花火

 昔からひもじい思いをしていた。戦だなんだのとこの世のお大名やとっくの昔に里を捨て、足軽となった若ぇ男衆の考えはわからねぇ。おミツには金にくらんで戦に赴く男衆が飛んで火にいる夏の虫に見えた。確かに相手の首をとったり働きが目に付いてどっかのお殿様のお抱えになりゃ大出世の絶好の機会であるし、落ちている骸から戦後にひょっこり戻って金目の物をはぎ取るのも良いだろう。でも家族を放って戦に命を懸ける意味が解らなかった。おかげでこの集落には男が年寄り以外にすっかりいなくなり、女達もこれではおまんま食えねえと山を下って働き口を探すか、よその村へと嫁ぎに行った。しかし、戦が白熱し、負け戦から逃れてきた者達が野盗となり近隣を襲うようになってからはもう地獄のようだった。ほんの少し残った住人も男は殺され、女子供は好き勝手されて売り飛ばされた。まずは近隣の村でそんな騒ぎが起こったもんだからお蜜の村の住民は山の奥へ奥へと向かって行ってちんまりとした村を作った。それでも自然は厳しいものだから村の者達は体の弱い者から死んでいった。ついには村とも呼べないくらいの少人数になっておミツは目の見えぬ婆様とひっそりと生きている。


 血のつながりは無い。ただ姥捨て場に捨てられそうになった婆様が哀れで何とか頼み込んで婆様の家族から引き取った。まだ村が山の麓にあった時の村長の奥方様だった婆様だ。目の見えぬ年寄りを山奥で一人食わすのは大変だったが、婆様は頭が良くて色んな話をしてくれる。家族のいない寂しさが婆様と話すと紛れる。難しくてわからない話の時もあったがお蜜がわかるまでかみ砕いて話してくれたので婆様には沢山の知識をつけてもらった。


 ある日の事だった。見たこともないような鉄の立派な鎧と服を着た男衆が訪ねてきた。男は「申し申し。」と良く分からない言葉を喋っている。どうやらここが村だと気付いたらしい。村の誰もが男の言葉がわからないのだろう。家から出ていく者は誰もいない。金はありそうだが野盗かもしれない。なんせここには頼りになる若い男衆などいないのだ。男がよくわからぬ言葉を吐いている間、村の衆は息を殺して隠れている。それを聞くと婆様がすっと囲炉裏の近くから立ち上がり、外に向かって歩き出ようとしている。咄嗟のおミツは婆様の腕を掴んだが、婆様は大丈夫とでも言うように首を振ると戸をくぐって外に出た。おミツには静かな声で「お前さは若いけ。ここに隠れてんしゃい。」と言って男の方へと歩き出す。婆様は男の前へと進み出ると一度平伏してから、男に立てといわれたようで同じ目線で話している。はじめ、いつ男が婆様を殺して村を襲うかと気が気ではなかった。しかし耳を澄ましているとおミツにはよくわからない言葉だがなんとなく男がこの村の衆に頼み事をしに来たのだとわかった。


 婆様は村の者達の居場所を教えるのを嫌ったらしい。そのまま何かを了承すると、男が帰るまでその場を動こうとしなかった。男の姿が見えなくなると婆様の手を引きにおミツは転げるように婆様の元まで走っていった。「おら気が気じゃなかった。一人にしねえでけろ。」半泣きで婆様の手を引くと婆様はくすくすと笑ってお蜜の頭を撫でた。「心配することじゃねえさぁ臆病な子だねえ。もしこの村を襲うならあの侍はこんなちんけな村の家々、とっとと壊しちまったにちげえねえ。」おミツは安心してため息を吐きながら婆様に尋ねた。「んならあん男衆は何しに来ただ?婆様と話したらすぐに帰っちまった。」「ここらで良い家のお侍様が病にかかったもんで養生に使える隠里を探してんだってさ。その代わりに食い物や着物をくれるそうだよ。どうかね、こないだ人が出てった家があるからお前さ世話をしてみたらどうだい?あそこはちょっと直しゃまぁまぁ良い家だよ。」おミツは少し考えたがやはり得体の知れない男は怖い。いやだいやだと言って婆様の袖を引きながら家に入った。それでも婆様はおミツにここらの上の人々が使う言葉や接する時の作法を教えていった。 


 それからしばらくして本当に一人の高そうな服を着た若武者が家臣に連れられてやって来た。服装は立派なのにお話しに出てくる貴族のように白い肌をしておらず、色黒で体もごつごつとして前一緒の村にいた男衆のよりもずっと背が高かった。こんなにごつごつした体をしているとどうにも金持ちとは程遠い不思議な感じがしたが、顔をみれば成程良い家の出らしい気品ある顔立ちをしていた。しかし、何故だか色が黒いのにも関わらず健康そうには見えない。むしろ・・・そう土気色をしているのだ。若そうに見える侍が。何だかおミツにはその武者がとても不憫に見えた。


この仕事を婆様に勧められた時は嫌だと思っていたが、生活が少しでも豊かになるのであれば話は別だ。それによく婆様に「人の役に立つ。それは手前に余裕がないとできやせん。とっても贅沢で有難い事なんだよ。」と言われていたため。山仕事や家事以外の仕事に初めて従事するのは、緊張はすれども少しばかり楽しそうに思えてきた。それに村にはもういない自分と似たような年の若い男だ。話してみるのも良い機会かもしれない。 


若武者がいると言う家に行き、おミツは彼の姿を見つけると、地面に手をつき、深々と頭を下げた。「今日より。相楽様のお側にお仕えさせていただきます。ミツと申します。お武家様にお仕えするには足りぬ者ですが、この度の大役を仰せつかり、ありがたき幸せにございまする。どうぞよろしゅうお願い申し上げます。」言葉は慣れぬが、ゆっくりと間違えぬよう一生懸命言うと、こっそりと若武者の様子を伺う。若武者は虚ろな目で茫然とこちらを見ていた。その様子が何故か話に聞いた事のある平家の落ち武者の亡霊のようで、お蜜は少し身震いをしたが、許可が出るまで頭を上げて良いのかもわからぬ。そのうち恥ずかしさも相まって、腕と頭もふるふると揺れだした。若武者が思い出したように目を見開いて「あぁ。よいよい。そうかしこまるな。それに我は女子が土の上に這いつくばるのを見るのは好きではない。とっとと上がるが良い。」そう言うと若武者は、おミツが中へ入って来た事で満足したのかそのまま「好きに使え。」と言い残し、座敷の中に唯一ある襖の奥へと引っ込んでしまった。先程墨の匂いがしていたので書き物をしていたのだろう。もしかしたら、おミツが来ること等何も聞いていなかったのかもしれぬ。


初めには、出鼻を挫かれた思いであったが、この若武者がもしかしたら昼餉、むしろ朝餉すら食べてないのではないかと気づき、おミツは厨に向かって行った。侍が来るということで、村の者の誰かが整えたのか、厨は綺麗になっていた。病を患っているそうなので、食欲もあるかわからぬが、消化に良いものを何品か作り、お膳に載せて侍の元へと行く。襖越しに声を掛けると返事がない。よくよく気を付けて見れば、人影も見えない。おミツが厨に向かっている間に外に出ていたようだ。食事が冷めぬうちにと慌てて探しに外に出たが、いつ出て行ったかも解らぬ。少ししかいない村の者に聞いて回りながら、おミツはやっと若武者を見つけた。あまり人の来ない小さな滝壺の有る開けた場所に相楽はいた。


体を鍛えているのだろう。若武者は上裸になり、凄まじい速さで重そうな棒を振っている。この棒は剣を模しているのだろう。山の麓の村に住んでいた頃見た若い衆だってこんなに重そうなものを速く振れる者はいなかった。しかも一種の芸術のようにきれいな曲線を描いたり、一直線に素早い突きを繰り出したりと変幻自在だ。しかし、凄まじい動きをしても、青黒い顔にぐっしょりと異様な程の汗をかいている。吐く息になにやら水音のような嫌な音も混じっている気がする。それに朝から何も食べていないのだ。体に良い訳がない。速く止めてやらなければ。「あのぅ。相楽様。昼餉の準備が整いましたので。」おミツの小さな声でも聞こえたらしい。若武者はちらりとお蜜を見ると。素直に「あいわかった。」と言うと静かに後ろをついて来た。おミツの後ろで、見たこともないような美しい手拭いで、逞しい体の汗を拭いている若武者を盗み見ると、何だかとても悪いことをしているようで胸がしゅんとなる。後ろからお蜜の赤くなった耳が見えるのか、若武者が「すまぬ。」と言ってゴソゴソと服を着る音が聞こえる。それを聞いて、おミツは恥ずかしくて泣きそうになった。前を歩いているため顔が見られず良かったと思い、少し足早に家へと向かった。


家に戻ると、膳の上の物はすっかり冷めていて、おミツは急いで温めようとしたが、若武者はこのままで良いと言い、そのまま箸をつけて食いだした。しかし、やはりただの村娘の作る物は若武者の舌には合わなかったようだ。一口食べると一瞬眉をしかめたのをおミツは見逃さなかった。しかし、その後何事もなかったような顔をして食事をかっこみ、「馳走になった。」と言って全て平らげた後に席を立った。食事もほとんど味わうことはせず飲み込んでいるようだった。口に合わない食事も残さず、文句も言わぬ相楽は優しいのかも知れない。


おミツはその日、家の目に付くところを出来るだけ掃除し、夕餉、床の準備まで整えると、相楽に他にご要は無いか尋ねた。無理に同衾を頼まれたりしないかと少しビクビクと怯えていたが相楽はおミツに興味などないらしい。「若い娘が夜に出歩くものではない。速く帰るが良い。」と子供に言い聞かせるように言われてしまった。おミツは走って自分の家にまで帰ると婆様に今日あった事を話した。相楽が少し変わった優しい武者だという事を話すと婆様も見えていない目を細めて嬉しそうに頷いてくれる。ただ食事では満足していなそうだと言うと、相楽に合いそうな色々な味付けの種類と病で怠そうな彼の為に精のつく食べ物も教えてくれた。


 次の日おミツは、朝餉を作るために早起きし、起こさぬようこっそりと家に入った。襖の向こうに人の息も聞こえない。どうやらもう既に出掛けてしまっているらしい。布団の敷いてある襖の奥を見ると文机の上に書いては破った紙の残骸がたくさんあった。その中に丁寧に折りたたまれたものがあり、同じ字でも違う人の書いたようなものが見て取れる。読めはしないが最期に書いてある二つの文字が気になる。美しい細く丸い手習いが単純な線二つでできたものと箱と線が幾重にも重なっている字を一つ作り出していた。後で婆様が文字を知っているか聞いて見よう。そう考えるとおミツは敷きっぱなしの床を片し、紙も一枚一枚重ねて置いた。ぐちゃぐちゃになっているものはちょっとした箱を見つけて入れて、帰ってきたら許可を貰ってから捨てる事にしようと考えた。さてさてとっとと朝餉の支度にかかり、飯の炊ける合間に布団を干してしまおう。


食事を作り終え、暫く待っていたが、相楽は中々帰ってこない。おミツは少し残念な気分になりながら、貰っている褒美のためと相楽を探しに出る事にした。昨日と同じ場所だろうか。上裸を見るのは気が引けるが迎えに行くしかなさそうだ。一つ溜息を着くと重い腰を上げて昨日相楽のいた滝壺へ駆けて行った。


滝壺に着くと相楽の方がおミツより先に気付いたようで手でおミツを制すると、指で後ろを向くよう促した。おミツが後ろを向いて待っていると、着物を正した相楽が歩いてくる。「お主も変わった娘だ。村の男達の裸なんざ野良仕事の時見慣れているのではないか。」おミツはカッと顔の熱が上がると、恥ずかしくなって「若い衆はとっとと戦にいっちまってここにゃいないんでさ。」とついつい言葉が崩れてしまう。相楽は特に気にしていないようだ。元より身分の低い田舎娘のおミツに等期待していないのだろう。おミツの口調等気にも留めず、「成程男手なく暮らしを送るのは大変そうだ。」と興味なさげに言うとひょいひょいと速足で先に帰って行ってしまった。おミツはほんの少しもやもやとしたが、身分が低い者相手に威張りちらす武士(もののふ)よりもましとかと思い直し、小走りでついて行った。


先程、作ったばかりの朝食だが、温かいうちに食べてもらいたかったと少しばかり溜息が出そうになる。聞かれてしまえば無礼になるので黙ってはいたが残念な気持ちが大きい。まだまだ食事の準備等不慣れで時間がかかるに違いないから家に戻ったら昼食の下拵えをしてしまった方が良いだろう。今度から朝食を作る時はある程度下拵えをしてから完成する前に相楽を呼びに行こうと一人心に決めた。


朝餉を出すと相楽は、腹が減っていたらしく、昨日よりも箸の進みが速い気がする。もしか

して婆様の教えてくれた味付けが相楽の舌に合ったのかもしれないとおミツは嬉しくなった。おミツは婆様に心の中で感謝をすると昼餉の支度にとりかかり始めた。相楽は食事を済ま

すと暫くの間瞑想をするらしい。襖の奥へと入った後、座禅を組んでいる影が見えた。自分

に厳しい方なのだろう。少しくらい休めばよいのに武者というのも大変な稼業だ。ここまで

己を鍛えぬと戦場では使い者にならぬのかもしれない。相楽の体を心配しながらもおミツ

は次の家事を黙々とこなしていった。


漸く相楽の身の回りの世話にも慣れてきたある日のことだった。おミツが朝相楽の家を訪ねると、珍しく人の気配がした。おミツは珍しく相楽が二度寝でもしているのかと思ったが、何やら苦し気な息遣いとごぷごぷと嫌な咳の音がする。婆様に予め言われていたように、水桶と布巾を急いで用意し、相楽の部屋へと入って行く。


 相楽は青黒い顔を一層青くして床でびっしょりと汗をかいていた。枕に吐血したのだろう。枕は赤黒くなっており、血なまぐさい臭いがする。お蜜は気絶しそうになりながら辺りを片していく。汗を拭いて着替えをさせてやったら少しは楽になるだろうか?それとも早くお医者様を呼ばなけりゃ。でもお医者なんてどこに?これじゃあ薬湯も飲めそうにない。頭がぐるぐると混乱する。相楽の体を拭き、服を代えてやると、少し身体が落ち着いたのか、呼吸が穏やかになった。背をさすると少しだけ桶に血を吐き、大人しくなった。あぁ、この人は死が近いんだろう。喉元にすっと冷たい水を落としたように、体が冷えた気分がした。


 すると、血を吐いて疲れてしまったのか、気絶するように眠った相楽が寝言で「父上・・・。」と呼んだ。いつもの凛とした表情からほっとした顔に見える。その後、また相楽が「八重殿・・・。」ともごもごと口を動かし苦しそうに眉を寄せる。女子の名前なのか解らぬが、おミツは少しだけ胸がじりじりとするのを感じた。


 怒られるかもしれないがおミツは相楽の意識のない間、一日中側にいた。夜になっても起きぬ相楽の隣に布団を敷き、その日一日家へと帰らなかった。不安で不安でたまらず、帰らぬのを婆様に心の中で謝りながら相楽の世話をし続けた。おミツもいつの間にか寝入ったのか、気付くと相楽の部屋の柱によっかかって寝ていた。少しばかり寒い。相楽はどうなったのだろうか。


ちらりと見ると、布団の中から死んだような力のない目で相楽がじっとこちらを見ていた。その視線が何故か余計な事をと責められているようで、目をそらしてしまったが、先に相楽が話しかけてきた。


「迷惑を掛けたな。女子(おなご)が体を冷やして大丈夫か。そこに我の羽織があるので・・・。」喉が張り付いたようで言葉が継げなかったようだ。喉の辺りを気にしているのが見て取れる。下賤な者に対してどこまで優しいのだろうと思う。自分があんな目にあってもおミツの事を気にしてくれる。「そんな。そんな相楽様こそお身体は・・・。」半泣きのお蜜を見て、驚いた顔をすると、「すまぬな・・・。」と言ってふと笑った後、ゆっくりと体を起こし始めた。慌てて体を起こすのを助け、水を飲ませる。「少しお待ちくださいませ。朝餉を作って参ります。」と言っておミツは急いで飯を炊きだした。急いで緩い粥を作り持っていくと、相楽はもう起き上がり、鍛錬用の刀を既に携えていた。おミツは悲鳴を上げて止めようと相楽の前に立ちふさがる。「お止め下さい!そのようなお体で!死んでしまいます!!!」ボロボロと泣きながら止めると、相楽の目がぐるりと回り、やっとおミツを捉えた。どうやら無意識の内にいつもの鍛錬に出ようとしたらしい。驚いた顔をすると、「ああそうか。朝餉だったな。」と軽く笑い、大人しく居間へと戻りすっと座った。それでもどうしても体が辛いらしく暫く粥を食べていて、茶碗を置いたと思うと、ぐったりと床に倒れこんで眠ってしまった。寝床に相楽を運び込んだ後、おミツは傍らで大泣きした。


数日後、幾分か体調が良くなった相楽はいつも通りの鍛錬、もの書きが出来るようになった。鍛錬はおミツが止めてもどうしても継続しなければいけないらしい。おミツは帰らなかった理由を婆様に伝えると、婆様が簡単な薬湯の作り方を教えてくれた。気休め程度の物らしいが、おミツは一言一句逃すまいと、熱心に婆様の話を聞いた。単なる身の回りの世話だけのはずなのに相楽のために何かしてやりたくて仕方ないのだ。しかし、婆様は怖い顔をして「相楽殿の病は治るものではねぇ。もうあまり近付ちゃなんねぇよ。お前ぇさに移ってしまうかもしれねぇ。」と言った。お蜜がふるふると泣きそうな顔で首を横に振ると、婆様は物悲しそうに、「あぁ、お前ぇさは、あんお方に惚れちまったんだねぇ。若ぇお前ぇさに辛いことをしちまった。」それきり、婆様は何も言わなくなり、おミツは相変わらず相楽の世話に通った。これが恋と言うものなのか。ちっとも知らなかった。道理で相楽の家に行く時は少し嬉しいような恥ずかしいような気持ちになるわけだ。


おミツが自分の気持ちを受け入れてから数日がたった頃、相楽を連れてきた男衆達が再び里に訪れて来た。おミツは場を整えて、男衆達が泊まれる準備をした。こんな何もない里では用意出来るもの等特には無いが、用意した食事に文句もつけられていないのでそこまでまずいという訳では無いのだろう。その内男衆達が戦の話をし始めた。相楽も今回の戦に出るのだろうか。

敵に討たれずとも戦場で倒れ、死んでしまうのではないだろうか。かと言って、相楽の邪魔をする訳にはいかぬ。ここで文句をつけたとしても、相楽に恥をかかせるだけだろう。それにお蜜は相楽の何者でもないのだ。


 相楽に戦場に向かうのか聞こうとも思ったが、時間もなく、次の朝、相楽は仲間達と共に戦場に旅立っていった。婆様が貴重な火打石をカンカンと鳴らし男達を送り出した。男達は最初ゲラゲラと笑ってはいたが、やがて覚悟を決めた顔になり、村を去っていった。相楽に話しかけたかったが、中々隙もなく、お蜜はそのまま見送ることしかできなかった。ちらりと人の中に相楽の着物の袖が見え、引こうとしたが、手を強く握りしめてぐっと耐えた。これで相楽を見るのは最後かもしれない。戦場は男の憧れだ。相楽とて若い男だ。床の上で死にたくはないのだろう。


 それから数日、おミツは食事も喉を通らず、寝ることもままならなかった。一度相楽が寄ってたかって嬲り殺される夢を見てから寝るのがすっかり怖くなってしまった。日に日に痩せ行くおミツを見て、婆様も心配そうにしている。婆様はおミツが床に入るのを見ると、ゆっくり布団の上から優しくぽんぽんとおミツのお腹をたたき、「大丈夫さ。いずれ忘れる。元々身の回りの世話だけだったんだ。お前ぇさはしっかり自分の勤めを果たしたよ。」と慰めてくれる。それだけでも、少しばかり救われた気がした。


それからまた数日後、再び相楽が男衆達に連れられて帰って来た。籠に乗り、顔が見えぬが、生きて帰ってきたようだ。男達が口々に鬼神のごとくと相楽の噂をしているのが聞こえた。やがて一人の男が悲しそうな顔をして「だがあぁ勿体ない。」と呟いた。嫉妬する者がいないのはここにいる者達は皆相楽の病を知っているのだろう。普段ならばあの人は自分の足で歩こうとするに決まっている。それでも籠に乗ってきたのはもう体力も無く、また、病人を他から遠ざけるためでもあったのかもしれない。


 それでもおミツは相楽が生きて帰ってくれただけでも胸が歓喜に打ち震え、倒れてしまいそうだった。実際、少しくらりと足が揺れたが、近くの木に寄りかかり。何とか耐えた。神様仏様ありがとうございます。と心の中で静かに唱えた。人が邪魔をして近くには行けなかったが、ここに再び戻って来てくれたということは療養のためだろう。相楽はお蜜に興味は無いだろうが、また後程話しかけてみよう。もう少し話がしてみたい。籠から降りた相楽は少し頬がこけていたが、目は戦場から帰ったためか血走っていた。それでも以前より覇気を失ってしまっているような気がする。


 この晩村中の者達が駆り出され、武者達の宴会の手伝いをした。褒美をもらえるとなれば手伝わぬ者はいなかった。山の生活は厳しいものだ。何か貰えるならば貰っておいた方が良い。武士たちが酔い始めた頃、お蜜は婆様に袖を引かれて家へと帰ったが、婆様の話だと何人かの女達は彼等の相手をするらしい。今日相楽と話せなかった上、そんなことを聞いてしまえばまた胸がもやりとしてしまう。武者たちは数日のうちに山を下って行き、元の二人きりにはなったがお蜜は中々相楽と話す事が出来ずにいた。


 相楽は相楽で、相も変わらずおミツのこと等見ていなかった。もう戦などには行けぬだろうに、また今日も鍛錬に出たらしい。探しに行くと、鍛錬場にしていた滝壺から見える、崖の上の一本の八重桜を食い入るように見ていた。その横顔を見ていると、このまま魂が飛んで行ってしまいそうだと心配に成る程、儚く、切ない表情をしている。相楽の表情に見入り、おミツもぽうっとしてしまった。暫くすると相楽がポツリと一言呟いた。「八重殿・・・。」相楽が病に伏した時に呼んだ女子の名だ。一瞬おミツはびくりとし、息を呑んだ。


せっかく呼びに来たのに、相楽と今は顔を合わせたくなくて、出来るだけ速足で家に向かって駆けだす。こんな気持ちは知らない。悶々としていても仕方がないので、おミツは家事に集中することにした。大丈夫だ。今日は特別体調が悪そうではなかった。ほっといても勝手に帰って来るに違いない。暫く経つと相楽が戻って来たので、膳を出したが、さっきのこともあって碌に相楽の顔が見れない。それを相楽は何も気づかないようなのがまたおミツをもやりとさせる。食事の際も心ここにあらずというような態度だ。いつものように相楽は「馳走になった。」と言うと、襖の向こうへ消えてしまった。 


おミツは膳を片付けると、家の掃除と次の食事の下拵えと、少しは栄養を取れるようにと、薬湯を煮出す。これが思いの外時間がかかり、すぐに日が暮れだすのだ。相楽は一日中書きものをしていたようで、書き損じの文のようなものが大量に散らばっていた。「相楽様。夕餉の用意が出来ました。」何となく冷たい声が出てしまった。それでも気付いていないのか、いつものように相楽は文机から顔をゆっくりと上げ、「あぁ。」と呟いて筆を置いた。「相楽様。あまり無理をされますとお体に障ります。」いつもあまり話さないおミツから注意を受けて、相楽の左眉がピクリと動いた。一言「構うな。」とぴしゃりと言って膳に手を付け始める。その手がいつもより心なしか急ぐように見える。満足な文が書き上がっていないのだろう。八重という女子へだろうか。ついつい言ってはならないとわかってはいるもののポロリと口から零れ落ちた。「八重殿ですか・・・?」ピタリと相楽の手が止まった。しまった昼に盗み聞きをされたと思うに違いない。相楽は一瞬おミツをちらりと見たが、「お主が気にする事では無い。」と言って再び膳に箸を伸ばし始めた。気にされないのが悔しくて、「何故その方は相楽様に会いに来て下さらないのですか?」と最後の方は叫ぶように言ってしまった。それが相楽の逆鱗に触れてしまったらしい。背後にあった刀を手にして、「無礼な小娘め!そこに直れ!叩き斬ってくれる!」と怒りの声を上げた。普段怒らない相楽がここまで激怒するのを見るともしかしてその女子はもう・・・。おミツはそこまで思い至ると何と浅はかな事をと後悔の念に苛まれた。


しかし、怒りの感情を乗せてはいるが、初めて相楽の目が光を宿したままおミツを見ている。こうされると初めて彼の目にきちんと映された気がする。もう良いのかも知れない。このまま生きていけば婆様だって先に死んでしまう。おミツはきっと一人になって、ずっとずっと一人で生きていくのだ。おミツが諦めたように目を瞑った事で興が醒めたのか、相楽は刀を仕舞い、一つ溜息を吐き、「今日はもう帰れ。」と静かな声で言い放った。


おミツは泣きながら婆様のいる家に向かって走り帰った。婆様はおミツが荒い息をして泣いているのを察すると、夕餉の下拵えをしていたらしい手を止めて、何も言わずにおミツの背中を撫でてくれる。おミツは婆様に感謝して夕餉を食べた後、早めに床に着くことにした。


その日の夜の事だった。何となく胸騒ぎがしてぱっと目が覚めてしまった。おミツは少しばかり家の外で風にあたる事にした。月明りで今日はそこそこ明るい。外を少し歩くくらいは問題がなさそうだ。いないだろう事はわかっているが相楽が普段鍛錬に使っている滝壺をのんびりと眺めたくなった。あそこは一人で考え事をするには良い場所だ。


暫くすると小さく滝が見えてきた。しかし、何となく物音が聞こえる気がする。獣や野党がいるなら大変な事だ。村の者達に伝えなければならぬ。おミツは恐々風下に回り、滝壺にいる何者かの正体を探る事にした。薄っすらと人の形が見える。しかし、あの背格好は見慣れた者だ。村にあんなしゃんとした立ち姿の背の高い男はいない。相楽だ。こんな夜更けにも拘らず鍛錬に来ていたらしい。今日は本物の刀を振っている。刀による舞を行っているようだ。刃が月明りに光り、とても美しい。見惚れていると、舞が終わったのか、相楽が刃を鞘にしまった。


その一時の間だった。突然相楽が激しく咳をし始めて、血を吐き出して膝から地面に崩れ落ちた。おミツは悲鳴を挙げ、相楽に駆け寄る。体を持ち上げようとするが、脱力した背の高い、鍛えあげられた男だ。とてもでないがおミツ一人では運べそうもない。大声で助けを呼びながら重い相楽の巨体をなんとかずって行く。やっと人が来た頃には喉が少しばかり裂けたようで口の中に血の味が広がった。村にいるのもほとんどが年寄りと女だ。村人達とやっと相楽を家に運び入れた頃にはすっかり日が昇っていた。


相楽は暫く目を覚まさなかった。今度こそこのままあの世に行ってしまうのではないかと思うと何も出来やしないが離れることも怖い。村にいる少しでも病の手当てに覚えのあるものが代わる代わる来たが、皆眉を顰めてもう出来ることが無いという。そもそも医者すらいない村だ。医者を探しに行くには数里ある町まで出なければならないが、医者がいるかも町もどうなっているかわからない。行くまでに野盗や首を欲しがる連中に襲われるかもしれない。行くとしたら年若いおミツだが、相楽の死に目に会えぬかもしれないし、おミツに何かあればそれこそ婆様を一人にしてしまう。村の皆々はおミツに最期に縁者もいないのではせめて世話をしていたおミツはいてやるようにと言って、優しくおミツの頭を撫でて行った。


おミツは相楽が起きぬ間ずっと相楽の床の傍らに控え、意識がなくとも水を少しばかり飲ませ、汗をかけば衣を代え、体が冷たければ抱きしめて背を摩った。途中おミツを心配して婆様がちょくちょく訪ねて来て、食事を差し入れてくれ、家に一度帰るよう言った。どうしても帰れないと泣きながら訴えると、老体で病を貰ったらたまらないと言うにそれでも食事や必要な物を届けてくれる。何度も婆様に「移ったら危ねぇから帰ってくんろ。」と言ったが、婆様は「お前さが先にあの世に行っちゃなんねぇ。そんにお前さはおらの言う事聞がねんだ。おらも好きにさしてもらうさね。」と言っておミツを気遣ってくれた。


それから二日が経った夜の事だった。もう遅いからと婆様を無理矢理家へ帰し、いつも通り相楽にしてやれることはないかとじっと見つめていると、相楽が少し身じろぎをした。おミツはあわてて床の側に寄ると小さな声で相楽に声を掛けてみる。それだけでは反応が無い。額の汗を拭うと薄っすらと目を開けてこちらを見た。相楽が起き上がろうとしたが力が上手く入らないらしい。前のめりに倒れそうになったのをおミツはなんとか支えた。相楽の顎がおミツの肩に乗る。普段ならばきっと何も考えられないくらいに緊張していただろうが、相楽が目を覚ましたことの方が嬉しくて泣きだしてしまった。


「もう鍛錬に行くのはお辞めください!死んでしまいます!」無意識の内に相楽に強く抱き着いて相楽の寝間着を強く掴んだ。相楽の喉がぐっと鳴るのがわかる。状況が上手く把握できていないのかもしれない。暫く声を挙げて泣いていると、頭に手が置かれた。泣き顔を見せるのも、どこかに行かれてしまうのも嫌でさらに手に力を入れる。もう斬られたって構うものか。


おミツが頑なにしがみついていると、頭上でふっと声が聞こえ、置かれた手が優しく動き出した。頭を撫でてくれているようだ。そっとおミツの顎を掬い上げて目を合わせてくれる。落ち着いて正面からしっかりと目を合わせたのは初めてかもしれない。遠いどこかを見ているようにも見えるが、とても優しい目だ。黒めにおミツの泣きっ面が映っている。「我は最期に幸せを手にしてしまっても良いのだろうか。」喉が張り付き、聞こえるか聞こえないか程にかすれた声だったが相楽がこう言ったのがおミツにも分かった。相楽の胸の中で頷き、ゆっくりと手を解いて背中に腕を回すと、相楽はおミツを優しく抱き寄せて布団へと招き入れてくれた。


それからおミツは相楽と生まれてからここまで嬉しい時があったかと言うくらい幸せな日々を過ごした。相楽もどこか遠い目をしていたが、今はおミツをその目にしつかりと映している。相楽はもう鍛錬に出ることはせず、お蜜と散歩に出る事を好んだ。鍛錬を辞めてからと言うもの、以前よりも少し体調は良さそうに見えた。おミツは散歩がてら村を案内したり、野草を見つけてどう料理すると美味しいだの、この時期は何処に咲く花が綺麗だのとお喋りが止まらなかった。家の中にいる時は相楽が少しずつ字の書き方を教えてくれ、おミツは少しだが文字がわかるようになった。おミツが自分の名の漢字を知らないと言えば、満という素敵な漢字を紙に書いてこれからはこの字を使えとお満に改めて名を送ってくれた。笑顔に満ち、人の心を満たすという意味でつけてくれたそうだ。


それから暫くたったある日、川辺に真っ赤な花が咲いているのを見つけた。何となく相楽が剣で舞っている時を思い出した。それにしゃんとしていて、目はギラギラと火のように輝いていた出会った頃の相楽の印象によく似ている。それにしても美しい花だ。火の花を表すならこんな感じだろう。この村で過ごした時間は長いがこのような花は初めてだった。お満は一本摘んで、「こんお花は凛々しくて相楽様に似ています。」と言って手渡した。相楽は一瞬複雑そうな顔をしてからふっと笑った。「お主この花の名をしっているか?」そう問われるといつも自慢げに草花の事を話していたのが恥ずかしくなって少し俯いてしまう。「いいえ。ここに長く住んどりますがこんお花は初めてです。」相楽はそうかと言って、お満の耳の上を通るように受け取った花を髪に挿してくれる。「そう言えば我の甲冑がこのような赤だったか。それにしてもこう言った物は女子にこそ合うものだろう。ふむ。少し花が大きいが良く似合う。」


そう言ってするりとお満の頬を優しく撫でたので、元々薄く赤い頬が真っ赤になってしまった。恥ずかしくて頬を冷やそうと自分の両手を当てて後ろを向くと。相楽がくすくすと笑っている。お満は本当は戦なんてつまらない物に使う甲冑の色のこと等ではなく、相楽自身がまとう雰囲気の事を伝えたかったが、口では難しく、上手く伝えられないのが少しばかり残念だった。それでも相楽が笑ってくれるならば良いかと思う。でも笑われたのがちょっとだけ悔しくて、速足で軽く逃げてやった。


相良は大きな歩幅ですぐにお満に追いつくと、「お満。お主は花火と言うものを知っているか?」と尋ねて来た。「こんお花の名ですか?」と言って花に軽く触れてみると、相楽はまたクスリと笑ってからゆっくりと首を振って花火について説明をしてくれた。唐と言う遠い国から伝わり、普段銃に使う火薬を贅沢に使って火で花を咲かせるそうだ。相楽は金のある殿様の城で見たことがあるらしく、それはそれは美しいのだそうだ。「空に上げる物だ。どこかの大名の城に呼ばれなくともいつかお前も見ることがあるかも知れぬぞ。」そう言って相楽はお満の頭に飾られた花を軽く触った。そんな夢のようなものがあるならば見てみたいものだとお満は思った。一時の間に咲く火の花とは何とも儚いが、美しい響きだ。


それからまた暫く立つと、今度は婆様が暑さにやられて体調を崩すようになり、お満は相楽と婆様の世話とで忙しい日々を過ごすようになっていた。相楽が出来るだけ婆様と過ごしてやるようにと気を利かせてくれるが、相楽とて病人だ。放っておける訳がない。もしお満がいない間に逝ってしまったらと思うと長時間離れるのも怖い。かと言って婆様が逝ってしまうのだって嫌だ。寝る間も惜しんで家を行き来していたが、秋口に差し掛かった頃、お満はぐったりとして気持ちが悪くなり、その日の夕餉を戻してしまった。


 それを見た婆様が半狂乱になって「儂のせいで若ぇお前ぇさまで!もういい。もういい。儂なんど構わんで相楽様のところで暮らしんさい。沢山寝て休んでおくれや。お願ぇだ。お願ぇだ。」と泣き出した。「そんな体で放っとける訳ねぇ。変なこと言わねぇでけろ。お願ぇだ。」と今度はお満が泣き出し、その日は泣き疲れて二人とも眠ってしまった。


 あくる朝、いつもより多く寝たせいか、体が妙にすっきりとしていた。ただ胸が少しつっかえたようなモヤモヤとした心地がして、飯の臭いを嗅ぐと妙に気持ちが悪い。お満は内心これで婆様と相楽と共に逝けると喜んだが、婆様はお満の様子を見ると、「お満。もしやお前ぇさややこができたんでねぇか?」と目を丸くした。婆様はお満の腹を撫でると物凄く嬉しそうな顔をして、血の繋がりもないのに「孫娘が身ごもったんにこうしちゃいれねぇ。」と言った。その日から、日に日に元気を取り戻し、今度は逆にお満にお節介を焼くようになった。お満はそんなまさかと思いながらも大して食ってもないのに日に日に膨れる腹を見て、やはりややこが出来たかと嬉しくなり、相楽に報告することにした。


秋も中程に差し掛かり、ややこができたと告げると、相楽は息を呑んでじっとお満を見た。「そうか・・・。」と言って恐る恐ると言った様子でお満の腹に触れると、まだそこまでハッキリとはわからぬだろうにまたいつもの遠い目でふっと笑って。「成程成程。」と静かに呟いて、婆様とこの村の人間以外に頼れる者がいるか尋ね、地図と文を書くからそこを訪ねるように言った。また、母体に病が移るといけないと言って、できるだけ相楽から離れるようにと努めて冷静にお満に言い聞かせて来る。お満は出来ればでかしたと言って欲しかったが、思わぬ言葉を貰ってしまい、久々に泣きながら相楽に対して怒ってやった。「移る病ならとっくにおらだって床に伏してる。なしてなして共に生きよと言ってくれねぇんだ。それも駄目なら連れてってくんろ。」相楽は怒るお満を見て茫然としていたが、口をぎゅっと引き結んで眉をぐっと寄せ、耐えるように目を瞑った。そしてお満は相楽の顔を覗き込む前に腕の中に囲われてしまった。急に抱き寄せられて驚いて固まってしまったが、お満は相楽の背が震えているのに気付いて力を抜いた。相楽は静かに「でかしたお満。我の子を産め。」と言った。言葉尻が少しばかり体と同じで震えているのを感じる。お満は優しく相楽の背を撫でると、相楽の腕の中でこくりと頷いた。


その日の夜遅くの事だった。お満はどうしても今日はこの家に泊まりたいと我儘を言って相楽の隣に布団を敷いて寝かせて貰った。何やら唸り声が聞こえる。どうやら相楽が魘されているようだった。お満は相楽を揺り起こそうとしたが、急に静かになった相楽を見て伸ばしかけた手を止めた。今度は静かに寝言で「すまぬ。すまない。」と聞こえる。相楽が誰に謝っているかは解らぬが、悪夢を見ているに違いないやはり揺り起こそうかと悩んだが、最後にお満の名を呼んだのに気が付いてはっと息を呑んだ。相楽は何故お満に謝るのだろうか。やはりお満との子は嬉しくなかったのだろうか。お満は不安になりながら。小さく相楽の名を呼んだ。「相楽様。」すると聞こえているのかいないのか、隣で首を動かす音が止んだ。「相楽様。満は満は嬉しゅうございます。」そっと起こさぬように相楽に囁く。「私に子を授けてくださり。ありがとうございます。」少し慇懃無礼が過ぎただろうかそれでも相楽の呼吸が少し静かになったので、お満は普段自分が婆様にやってもらっているように布団の上から相楽の体を優しくポンポンと叩いてやった。


あくる朝、お満は相楽の背に覆いかぶさったまま寝てしまったようで、しまったと思いながらはっと目を覚ました。その衝撃で相楽も目を覚ましたようで、お満を見て目を丸くすると、直ぐにお満を布団に引き込み、自分は急いで体を起こした。「子がある身で何をしている。よもや一晩中その薄着でいた訳ではあるまいな?」少し眉尻を上げて怒っているようだ。お満がドギマギとしていると暫く寝ているように言い聞かせて、自分は厨に向かってしまった。いつもと逆のようだ。


相楽は料理が出来るのだろうかと疑問に思いながら言われた通りに二度寝をすると、いつもはお満が用意している膳の上に一番大きな椀を乗せて戻って来た。そこにはあまり色の良くない煮溶かされた米が入っていて、何か根菜と共に作ったらしい灰色の粥のようなものが出てきた。折角の米が勿体ない。だが相楽の気持ちが嬉しかったので、異臭を放つ粥に卒倒しそうになるのを何とかぐっとこらえた。米とぎの仕方も良くは知らないのだろう。少しばかりぬか臭い。相楽の方をちらりと見れば、「我とて戦場で飯を煮炊きすることはあった。」と言って澄ました顔をしている。一口食べると案の定の味で、しかも塩を入れすぎたたのか塩っ辛い。お満は戻しそうになるのを耐えながら、なんとか飲み込み、「美味しゅうございます。」と伝えた。相楽はそれを聞いて嬉しそうな顔をしたが、同じ物を自分も口にすると真顔になって「無理をするな。婆殿を呼んで参る。」と言ってすたこらと止める間もなく婆様を呼びに出掛けてしまった。お満はそんな相楽が可笑しくて可愛くて布団の中でうずくまってくすくすと笑ってしまった。


その日からお節介が二人に増えて、お満は少し面倒だが楽しい日々を過ごしていた。相楽はお満の代わりにと家事をやりたがるのだがいつもやり方が解らず止まってしまい。今は幼子のようにお満の後を付いて家事を覚えようとじっと見てくる。初めの内は何だかこそばゆく感じていたが、その内その時間を愛おしいと思っている自分がいる。お満の世話を焼きたがってもやはり相楽も病人だ。体調の悪そうな日はお満が泣きそうな顔をすると、この顔に弱いようで、床で大人しく過ごしてくれるようになった。


それから暫くして、どうしてもと言い、村の者に頭を下げて婆様が綺麗な着物を借りて来たので、相楽と簡単な祝言を上げることになった。祝い事も何もなかったこの村で、祭事は珍しく、村の者総出で祝ってくれた。村人の協力もあり、お満と相楽はこの日をもって晴れて夫婦になった。村人達も口々に美しいと褒めてくれ、婆様は感動で涙を流してくれた。相楽もこっそりと「愛いぞ。お満。」と言い、普段中々見せぬ恥ずかしそうな顔をして笑った。この日お満は人生で一番幸せな日を過ごした。


楽しい日々を過ごしていても段々と相楽の体が痩せて行き、死の影を感じたが、お満はそれでも良いと思った。気持ちを受け入れて貰っただけでも充分に幸せだった。それなのに相楽は血の繋がったややこまで残してくれるのだ。ただ一つ我儘を言えば、このまま相楽の病が婆様の時のようにケロリと直ってくれないだろうかとついつい思ってしまう。


寒さが身に染みるようになっていくと、相楽の食は細くなり、床に臥せることが多くなった。それでも体調の良い日はもう意味など無いのにお満の後ろをついて来たがった。家事等覚えなくて良いとはお満は言うことが出来なかった。それに段々と腹の中の子の存在がわかるようになり、お満の腹を撫でたり、耳を当てるのを楽しみにしているようだ。また、いなくなったかと思えば、襖の奥で一心不乱に何か書き物をしている。


 ある日の事だった。相楽が床に伏し、いつもより酷く苦し気に唸っていた。相楽の看病にも慣れて、額の汗を拭っていたが、あぁこれが最期なのだとお満は直感で理解した。神様。出来るならば苦しまずに逝かせてやって下さい。と心の底で願った。昼頃一度体調が落ち着いた様子で、手を握ったお満をいつかのようにじっと見ていた。


 すると今度はふっと笑って掠れた声で話し出した。「我はどうにも駄目なようだ。満。落ち着いて聞け。」お満はぐっと握る手に力を入れて頷いた。「戦が落ち着いたらで良い。山を婆殿を連れて下れ。地図を頼りに人を訪ねろ。私の親族の者だ。そして文を地図と共に用意した。それを手渡せ。お前たちの力となってくれるだろう。」以前相楽がやろうとしていたことだ。今は死後の後ろ盾としてお満たちの今後を考えてくれている。お満は相楽の目に最期まで綺麗に映っていたくて笑顔で頷いた。泣いてしまいそうで声は出せないが、相楽の手に頬を摺り寄せた。相楽は愛おしそうに目を細めるとお満の腹を撫でた。「一目で良い。会いたかった。父を許せ。」相楽は皮肉気に、それでもどこか吹っ切れたように笑った。「悲願を達成し、いつ死んでも悔いなどないと思うていたのに。人とは浅ましいものだ。お前や子を思うと次々と欲が出てくる。」お満は声こそ上げなかったが今度こそ泣き出してしまった。息が苦しい。浅ましくなんてない。普通の男が普通に手に取れる幸だ。生きていれば欲求などいくらでも出てくる。きちんと声を出して伝えたいのに嗚咽を上げてしまいそうで伝えたいこと等声に出せない。「恨んでない。愛しています。」お満の答えがこの場に会っていないこと等わかっていたが、どうしても何か相楽が今生で背負い続けた咎を外してやりたかった。自分とお腹の子が重荷となって縛り付けたくなかった。相楽は暫く驚いたように茫然としたが、またふっと笑うと、「お前が妻となってくれてよかった。」とそう言って相楽は気絶するように眠った。


 夕刻が過ぎ、それでも相楽から離れられないでいると。相楽が力なくだが早い息をしている。火を近づけ、相楽の顔を覗き込むと、安心したように笑った。どうすれば。何を言えば良いか解らなかった。「相楽様。ありがとう。ありがとう。お側においてくれて。ややこを残してくれて。」それからそれから・・・。と最期の言葉をもっと掛けてやりたくて探しながら、顔を覗き込み、昼間のようにぐっと手を握る。相楽ははっはっと息をし、お満の頬をするりと優しく一撫ですると、目を閉じて布団の上に手を落とし、それきり動かなくなった。


解りきっていたことだ。以前何度も泣いたせいか、昨日の昼泣いたのが良かったのか、村の者が集まって葬儀を開いてくれても、涙はちっとも出なかった。土を掛けられてゆく相楽の棺に手を伸ばしたが、あの日のように袖を掴むことは出来なかった。「あっ・・・。」あるわけがないのに赤い細い花びらが風と共にお満の頬を撫で、通り過ぎて行く。また、あの人は遠くに行ってしまったのだ。また足取りが危うくなって婆様が咄嗟に体を支えてくれる。「代わってやれれば良かったのに・・・。」寿命の話だろう。声を上げて叱ってやりたくなったが、体に力が入らず、「嫌・・・。いや・・・。」と蚊の鳴くような声が出た。「すまねぇ。すまねぇ。」と言ってお満の代わりに婆様が泣き出した。


暫くの間、お満は茫然として生きていた。墓を訪ねてきた人々には、妻として役割を果たすためきちんと案内をして、相楽に恥をかかさぬようにと、しゃんとして、礼儀作法も知る程度はきちんと実践した。それでも一人になれば何もやる気が起きずに茫然としてしまう。有難いことに。婆様が身の回りの世話をしてくる。お満も子の為にと、食べたくもない食事を取り、体は冷やさぬようにとよく小言を言っていた相楽の言いつけを守った。


それでも人と言うものは忘れ行く物らしい。以前よりも体調も良くなり、食事も苦ではなくなって来た。それから以前よりも寝る事が多くなったある日の事だった。お満はその日夢を見た。以前相楽が鍛錬に使っていた滝壺に、立派な横断幕がひかれ、どこかの戦場の陣営のようになっていた。横断幕には持ち主の物であろう家紋が描かれている。描かれている花はどこか火の花に似ている気がする。辺りは夜のはずなのに色とりどりの提灯が浮かんでいて明るい。


一人の仮面を被った人物が陣営の真ん中に進み出て、ぺこりと頭を下げた。赤い甲冑に立派な狩衣を着ている。あの背格好としゃんとした立ち姿はきっと相楽だ。お満は今まで気づかなかったが、周りにちらほらと人が集まっていたようで、辺りから歓声聞こえた。どこからか雅な調べが響きだし、相楽が刀を抜いて舞を踊り始めた。松明と提灯に照らされて、刃が赤く光っている。あの夜に見た舞だ。あの時も美しかったが、今の方がずっと力強い。剣先は鋭く優雅な不思議な動きをして、光の残像が花を描いている。やはりあの赤い花だ。


相楽の美しい舞を見ている観衆たちが、光となって一人、また一人と天に上り消えて行く。最後に残ったのは数人だったがその人たちがゆったりとお満に近付いてきた。仮面をしているが、壮年の男性と女性、後の者は元服仕立ての若武者と武家のものらしい美しい着物を着た少女だ。その者達がお満に恭しく頭を下げて、また天へと消えて行った。最後に一人立ち姿の美しい女性がじっと相楽を見ていたが、お満へと振り返り、深く頭を下げて消えて行った。観衆はお満一人だけとなり最後にくるりと刃で円を描いて相楽の舞が終わった。ぺこりとまた一礼し、演武を締めくくる。


相楽がゆったりとした歩みで近付いてきた。お満の元へたどり着くと、「息災か?」と唐突に尋ねて来た。きっと相楽も何を言って良いか解らなかったのだろう。お満はふふっと少し笑ってしまった。「はい。」と答えると相楽は安堵したように溜息を着いた。「満よ。我はもう行くぞ。」成程気付かなかったがあれから49日が経っていたらしい。「はい。」ともう一度呟くと、一度相楽は黙ってから、「辛くなれば心の中で名を呼べ。いつでも見ている。」と言ってくれた。それから相楽はいつものようにお満の頬を優しく撫でると、「愛しているぞ。満。」と生前中々言ってくれなかった言葉をくれる。それでも少しばかり名残惜しく思っていると、相楽は察したのか、一度お満を抱きしめて、何やらお満の右下を見て嬉しそうに笑った。「そうかお前も父を送ってくれるのか。」お満もそちらに目をやると赤い火が幼子の形を成してお満のべべの裾を握っていた。相楽はそれの頭を優しく撫でている。あぁ、この子は私たちの。奇妙な形をしているのに、たまらなく愛おしく思えてお満はその子を抱き上げて頬を摺り寄せた。


 相楽は二人の頬をそっと撫でると、「満よ。我はもう行く。」と言った。お満はこくりと頷き、あの時のように「愛しています。」と言った。相楽は愛おしそうに目を細めて二人から身を離した。「最期の土産にお主が見たがっていた花火を見せてやろう。空を見よ。」そう言うと相楽は他の者達と同じように光となり消えて行った。名残惜しく思っていると、ひゅるひゅると気が抜ける音と銃声のような音が響いて、夜空に大輪の花が咲いた。思ったよりも色があり、お満の想像した真っ赤な火の花とは違った。一度だけと思っていたが、角度を変え、色を変え、何度も空に上がる。夢中で空を見つめる内にいつの間にやら朝になっていたようで、陽の光が眩しくてお満は目を覚ました。


何やら、今日は気がいつもよりずっと晴れやかで、体も頗る軽く感じた。こんなにもお満が元気な事が珍しく、とうとう気をやってしまったかと婆様は心配していたが、お満はこんなにも体が軽いのが久々で、久々にどこかへと出掛けたくなった。無意識に足は滝壺、川原と相楽と共にあるいた場所を巡る。どこでどんな会話をしたか思い出してとても嬉しくなる。水は雪解け水が流れ出ているのか、透き通ってとても綺麗だ。冷えた、澄んだ空気が鼻と喉を通り、胸まで落ちて来てとても心地が良い。雪と草花と土の香りが心晴れやかにさせる。一通り堪能すると、お満は相楽が逝って以来中々訪れる事の出来なかった家に足を運んでみた。


中には数着相楽の着物があり、ほんの少しだが、相楽の匂いを残している気がする。ぎゅっと着物を抱きしめてから、相楽がいつも使っていた襖の奥へと足を踏み入れる。文机の上に、相楽が描いたのであろう地図と、お満が読めるようにと、振り仮名を振られた人の名が描かれていた。その下にはその人宛に書かれた文が綺麗に折りたたまれている。お満は相楽が死の間際に言っていた事を思い出し、大切に懐の中へとしまった。お満はよく相楽が書いた経や、文を入れていた黒い漆塗りの箱を見つけ、中を覗いてみた。中には、大きな文字で書かれた人の名を写す紙がたくさん連なっていた。お満が読めるようにと振り仮名もふってある。


初めは何を意味するのか解らなかったが、急に腹の中のややこが少し動いた気がして、相楽がこの子の名を考えていたのだろうと思いついた。結局決めることは出来なかったのか、お満に選ばせようと思ったのか、沢山の候補を残してくれていたようだ。それを見ると、じわじわとまた瞳が潤んでしまう。涙を紙にたらさぬように、そっと蓋を閉じ、大切に抱えてお満は婆様と暮らす家へと戻っていった。

 

 


 季節は春になり、外を歩くのが楽しい季節が巡って来た。日課となった散歩を楽しむためにお満は今日も陽の光の下歩んで行く。気持ちの良い風が吹いてきて、春の訪れを花々が喜ぶように揺れている。人の縁とはとても美しいものだとお満は思う。この苦しく熱い胸の思いも、幸せに打ち震える日々もあの人が教えてくれた。ついに、あの人が腕に抱くことは出来なかったが、お満に血のつながったややこまで残してくれた。共に過ごすこともう叶わぬが、この子がいればもう自分は大丈夫。寂しくないに違いない。戦がもう少し静かになったのなら。沢山の人と遭わせてやりたい。きっと人と出会うのは恐い事だけではないのだから・・・。春先の花と土の香りに包まれながら、お満はそっと愛おしそうに腹を撫でた。

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