靴がなる

増田朋美

靴がなる

その日は、この時期らしい心地よい暖かさで、みんなやっとちょうどいい日が来たねえ、なんて言っていた。そんな日がいつまでも続いてくれればいいけれど、そうはいかないというのが、現代社会というものである。一体どういうことかと思っても、いつまでも同じということを美徳としては生きていけないというのが、現代人の生き方というものである。

その日、由紀子は、駅員の仕事が休みだったので、真っ先に製鉄所へ行くことにした。自分が手伝っているのか、邪魔しているのか、よくわからない立場であることは知っているけれど、行きたくなってしまうのだ。いわば、一番愛している人に会いに

行くのだから。

由紀子は、車を走らせて、製鉄所へ行き、車を指定された場所に止めた。そして、製鉄所の正門をくぐり、インターフォンのない玄関をガラッと開ける。

「こんにちは、由紀子です。」

ところが、誰も返事は返ってこなかった。

「すみません。」

もう一回言っても、返事は返ってこない。

由紀子は、これでは何かあったのかな、と思い直し、靴を脱いで急いで四畳半へ向かった。四畳半は、水を打ったように静かだった。由紀子がふすまを開けると、水穂さんが静かに眠っていて、隣でジョチさんが、かけ布団をかけなおしてやっていたところだった。

「ああ、由紀子さん。せっかく来てくださったのに、お返事もできず申し訳ありません。本当に失礼しました。」

と、ジョチさんが、由紀子に言った。

「あの、水穂さんは。」

由紀子が聞くと、

「ええ、先ほど、薬が効いてくれて、楽になってくれたんだと思います。この通り、楽になって、眠っていらっしゃいます。なかなか、薬を飲んでくれませんでね。とても苦しそうでしたが。」

と、ジョチさんは、答えた。

「だ、大丈夫なんでしょうか?」

由紀子は急いで、水穂さんの枕もとに座った。そばには赤く濡れたタオルが置いてある。

「そうですね。これだけ大きな発作をたびたび起こされますと、僕たちだけでは対処しきれないかもしれないですよね。だから、そうですね、沖田先生にも聞いてみますが、もう気管切開した方がいいかもしれませんね。これだけ、大量に血を出すんですから、処置が遅れると、窒息する可能性もありますし。」

ジョチさんがそんなことを言いだした。

「気管切開?」

「ええ、気管にチューブを入れて、機械で定期的に肺にたまった血を抜くんですよ。定期的に出すものは取れますから、苦しい思いをすることはないでしょう。しかし、これは、重大な副作用がありましてね。機械を埋め込むために、声帯を除去しないといけないんです。つまり、自動的に声が失われます。そうなれば、筆談帳でも用意させればいいかな。」

と、ジョチさんは恐ろしいセリフを言った。

「ちょっと待ってくださいよ!水穂さんの声を失わせるなんて、あまりにもかわいそうじゃありませんか。もっと安全な方法はないのですか?」

「でも、仕方ないでしょう。もうこれ以上水穂さんの病状を悪化させないためには、多少の犠牲はあっても仕方ないんではないんでしょうか。それはどんな病気にもつきものなのではないですか?」

由紀子がそういうとジョチさんは冷静に言った。どうしてそんな風に冷静に言えるのか、由紀子はよくわからなかった。

「由紀子さん、大丈夫ですよ。しゃべれなくなったって、筆談とか空書とか、手立ては色いろあるでしょう。両手両足まで動けなくなったわけではありません。ただ、呼吸を楽にしてあげるだけです。本人も、発作を起こさせないほうが、より気が楽になるんじゃないかと思うんですよね。」

ジョチさんはそういった。由紀子はなんだか水穂さんがかわいそうになった。

「でも、声を失わせてしまうのは、かわいそうなことですもの。あたしにはとてもできません。」

「そうかもしれませんが、水穂さんにとっては楽にしてあげることこそ重要です。もう少し、周りのひとだって楽になれるんじゃありませんか。由紀子さんも、本人も、いつ発作を起こすのかわからないで、びくびくしている生活も、いやなのではないですか?」

「どうしてそんなことが言えるんですか。水穂さんから声を奪うなんて!」

「そうかもしれないけど、病人の立場からしても、周りに迷惑をかけるようなことはしたくありませんよね。僕も、子供のころはそうでした。なんだかいろんな人から手をかけてもらえるんですけれど、当人としては、申し訳ないというか、なんというか、そういう風に感じてしまうんです。由紀子さんにはわからないかもしれないですけど、病人というのはね、そういう気持ちがわいてきてしまうものなんです。そういうところをね、強く感じてくださる水穂さんであればきっとわかってくれますよ。目が覚めたら、ちょっと話をしてみましょう。」

と、ジョチさんは言った。そんなバカな、私が、どんな思いをしているのかわかってもらえないまま、こんな事態に踏み切ってしまうのか。由紀子はつらい気持ちだった。


「理事長さん、ちょっとよろしいでしょうか。」

ふいに利用者の一人が、四畳半にやってきた。はいなんでしょうとジョチさんが言うと、すみません、一人お客さんが来ているんです、と利用者は言った。はあ誰だろうと由紀子が考えていると、利用者は、ちょっと来てくださいとジョチさんの手を引っ張って、応接室へ連れて行った。

「ちょっと、ちょっと何があったの?」

と由紀子が聞くと、

「とんでもないお客さまが来ているんです。」

と、別の利用者が言った。由紀子もそれが気になって、急いで応接室へ行く。

「なんですか、僕に用って。」

と、ジョチさんと由紀子は応接室に入ってまたびっくり。そこにいたのは、もう何回も参議院議員となっている、加藤さわ子さんであった。

「はあ、こんな大物の議員さんが、こんなところに何をしに来たんですか?」

そういうことを恐れずに対等に言えるのはジョチさんだけであった。

「わたくし、民正党参議院議員の加藤さわ子でございます。」

と、頭を下げて話す彼女は、確かに国会議員の加藤さわ子さんである。しかも来たのは、彼女一人ではなかった。加藤さわ子さんの隣に、青い顔をした小さな赤ん坊が、寝かされていたのだった。

「隣にいるのは、息子の加藤正高です。」

と、さわ子さんは説明した。

「はああ、息子さんでしたか。その息子さんが、どうしてここに来たんですか?」

とジョチさんが聞くと、

「ええ、今日は、特別な立会演説会がありますので、ここで一日預かっていただけないでしょうか。」

と、言うので由紀子はさらにびっくりした。ジョチさんだけが冷静である。

「それなら、病児保育施設にでもお願いすべきでは?」

さわ子さんは話を続ける。

「いいえ、もうそういう施設は手当たり次第に当たりました。でも、どこの施設も、こんな子は預かれないって、断られてしまいました。だからお願いに来たんです。一日だけでかまいませんから、この子を預かってください。お願いします!」

「はあ、そうですか。彼は、おいくつなんですか?」

「ええ、まだ10か月です。」

ということは、つまり、一歳にもなっていない、史上最年少の利用者である。

「そうですか。せめて、15や16にならないと、ここではお預かりできませんね。それに、重い病気を持った子供さんを、預かることなんてできはしませんよ。あなた、議員だからと言って、なんでも通るなんて考えたら、大間違いですよ。確かに大変かもしれませんが、すぐに施設を頼ろうなんて、虫が良すぎるのではありませんか?」

ジョチさんは、ため息をついて、その大物議員を見つめた。

そういえば、由紀子はよく覚えているが、議員になる前の彼女は、テレビタレントだった。多分、政治のことなんて、ほとんど知らないで、民正党の顔くらいの軽い気持ちで、議員になったんだろうと思われる。

「それに、その息子さんの顔を見ると、呼吸器か循環器に持病があるはずですよ。そういう子なんですし、一歳にもなってないんですから、親御さんのそばにいさせてやる方が一番なんですよ。それは議員であればわかることでしょう。それなら、その通りにさせてやるのが一番じゃありませんか?」

とジョチさんが言った。

「理事長さん、さすが、共産党の方ですね。子供は親のそばにいるとか、古臭いことばっかり言って。仕事をしていなければ、働けというし、仕事をしていれば、子供のそばにいろというし、結局のところ、女は社会に参加しないで、家にいろというのが、あなたたちの主張よね。あなたは古い考えに固執し続ける、おかしな方ですね。」

と、さわ子さんは、政治家らしいしゃべり方をした。

「まあ、民正党の方ならそういうでしょうね。でも、もう一度、考え直してください。正高君は、あなたの付属品じゃないんです。あなたなんて、僕より一つか二つ年下くらいの年齢でしょう。そんな年で子供なんか作って、育児を全うできる能力はあるんですか?まさかと思うけど、家政婦さんに全部任せきりで、自分は何もしないで国会答弁ばかりしている。そんな人に、母親なんて向いているのでしょうか?そういうわけではないでしょう。まあ、要するにですね、一言で言えば、欲張りなんですよ。議員として成功し、そればかりか子供も欲しい。でも、子供が重い障害を持っているからと言って、ここで預かって、と。そんな欲張り、一般の人には到底できる話ではありませんよ。あなたは、本当に正高君のことを思っているわけではないですね。」

ジョチさんは、そのわがままな政治家に、ちょっときつい口調でそういった。なんとなく、その正高君が愛されていないことは、由紀子にもなんとなくわかった。

「あなた、正高君のことを、本当に人間としてみていますか?ただ、子供が欲しくて、子供を自分の飾り物にして、幸せな時間が欲しい。子供がどんな気持ちで生きていくのか、まったく考えてないでしょう。そしてご自身の年齢も。」

ジョチさんのそういわれて、さわ子さんは、また困った顔をした。

「でも今日は、どうしても、応援演説をしなければならない、立会演説会が。」

「あーあ、まったく。」

とジョチさんは言った。

「何もわかっていませんね。もう政治家というのは、どうしてこういうところが甘いんだろう。」

由紀子も、彼女の考えには賛同できなかった。

「本当に、こういう人の感覚はどこかずれてますね。そうじゃなくて、もっと自分のことを考えてから、子供を作るということを忘れておりますな。」

「そんなことを言われても、私だけじゃありません。仕事をしている女性はいっぱいいるじゃありませんか。なんで私が、そんなことを言われなきゃならないんですか。理事長さんのような人がいるから、日本の女性の社会参加ができないんじゃありませんか。日本の社会が発展しないのもそのためなのでは?」

「いや、どうですかね。僕は、あなたが、単にわがままを言っているだけにしか思えないですね。」

「まあ、それでは、本当に子どもが欲しくて、高齢になってやっと子供ができたという方は、みんなわがままを言っているというのですか?そうなれば女性に対する人権侵害ということになりますよ。」

「人権侵害じゃなくて、正高君のお母さんという立場を考えてください。こんな重い障害を抱えて、学校に行くようになって、同級生からいじめられたり、無理解な教師に傷つけられでもしたら、あなたはどうするんですか?」

「そんなこと、私が今考えることじゃないでしょう。それは正高が学校に行きだしたら、考えればいいと思うことです。」

というさわ子さんは、まさしく政治家らしい話だった。肝心な時は、いつも先送り。

「じゃあ、あなたは、正高君が学校へ行っていじめられたりして、もう駄目だと言われても、平気だというわけですね。それでは、責任逃れというか、どうしようもありませんね。」

「あたしは。」

と、さわ子さんは言いかけて、自分の隣に目をやろうとした。

「い、いない!どこに行ったのよ!」

と、思わず声を上げた。

「ええ、先ほど這いずって出て行かれました。あなたがあまりに熱弁をふるいすぎて、それに気が付かなかったんです。こういう風に、演説している間にも、小さなお子さんというのは、どこかへ行ってしまうものですよ。お母さんが僕と口論している間、彼はつまらなくてどうしようもなかったんでしょうね。」

とジョチさんが言った。

「ちょっと待ってください。もう、こんな時間、あの子、一日三回薬を飲まさないといけないんです!も、もう十二時五分前!いそいで探さなければ!」

と、さわ子さんが、慌てて椅子から立ち上がった。幸い由紀子が追いかけていったので、心配はないとジョチさんが言った。さわ子さんは、急いで正高、正高と製鉄所の中を探し始めた。


一方、四畳半では、水穂さんが静かに眠っていた。その近くに、はいはいしながら小さな男の赤ちゃんがやってきた。でも、顔は真っ青だし、指は太鼓ばち指になっている。明らかに重い病気を持っている、赤ちゃんであった。彼は、同類がいると思ったのだろうか。水穂さんの前で止まった。

水穂さんは、その顔を見て、ふっと目を覚ました。誰かが近づいてきたことは、気配でわかったのだろうか。その赤ちゃんの青い顔を、気持ち悪いとも何もいわなかった。ただ、彼のことを、どうしたのと聞いて、その顔を撫でてやった。

赤ちゃんは、喜んだ顔をしたが、声は出なかった。よく見ると、首まわりに機械のようなものをつけている。もしかしたら、気管切開したのかな、と水穂さんはつぶやいた。でも、本人がそれをわかっているのかは不詳だった。

隣の部屋から、男性と女性のいい争っている声が聞こえてくる。あの二人は、どうしてあんなに身勝手なのだろうか。政治家というのは、いつも口ばかりで手が出ないと、水穂さんは笑ってしまうのであった。

水穂さんは、その赤ちゃんを抱っこし、布団の上に起きた。そして彼の背中をたたいてやりながら、

「おてて、つないで、野道を行けば、みんな、かわいい小鳥になって。」

と歌った。

「うたを歌えば靴がなる、晴れたみそらに靴がなる。」

これを見ていた由紀子は、これこそ、正高君が今一番必要なものなのではないかと思った。こうして抱っこしてもらって、歌を歌ってもらうこと。それこそ必要なのではないか。あの、二人の大人が口論しているよりも、ずっと大切なこと。

「そういうことね。」

と、由紀子はそっとつぶやいた。

その間にも、水穂さんは、優しく歌っていた。

「おてて、つないで、野道を行けば、みんな、かわいい小鳥になって、

歌を歌えば靴がなる、晴れたみそらに靴がなる。」

赤ちゃんは、たぶん声を出せれば、喜んでくれたのだろう。そのことが何とも切なかった。由紀子は、水穂さんにこのような苦しみは味わせたくないと、本当に思った。


しかし、水穂さんは、それが続くような体ではなかった。水穂さんは、三度目に靴がなると歌おうとしたが、せき込んでしまうのだ。由紀子は、急いで、水穂さんのそばに駆け寄るが、水穂さんは、布団にどさりと倒れてしまったのであった。由紀子は、急いで、水穂さんの背中を撫でて、吐き出しやすくしてやった。

「ああ、こんなところにいたんですか。正高君。」

と、ジョチさんが四畳半にやってきた。由紀子が、水穂さんが正高君に歌を歌ってやっていた、と説明すると、母親のさわ子さんも急いでそこへやってくる。

「あなたの負けですね。」

と、ジョチさんは、静かに言った。さわ子さんは、強引に水穂さんから正高君を引き離したが、たぶん、正高君は、声を出すことができていたら、大きな声をあげて泣いたに違いない。目にいっぱい涙をためて泣いている。

「ああもう、泣かないでほら、はやく飲んで。」

さわ子さんは、急いで正高君に哺乳瓶の中身を飲ませたが、正高君は泣くばかりだった。きっと優しいおじさんと一緒にいたい、と表現したいのだろうがそれができないから悲しいんだろう。由紀子は水穂さんにも、こういうことは味わせたくないなと、思ってしまった。

「いい加減にしなさいよ!」

さわ子さんが、彼を怒鳴りつけたが、正高君は、泣くばかり。一方のところ、水穂さんのほうは、由紀子から出された鎮血の薬で、すぐに落ち着いてくれて、眠りたいのを一生懸命こらえているようであった。鎮血の薬は、どうしてこんなに、眠気というものをもたらしてしまうのだろう。

「あの、」

と水穂さんは、声を上げた。

「どうかお願いですから、怒鳴らないでやってください、、、。」

その先もあったようであるが、水穂さんの次の言葉を聞くことはできなかった。水穂さんは、鎮血の薬のせいで眠ってしまったのである。

「なんで、あの人に抱っこしてもらうときは笑って、あたしの時には、泣き続けるの!」

と、さわ子さんは言った。これこそ、さわ子さんの本当の気持ちだったのではないかと、由紀子は思った。つまり、正高君は、さわ子さんに、なじめないというか、なつかなかったのだ。それで困ってしまったさわ子さんは、ここに彼を連れてきたのだろう。立会演説会も、もちろんあるけれど、理由はそれだけではないと思った。

「だから、歌ってあげたからに決まってますでしょ。」

と、ジョチさんが言った。

「あなた、本当は、そういうことをほとんどやったことがないのではありませんか。だから、水穂さんに対して、彼は喜んだんじゃありませんか。それだったら、本当に、わがままであったということになりますな。」

「図星よ。」

と、さわ子さんは、正直に白状した。

「だって、こんなに泣き出すんだもの。あたしが抱けば、泣いて泣いてどうしようもなくて。それに、理事長さんに言われたような気持ちがないわけじゃなかったから。あたしは、ある意味見栄っ張りで。」

「そうなんですか。」

と、ジョチさんが、さわ子さんに言う。

「それなら、一日一度でいいですから、彼を抱っこして、歌でも歌ってやってくれませんかね。もう年だから長時間だけないという言い訳は通用しませんよ。多少、腰や肩が凝っても、我慢してくださいね。それが、彼を育てるということになるからです。」

由紀子は、さわ子さんの肩に目をやると、彼女の肩には湿布薬がべったり貼られていた。

「そういうことですからね。」

さわ子さんは、ジョチさんにそういわれて、わかりました、とだけ言った。


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