人悪カタグラフィ(過去編)1話

小倉さつき

第1話

深い深い水の中、少女は流され、沈んでゆく。

無意識に反芻するのは、後悔ばかり。

胸を占めるのは、哀しみと、諦め。

それでもひとかけらの、希望をその内に抱いて。

そして少女は、流れ着く。




体に打ち付ける水の感触で、意識が戻る。

(……ここは)

うつ伏せになっている体は重く動かない。

全身が濡れているらしい。体温が奪われて氷のように冷たい。

地面は砂地のようで、微かに動くだけでもちくちくと肌に小さな痛みが走る。

瞼は少ししか開かず、視界も霞がかって、うまく見えない。

意識が戻ったばかりの怠い頭で、なんとか現状を知ろうと、唯一自由な聴覚で音を拾う。

「……だ……んで……」

「……に……」

水音と、誰かの話し声が遠くに聞こえる。

重い瞼をなんとか開け、鮮明になりつつある周りを見る。

まず目に入ったのは、自分を覗きこむ大きなトカゲのような生き物だった。

「っ!!」

思わず飛び退き、後ずさる。

巨大な口からは鋭い牙がいくつも見えている。噛み付かれたらひとたまりもないだろう。

襲われる。

そう心が危機を叫んでいるのに、体は恐怖にすくんで石のように固まってしまう。

その様子を見た大トカゲは、周りに向かって声をかける。

「おい、こいつまだ生きてるぞ」

ざわ、と空気が淀んだ。

そこで初めて、周囲の存在に気づき、見渡す。


肌が緑のもの。

頭から大輪の花を咲かせたもの。

翼が生えているもの。

巨大な動物のようなもの。

どろどろと、輪郭が蠢いているもの。


周りは皆、異形の姿をしていた。


「……――!!」

ただでさえ冷えきっている体が、血の気が引いてさらに凍える。

自分は夢でも見ているのだろうか。

今まで自分が生きてきた世界に、こんなものはいなかった。

少しでもこの場から逃げたくて背後を見るも、そこに広がっているのは広い砂浜と――海。

海に逃げ込むなど、出来るはずがない。

異形たちは距離こそ離れているが、半円を描くように囲んでおり、隙間を見つけることも敵わない。

異形たちはなおも、自分を話題にざわざわと話し込んでいる。

「なあ、この臭い……やっぱり人間のもんだ」

一瞬。

誰かが発したその言葉は、場を静まり返らせた。

ただ、一瞬だけだった。


「人間!? 人間だって!?」

「どうしてこの島に人間が!」

「神聖な島を汚すのか!」


怒号、怒号、怒号。

「人間」という言葉を聞いた途端、すべての異形が叫び出す。

あまりにも騒ぎ立てるせいで、大地が大きく震える。

殺気立つ空気に、ただ耳を塞ぎ、目をきつく閉じることしか出来なかった。

「憎き人間は」

「排除するべきだ」

異様な空気はさらに熱を上げていく。

「殺せ!殺せ!」

「人間は殺せ!」

殺される。

そう思った時だった。


「やめろ」


今まで聞こえていたものとは違う、冷静な声だった。

水を差されたように、場は静まり返る。

思わず伏せていた顔を上げる。

すると、囲みの一部が蠢き、奥からひとつの物影が現れた。


まず目を引いたのが、その美貌だった。

この世のものと思えない、精巧な作り物のように整った顔立ち。

肩までの銀髪に、真っ白な服装。

体つきからして、男性だろう。

先ほどまで騒いでいた異形とは違う、むしろ自分と似ている外観。

しかし背中から見えている羽が、異形の存在なのだと認識させる。

薔薇色の瞳がこちらを向き、反射的に体をびくりと震わせる。

――ああ、きっと、このひとが私を殺すんだ。

恐怖と共に、どこか安堵を覚える。

死ぬ間際に視るのが、こんなに美しい存在なら救いもある、と。

そんな感情を知ってか知らずか、美しい異形が口を開く。

「お前、名前は」

「…リーリエ、と申します」

「名字は。名は正しく名乗れ」

名字。とは、なんのことか。

困惑し黙っていると、双眸が鋭くなる。震える声で、答えるしかなかった。

「名字…は、ありません。リーリエが名前です。

…『百合屋敷のリーリエ』と呼ばれることもありますが」

貴族社会では、家の特徴が通称となる。

特徴的な屋敷を持つことが、社交界でのプロフィールでもあり、ステイタスだ。

名家のひとつである自分の家は、何本も百合を植えた美しい庭園を誂えていた。

故に『百合屋敷』。

『百合屋敷のリーリエ』が、自分にとってのフルネームだ。

「名字は持っていない、と?」

答えに納得しないのか、男性の声が低くなる。

声をかけられているだけなのに、鋭い刃物を喉に当てられているような気さえする。

「…はい」

誤魔化しも、言い訳も許さない声に、そう答えるしかなかった。

「やっぱり変だろ、名字がねえなんて。やっぱり人間だ」

遠巻きにしていた異形が糾弾する。

再び騒ぎ出しそうな場を、男性が諌める。

「やめろと言っている。人間ではないかもしれないし、例えそうだとしてすぐ処分する必要もないだろう」

「けど、元老院のヤツらが黙っちゃいねえでしょうに」

「元老院には後々伝える。処遇についてはその時に聞けば良い」

なおも反論する異形の群れを淡々と相手にする彼は、おそらく地位の高い存在なのだろう。

一言彼が意見をするだけでも、周りは勢いが削がれている。

そうしてほとんどの声が収まった頃、急に腕を掴まれた。

「ひゃっ」

ぐい、と上に持ち上げられ、その場に立たされる。

いつの間にか美貌の異形が傍におり、自分を立たせたのも彼だと気づく。

「いつまでその場に居るつもりだ。凍えて死にたいか」

「え…」

「私の屋敷に連れていく。まずは外見を正してもらう」

吐き捨てるように言葉を紡ぎ、有無を言わさぬ力で腕を引っ張られる。

慌てて足を動かすが、濡れて張り付いた服が足に纏わり付き、躓きそうになる。

転びそうになっても、彼は立ち止まることなく進み続ける。

彼は、私を助けたいのか、わからない。意図が読めない不安から、泣きそうになる。

そうして今も自分を睨み付ける異形の群れを後にした。


***


しばらく歩かされた後、街と思われる場所へ出た。

先ほどとは違う、けれどやはり自分とは似ていない別の異形の姿らが見えた。

すれ違う異形は皆、こちらへ目線を向ける。

ずぶ濡れ姿のものが横を通れば、嫌でも目を引くだろう。

種族に気づかれれば、悲鳴が上がり、また怒号が落とされる。

まるで公開処刑だ。

「目的地はもうすぐだ。耐えろ」

周りの異形を軽くあしらう彼は、今も腕を強く掴んだまま前を歩く。

そして広場と思われる場所に辿り着き、とある装置の前で彼が立ち止まった。

ぼんやりと光る、水晶のような石が台座に嵌め込まれている。

掴まれたままの腕に、爪を立てられそうなほど力を込められる。

「飛ぶぞ。終わるまで腕を振り払うなよ」

そんなことをしなくても、逃げるつもりはないのだが。

抗議する気もなく、ただ小さく頷く。

彼の手が石に触れ、視界が眩い光に包まれる。


再び目を開くと、がらりと景色が変わっていた。

目の前にあるのは、広い庭園のある、豪奢な屋敷。

「着いたぞ」

そう言い、彼はようやく腕を離す。

やたらと強い力で掴まれていたのは、ここへ連れてくるためだったのだろう。

先程の石は、恐らく転送魔法の込められた魔石。

転送中に離れれば連れ立って転送できない。それを防ぐ目的だったのだ。

(でも、あんな小さい石で)

自分の知る限り、人を運べるほどの魔力を持つ魔石は相当大きくないと使えないはず。

台座に細工があるだろうとはいえ、手で覆えるほどの小ささで、あれほどまでの効果を発揮するなんて聞いたことがない。

今までの常識が、何一つ当てはまらない。

ひとつの結論を導き出す。――自分は、別の世界に来てしまった、と。

そう考えれば、何もかもがすとんと腑に落ちる。

「何してる。早く入れ」

ぼんやりと考え込んでいると、遠くから声をかけられた。

見れば、屋敷の入り口に立ち、扉を開けた状態で彼が立っている。

「あ……申し訳ありません」

意図はどうあれ、招待されているのだ。

失礼を詫び、屋敷の奥へ踏み出した。


屋敷は外見からの予想通り、内装もとても豪華な作りだった。

吹き抜けの玄関、細かい装飾の数々に、年代物の品々。

自分の住む家もなかなか金がかかっているはずだが、比べ物にならないほどだ。

「こちらだ。着いてこい」

促され、これまた豪華な廊下を歩き案内されたのは浴室だった。

「濡れたままでは体に毒だろう。一旦暖めるといい。

服は『それ』に入れておけばすぐ乾くが、一応着替えを用意しておく」

『それ』と指差された機械は、服を洗うもののようだ。

ただ、今着ているのは水だけでなく砂や泥のような、汚れも付いた服だ。海藻らしきものもへばりついている。

そのまま入れてしまえば故障しかねない。

入れていいのかと尋ねると、怪訝そうな顔をされる。

どうやらこの機械はこの程度で壊れないらしい。

「済んだら応接室に来い。では」

簡単に応接室の場所を伝えた後、彼は去り、浴室に一人取り残される。

(……どうしようかしら)

知らない世界に放り出されたということは把握したが、頭はまだ混乱したままだ。

何をしていいかも自分ではわからない。

いや、入浴しろと言われたが、いきなり連行された家の浴室を使うのは抵抗がある。

かといって体はすっかり冷えきっている。勿論、暖められるなら有難い。

(悩んでも仕方ない、か)

厚意に甘え、素直に従うことにした。


使い勝手のわからない機械に四苦八苦しながら、なんとか体を清める。

入浴前に洗い始めた服も、機械の上に綺麗に畳まれて置かれている。

気になっていた汚れもすっかり消え、シワひとつない。

つくづく技術の差を見せつけられる。

すごい、と思うと同時に、自分の住んでいた世界とは何もかもが違っているのだと痛感する。

住人、土地、技術。

16年生きてきた中で、何一つとして見たことがないものばかり。

改めて、自分の境遇を思い知る。

(どうして、私はここに来たんだろう)

ここに来る前に何があったか、記憶を辿る。

確か、海に落ちたのだ。

けれど、どうして落ちたのか、肝心な部分が抜け落ちている。

海に入るのは禁忌のはず。

余程のことがあったのだろうと思うが、それ以上のことが思い出せない。

ふと、自分の服ではない、別の服が畳まれて置かれていることに気づく。

着替えを用意すると彼が言っていたので、おそらくこれがそうだろう。

(……どうしようかしら)

先程まで着ていた服は乾いているが、また着る気には何となくだがなれなかった。

それに、服にも自分にも、磯の香りが染み付いており、禁忌を犯した証拠のような気持ちになる。

(折角だし、とことん甘えてしまおう)

それに、応接室には彼が待っているはずだ。

これ以上無礼を重ねてはいけない。

そう考えて広げた服を見て――当惑を覚えつつも着替えを済ませる。


「お待たせいたしました」

応接室の扉を開けると、彼はこちらを背にして椅子に掛けていた。

何かを飲んでいたのだろう、カップを傾けている。

「ああ」

カップを机に置いてから、こちらを振り向く。

そこで、私が戸惑う視線を向けていることに気づいたのだろう――少しばかり目線を泳がせた。

「……着替えを探したのだがな、女物の服がそれしかなかったんだ。悪気はない」

そう、私が着ているのは女中服。

実家でも使用人が似たようなデザインの服を着ていたので、すぐにわかった。

「別にメイドとして雇うつもりではない。本当に替えがそれしかなかっただけだ」

すまなそうに狼狽える声から、本音であることが伝わる。

ここで働かせるために連れてこられた訳ではないらしい。少々安心する。

「……いえ、替えの服を用意いただいただけでもありがたいです」

今の彼なら、気負いせず会話が出来そうだ。

張り詰めていた心が解れているのを感じる。

そういえば、出会ってから、戸惑うばかりでお礼をしていなかった。今更ながらそんなことに気づく。

「あの、先程は救っていただいてありがとうございます」

感謝の意を示し、ぺこりとお辞儀をする。

命の恩人である彼は、礼は要らないとばかりに淡々と返事をする。

「仕事上がりに街に寄ったら、海辺の方が騒がしいと聞いたので野次馬しただけだ」

「それでも、貴方が来てくださらなかったら、きっとあのまま私は殺されてましたから」

「……命が救われたとは、まだ言っていないがな」

ぼそりと彼が呟く。

どういうことだろうか。

改めて話をしよう、と突っ立ったままの私に座るよう促される。

彼に向かい合う席に座ると、彼も姿勢を正す。

そして、海辺で見たあの刺すような視線を再び向けられる。

「では聞こう。……お前は、人間、なんだな?」

誤魔化しは許さない。真実のみを話せ。

先程のほんのりとした和やかな雰囲気が瞬く間に圧し潰され、体も心も恐怖で縛られる。

息がうまく出来ない。

まるで尋問だ。

いや……尋問そのものだった。

真実を告げなければ殺される。本能がそう訴えている。

「……はい。私は……人間、です」

「人間は、この国…いや、この島には一切居ないはずだ。それが何故お前は此処に居る?」

「それは……」

それは、自分だって知りたい。

気がついたらここにいた。自分が辿れる記憶はそれだけ。

それを正直に伝えて信じてもらえるだろうか?

いや、自分に与えられた道はそれしかない。

震える手を握り締め、真っ直ぐに目を向けて話す。

「ここに来た理由は……わかりません。海に落ちて、……おそらく流されて、目が覚めたら、あの場所にいました」

「それを信じろと?」

鋭い視線が、さらに細められる。

大きく体を震わせる私に、彼は続ける。

「人間はこの島では憎悪の対象だ。殺せ殺せとあの場でも散々言われていたから判るだろう?

そんな存在がわざわざ狙ったように流れ着く理由がわからんな」

「そう、仰られても……本当に、偶然、なんです」

今でも耳に残っている、罵声の数々。

だが、今の発言で気になることがある。

「人間は殺すべき、と考えられているなら……貴方も同じ考えなのではないですか?」

「確かにな」

あっさりと、彼は認めた。

「だが、あそこまで過激には捉えていない。今の世代は人間との諍いなど正直どうでもいいと考えているのが大半だ。過敏に反応するのは『そういうものだから』と深く物事を考えない輩か、

……人間と共存していた頃の魔族ぐらいだ」

「っ!?」

人間が、あの異形――魔族と、共存していた?

そんなはずはない。

自分が教わった歴史では、人間と、妖精しか住んでいないはずだ。

それに、自分の知る国とは……世界とは、『自分たちの住んでいる場所以外に、存在したことはない』のだから。

だが、目の前の彼は、魔族が確かに人間と共存していたことがあると告げている。

その瞳に偽りの影はない。

(そんなはず、ない)

自分は別の世界に来てしまったと思っていた。

しかし、この真実を告げられ、別の可能性が浮き上がる。

かたかたと体が震える。尋ねなくては、聞かなくては。

「……ここは、ここは……どこ、なのですか」

その質問に、彼は訝しげに、しかし嘲るように答える。


「此処はユスティーツ。人間共の住んでいる島、イリュジオーンとは別の国。

憎き人間から追い出された魔族が作り上げた国だ」


告げられた真実に、愕然となる。

自分は別の世界になんて来ていない――巧妙に隠されていた、別の「国」に来たのだと。

今まで信じていた何もかもが信じられなくなり、震える体を抱きかかえる。

その様子を見て、彼はクックッと笑い出す。

「……どうやら、人間側は都合の良い歴史に作り替えていたようだな?」

その通りだ。

目の前の美貌の異形が、嘘を付いていないのであれば――人間は、魔族の存在をひた隠しにしていたことになる。

ならば、自分の学んできた歴史とは何だったのか。

嘘で塗り固められた、虚像の国。それが自分の生まれた国なのか。

「人間が魔族の存在を歴史からすら抹消していたとはな。嘘の帳尻合わせを確認するのも面白そうだ。

――だが、私には別の事柄に興味が向いていてな」

そう言いながら、彼は私の方へ歩み寄る。

そして、耳元で囁く。


「私はお前の――人間の血が飲みたい」


「……っ!」

ガタッ、と思わず椅子から立ち上がり、後ずさる。

血を飲みたい?

何を言っている?

怯え切った私に、彼は舌なめずりをしながら言葉を続ける。

「私の種族はヴァンパイア。獲物の生き血を啜り、自らの命を紡ぐ生き物。

…だが代を重ねるごとに獲物は減り、今や吸血行為は必要ないほど種族そのものが変化している。

かといって、血を欲しないわけでもない。たまに生肉を喰らえば済む程度だ」

言いながら、彼はゆっくりとこちらに向かって歩みを進める。

「一度でいいから獲物を捕らえて血を啜ってみたい。そんなことをうっすらと考えてはいた」

「……」

「その獲物が珍しいものであるなら、より記憶に残るだろう?

まさにその『珍しい獲物』が目の前に居る」

この国にいないはずの存在。

確かに狩りの獲物に打ってつけだ。自分でもそう思ってしまう。

「……でしたらなおさら何故、あの場で私を殺さなかったのですか」

「あの場には他にもお前を殺したい輩が大勢いた。奪い合いになるのは面倒だし、元老院……人間嫌いの古い考えをした者共が、何を言ってくるかわからなかったからな」

要は、自分の娯楽を確保するため。

そんな理由で、自分を助けたのか。

少しでも感謝したことを後悔してしまう。

「人間と聞けばあらゆる憎悪を込めて行動するのが元老院という組織だ。この国に人間が居ると知れば、それはさぞや盛大に、残酷に、お前の命を弄ぶだろうな。

あれだけの騒ぎになった以上、元老院にも詳細はすでに伝わっているだろう。私の屋敷に居ることが突き止められるのも時間の問題だな」

目線を外し、自嘲するように彼が笑う。

再び目が合わせた時には、獲物を狙う獣の目をしていた。薔薇色の瞳が、逃がすまいとこちらを睨む。

「元老院から殺害遂行の許しが貰えれば、お前の生き血を啜り尽くす。幸いにも、請えば通るほどの地位はあるからな」

彼との距離が、手で触れられそうなほどに詰められる。

逃げようとするが、足はすくんだまま動かない。

彼は真正面に立ち、私を見下ろし宣言した。

「リーリエ。この屋敷に住め」

「え……」

「奴らはどう命を奪うか、きっと考えに考えて決めるだろう。だからそうすぐには処刑はされない。それまで監視役が必要だろう?

ああ、元老院から何か返答があるまでに、余計な行動はするなよ。魔族の害になると見なせば、その場で私が血を奪う。

独断ではあるが、敵となるものの排除をしたまでだと伝えれば反論もされんだろう」

つまり、この屋敷で、彼に監視をされながら、自分の命が奪われるまでと居ろと言っているのだ。

それも、彼に有害だと判断されればその時点で処分されるという条件付きで。

いつ殺されるかわからないまま、毎日を怯えて暮らせ、と。

(そんなの、処刑されているのと変わらない)

嫌だと思っても、自分に拒否権はない。

そもそもここから逃げ出したところでどう動く?

他の魔族に掴まって……殺されるだけだろう。

それでも、そんなことを承諾できるわけがない。

「……」

俯いた顔に、前髪が被さる。

髪から、ふわりと特徴的な香りがした。

洗っても落ちなかった、海の匂いが。

(……ああ、そうだった)

経緯はどうあれ、自分は海に入ってしまった。

つまり、すでに禁忌を犯している身。

罪を犯した者には――罰が必要だ。

(それに、故郷とは違う地に着いた時点で、一度死んでいるも同然だわ)

そう考えてしまえば、先程まで心に巣くっていた恐怖も、生への執着もすぼんでしまう。

「ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」

下を向いたまま、彼に問う。

「なんだ」

「貴方のことは、何とお呼びすればよろしいでしょうか」

この屋敷の主人。――きっと、私を殺す存在。

そんな彼の名前を、まだ聞いていない。

「私の名前はユリウス・ブラッディローズ。好きに呼べばいい」

「かしこまりました。……ユリウス様」

姿勢を正し、彼へ深く頭を垂れる。

「貴方の害になることは決して致しません。どうぞ、これからよろしくお願いいたします」

自分に逃げ道などない。ならば、悔いのないよう生きるだけ。

そして、すべての後悔を無くした頃、彼の瞳を見つめながら彼の手で、この命を終えるのだ。

(それが、私の最後の希望)

せめて最期は、自分の望む通りに。

それだけを胸に、この地で生きることを誓った。

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人悪カタグラフィ(過去編)1話 小倉さつき @oguramame

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