第18話 現在 〜君と帰る場所〜

——和水



 俺の思い出の中の椿さんと、百貨店で会った椿さんと、目の前の椿さんとは、だいぶ人が違って見えた。

 思い出の中の椿さんは、申し訳ないけれど女性としての魅力を俺は感じなかった。当時は小学二年生だったわけだけど。正直、バカにしてた記憶がある。

 それと、百貨店の女性もまた同一人物とは思えなかった。海外で成功した人の貫禄が出たのか、あの時の自信のない椿さんではなくなっていた。

 そして、この目の前の女性。頬にキスしたくなるし、エスコートしたくなる。百貨店の時は髪も適当なまま、眼鏡もしていた。そんな変装レベルだけで、こんないい女を見極められなかった俺は失格だ。

 それこそ、高校生の頃から目をつけていたらしい亮太さんは、女性を見る目も本物かもしれない。

 相変わらず、手の届かない人だ。


 俺がカフェで椿さんにアプローチする間、圭夏は呆れたように隣の席で俺の肩を殴っていた。


 そして亮太さんの車の前でのシーン。

 いい女がいい男に抱き締められる撮影でもしてるのかと、数人が立ち止まるほどだった。

「わっちゃん、あたしたち完全にスタッフさんだよ。そろそろ休憩入りまーすてしてあげなきゃ」

 ごもっともだ。

「亮太さん、人集ひとだかりできる前に早く車出して」


 そして、まさか、こんな時に、あそこに行くとは思わなかった。

 椿さんが、行きたいと行ってくれた。それがなきゃ、俺はもう一生行かなかったかもしれない。


 最初はもちろん、何度も何度も足を運んだ。何度も何度も足を運んで、何度も何度も突き返される。

 それを繰り返すうちに、俺は行かなくなった。勝手にしろ。その気持ちしか出てこなくなった。

 せっかく、圭夏も一緒に行ってやってるのに、なんの反応もしないんだ、あいつ。


 亮太さんが車を向かわせたのは、俺の家のすぐ近く。

 悠哉の家だった。

 俺が躊躇ためらって動かなかったのを見かねて、亮太さんがインターホンを押す。悠哉のお母さんの返事が聞こえて、玄関が開けられる。

 俺たちの顔を見て、驚きと共に、何しに来たかはわかったようだった。

「あなたは……」

 椿さんに目をやる、悠哉のお母さん。俺と亮太さんは、もちろん知っている。

「飯島椿と申します。はじめまして。白澤桜、和水くんのお母さんの妹です。私、悠哉くんに、お礼がいいたくて」

 椿さんが頭を下げると、悠哉のお母さんはくしゃりと笑顔をつくった。

「いらっしゃい。上に居ます」

 悲しげな顔をした悠哉のお母さん。


 全員会釈をして、中に上がらせてもらう。


 もう、悠哉の家に来るのは何年ぶりだろう。中学の初めくらいまでは、毎日のように、ドア越しに話しかけに行った。

 でも、俺だけの力じゃ、悠哉を変えることはできなかった。他の身の回りの人もそれは同じだ。

 俺の声も、ましてや圭夏の声なんて、あのドアの向こうには届かなかった。


 悠哉は、入学式直後に倒れて病院に運ばれた。喘息を持っていた悠哉は、肺に菌が入り込んだために別の病を患っていたらしい。それが発覚して、入院を余儀なくされた。

 そして、無事病を克服して、退院した。退院はしたが、別のショックなことで、塞ぎ込むようになった。


「わっちゃん」

 階段を上がる途中、圭夏が、俺の袖を握る。その手を掴もうとしても、掴めなかった。

 後ろを振り返る。椿さんが、首を傾げてこっちを見た。

「どうかした?」

「いや、なんでも」


 俺たちは悠哉の部屋の前に来た。


 悠哉は、あの時から部屋を出ていない。

 入院と退院の間に起こった事実が信じられなくて。全ての自分のせいにして、悠哉はこの部屋に閉じこもった。


 椿さんが、部屋をノックした。

「久しぶり、悠哉くん。覚えてるかな、亮太さんのカフェとかで、一緒にお茶を飲んだ、椿です」

 中から反応はない。

 静かにドアノブを回してみるが、案の定鍵が掛かっている。

「私、悠哉くんにお礼を言いたくて——」来たはいものの、何を話すか用意してなかったのか、椿さんは辿々しい。

「来ました」

 直接会うつもりでいたからか、ドア越しの会話は、風船の終わりのようにしぼんでいく。


 しばらくの間。椿さんは、どうしよう、という顔を俺と亮太さんに向ける。


「お久しぶりです。元気そうで、なにより」

 部屋の中から声がした。

 数年ぶりの声。聞いたことがないほど、大人びた声。


 俺が扉に飛び付きそうになったのを、亮太さんに押さえられる。


「悠哉……」

 思わず声が出た。


「もう、来ないでいいよって言ったよね」

 悠哉が言った。そう、この言葉を聞いて、カッとなった俺は、それ以降ここに来なくなった。


 亮太さんが、俺の肩を叩く。声は出さないがジェスチャーで、話を続けろと伝えてきた。俺が頷くと、亮太さんはポケットから針金を取り出す。


「俺、もう高二になったんだ」


 亮太さんは、細い針金をドアの鍵穴に差し込む。この人、鍵開けの芸当まで身についてんのか。


「だから、もうお前の背超えてると思う」


 部屋からの反応はない。

 俺ももう、言葉がつまる。俺は扉に両手をついていた。

「だから、その……」


 この向こうに、悠哉がいるんだ。俺らの、兄ちゃんがいるんだ。


「悠哉、俺一人は寂しいんだよ……」


 亮太さんの頬が、にやりと上がった。


「会いてえよ、悠哉……」


 亮太さんが立ち上がって、扉を開けた。

 突然開けられて、俺は部屋の中になだれ込む。


「久しぶり、悠哉くん。元気そうで何より」

 ひらひらと手を振る亮太さん。


 顔をあげるとそこは、昔から知る、俺が知ってる悠哉の部屋と何も変わらなかった。UNOが置いてある机。トランプが隠されていた棚。たくさん聴かせてもらった洋楽のCD。

 俺、カーペンターズめちゃめちゃ好きになったんだぞ。色々、曲についての話とか聞きたかったんだ。


 ベッドに背を丸めて座り込む人物は、こちらを見て目を丸くしていた。

 随分と久しぶりに見るその横顔は、当時の面影を残しながらも、まったく知らない顔になっている。

 そりゃそうだ、五年以上も見ていなかったんだから。


「みんな、元気が有り余ってそうで」

 心からの皮肉じゃないことは、悠哉の声でわかる。


「裕哉くん、覚えてるかな、私——」

 悠哉は微笑んだ。

「もちろん、覚えてますよ。妖精ちゃんさん。美味しいココアでも持ってきてくれたんですか」

「そ、そうなの。私、あの後本当に海外に行ったの。悠哉くんのおかげで、私変われた。悠哉くんがいなかったら、私あのまま沈んでしまっていたから。美味しいココアも買ってきたのよ、悠哉くんに」


 椿さんの言葉に、悠哉の笑顔はだんだんと作り笑顔に変わっていく。

「ありがとうございます。置いていってくれれば、いつか飲みます」


「悠哉、一回表出ろ」

 俺が言うと、悠哉はあからさまに顔をしかめた。

「なんで」

「なんでもだよ! こんな陰気臭いとこにいたって憂鬱になるだけだ」


 何年も経ってるのに、部屋の様子はあの時となんら変わってない。病院から退院してから、悠哉はある事実を知った。それ以来、部屋から出てこなくなった。そこまで、お前を追い詰めたのか? お前のせいじゃないのに。


 俺が、行かせたから。

 俺が、追いつかなかったせいでもあるのに。


 目の前にいる、悠哉だったはずの男は、顔をくしゃくしゃにして俺を見てきた。


「僕が、生きてる資格はないんだ。僕のせいで、圭夏が——」

「じゃあもう、死んじまえよ」

「和水くん!」


 悠哉のぐちぐち言う言葉に苛立った俺が言い放つと、椿さんが慌てて俺の手を取る。

 だってそうだろ、死にたいんなら死んじまえばいいんだ。なのに、こんな何年もこの部屋に閉じこもって。こいつの時間は、あの事故から止まったままだ。

 俺が何度も呼びかけても、こいつは動かなかった。

 ずっとずっと、一緒のはずだったのに。



「死んだら、圭夏に会えるかなあ」



 悠哉の発した言葉に、俺の沸点が到達した。

「ふざけんな!」


 椿さんの手を振り解いて、ベッドに上がり込んで、俺よりも細くなっている悠哉の胸ぐらを掴む。軽かった。軽すぎた。俺の大好きなお兄ちゃんは、人じゃないように痩せ細っている。


「お前が思うようなとこに圭夏はいねえよ! 圭夏は、圭夏は——」


 ここまで大声を張り上げたのは久しぶりだ。絶頂とは言わないが、非常にすっきりと気持ちよかった。

 なぜかって、長年の思いを、やっとぶちまけることができたのだから。言っちゃいけないと、勝手に思い込んでいた。思い込んでしまったが故に、ここまで追い詰めてしまっていたことに気付けなかった。



「——あいつはもう死んだんだ」

 自分で言って、自分の目から涙が出ていることに気付いた。



 そう、あいつは死んだんだ。ずっとずっと前に。



 悠哉が入学式で倒れたと聞いた俺と圭夏。

 慌てて悠哉の家を飛び出した俺たち。

 慌てすぎていた。

 俺より少し早く飛び出した圭夏の後を追って行く。

 いつも二人の時は、赤信号をダッシュで渡っていた。いつものことだったから。悠哉に注意されない限り、渡れていた赤信号。

 車が走ってきたことに、気付かなかった。


 車に跳ね飛ばされ、宙を舞う圭夏を俺は見ていた。見てるだけだった。



 俺はふと、悠哉の隣に立つ圭夏に気付く。なんだかすごく小さな頃の、圭夏。圭夏って、こんな小さい女の子だったっけ。


 小さな腕を精一杯に広げて、俺と悠哉を抱き締めてくる。細い腕は冷たくて、俺はその細い腕を上かから包み込んでやることができない。


 小さな圭夏は、にやにやした顔で、俺に何かを見せつけてくる。それは、俺が圭夏とのデートの前に掘り出していた、小学生の時にもらった悠哉からの手紙だった。


「悠哉」


 俺に胸ぐらを掴まれたままの悠哉は、殴られるんじゃないかとびくびくした様子で待っている。


「あの手紙、小っ恥ずかしくて読めたもんじゃなかった。この部屋から出てこないなら、大声で読み上げるぞ」


 悠哉の顔が、一気に真っ赤になった。

「あれ読んだの!?」

「読んだ」

「大人になってからって……」

「高校生ももう、大人だろ」

「捨てて!」

「お前が部屋から出るんならな」


 俺の言葉に、抵抗していた悠哉はぴたりと動きを止めた。

 あの頃とは全く違う、自信のなくなった目。勉強を教えてくれてたお兄ちゃんは、杉の木でいつも笑ってたお兄ちゃんは、今目の前にいる。これからは、たくさん話ができるだろ。


 もう、後ろは振り返らずに。


「一生のお願いを、してもいい?」

 悠哉は一言一言小さく丁寧に言った。

「お前、もう一生のお願い使えないんだぞ。忘れたのかよ」

 俺の言葉に、悠哉は顔をくしゃくしゃにして笑った。


「もう一度、友達になってくれませんか」



 さあ、これから大好きな音楽の話をしよう。

 話したいことは、たくさんあるんだ。

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空に奏でた僕らのフーガ 伊ノ蔵 ゆう @yuu5syou

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