第5話 再会
『ご苦労様でした。』
川田正一氏は自分の事務所で俺からの報告を口頭で聞いた後、報告書を何度も読み返し、そして何度も頭を下げた。
あれから三日が経っていた。
特に何かが起こった訳でもない。
俺はやるだけの仕事をやり、そして東京に戻って来たに過ぎん。
『これは、お約束のギャラです』
銀行の封筒に入った金を俺に渡す。
手に取って改めてみると何だか厚みを感じる。
中から出てきたのは、帯封のついた札束だった。百万円と、それからバラで五万円である。久しく見掛けなかった光景で、我ながら驚いた。
『多すぎやしませんか?せいぜい一週間のギャランティとすると・・・・』、
すると彼は頭を上げ、俺の目を見つめながら、
『いえ、多くはありません。実はもう一つ、別の仕事をお願いしたいと・・・・』
彼が何を言わんとしているか、直ぐに理解が出来た。
『初めに契約を結んだ時にしたお約束、忘れてませんよね。私は月下氷人の真似は致しませんと・・・・』
『いえ、そうじゃないんです。』
彼はハンカチで額を拭ってから言った。
『実は妻・・・・幸子を迎えに行こうと思っています。でも私一人ではどうしても不安なので、息子たちに頼んだんですが、太郎(長男)も次郎(次男)も”父さんの気持ちは分かるけど、僕等はやっぱり今はまだ母さんを許す気にはならない”って、こう言うんです。でも、意気地がないと申しますか・・・・とても私一人では行くことは出来ません。そこで貴方に付き添いをお願いしたいんです。いえ、別にアドバイスとか、そう言った類はしなくて構いません。ただ付いてきて下さるだけで結構なんです』
俺は少し呆れたが、しかしこの男の真剣な眼差しには、何か断るのを許さないエネルギーのようなものが発せられているように感じた。
『お人好しですな。貴方は』俺は思わずそう口にしていた。
すると彼は頭を掻き、照れたように笑いながら、
『そう、お人好しなんです。それでいつも損をしてます』
俺は承知した。
何故だかこういう人間は嫌いになることは出来ない。
翌日、俺と川田氏の二人は、ジョージの運転するワンボックスカーで富山へと向かった。
ジョージは、
”別れた女房を迎えに行く亭主なんざ、聞いたことがねぇ”とか、
”お人好しが過ぎるぜ。そんな尻軽女、裸にひん剥いて逆さづりにして、尻でもひっぱたいてやりゃいいんだ”などと、散々毒づいていたが、何故か機嫌はよさそうだった。
朝早く東京を出て、富山県○○市に着いたのは、午後1時30分を少し回った頃だった。
俺達三人は並んで正面玄関から受付に入ると、前もって川田氏が連絡しておいてくれたんだろう。
例のケアマネージャー氏が愛想のいい笑顔で出迎えてくれた。
『本村さん、今日は朝から機嫌がいいみたいですよ。別にあなた方の事については何も話していないんですがね』彼はそう答え、案内をしてくれた。
エレベーターで二階に降りると、何処からか昔聞いたことのある童謡が流れ、調子外れの歌声が聞こえる。
『レクリエーションでしてね、カラオケ大会なんですよ』
ホールに行くと、30名ほどの老人たちがカラオケの装置を囲んで座っており、一人の男性がマイクを持って歌っていた。
エプロン姿の介護士が司会者がわりになって、上手くマイクを回している。
『本村さんは・・・・あちらです』
ケアマネの田中氏が顔を向ける。
相変わらず彼女は食堂の隅に椅子を据え、定まらない視線を窓の外に向けていた。
ブルーのセーターに黒いゆったりしたズボン。
肩にはキルティングのストールを巻き、何やらぶつぶつと歌っていたが、何の歌なのか、俺にもジョージにも聞こえなかった。
『”愛の賛歌”ですよ。エディット・ピアフの、彼女はフランス語で全部歌えるんです』
川田氏が言ったが、なるほど確かにそうだ。
『本村さん、お客様ですよ』
ケアマネの田中氏が声をかけても、彼女は何も答えず歌っている。
『幸子、久しぶり、元気だったかい?』
川田氏が優しく声をかける。
彼女はぴくりと肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。
すると、あの生気のない、濁ったような目に光が宿り、能面のような顔が、急に普通の人間になった。
川田氏がゆっくり歩み寄り、幸子の肩を抱いた。
『かあ・・・いや、幸子さん、家に帰ろう。そしてゆっくり話し合おうね。お茶でも飲んでさ』
彼女の目から涙が洪水のように
『お、とうさん・・・・ごめんなさい。私が悪かったの。ごめんなさい。ごめんなさい・・・・しょういちさん・・・・』
川田氏は何も答えず、立ったまま彼女の肩を背中をさすっていた。
俺は芸術なんてものに、極めて
川田氏は施設の退所手続きから、荷物の整理に至る迄、その殆どすべてを一人でやってのけた。
(幸子が書き残していたという手帳だが、どこを探しても出てこなかったという。今となってはあんな状態じゃ、どの途確かめる
流石に彼女の荷物は一度に運ぶのは無理だったので、引っ越し会社に依頼し、手回り品だけを持って出た。
後はジョージの運転するワゴンで、一路東京へ向かった。
車中では氏がずっと元妻・・・・幸子の手を握って放さず、幸子もまた、一度は棄てた筈の夫の手を放そうとしなかった。
東京に着くと、彼は1人で荷物を全部降ろそうとしたので、たまりかねたジョージと俺が手伝ってやった。
”俺達もお人よしって点じゃ、笑えねぇな。ダンナ”
ジョージはそういって苦笑いをしてみせた。
俺達の車が去って行く時、二人は手を振って、随分長い間見送ってくれた。
さて、これで今回の
風呂に入って髭を剃って、一杯やって・・・・って、え?
(あの夫婦はどうなった)だって?
知らんな。そんな事。
(そうはいかん。どうしても教えろ)?
仕方ないな。
ひとづてに聞いたところによれば、川田氏は妻の幸子をどこの施設にも入れずに、自宅で介護しているという。
料理、洗濯、掃除、そして入浴や排せつ介助も、全て彼がやっているそうだ。
ホームヘルパーや訪問看護、デイサービスの力を借りながらだそうだがね。
そして自宅も妻が住みやすいように自らの設計でリフォームしたという。
二人の息子も最初は寄り付かなかったが、この頃は徐々に家へもやってきて、父の手助けをしているらしい。
晴れた日にはよく妻(戸籍上はまだ他人のままなんだが、これはそのうちなんとかすると、本人が言っていたらしい)を車椅子に乗せて、近所を散歩している姿を見かけるという。
”大変ですねぇ”なんて、近所の住人から、(幾分皮肉を込めて)言われることもあるそうだが、一向にめげることなく、
”ええ、大変ですよ。でも私、生来暢気ですし、それに妻の
ことですからね”と、嬉しそうに笑って聞き流しているそうだ。
それも夫婦って奴なんだろう。
(嫁さん持つのも、悪くないかな)
ネグラの外のデッキチェアに身体をもたせ掛け、雲が流れる空を眺めながら、ぼんやりとそんなことを考えている俺だった。
終わり
*)この物語はフィクションであり、登場人物その他すべては作者の想像の産物であります。
おとうさん、ごめんなさい 冷門 風之助 @yamato2673nippon
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