昭君出塞

津田薪太郎

第1話

 荒凉たる原野に一人、俺は立っていた。踏み締めた土の感触は乾き切っていて、一歩歩くたびにボロボロと崩れて行く。身に吹き付ける風に命の息吹はなく、ただ徒らに冷たい。もはや涙も枯れ果て、空虚な心の回廊に乾いた風が吹き抜けるのみの、俺を嘲笑っているのかの如く。

 俺は後ろを振り返って、かの偉大なる長城を眺めやった。向こう側にいる時は、あれ程偉大で、堅固だと思っていたのに、こちら側に来てみるとなんと恐ろしく、威圧的で、憎らしいことか。万里の果てまで続く長城は、きっと未来永劫にわたり、全てを拒み続けるのだろう。

 空は、雲と霞によってその表情を覆い隠している。空よ、お前は悲しんでいるのか、怒っているのか、それとも憎んでいるのか?俺はお前が決して答えない事を良く知っている。だが、それでも俺は聞かずにいられないのだ。やはり空は俺によく似ていた。心の内を覆い隠して、幾重にも仮面を被り、逃げ続けた俺に、良く似ているよ。

 俺は壁沿いを歩いて、霞の向こうを目指した。歩く事に意味などない事は知りながら、ただ歩みを重ねる。荒野に吹き荒ぶ風は、相変わらず冷たいままで俺の骨身に沁みた。


 暫く歩くと、笛の音が聞こえた。音のする方へ急ぐと、其処にいたのは婚礼の行列だった。艶やかな衣装を来た供回り達が、華やかな音楽と共に、花嫁を導く。荒野の向こうへ続く婚礼の行列は、単に華やかなだけで、真に慶事たる素質を欠いている様に見えた。

 俺はかつての故事を思い出して、行列の真ん中に居る花嫁に話しかけた。馬に跨り、琵琶を抱えた花嫁は、衣装でもって顔を隠している。

「ああ王昭君、塞を出て何処へ行かれるのですか?何処の王へと嫁に行かれるのですか?きっと貴女はもう二度と、お戻りにはなりますまいな」

気取っていたといえば、それまでだろう。だが、不思議とその台詞は口をついて出た。

 王昭君はこちらを見直して答えた。

「この荒野の向こうまで、私は嫁入りをするのです。貴方のおっしゃる通り、もう二度と此処には戻れませぬ」

「一体何処の王が、貴女を娶るのでしょう。その幸せ者が、俺は羨ましくてたまりません」

その質問を発した時、王昭君は暫く黙り込んだ。やがて俺の方に顔を上げると、

「お教えしましょう。私が嫁ぐのは、他でもありません。貴方の処なのですよ」

そう言うと、彼女は花嫁衣装を解き、俺にその素顔を見せた。

「嘘だ…。如何して、如何してお前が此処に…」

 かつて喪った妻の顔を其処に認めた時、全てが滲んでぼやけた。気がついた時には、もう其処には何も無かった。


 上海の街角で、俺は目を覚ました。今まで見ていたものが、琵琶によって奏でられた音の世界であったと知るのに、少し時間がかかった。

 俺の目の前に居る男は、琵琶を弾き終わって俺の方を見つめている。黒い帽子を被り、黒の色眼鏡をかけた、ボロを纏った彼は、呆然としている俺に語りかけた。

「死んだ者は、たとい身体が死んだとしても、忘れられぬ限り生き続けると言う。それは実に素晴らしい事だ。だが、時としてそれは死者を苦しめる」

ポツポツと、雨が降り始めた。滴が剥き出しの土に染みて、紋様を形作る。

「お前は、妻の影に囚われていた。かつて喪った者の面影を追い続けている。生き続ける死者は、それによって生者を幸福にしてこそ、生き続ける意味がある。自分の姿を思い出して、幸福になる人々を見てこそ、彼ら自身の幸福もあるのだ。しかし、お前はどうだ?お前が妻を思い出す時、一緒に現れるのはなんだ?悲しみだろう、怒りだろう、憎しみだろう、苦しみだろう。お前の中の妻の姿は、絶えず苦しみに囚われて現れる。お前が妻を生かし続ける限り、その苦しみは永遠に終わることがないのだからな」

 雨はさらに強まり、ざあざあと激しく降り始めた。しかし、俺も男も此処から離れようとはしなかった。

「ならばどうしろと言うのです?忘れろとでも?あの忌まわしい戦いを、さっぱり忘れてしまえと?そんな事が、そんな事ができるのなら、生きている意味なんか無い!」

そうだ、その筈だ。大切な記憶を失わず、思い続けてこその人間だ。俺は檄語した。溢れ出る感情を止める術を持たず、俺は男に怒鳴り散らした。

 俺が暫く怒鳴ると、男は静かに言った。

「だから、だから私は君にこの曲を聴かせたのだ。王昭君の別離の曲をな。良いか、妻を忘れる必要はない。ただ慈しむだけで良い。王昭君の様に、去って行った者を大切に思い出すが良い。苦しみを思い出すのでは無く、幸福を思い出すが良い。それだけで、君にとっての王昭君は、荒野の向こうで幸福になれるのだから」

激しく降っていた雨は、少しずつその勢いを減じていく。俺の心に、男の言葉が染み透っていく毎に、雨は弱まって行った。

 「良ければ、二胡でも一曲君に捧げよう。たとい冷たい風が吹いたとしても、それは春の証だ。安らぎの始まりを告げる風だ。これから先の、君の未来が幸福である様に」

そう言うと、阿炳は二胡に弓を当てがう。その音はきっと、俺の心を癒してくれるだろう。遠い荒野の向こうで、王昭君愛しい妻が、微笑むのが見えた。

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