酩酊のロギカ
「
「いんうぃ……なんですか? ヤスさん」
深夜一時、行きつけのバーでベロベロに酔っぱらった、「ヤスさん」と呼ばれる中年男性と話し込んでいて出てきたその言葉、最初はもう呂律が回っていないのかと思ってしまった。しかしよくよく聞いてみれば、それは"In vino veritas"というラテン語の格言についての話であるとのことだった。いつもは話すことと言えばギャンブルか野球、あとは配偶者の愚痴くらいな人だったから、ラテン語などという知的で高尚で高潔な言語のフレーズが飛び出てくるのがあまりにコミカルで、僕は思わず吹き出してしまった。
「おいおい、何笑ってるんだよ。いいか、この格言はな、とても素晴らしいんだ。Vinoとはワインの意だ。そしてVeritasは、真実。つまり、酒杯の中にこそ真実が沈んでるってことなんだよ。俺たちが素面で見てるこの現実なんてまやかしで、酩酊って眼鏡を通して見る世界にこそ真実があるってことなんだよ」
「はは、そりゃ素晴らしいですね。酒飲みにとっちゃ夢のような話だ」
「おいおい、俺は真面目に言ってんだぜ。信じてないだろ、兄ちゃん。古代から神事には酒がつきものだ。今の時代でこそ、酔っぱらうことは野蛮で非理性的だと言われちまうが、それは視野の狭い話だ。アルコールでもドラッグでも、酔うってことは、現世的な論理とはまた別の論理の流れに身を委ねるってことだ。第六感、神からの啓示、自然の声……呼び名は何だっていいが、この世界は通常の知覚じゃ捉えきれないものであふれてる」
「なんですか急に、オカルトチックな」
「いやー、そうじゃなくってよ、まあ、飲めばわかるって話だよ。なあ、マスター。兄ちゃんに俺の奢りで一杯、飲ませてやってくんないかな」
先ほど見せた理知の片鱗はどこへやら、ヤスさんはいつもの絡み癖の強い酔っぱらいへと戻っていた。だがそちらの方がシンプルで、僕は好きだった。僕はヤスさんにウイスキーをごちそうしてもらい、くだらない雑談に興じながら更に二、三杯のウイスキーを飲んだ。僕はウイスキーに弱い。すぐに酔っぱらってしまうし、次の日もなかなか抜けない二日酔いが残る。だが、その味は好きなのだ。特にアイラモルトの、スモーキーな香りはたまらない。だから、ダメだとわかっていてもついついグラスに手が伸びてしまう。酒の中に現世と異なる論理があるとは信じないが、数学的帰納法にも似た避けがたい
気づけば僕は、夜道を歩いていた。夜風の冷たさではっと我に帰る。千鳥足で記憶も怪しい歩行から、ふと醒めてみれば、自分がどこにいるかもわからない。まるで夜の海に流された小舟になったようで、空恐ろしさが身体の芯から湧き上がってくる。
「おい、兄ちゃん、大丈夫かよ」
横からは、さっきまで一緒にバーで飲んでいたヤスさんの声がする。否、気のせいか。振り向いても誰もいない。顔を上げると遠く先でコンビニの灯りが輝いているのが見える。こんな心細い状況では、コンビニの看板も何とも頼もしく見える。僕はこの寂しさと不安を一刻も早く解消せんと、その光の方へ早足で向かう。
コンビニに着いた僕は、携帯で自分の現在位置を調べた。いつも来ない方向に来ているから景色が見慣れないだけで、家からそう遠く離れているわけではないことがわかり安心した。
「歩いて帰るか」と独り言ち、そして酔い覚ましのための水を買って店を出た。深夜、郊外の住宅地に人気はなく、さっき感じた孤独感がまた別の形でやってきた。もし本当に僕がこの世界に一人っきりであるのなら、何をしても許されるのだろうか。たとえば、と僕は思う、今手にしているこのペットボトル入りの500mlの水を、あのアパートの窓に向かって投げたなら。あるいは、あの電柱から突き出している何本かのボルトを足場に、電柱を上っていったなら。
いや、やめておこう。バカなことを考えるのは。酒のせいで、そんなことを考えているとつい勢いで本当にやってしまいそうになる。そうなれば警察を呼ばれ、一貫の終りだ。サラリーマンとしての安定した生活はもはや望めなくなってしまう。
「やめちまうのか、もったいない」
「おわっ、ヤ、ヤスさん!? 」
気のせいではなかった。いつの間にいたのだろうか。肩越しにヤスさんがぬっと顔を出してきた。
「あのバーで話したこと、覚えてるか」
「
泥酔しながら聞いたとは思えないほどに、すっとそのフレーズが出てきたことに自分でも驚く。
「そうだ。兄ちゃんは今その啓示を得かけていた。世界が別様に見えたんじゃないか? それこそが酩酊の論理ってもんだ」
「酩酊の……」
「世の中は、曙の夢のごとし。醒める前に、あのアパートの窓ガラスをぶち破っちまおう、な」
そう言うとヤスさんは、ジョニーウォーカーの瓶を僕に手渡してきた。容量700mlのガラス瓶は、なみなみと琥珀色の液体で満たされていた。なるほど、これを飲めということか。おそらくは、すべて飲み干せと。普通であれば、こんな量のウイスキーを一気に飲めば急性アルコール中毒で死に至ることは間違いない。でも、ヤスさんの言葉を聞いた今なら、やれそうな気がする。
酩酊には酩酊の論理があるのだ。僕はジョニーウォーカーの蓋を開け、躊躇いなく瓶に口をつける。ウイスキーは熱い奔流となって、僕の喉から胃へと落ちてゆく。喉は焼けるようだが、不思議と過多なるアルコールに対する拒否反応はなく、心地よさを覚えた。そしてそれは、確かに啓示であった。全宇宙が琥珀色の液体に凝縮され、僕の中へ流入してきているのがわかった。身体と外界の境が消失し、風が僕の全存在を揺らしていた、風を通じて僕はユーラシアの草原と一体になり、ミシシッピの水の味を知り、何万光年を旅してきた恒星の光の寂しさを感じ、そして、空っぽになったジョニーウォーカーの瓶を手に持っていた。
酩酊の論理に従うならば――そう考えると、するべきことは自ずと見えていた。僕は手に握った空き瓶を、アパートの一室の窓に向かって投げた。瓶は回転しながら放物線を描き、そして大きな音を立てて窓ガラスが割れる。
「気持ちいい」と、僕は思わず呟く。
パリン、と反対方向からもガラスの割れる音がする。振り向くと、ヤスさんが小学生のそれみたいな笑みを浮かべていた。そして彼は、どこから取り出したのやら、次のジョニーウォーカーを差し出してくる。そうだ、n本目のジョニーウォーカーが存在するということは、酩酊の論理に従えばn+1本目のジョニーウォーカーが存在するということであり、そしてこの世に存在するすべての酒瓶はすべからく窓に向けて投げられるべきであるので、深夜の街には無限にガラスの弾ける音が鳴り響き、そのひとつひとつが世界の論理が書き換わったことに対する祝福であった。
永遠に続くかに思えた宇宙論的多幸感の後に訪れたのはしかし、いつもより程度のひどい二日酔いであった。そして自分が、記憶のないままに何とか自分の家に帰りつき、目を覚ましたのだということを知る。とすれば、昨日のあれはアルコールが見せた質の悪い夢だったということか。
スマホにはバーのマスターから何件もの着信が入っている。酔っていてあまり覚えていないが、何か粗相をしでかしてしまったのだろうか。
『ああ、実は昨日あなたと一緒に飲んでたお客さん、あなたが帰った後に倒れてしまいましてね。それでその……そのまま亡くなられたんですが、身元のわかるものが何もなくてですね。それで何かご存知ないかと――』
僕は電話を切った。頭が痛い。水を飲まなければ。いや、水でこの痛みが癒せるものだろうか。本当はわかっているんじゃないのか? 何を? 昨日兄ちゃんは何杯の酒を飲んだ? いや、何杯でもいい。仮にn杯の酒を飲んだとして、次にあるべきは何か? 幽霊を見た? そりゃいい。兄ちゃんが、こっちの論理に慣れたって証拠だ。酩酊の論理は、他者の思考だ。他者の思考? 躁、吐瀉の入り込んで彼岸と此岸の裏返って明けの明星が眩く蠢き、赤色灯が空を撫ぜて毒蛾がいなないている。地下鉄厭戦のアパートの窓という窓を割り回れば、頭が痛い、水を飲まなければ、二等辺三角形の交叉する水が掃いて、頭を呑まなければ、馬刺しの滴る値はn+1の極限を取り、猫の静止は1フレームごとに切り替わっていて、無限匹の猿が米を感で感電して吐いた中にジャックダニエルの一滴を飲まなければ、手中に握った蛾のもがいて鮮明な愛の色が白いカラスも混じって遺体、路上に眠っていて、頭が宙に真実を波形の描くボルツマンの速度が滲んでいて、
ユニットバスの風呂場には、割れた瓶が散乱していて酒くさい。鏡を見ても何も映ってはいないが、ヤスさんが無表情でこっちを見つめている。頭が痛い。水を
酩酊のロギカ、素面のポエティカ 綾浮りじこ @risikoayauki
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