移民の木
入川 夏聞
本文
一
ママはいつだって、私のやることには賛成してくれていたし、どんなに忙しいときだって、必ず学校の行事には駆けつけてくれたわ。
だから、私が日本に行きたい、と言ったときも、ママはどの家具のどの引出しのウラから抜いたか知れない、古びたハンカチで丁寧にくるまれたお金を出してきて、こう言ったの。
「ミランダ、行っておいで。あなたにはいつも驚かされるけど、お母さんには、それが何よりも人生の中で嬉しいことだったわ」
ママはそう言って、壁に飾ってあったお祖父さんの写真を見た。
窓の外は、夕日の淡くて赤い光が、石畳に反射していた。
湿り気を帯びた道路の脇には、ブナの街路樹が立っていて、近くの公園まで続いている。
私はそのとき、不思議とその公園に植えられたもみの木やブナの林を、思い浮かべたわ。
長い冬の間、葉の落ちた木から無数に伸びた黒く細い枝が広がる姿は、いつものくもり空に混じりあって、それが夕日の淡い赤と混ざる。そこへ冷たい風がそっと吹いて、枝と枝がさわさわと鳴って。
なぜかとても、ほっとするの。
ユーイチ、あなたも懐かしいからと言っては、その公園でよくスケッチをしていたわね。
だから私は、帰国するあなたについていっても、きっとうまくやれるって、思ったの。
「我が家も、元々は欧州各地を転々とした移民の家系よ。あなたの茶色い瞳と黒髪、そして白い肌に浮かぶそばかすは、その証拠ね。たしか、日本人も黒髪だったはず。近所のニックと同じだから、きっと上手くやれるわね」
「ママ、ニックはいつも、俺はチャイニーズじゃないって、言ってるわ」
「あら、そうだった?」
暖かいスープとソーセージの香り。
付け合わせのポテトの、甘い匂い。
ママが運ぶ料理は、どれも美味しくて、私の幸せの源泉は、この素敵な食卓にある。
「ミランダ。どこでも、強く、生きるのよ。私はいつも、あなたを応援しているから」
――ありがとう、ママ。
二
【ソーセージサンドのお店。シュバルツ・ランド公式アカウントです】
『みなさま、いつもご愛顧ありがとうございます。
今日から首都圏では、緊急事態宣言が発令されましたね。
当店も休業をさせていただきます。ご了承下さいませ。
実は、今年オープン十周年だったので、いろんな企画を予定していたのですが、とても残念です。
店主のミランダも、私こと管理人ユーイチも、皆様の健やかな日々を心よりお祈り申し上げております。
ささやかではございますが、売れない漫画家ユーイチが、これから毎週、ミランダとの出会いから結婚、開店までのドタバタ、近況をマンガ形式で載せていきます。
皆様、ステイホームで、どうぞお楽しみを!!』
〈十周年、おめでとー!〉
……
〈おかみさん、ドイツから押しかけてきてたんだ、やるねえ〉
〈絵柄がかわいい!〉
……
〈ブルストサンドお気に入りだったので、残念です。また再開してほしい!!〉
〈へえ、日本の牛肉だとドイツと同じ味が出せないのかあ……この試行錯誤してる部分、感動しますね!〉
〈お取り寄せしたいなあ、むずかしい?〉
……
〈今はとても大変だと思いますが、どうか頑張って下さい!〉
……
三
「くっさいパン屋だねえ。迷惑なんだよ」
そう言って、近所に住むアキさんは新品の床にツバを吐きかけて、杖の跡をカツカツ刻みながら、出ていった。
そう甘くはないと思っていたけれど、開店から二週間、誰もお店には来てくれない。
日本人は皆、お店の前を怪訝な顔をして通りすぎて行ってしまう。
特に、近所の団地に住む老婆のアキさんは、毎日立ち退けだの、臭いだのと文句を言ってくる。
母の自慢だった料理、特にブルストサンドは、日本ではまだ、喜んでもらえない。
くやしい。くやしくて、悲しい。
私はユーイチに、この老婆に一言文句を言いたいと相談した。
「それはダーメ。古い下町だし、じっくりやらないと。あの近所の駅、あるだろう?」
「それが、何なの!」
「あの駅は、わりと最近出来たんだよ。ほら、目の前にタワーマンションがあって、若くて品の良さそうな家族が沢山いる」
「知ってる。だから、ここにお店出したのよ? 少し郊外だから、何とかお店を出せた。緑もあって、日本らしい落ちついた町」
「それは、違うよ」
「え?」
「ここは、作られた町さ。僕も昔は、よく田んぼのあぜ道でカエルを追いかけたり、林の中に秘密基地を作ったり……今は大きな道も通って、マンションなんかもたくさん建って。昔の風景は、ほとんどが思い出の中だけさ」
「でも、あの神社の雑木林も、河原近くの公園も、とても古いのでしょう。素敵だわ」
「まあね。だから、昔から住む人には、愛着がある。でも、気まぐれに起こる開発の波は、幾度も僕らの場所を洗い流して思い出に変えてしまった。だから、自分の居場所を壊しかねない新しい勢力は、警戒されるのさ」
「シタマチは、とても暖かいものって……」
「アニメではね。日本人は、他人に対してはどこまでも非情になれる。特に、自分が正しいと思っている間はね」
私は、じわり涙が出てきた。
ママの自慢の料理を、みんなに喜んでもらいたくて出した、このお店。
濁った、アキさんの、あのまなざし。
大好きなママが、意味もなく嫌われているよう。
そんなこと、とても信じられない。
「泣かないで、ミランダ。君がまず、この町を好きにならなきゃ。この町を、諦めないで」
四
【ソーセージサンドのお店。シュバルツ・ランド公式アカウントです】
『みなさま、いつもご愛顧ありがとうございます。
皆様のご要望がたくさんありまして、今週から持帰りと通販に対応いたします!
お店は開いてますけど、中では食べられないので、どうぞご了承くださいね』
〈やったー!! 絶対行きます!〉
〈ありがとうございます、嬉しー!!〉
……
〈この状況下で持帰りと言えど、密を作るのは如何なものか〉
〈今週のマンガも良いですね! ほのぼのとして、癒されます~〉
……
〈お取り寄せ、とても美味しいです! 応援してます!!〉
……
五
私はまた、この神社に来た。
悲しいときや、辛いとき。いつもここの境内から、町を見下ろすの。
特に冬は、くもり空と、街路樹の枝がからみあった懐かしい空の風景が、あの河原沿いからこの神社まで続いていて、そこを通ると、しんみりとした風に乗った木々や枯れ草の音になでられて、ざわめいていた心のひだが、そっと癒される。
そうして、この決して広くはない境内の砂利石の感触と、私の好きなあのガラガラする鈴が迎えてくれる頃には、少しだけ、日本が好きな気持ちを、思い出す。
それから、力強く送り出してくれたママの言葉が聴こえてくる頃には、勢いよくお賽銭を放って、私は笑顔になって、ユーイチの待つお店へ、帰れるの。
六
【市の公式アカウントです】
『市民の皆様、まだ緊急事態宣言は未解除です。周りの方々のため、三密を避け、外出を控えて下さい。広報課』
〈あの居酒屋、まだ開いてますよ? 三丁目のスーパーも結構な人で、怖いです〉
〈おいおい、一度閉店したあのパン屋が、また今日店を開けてるの見たぞ。非常識だろ〉
〈店主は外人ですから、日本語わからんのでしょう。バカは国に帰れ〉
〈迷惑ですよね、最近、そういう甘えた外人の起こす事件、多すぎません? 国は何とかしろ!〉
…
〈今日、あのパン屋、窓割られてた笑。ザマァ〉
〈天罰ですね。三密避けろ、自粛しろと言っても聞かないアホには良い薬では?〉
〈百個注文して即キャンセルしてやった笑〉
〈やべえ、それ犯罪じゃね?w〉
……
〈なんか、ババアに店主がなぐさめられてたような……老害もいい加減にしろ、密を作るな!〉
〈まとめて死ねばいいのに〉
〈その画像、うけるww〉
……
七
「ミランダ。ちょっと、いいかい?」
来週公開するマンガができたと言うので、私は通販用の袋詰め作業を止めた。
時刻は、深夜二時。ふと、店の入口が目に入った。
黒いダクトテープが、クモの巣のように、割れたウインドウに張りついている。
「あんた泣いてないで、ほら。これ、持ってきたよ。あたしだって、独りで何とか生きてるんだ。こんなことで、負けるんじゃないよ!」
アキさんはそう言って、夫の形見道具だという太いテープを貸してくれた。
そのとき、思った。
負けないってことは、強く生きるって、ことなんだって。
そして、強く生きるってことは――。
「二つ、描いたんだよ。どちらが、良いかな、と思って」
「うん」
「一つは、これ」
それは、元々来週にやろうとしていた、十周年イベントをマンガの中でやってみた、と言う設定の話だった。
「……」
自然に、涙があふれてきた。
こんなに幸せそうなのに。こう、なりたかったのに。
みんなに、喜んでほしいと思って、一生懸命、やってきて。
突然、こんなことになって……。
「もう一つは、これ」
こちらは、窓を割られたり、嫌がらせを受けた事件を、ドキュメント風に描いたものだった。
かなりシリアスに描いてくれていて、私の心情をユーイチがよく察してくれていることが伝わる内容。
「どちらを載せるかは、君の気持ちに任せるよ」
「うん、わかった――」
エピローグ
ミランダ、この前はあなたのお店を見せてくれてありがとう。
まさかパソコンで見られるなんてね、ニックが詳しくて良かった。
彼がね、あなたのお店のマンガを翻訳してくれたの。
私を日本へ招待してくれようとしていたなんて……本当に、あなたはいつも、私を驚かせてくれるわ。
ありがとう、あなたは私の誇りよ。
あのマンガの中では、みんな笑顔だったわね。
本当は、苦労もたくさんあったことでしょう。
あなたは、お祖父さんそっくりね。
移民の苦労を、ついに何も、言わなかったのだから。
あの公園も、今は若葉が芽生えて、人が集まり始めている。
林の木々は、大抵が植林だけれど、強く根を張って、どんなことにも耐えて、いつも変わらずに、私たちをいたわってくれている。
ミランダ。これからも変わらず、強く、生きるのよ。
いつまでも愛しているわ。母より。
(了)
移民の木 入川 夏聞 @jkl94992000
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