桃色

桃色


ある昼下がりの事だった。


私はふらりと散歩に出たい気分になった。


ぐるりと見慣れた光景を見渡し、いつもは開けないはずの扉を開けた。


「あら、あなた出かけるのですか?」


妻の米子の声が聞こえた気がした。


聞こえないふりをして、私は返事をしなかった。


きっと散歩に行くと答えれば米子はついてきただろう。


しかし、私はそんな気分ではなかったのだ。


(もう50年にもなるか・・・。)


きれいに舗装されたコンクリートの道を歩きながら考える。


速度は昔よりもずっと遅いが、真っ平らな道が私の足をスイスイと運んでいく。


無心に歩いていると、道路がスッと50年もいや、もっと昔の砂利道に戻った気がした。


足を取られそうになり、足元を見るが、やはりそこはコンクリートのきれいな道のままだ。


急に私は砂利道の先の子供時代に遊んでいた川辺へと向かいたくなった。








何故かいつもより足を取られ、四苦八苦しながら歩いていくと、やっとの思いで川辺へと到着した。


やはりそこも綺麗に舗装されており、ちらほらと散歩にいそしむ人が見える。


川から吹くそよ風を感じながら、私はゆっくりと目を閉じてみた。


(水の音だけは何も変わらない・・・。)


私はふと先程会った自分の妻を思い出した。


(米子とここを歩いたことがあるだろうか?)


いくら思い出そうとしても自分と共にこの川辺を歩く米子の姿が浮かんでは来なかった。


私達は親同士の勧めで結婚した。


私は見合いの日まで米子に会ったことは無かった。


そして結納を交わし、二人の子供を育て、今に至るのだ。


「50年か・・・。」


今度はそう口に出して呟いた。


しかし、この時私の思考はそれよりも更に昔へと飛んでいた。











あれはまだ6つの頃だった。


まだ広かった川原で、友達とチャンバラをしていると、川の向こう側に桃色の何かがひらひらと見えた。


しかし、その時はチャンバラに夢中で気にも留めなかったのだ。


散々遊んで家に帰ると、今日見た桃色の物が気になった。


(あれは何だったんだろうか?)


考えて見るも、あろう目ぼしいものは思い浮かばず、明日川原にいってみんなが来る前に確かめてみようと思いついた。


次の朝、早起きをしてあの桃色を探してみたが、見当たらず、私よりも背の高いススキがそよそよと揺れるだけだった。


(花か何かで誰かが摘んでいったのだろうか?)


その日結局学校へと向かい、放課後また、友人達とチャンバラをしにあの川原へと向かったのだった。


近所で遊ぶと「うるさい!」と大人達の雷が落ちるのだ。














その日はチャンバラだけでなく、相撲も取った。


そしていつもと同じようにかっちゃんに勝ち、ヒロべぇに負けた。


やすしとえーちゃんとキッチは砂利で転がると母親に酷く怒られるらしく参加しなかった。


着物を汚すとゲンコツが飛んでくるのだという。


私の家も厳しく、泥んこになる度にゲンコツを食らったが、気にせずに遊びまわっていた。


散々暴れまわり、皆一列に並んで家に帰る。


それがいつもの私達の習慣だった。


相撲を終えチャンバラを再開すると、昨日見た桃色が視界の端に入った。


相撲の時は必死だった為気づかなかったが、チャンバラはぼうっきれが長く、皆で走りまわるために幾分か視界に余裕ができたらしい。


(今日遊び終えたらあの桃色の何かしらを確かめに行ってやろう。)


私はそう決意を固め、ワーワー騒ぎながらワクワクとした気持ちを胸に抱え、チャンバラ棒を必死に振り回した。














散々遊びまわったので皆疲れたのか、一緒に帰るよう誘われたが、やはり桃色の物の正体が気になる。


私はちょっと落とし物をしたかもしれないからと皆に先に帰ってもらった。


私は反対岸に渡り、桃色の物が見えた位置を探してうろうろとした。


(確かこのススキの群れの中から見えたはずだ・・・。)


ススキの高群の中に目を凝らすと、桃色の着物を着た女の子が見えた。


「何してるのこんなところで?」


声を掛けて見ると、女の子が驚いたようにピクリと跳ねた。


「ちゃん・・・見てた。」


小さく細い声だったのでよく聞き取れなかったが、チャンバラを見てたといったらしい。


蹲って下を見つめている彼女の頭に赤い紐飾りが蝶々のように揺れていた。

















「あなたチャンバラが強いのね。」


一度こぶしを握り締めて頭を揺らしたかと思うと、少女はいきなり顔を上げ、にこりとこちらを見て笑った。


学校で見る少女達とはまた違う白い顔に、私の胸が飛び跳ねた。


それと同時に、褒められた嬉しさがじわじわと上ってきて、そっぽを向いて「まあね。」とだけ言った。


「私、失礼なことを言ってしまったかしら?」


私が会った事のないような上品な喋り方だった。


不安げな顔が愛らしい。こんなに恥ずかしいのは初めてだった。


「いや別に・・・。」と素気なく言って、顔の火照りが消えるのを待った。


少し落ち着くと、女の子の方に振り返る。


「名前は何ていうの?」と尋ねると、女の子は頬に手を当てながら大きな目を下に向けていた。


「美紗。」と小さな声が聞こえる。


ぷっくりした白い頬が薄紅色に染まるのが可愛らしくて、私はまた目を逸らした。











「あなたのお名前は?」今度は美紗が尋ねる。


「平太。」とまた素気なく答えてしまうが、美紗は嬉しそうに「平太さんね。」と繰り返した。


何だかくすぐったい気持ちになって、ごまかすように呟いた。


「もっと近くで見ればいいのにさ。」


「えっ。」と美紗が驚いたように聞き返す。


「好きなんだろ?チャンバラ。」


「うん・・・。」美紗は嬉しそうにはにかみ、明日また来る約束をした。


私はその日、もう少し美紗と話したくて家まで送っていった。


美紗の家は意外にも私の家のすぐ近くだった。


私の小屋のような家と大違いの大きな家に驚いて、美紗に立派な家だと伝えると、またあの愛らしい顔ではにかんだ。


その日、私はずいぶんと遅く帰ったために、両親から大目玉を食らった。


少しは反省しても良いはずなのにその日の私は浮かれ切っていて、何かあったのじゃないかと逆に両親を心配させてしまった。












次の日私達はまたしても川原で遊んでいた。


いつもと違うのは、大きな石の上に座って美紗が私達が遊ぶのを見つめているだけだ。


私達は愛らしい女の子がこちらを見つめている事に幾分か緊張していたが、いつもより一生懸命チャンバラをして、相撲も取った。


いつもなら参加しないやすしとえーちゃんとキッチでさえも泥んこになるのなど構わずに相撲に参加している。


私はこの日初めて相撲でヒロべぇに勝った。


帰る頃には皆して必死になったため、いつも以上に泥んこになっていた。


いつも通り一列になってぞろぞろと帰っているが、皆そわそわと落ち着かない。


桃色の着物を着た愛らしい少女は、皆にとっても眩しいらしい。


この日から、泥んこの少年達の中に、小綺麗な恰好をした少女の姿が混じるようになった。


美紗はこの頃から、体が弱く、私達と遊ぶ事は出来なかったのだ。


私と美紗は家が近かったため、帰りはいつも最後まで一緒にいた。














暫く経つと、私達は皆美紗の事を好きになっていた。


上品な態度と、愛くるしい白い顔は今まで会った同級生達とは違って私達を虜にした。


美紗の体が弱かったためもあるのだろう。私達は虐めて追い払うこともしなかった。


やはり恋というのは不思議な物で、チャンバラも相撲も美紗に褒めてほしくて、皆頑張るようになった。


そのためか、一年も二年も経つと、私達はそこいらの悪ガキ共が目じゃない位強くなった。


自分達寄りも小さな子を野犬から守ってやったり、威張る上級生を泣かせたりと好き勝手英雄ぶって回ったものだ。



























10歳になった時だった。


美紗の事を一番初めに好きだと言い出したのはかっちゃんだった。


皆はそれを聞いて、赤くなったり青くなったりとそわそわしていた。


皆が皆美紗への思いは暗黙の了解で、告白等到底頭に無かったのだ。


かっちゃんは決意の表明と牽制のために私達に告げたのだろう。


次の日誰も文句など言えず、かっちゃんに協力するために口裏を合わせ、皆ちりじりに早めに帰ることにしたのだ。


その日もやもやとした気分の悪さが胸に競り上がって来て、私は家に帰ってふて寝していた。


(もしあの二人が両思いだったら・・・。かっちゃんは美紗を抱きしめたのだろうか・・・?)


次の日かっちゃんは結果を言ってこなかったし、私も聞く事が怖くて、私は暫く川原に行くことを避けようと思った。


美紗の顔を見るのも、かっちゃんと美紗が一緒にいる事を考えるのも今は嫌だった。












やはり習慣と言うのは恐ろしいもので、遊びに出ないと体がむずむずして仕方がない。


数日経って妙に早く起きてしまった私は、外の空気が無性に吸いたくなったため、ぶらりと散歩に出ることにした。


暫く行っていないと、川原の水が運んでくる匂いと爽やかな空気が恋しくなって、私の足は自然といつもの場所へと向かってしまう。


川原に着くと、気が晴れた心地がして大きく息を吸った。


朝のひんやりとした空気が喉に心地良くて、目を細め、ふと周囲を見渡すと、あの桃色がいつの間にか近くに立っていた。


私は驚いて口を金魚のようにパクパクとさせて彼女を見た。























「平太さんお久しぶり。」彼女がにこやかに話し掛けてきた。


私はどもりながらやっとのことで「久しぶり・・・。」と言葉を返した。


「今日はお早いのね。」美紗がまた口を開く。


「あぁ。起きちまってね。」と苦笑いで返すと美紗がすねたようにむくれた。


「どうして最近いらっしゃらなかったの?」何が言いたいかはすぐに分かった。


しかし私は口を噤むしかできない。


「私克則さんに告白されたわ。」私が息を飲むと、美紗が一歩近づいてきた。


私は美紗の顔が見れず、下を向くと、ちろりと白い足が少しだけ見えた。


「好きって答えたわ。」ずくりと私の胸に何かが刺さる感じがした。


美紗はすぐに言葉を続ける。「平太さんが好きって。」


私は勢いよく美紗の顔を見た。今度は美紗が真っ赤になった顔を向けている。


私はその時、告白の返事を返す事が出来なかったが、朝ここで落ち合う事が私達二人の黙約となった。


皆も私達の間の変化に少しずつ気付いているようだった。


ところが、中学へ上がると私達はまた少しずつ会う事が減っていった。









美紗は当然のように良家のご令嬢の通う女学校へと、私は男子中学校へと進学し、時々見る事があってもすれ違う事があっても一言二言交わす程度だ。


私達はいつも互いに学生仲間に囲まれており、また、異性の学生と話すというのは格好の冷やかしの的である。


私もまた、学生仲間に美紗の紹介を強請られるのも嫌で、ちょっとした知り合い程度に留めていた。


子供の頃の遊び仲間達は高校に上がる頃にはほとんど家業を継いでいったが、私は何とか奨学金を勝ち取り、両親へ頭を下げて高等学校へと進学した。


私は役人になって出世したいという思いがあった事と、ひっそりと美紗の家に縁談を申し込もうという下心も隠していた。


明確な身分等ないが、学のない男など美紗の家に縁談を申し込めば門前払いを受けるだろうと思ったのだ。




















(そういえば・・・。あの銀杏の木はまだ残っているだろうか・・・?)


私は思い出に耽りながら閉じていた目を開けると、川辺から離れ、懐かしい銀杏の木を探しに歩いて行った。


さっきとは違い足が勝手に目的地へとスルスルと動いて行く。


道端に一本ぽつりと立っていた木が、何本も植えられ、昔は無かった小さな公園への並木道となっている。


もうどれが懐かしいあの木かも分からない。


否、もしかしたらもうあの木は抜かれてしまって存在すらしていないかもしれない。


私は昔置かれてなかった白い洒落たベンチに腰掛けて、もう一度目を瞑った。






















「待っています。」


あの日彼女は確かにそう私に告げたのだ。




私が高等学校に進み暫く経った頃、いつも使っていた机の中に一枚の桃色の便箋が入っていた。


生まれて初めて見るような綺麗な便箋に、何の知らせか見つけた時は戸惑ったものだ。


中を開けて文の内容を確かめると、確かにそれは私の名が書いてあり、切ない恋心が綴ってあった。


(誰かに頼むか忍び込んだのだろうか?さぞかし恥ずかしかったことだろう・・・。)


初めての恋文に少し浮かれたが、送り主の名はどこにも書いてなかった。


ただ、時間と共に学校近くの銀杏の木を指定されていて、未だ美紗に恋心を抱く私は、この桃色の君に恋文を返してやらなければならないとひっそりと思った。


(どんな子だろうか・・・。礼と共に思い人がいると伝えよう。この恋文は申し訳ないが返させてもらおう。)


私は少しの好奇心と、罪悪感で痛む胸を押さえて、桃色の君に会いに行った。












放課後、学友に先に帰るように伝えて、銀杏の木のある所へと向かうと、そこには桃色の着物と袴を着た後ろ姿があった。


白い手で金色の銀杏の葉をするりするりと弄んでいる。


その後ろ姿と、艶やかな黒髪に見覚えがあった。


(美紗・・・?何でここに君が?)


私は何故か罪悪感を抱いて立ち止まってしまったが、砂利の音を聞いたのか、美紗がこちらを振り返った。


ばちりと視線が合わさると動けなくなる。私は学生鞄を取り落としそうになった。


私は彼女の大きな目に滅法弱いらしい。


美紗は私を見つけると「会いとうございました。」と言って、私に抱き着いてきた。


私は驚いて今度こそ鞄を取り落とし、美紗を受け入れる。


「私、平太さんと昔みたいにお喋りがしたかったの。いつも周りに人がいてちっともお話が出来ないんだもの。」


遊んでいた頃のような砕けた口調でむくれる美紗に、私はじっと真剣な目で視線を合わせた。


心臓の鼓動が妙に早く、心は浮かれていたが、こればかりはしっかりと伝えなければ、彼女が余所の男の物になってしまうと考えたのだ。









「俺はな。美紗。」彼女の目が次第に潤み出す。


どうして良いのかわからなかったが何とか目を合わせて言葉を続けた。


「俺の家は金がないけれど、何とか大学へ行って役人になろうと思う。」


彼女が不思議そうな顔をする。大きな目に見られていると心臓が止まってしまいそうだ。


「それから・・・。お前の家に縁談を申し込むつもりだ。」


俺の顔は真っ赤だろう。それも気にせず美紗の目を見つめると、大きな目を更に見開いた。


「そのためにはな。美紗。俺は学生の内はお前と過ごす事が出来ないだろう。」


肩を掴んで美紗の体をゆっくりと自分から引き剝がす。名残惜しいが仕方がない。


私が美紗の目をしっかりと見つめながら返事を待つと、「待っています。」と涙を拭いながら、それはそれは綺麗な笑顔で彼女が微笑んだ。


この日私達は二人しか知らない口約束の婚約者になったのだ。

















私は高等学校を出て、無事奨学金を得ると、死に物狂いで勉強をした。


勉強と、何とか生活費を稼ぐ以外に時間等殆どなかった。


眠る時間も幾分か削って、まさしく命を削っているような生活だった。




そんな大学での生活もあっという間に3年目を迎えた時の事だった。


私に一通の味気のない封筒が教授から渡された。


中には手紙が入っており、美紗の母からだった。


嫌な予感がして、読み進めて行くと、それは美紗が病に伏した事と、逝く前に会ってやって欲しいとの嘆願の手紙だった。


病の名は労咳だった。



















私はその日教授に早く帰るように言われ、美紗の家へと急いだ。


小さい頃通い慣れた道を、懐かしむ事も出来なかった。


家に到着すると、使用人が出て来て、私に怪訝な顔を向けたが、名を名乗れば美紗の母がやって来て美紗の部屋へと通してくれた。


その日は、父親は留守であったらしい。


床に伏して白い顔を一層青白くしている美紗と、上品な姿勢で心配そうに椅子に座って見つめる母親の姿だけがあった。


母親が優しく美紗の肩を揺すると、私に気付いた美紗が驚いた後に嬉しそうに笑った。


痩せた体を必死に起こそうとして母親に止められている。


私は「このまま話そう。」と言い、美紗が聞き、話したがるままに数々の話をした。


子供の頃の話し、会えなかった間の学生生活の話、女学生達の笑い話。


私達が話している間、美紗の母は席を外しており、私達は夜になるまで話し続けた。
















美紗が疲れて眠り出し、随分と遅くなってしまったので、お暇しようとすると、夕飯いただくように言われた。


自分の普段食べているものとは違う華美ではないが上品な小鉢が並んだが、どうにも今日は味を感じる余裕がない。


黙々と口に出された物を詰め込み、どうにか全て平らげると、美紗の母が食後の茶を飲みながら訪ねてきた。


「あなたは娘の事をどう思っているのですか?」目を伏せて茶を飲みながら、こちらの回答を待っているようだ。


私は少し考えた後、「愛しい人です。」と美紗の母を見ながらしっかりと伝えた。


口に出してみると、図らずも目頭に熱いものが溜まってくるが、どうにか飲み込む。


美紗の母は、眉間を少しの間掴むと、「あの子の命は持って2カ月だそうです。」と震える声で呟いた。


わかっていた。美紗は今日、楽しそうに明るい表情をしていたが、笑ってせき込むふりをして、口から出た血を色の濃いハンカチで拭っているのに気付いていた。


それでも実際に言葉にされてしまえば、頭に衝撃は走る。頭から背筋まで一気に冷や水でも駆け巡ったようだ。


「こちらの身勝手は承知ですが、残りの間あの子をどうかよろしくお願いします。」


お義母さんは席を立つと私の目の前まで歩いてきて、深々と頭を下げた。


この日は美紗の父は帰って来ず、美紗と私の婚礼の儀を小さく三人でやろうと約束をし、私は久々に実家へと戻った。






実家の大人には小さすぎる布団から足を出して寝転びながら色々な事を考える。


美紗は子供のころから体が弱く、私達をよく心配させたが、死んで居なくなると言われると全く実感が沸かない。


離れていた期間も随分と長いのに、彼女はその存在を大きく私の中に刻み続けたのだ。


他にも考えなければならない事が沢山ある明日の朝一番の汽車に飛び乗って大学まで帰り、教授とこれからの話をしなければならない。


手紙を教授を通して貰ったわけだから、大筋は知っているのだろうが、それと学業はまた別だ。


両親にも暫くとどまる事は伝え、美紗の事も伝えなければ。また、色々と目を瞑ってもらわなければならないのだ。


伝える時に気を付けなければ。帰って来てすぐに酔っ払い親父と甲斐甲斐しく自分の世話を焼こうとする母に今日の内に伝えておけばよかったと自分の要領の悪さを恨む。


ここに暫く滞在するにも念のため生活費を稼ぐ口ぐらいは持っておきたい。


これからの事や、美紗の事を考えて頭がぐるぐると回ったり重くなったりと忙しい。















これじゃ駄目だと昔の美紗との楽しい思い出の数々に思考を飛ばす。


いつも一緒にいたいと言ってくれるのは、初めて会った時以降は美紗の方からだった気がする。


大人しい美紗の以外にも恋愛に大胆な面を思い出すと、目を白黒とさせて真っ赤になっている子供の頃の自分を思い浮かべてみて、嬉しいやら情けないやらで笑ってしまう。


(俺のガキの頃も威張っちゃいたが可愛いもんじゃないか。好きな子一人に大人しくなっちまうんだから。)


暫く声を殺して笑っていると、自分が見ていた美紗の真っ赤な顔を思い出す。


いつも私に好意を示してくれる時、彼女はどこか思いつめた雰囲気を醸し出していた。


(あっ・・・。)


気付いてしまった。何故大人しく恥ずかしがり屋の彼女があんなにも私を追いかけてくれたのか。


彼女は幼い頃から体が弱かったために、そう長くは生きられないときっと無意識にわかっていたのだ。


「ぐっ・・・。」


そこまで考えに至ると、私は嬉しいやら情けないやらで、また声を潜めて息を漏らした。











焦って色々な所を駆けずり回っていると、時間が経つのは早いもので、あっという間に美紗との婚礼の儀の日取りは近付いてきた。


あの時の私にはそれが有難かった。


どうにか親戚に頭を下げて借りた綺麗な紋付を着て、美紗の家へと向かう。


あちらで用意すると言われたが、そこまでして貰うわけにはいかないと、自分で何とかすることにしたのだ。


美紗の家には少しでも格好付けたかったのだ。




その日、美紗の部屋まで行くと、白粉を塗り、紅を指した彼女が白無垢を着て待っていた。


青白い顔が白粉の白さに負けて、病的ではあるが、不思議な美しさを醸し出していた。


美紗の顔を見ると、何故か涙が出そうで、すぐには直視できなかった。


すると、美紗が私の紋付の袖をひっぱり、「素敵よ。平太さん。」と薄く頬を桃色にさせて微笑んだ。


昔のように真っ赤に紅がかかる事のない顔に、「美紗も綺麗だ。」と言って笑いかけてやる。


美紗は嬉しそうに頬に手をやって、初めて会った時のような顔ではにかんだ。


美紗の母は薄く微笑んでおり、その場で写真家の男だけが泣いていた。


美紗は白無垢に血をかけまいと躍起になっていた。


痩せこけた白い顔は、美しいが死人のようだと心のなかでコッソリと思ってしまった。


何故こんなにも美しく、前向きな彼女が若くして死ななければならないのだろう。


私はその日撮った写真の一枚を胸ポケットに入れ、ずっと大切に持ち歩いていた。

その日から数日経ったある日の事だった。


美紗は呆気なくあの世へと旅立ってしまった。


私は毎日の様に彼女の家に通ったが、彼女の死に目に会う事が出来なかった。


使用人が知らせに来て、飛んで行ったが、間に合う事が出来なかったのだ。


使用人の女は「お許しください。」とその場で泣き崩れたが、彼女を責める事など出来るはずがなかった。


いつものように床に横たわる彼女に私は近付く事が出来なかった。


その日はお義父さんもいて、彼と私は初対面だった。


無表情な人で、青白い顔をして、私をじっと見ていたのを覚えている。


しかし、私はその時自分の悲しみで精一杯だったために、彼の印象はそれ以上残っていない。


私は頭と体が冷えていく感覚に、氷溶け出す川の水が体中を駆け巡るようだとぼんやりと思っていた。


まだ生きているのではないかと少しばかり疑っていた。














それから後、教授の温情のおかげで私は何とか大学を卒業し、念願の役人になった。


恩師や美紗の両親とも暫くの間文通を続けたが、義父母との文通は数年で途絶えた。


念願の役人になり、四苦八苦しながらも業務をこなし、人から言えば何もかも順風満帆な人生を送っても、心はどこか無気力で空っぽだった。


それでも、差し出された物をこなし、人として生活を営む中で私は、幸福な人生を送ってきたと思う。






私はベンチから立ち上がると、新しくできた銀杏並木の先の小さな公園の方を向いてぺこりと頭を下げた。


初恋と言う物の存在感は大きい。


それでもここまでの人生、私を愛し支えてくれたのも、私が今愛しているのも妻の米子である。


私は再び、川辺の方へと戻っていく。


夕方の日差しに照らされて、すれ違う子供達が笑いながら一列に帰っていく。


まるであの日の私たちのようだ。


川に着くと、私は胸ポケットから一枚の色褪せた写真を出すと、じっくりと眺めた。痩せこけた美女と若い頃の私が笑っている。


私はポトリとその写真を水の中に落とした。


さらりと自分の中で何かが解れていく感覚がする。


もう桃色の物もそれを隠すススキすらない川原で私は目を瞑って深呼吸をした。

もう50年も彼女と連れ立っている。


明日またここへ米子と共に散歩に来たい。


私はこれからも終わりが来るまで彼女と歩んで行くのだろう。





今は無いはずのススキがさらりと流れる音がした。




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