言ってくる。私はまた笑顔を貼り付け、「若いんだから直ぐに良い出会いがあるよ。」と言ってやる。「若いって・・・。田丸さんだって大して変わらないじゃないですか。」

自分よりも9つも下の女の子にそんな事を言われ、私は目を瞠ってしまった。




「お父さんお母さん。俺ライオンの方から行きたいからデートしてていいからね!」「あっうち侑人見てるから。たまには二人で回っていいから。」家族サービスのつもりで、動物園に連れてきたが、最近の私の妻への甘えっぷりに何かを察したらしい子供たちが、元気よくかけていく。侑人ももう小学生だ。それにしっかり者の雅もいるから大丈夫だろう。昼食の集合時間だけ伝え、今日は妻との久々のデートを楽しむことにした。


「なんかふたりきりと言うのも。久々だね。」妻にそう言い、指を絡めると、少し照れくさい気分になった。「最近あなた疲れてるみたいだから。気を遣ったのかな?」妻も少し照れくさそうにしている。「あら。こっちは小動物からみたい。」色とりどりのインコを見て妻が満足そうに笑っている。「可愛い・・・。」妻が灌漑深そうにつぶやくのを聞いて、『可愛い』という言葉で彼女を思い出してしまう。一瞬またドキリとしたが、人がいないのを確認してきゅっと手を握り直し、こっそりと「お前の方が可愛いよ。」と言い聞かせた。


(あぁ。しまった。)会社の玄関を出ると外で雨に辟易している彼女を見つけた。いつもなら定時で上がれるはずだが、仕事が立て込んだのが悪かったらしい。会社の軒下で彼女を見つけてしまい、また少し後悔する。ここで、無視するのも良くないだろうという思いが勝ってしまい、「傘ないのかな?」と尋ねてしまった。花が咲くような笑顔で、「田丸さん。今日もジム行かれるんですか?」と訪ねてくる。私は苦笑いしながら、「いやぁ今日は、こんな土砂降りじゃ、帰りが大変だから行かないかな。」と軽く躱すことにした。それに会社の前であまりジムの話はしたくなかった。「傘、俺ので良かったら貸すよ?置き傘があるんだ。」変に気を遣わせるのが嫌で、咄嗟に嘘をついた。これくらいなら、走ってコンビニに行って、ビニール傘を買えばよい。「じゃぁ。駅まで一緒に行ってください。土砂降りだとちょっと暗いし、心元無くて。」女の子とは、そんなものだろうか、やっぱり傘が一本しかないのをばれたくなくて、「いや。忘れ物をしてきたから、悪いけど・・・。」と歯切れ悪く答えるが、「待ってます。」と答えられてしまえば白状するしかないらしい。「実は、傘が一本しかないんだ。嘘をついたのがちょっとカッコ悪くてね。俺はコンビニで買うから先に帰ってくれ。」

「やっぱり。田丸さん。優しいですね。」




「そんなの一緒に入れば良いじゃないですか。」自分では、上手く躱したつもりの言葉も掬い上げられてしまえば、私はまた目を見開いて彼女を見つめるしかなかった。


少し真剣な顔をした彼女が見上げてくる。それが気まずくて、さっさと茶化して帰ろうとした。「いや、若い女の子と俺みたいなおっさんの相合傘は悪いよ。」「じゃぁ尚更誰も気にしませんね。」そう言うと、強引に開いた傘の中に引き入れられてしまう。若い女の子にそう言われると、断るのが妙に気まずいと思ってしまう。「君が持つんじゃ、身長があるから大変だろう。俺が持つよ。」黙ったままになるのが怖くて無難な会話は無いかと、考えていると、吉野さんの肩が濡れているのに気付いた。そのまま、傘を取り上げると、放した手にするりと撫でられたような気がした。「やっぱり田丸さん優しい・・・。」熱のこもったような声で名前を呼ばれ、気付かないふりをしたが、背筋が妙にぞくりとする。「雨が激しいから少し速く歩こう。」と言って、誤魔化し、駅までの道を急ぐ。急ぎ足の彼女の鞄が揺れて、合間から、花柄の傘のようなものが見えた気がした。


「えー。授業参観来ないの?」長女が不満そうに言う。いつもは一緒に外を出歩くのも、スキンシップも嫌がるくせに、授業参観だけは夫婦で来て欲しいらしい。「仲良しで素敵な夫婦っていっつも褒められるんだよねぇ。そこだけは評価してるのに。」そこだけはとは何事だ。と思ったが、その日は残念ながら、会議があった。私も、参観に参加すると、田丸さん家の旦那さん若くて素敵ね。とよく他のお母さん方に言われるので、心の中で少し得意に思う。「お母さん。綺麗だから言われるんだからね!調子に乗っちゃだめだよ。」と娘に言われ、何か見抜かれたかとグサリと刺さった。「えっ仲良し夫婦とか言われてんの気持ち悪ぃ~。」と息子が生意気を言うので、捕まえて、頭をめちゃくちゃに撫でてやる。ぶうたれながらも楽しそうだ。


今日も今日とて、夕飯の後始末を手伝う。最近は、妙な罪悪感のせいで、ずっと繰り返している。妻に後ろから、抱き着こうかと思ったが、何だか昔よりも細く、首の肉付きが少なくなった気がして、一瞬抱き着くのを戸惑ってしまった。昔好きだった、白魚のような手は、血管が浮き出始めている。何となくだが、妻の年を考えてしまい、吉野さんのスポーツウェアから見える張りのある肌を思い浮かべてしまう。こんな事を考える自分に嫌気がさしてくる。何か妻が察したのか、「どうしたの?」と聞かれ、私は目を細め、何でもないと答えると、いつものように妻を腕に閉じ込めた。



「田丸さん。今度相談にのっていただけませんか。」

飯山が真剣な目をして、私にお願いしてくる。それと同じような事を以前から彼女に言われていた事を思い出し、成程と思う。男同士ならば、少し飲みに行くくらいは良いだろう。膳は急げと、妻に念のため許可をとって、奴の相談に乗ってやることにした。最近は大きな仕事も無い、十中八九吉野さんの事だろう。


「俺真剣にアプローチしてるんですが、彼女恋愛に興味が無いようで・・・。」私はまた、(あれ・・・?)と思った。少し、安心と残念な心地を感じたが、果たしてそうだろうか。と違和感を持つ。「単純に好みじゃないとかか?」と思わず口に出すと、「あーっ。」と飯山が唸りながら突っ伏す。「多分だけど、恋愛に興味が無いわけではないと思うぞ。」と言ってやると、「田丸さんが言うなら信じますけど・・・。」とぶー垂れる。この間、歩いている時に思ったが、彼女は飯山との方がずっとお似合いだ。「好みでも聞き出してみたらどうだ。ほら好きな物把握するとか、芸能人で誰がよいとか。」ふぅーと息を吐いて、「そんなのとっくに聞いてますよ。でも中々尻尾を出してくれないんです。」と文句を垂れる。「犯罪者か。」と突っ込んでやると、「田丸さんの若い頃なら。俺勝ち目無いんだろうな・・・。マッチョ好きとか言ってましたよ。」と言われ、以前言われた事が頭の中で合致してしまいそうになり、「若い頃か。そりゃ残念だな。」とごまかし、笑いながら慌てて酒を口に含んだ。


「田丸さん。飯山さんの事で、相談がありまして・・・。」頬を少しかきながら、吉野さんが私に相談をしにきた。今までは、仕事のことを伺っていたが、(なるほど、飯山か・・・。)少し残念な気持ちもあるが、これはチャンスなのかもしれない。もしかしたら、飯山を勧めてやれる。居酒屋やこじゃれた店だとまずいのは、重々承知の上だ。ならば、と思いファミレスを指定し、いつものジムを出た後、一緒にファミレスへと向かう。


一向に彼女が口を開いてこないので、私は、「仕事の方は慣れて来たかな?」と少し話題を振ることにした。「えぇ。おかげさまで。」とにこりと含みある笑顔でこたえられる。少し気まずいと思いながら仕方なしに本題へと触れる。「飯山とのことで相談ってなんだろう?何かあったのかな?」「・・・。」吉野さんが言い辛そうに口を歪めて、コーヒーを一口啜った。「私先日飯山さんから・・・。」「うん。」次の言葉を待つ。多分だが告白でもされたのだろうか。


「告白されて・・・。」やっぱりか。「いいんじゃないか?俺は君たちがお似合いだと思う。それともしつこいのかな?」「・・・。」とまた彼女が言い淀む。




「私は田丸さんが好きなんですよ・・・。」



しまった。とまた思った。ここから本当は、飯山を勧めて、正直このまま若い二人が上手くいくように丸め込んでやろうと思っていた。同時に若い娘が自分に興味を持ってくれたことに心のどこかで歓喜している愚かな自分がいる。どう答えて良いのか言葉に詰まる。「えっと・・・。尊敬して貰えるのはありがたいと思ってるよ。恋愛の話かと思ったんだけど・・・。」とりあえず、どうにか濁そうとするが自分でも無理があるのは正直わかっている。吉野さんの顔が悔しそうに歪んだ。「田丸さん・・・。わかってるでしょ。ずっと前から。」


彼女の顔が泣きそうに歪むのがどうにも耐え難い。だけど、こんなところで返事をしてしまっていいのだろうか?その時ちょうど携帯画面にメッセージが表示され、妻からのものだとわかった。その画面をちらりと見て携帯を伏せると、真剣な目をして彼女を見つめる。「吉野さん俺には家庭があるんだ。わかってるだろ。」とスラスラと言葉が出てきた。



「わかっています・・・。」と彼女が泣きそうな顔で呟いた。



今日も家に帰り、家族と団欒を過ごし、妻に甘える。こんな時いつも、私は幸運な男だと思っていた。だが、妙に今日は彼女と吉野さんを比べてしまって、罪悪感からもっと甘えるように引っ付いたり、普段とは逆にコーヒーを彼女に入れたりと世話を焼く。私が愛しているのは妻の方のはずだ。何故仕事のできる吉野さんと比べてのんびりした妻に腹が立つのだろう。

何故、妻の華奢な腕が木の枝のように見えるのだろう。化粧をしていない妻に女性を感じないのはなぜだろう。


この頃また体がしぼんで骨のように見える。美しく自慢の妻のはずなのに、私の頭の中はどこか嫌味が出て来てムシャクシャとする。私は、吉野さんを思っているのだろうか・・・。



「田丸さん。先日吉野さんと会ってました?」斎藤が明るく私に話しかけた。「あぁ。ちょっとファミレスで相談に乗っていてな。」そう言うと、斎藤は、一瞬変な表情をした。それから、「飯山がふられたって知ってました?」私は自分の顔が引きつるのを感じた。「そりゃまたどうして?お似合いじゃないか。」教育係に関しても気まずいだろう。もうちょっと時間を空けても良かったものの・・・。と思ったが、担当者を篠原にしても良いだろうか。「いや・・・。なんか仕事関係者で恋人になるのはどうかとか。そんな真面目な理由で・・・。」篠原がなんとなく。こちらを気にしているが、話に入ってないのが気になる。何かあったのだろうか。



「不倫しようとする奴なんてね。癖みたいなもんですよ。いちいちそんな奴相手にしたってしょうがないでしょ。」食堂で食事をしていると、女性陣の話が聞こえて来てドキリとした。

そちらをちらりと見ると、数人で集まってドラマの話をしているようだった。「次はね、自分が捨てられて終わりよ。」それは最近はやっているどろどろとした恋愛の話だったはずだ。梅沢さんの家も確かお子さんが二人いたなと思い出し、やはりしっかり者の彼女の事だ。不倫などの不誠実な話題はいただけないのだろう。言っている事も的を射ている。女性陣の中に、吉野さんの姿は見えない。最近あまり誰かと過ごしているのを見かけないのは一人で過ごしているからだろうか。


「飯山。ちょっといいか?」私は飯山を呼び出し、会議スペースの個室へと移動する。「吉野さんと最近どうだ?」これはやはり聞いておかなければならないのだろう。教育係について双方の意見を聞いておいて、変える必要があるかもしれない。私のお節介がこんな事態を招いたのかと考えると中々に頭が痛い。「俺。振られたんです。」「それは斎藤から聞いた。」

「あいつめ・・・。」飯山が悲しそうに笑った。「教育係。変えようか?それは吉野さんにも聞くが。」「そうですね・・・。仕事と私情は関係ないので教育係は経験のために続けたいのですが、吉野さんが嫌がっていたら変えてあげてください。」力のない声でそう言ったが、確かに、飯山は経験として新人教育を積ませるのが次の出世への評価につながると思う。そうすると次は、業務範囲のかぶる篠原が担当として付くことになるが、現在業務で手一杯な部分が見えるので、出来れば担当に回すのは今の時点では避けたい。

斎藤の業務はあまりかぶらないのと、少々忙しい内容を任せているので少し仕様が違うだろう。そう考えていると、「あっそういえば。この間。吉野さんと田丸さん一緒に帰っていましたか?」とこちらに聞いてきた。いつの事だろう。ジムの前で別れる事はよくあるのだが・・・。

「いつだろう。帰りが一緒になる事はよくあるからな。」飯山が少し言葉に詰まった後、「相談する前なんですが、雨の日一緒に帰ってるところを見てしまって・・・。ごめんなさい。忘れてください。女々しいですね。」少し、責めるような口調で言われて、どぎまぎとしそうになる。「ただ傘がなかったから駅まで行っただけだよ。」私はきちんと笑えているだろうか。


もう直ぐジムに通って三年が経とうとしている。一年毎の契約になっているが、周囲にも私と吉野さんの関係を誤解され始めている。そろそろ解約しても良いだろう。他のジムに通うならば、会社付近を辞めて、家の近くを探せば良い。暫く吉野さんが来なくなったため、少し寂しい気持ちがあるが、最近は安心して取り組めていた。明日、久々に二人で話さなければならない。飯山の教育係から篠原に変えるべきか聞くことにしよう。私もあの告白は忘れよう。



今日は何となく家族と話すのが嫌になり、明日自分の中のストレスの種と戦うために一人寝室にこもり考える。子供たちが、「お父さん大丈夫?」と少し心配してくれたが、今の私では吉野さんに少しの未練があるような罪悪感があり、家族に顔向けが見えない気がした。



「やっぱり、あきらめきれないんです。」綺麗な声で言われ、背中が震える。会社で私達は何で関係のない話をしているんだろう。彼女が何故自分に惚れてくれたのも良くわからない。飯山から篠原に教育係を変えるかの話をしていたはずが、なんでこんな話になったのか。人が近くにいないのか心配になった。また、彼女に自分は言いくるめられたのか・・・。「話を戻そう。君の教育係についてだ。」吉野さんがまた泣きそうになった。それでもその手は取れないのだ。


しかも会社で泣かれるというのは、いささか周りにも何か勘ぐりがないかと気を使う。普段彼女は冷静なたちで、可愛い容姿に似合わず、黙々と仕事をこなすタイプだったはずだ。「今度、今度話を聞くから。落ち着いてほしい。教育係はどうする?君が気まずいなら篠原に変えようか考えてる。」彼女がぐっと涙を止めてからまた私を見た。「やっぱり田丸さん優しい・・・。」私はまた自分が愚かな事を言ったことに気づき、頭では後悔してもどこか喜んでいる自分がいる。「私、飯山さんで良いです。篠原さん忙しいですし。」やっぱり彼女は周りをよく見ている。私は何か出し抜かれたような喜ばしいような複雑な気持ちになってしまった。


会議スペースから出ると、飯山は仕事に没頭しているようだったが、少し顔に疲れが見える気がした。この状態の飯山に再び彼女を任せる事は、少し酷なのかもしれない。ただ心配した飯山はこちらを見ていなかったが、意外なことに篠原がこちらをじっと見ていた。



また、今日もジムで体を鍛える。「田丸さんご一緒しても良いですか?」まただ、彼女が寄ってきた。顔も相変わらず愛らしいが、どこか私は歓喜の気持ちと共に彼女へと恐怖心を持つようになっていた。私が、どう反応すればよいものか困っていると、何も言わず彼女が隣でトレーニングを開始した。「田丸さんってジムのトレーニング中は指輪はずしてますよね。」「あぁ。そうだね。機具を使う時に邪魔になってしまうから・・・。」「私。ずっと勘違いしてたんです・・・。ご家族がいたのに・・・。」彼女の声が申し訳なさそうに震える。私はどうしてもそちらを向けなかった。



今日は私は篠原を呼び出した。何より、飯山の辛そうな顔を見ていられなかったから、篠原に可能ならば吉野さんの教育係をやってもらおうと思ったのだ。「僕にその係を任せてくれるのは嬉しいんですが・・・。」篠原は不安そうに言って顔を曇らせた。「業務量もだんだんこなせるようになってきましたし・・・。でも・・・。」会議室スペースの隙間から少し吉野さんと飯山の様子が見える。どこか距離があるが、仕事はきちんとこなしているようだ。篠原がまたこちらを向いてきた。「それって本当に二人の希望ですか・・・?」言葉を選ぶように篠原がこちらに言ってきた。のんびりと鈍感そうな篠原相手なのに無意識にしまったと思った。自分の深層心理を読み取られたような気がしてヒヤリとする。ただ、俺は何も悪い事はしていないのに・・・。そんな言い訳染みた思いが頭を駆け巡る。



「それと僕、ちょっと吉野さん苦手なんですよ・・・。」



会議室から出ると、飯山と斎藤がこちらを見ていた。心なしか無表情だ。

何か話していたらしい。いつも篠原飯山斎藤が話している時、真面目な話であれば必ず混じっていたのが、その中に混ざれないのが、なんとも嫌な予感がする。




「田丸さん・・・。」会社を出てジムに向かおうとすると彼女がいた。その瞬間携帯電話の通知が震えるが、何を話したいのかどうしても気になってそのまま電話を無視をする。

「何か話があるのかな。」私は作り笑顔で彼女と共に居酒屋へと向かい、妻にはメッセージで『今日仕事で少し遅くなる。』と連絡を入れた。


居酒屋の個室で、あの時と同じように彼女と向かい合う、先程携帯の電源を落とし、決着をつけようと思った。彼女は飯山と気まずいとまた前回と同じようなことを言うと、酒をどんどん呷りだした。少しずつ彼女の顔が赤くなっているように感じる。「驚いた。君酒は強いのか?」唖然とした顔をする私に彼女は引かれたと思ったらしい。




「だって田丸さんといたら緊張してしまうから・・・。」


私は息を飲んだ。いつも凛とした彼女がこんな事を言うのは珍しい。続けざまに彼女が言う。「一年目。私田丸さんと同じ本社勤務だったんですよ。」「へぇ・・・。」彼女が何を言うかわからずに、私はその言葉の続きを待った。「その時の営業さんでね。私が一年目で泣いていた時にティッシュをくれた人がいたんです。」確かにその記憶はある。高校を出たての子供みたいな女の子が、泣いていて、まだ小さい娘のいた私は、自分の娘を思い出して、確か彼女にティッシュをあげた。「あの時の先輩って田丸さんですよね。すれ違うたびにドキドキするようになって、他の方達に囲まれている田丸さんにずっと憧れて、尊敬していました。」


私も動悸がして顔が赤くなるような妙な感じがする。だが、やはり、自分の中で妙な喉のつっかえのようなものを感じた。


「すみません。緊張して酔ってしまいました。」彼女が自分の肩にしなだれかかってくる。タクシーを呼んで、彼女をそこに乗せると、「ごめんなさい。ごめんなさい。一緒に・・・。」と言って腕を引いて、座席に沈み込んでしまった。演技かもしれない。


「大丈夫か?」いけないと思いつつも、そのまま彼女についてタクシーに乗ると、体の方に寄りかかって来た。「酔いが回るといけないからまっすぐ座ったほうが良い。」そう言って出来るだけ体を触らぬように椅子に沈み込ませた。


酔っ払いながらも彼女が指摘した。住所につくと一軒の小さなアパートにたどり着いた。驚いた・・・。と少しびっくりする。うちの福利厚生と、彼女の給料ではもう少し良いところに住んでいると思ったからだ。


「あのお礼をしたいので寄って行ってくださいませんか・・・?」彼女がじっと目を見つめてきた。頭の中では警笛音が鳴っている。家族を裏切りたくない気持ちと醜い欲望の合間で心が一瞬揺れる。俺も酔っている・・・。そんな言い訳が頭を過る。ぐっと言葉を言い淀んでいると、また携帯の鳴る音がする。電源は落としたはずだ。ポケットの中で誤操作でもしたのだろうか。


今日は何度も鳴る。何かあったのだろうか・・・。すごく嫌な予感がする。それとも今日はたまたまいろいろな人間が私にかけてくる日なのだろうか。彼女が「携帯なっていますよ?見なくてよいんですか?」と少し勝ち誇ったような笑顔で微笑んだ。



その瞬間だった。私は何故か妻と最近デートへと行った時のふわりとした照れ笑いを思い出す。少し名残惜しくも感じたが、彼女の意図した事にもう乗るわけにはいかないと、無理矢理体を後ろに受けて、タクシーの方に振り返り、電話履歴を見る。たくさんの着信と共に、『お願い電話に出て。』というメッセージが妻と娘から入っていた。急に頭の靄が晴れた気がして、また出会ったばかりの頃の張り付いた笑顔で、「ごめんな。予定があるんだ。」と彼女に言った。彼女は目を瞠っている。


「すまない。運転手さん。ちょっと駅の方に向かってくれるか?」そう言って着信にかけ直すと、憔悴しきった声の妻が出た。



「あなた。侑人が・・・。」




私は病院に行き先を変え急いで向かってもらう。そのまま、病室に飛び込むと、ベットの上で眠っている侑人と、妻と娘がいた。侑人の足は、包帯でぐるぐる巻きにされている。娘と妻の目が少し赤くなっていた。娘が病室という事も忘れ、私に怒鳴りつけてくる。「なんで電話でないの!?侑人が車にはねられたんだよ!」「やめなさい。雅病室よ!」話を聞くと、下校帰りに車に跳ねられ、そのまま救急車に運ばれたらしい。幸い命に別状はないが、手術中に呼び出された二人は気が気でなかっただろう。肺に骨がささり、足を骨折したらしい。


雅は私にたいそう立腹らしく詰め寄ってくる。「しかも、仕事って言ってたのに酒くせーじゃん。何してたんだよ最低!!!」妻もそこではっとしたように私を見る。私は、「すまない部下の相談を受けてた。疑われるのも無理ない。」妻と娘が、じっと無表情に続きを待っている。「相手が女性だから。心配を掛けたくなくて黙っていたすまない・・・。」信じてくれるだろうか。いや無理だろう。少しばかり私にもやましい心があった。じっと頭を下げていると、「やましい事がないならいうだろバカ親父!」と娘がまた怒りの声を上げる。妻は、ぼうっとしながら私を見ていたが、「今はそんな時じゃないでしょ。侑人が目を覚ました時にだれかいてあげないと・・・。」と雅を落ち着かせるようにニコリと笑った。


私が侑人の容態を見ようと近づくと、「きもいんだよ。侑人に近づくな汚れる!」と娘が怒り心頭で言ってきた。妻が「言い過ぎ。」と娘に言い、「後で話を聞くから。」と静かに私に言う。最近の不可解な態度に妻も疑問を感じていたのだろう。その目が軽蔑の色を含んでいるのに自業自得と自分をあざ笑う自分がいるのに気が付いた。



一人コーヒー缶を飲んで、死んだように眠る息子の傍らに寄り添う。もし、息子があの時、命を失っていたら、その時ももし、吉野さんのアパートにいて、彼女と朝を迎えた後にそんな事を知ってしまったら、私は、一生後悔して生きたのだろう。私をこれまで支えたものは、妻と子供達ではないのか・・・・。それでも、私はまだ不貞を犯していない。そんなことで家族に・・・。娘に言い返せなかったのはなぜだろう・・・。















私はその後、妻子に今までの事を説明し、ジムを移り、今までの幸せな生活へと戻っていった。娘だけは、今でも私に軽蔑の眼差しを送ってくることがある。それも受け、退屈と思った日常こそが幸せなのだと、再び噛みしめる。


その後、分かった事は、吉野さんの移動は、元々前回の勤務先での不貞行為が問題に上がってからだというのを耳にし、今までの事は全て幻だったのだと自分の頭に言い聞かせるようになった。結局私達の間には何も無かったのだ。


確かに彼女の言動に疑問に思う場面は多々あったと思う。目の前の机では、飯山と吉野さんが真剣に仕事に取り組んでいる。営業という職種もあり、徐々に外周りも増えて行くだろう。時々、目が合いそうになるが、女性のプライドもあるのか、仕事以外の事で彼女が私に話しかけてくることも無くなった。一瞬、寂しく思ったが、見え透いた蜘蛛の糸に易々ひっかかり、今度こそ家族を巻き込むわけにはいかない。




私はこれからもこの退屈な日常を生きてゆくのだろう。妙な冒険の出来る男では無くて良かったと心から思う。この幸せな退屈を愛し、退屈な日常に愛される。もしかしたら、幸せというのは、この退屈と言う余裕を指しているのかもしれない・・・。


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生きる 天野 帝釈 @kouba1wtmsl

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