鬼を見た日

 僕は幼い頃、鬼を見た。原色に近い、目に優しくない赤い肌をしていて、頭が胴体と同じくらい大きく、目はくりくりとしていて意外にもかわいらしかった。それは僕が三歳ぐらいのときのことだった。もはや何の席かは覚えていないが、親戚がわが家に集まり、座敷で料理をつつきながら、酒を飲んでいた。大人にとってそれは愉快な酒席だったのであろうが、子どもの自分にとっては退屈なものであった。だから僕はあちこち歩きまわって、目についたおもちゃで遊んだり、絵本を読んだりしていた。


 そんな中、ふと窓の外、庭の方を見るとそいつがいたのだ。じっと僕の方を見ていたが、不思議と恐怖は感じなかった。「なあなあ、おにがおるよ」と、両親や叔父などに声をかけてみたが、「え? どこよ」「あれはただの木やないか」と取り合ってもらえなかった。あんなにはっきり、異様な姿をしたものが立って、しかもこっちを見ているというのに、大人にはそれが見えないらしい。そう悟った僕は、大人に声をかけるのをやめ、窓の外の鬼が何をするのかを見ていようと思った。すると、曾祖父が声をかけてきた。


「あれが見えるのかい? 」


「え? 」


「あの鬼だよ。見えるんだろう」


「ひいじいちゃんも見えるの? 」


「ああ、見えるさ。鬼ってのは、命の弱い人にしかその姿が見えないんだ。子ども、老人、病人……だからここにいる中じゃ、お前とわしにしか見えてないのかもな」


「あのおには、なにしに来とるん? 」


「さあ、わからんなぁ」


 そんなことを話しているうちに、鬼は庭から姿を消してしまっていた。玄関から外に出て、あたりを見回してみたが、やはり見つからなかった。どこへ行ったのだろうかと曾祖父に聞いてみても、やはりそれも「わからない」と言われるばかりで、鬼との遭遇はそうして曖昧模糊としたまま終わってしまった。数日後、曾祖父は亡くなった。前日までは特に苦しむ様子もなく、朝起こしに行ったら、というやつで、家族のあいだでは「歳も歳やったしなぁ」と言われていた。


 もしかすると、あの鬼は彼の死に関係があったのかもしれない。曾祖父が鬼を見た時、彼は自分の死が近いことを悟ったのかもしれない。だが、あの鬼が彼に何か悪さをしたわけでもないのだろうということも、直感的に理解していた。それ以来、僕の眼にあの鬼の姿が映ることはなく、そんな体験があったこと自体を忘れてしまっていた。そして僕は、大学生になった。


 二年生になった僕は、決して褒められたものではない、しかしある意味模範的と言える大学生活を送っていた。つまり講義をすっぽかすことは日常茶飯事、勉学のためというよりはサークル活動のためにキャンパスへ行き、夜は遊びやらバイトやらで予定をパンパンに詰め込み、そして気の置けない仲間との麻雀を何より愛する、そんな生活だ。大学からほど近い僕の部屋はしばしば雀荘と貸し、打牌の音が明け方まで続くことはしょっちゅうであった。部屋のごみ箱は即席麺のカップに割りばし、エナジードリンクの空き缶で乱雑に満たされ、不健全とまでは言わないまでも不健康な瘴気が部屋を満たしていた。


 そんなある日、珍しく二限目からの講義に出席するため大学へ行くと、赤鬼がいるのだ。キャンパスのメインストリート、自転車が所狭しと並べられ、置かれている場所に奴はいた。かつて家で見た時と同じように、他の学生には鬼が見えていないのか、その近くを素通りしていってしまっている。彼は何をするでもなく、こっちをじっと見つめている。いったい何のつもりで今さら僕のもとへやって来たのか。害意はなさそうであるし、近づいて問うてみようとするが、一限終わりで別の棟へ向かうのであろう学生の流れに遮られた次の瞬間、鬼は姿を消してしまっていた。


 次の日、僕は大講義室で鬼の姿を見た。他の学生と同じように席に腰かけ、講義を聞いていた。講義終わりに声をかけてみようとしたが、やはり教室を出ていく受講生の影に隠れたと思った次の瞬間には姿を消してしまっていた。さらに別の日、買い物に行った先の商店街で彼を見た。またある時は銭湯で、そして別の日にはカラオケ店で、居酒屋で……その度に僕は一言赤鬼に声をかけようとするのだが、ふとした拍子に姿を消してしまう。


 いつしか僕は、自分の方から赤鬼の姿を探し求めるようになっていた。一体何の目的で僕の前に姿を現しているのか、とっつかまえて聞かなければ気が済まないと思うようになっていたのだ。


「ねえ、最近大丈夫? ちょっと様子がおかしいというか、目にすごい隈できてるし……」


「ええ、少し睡眠不足で……試験とかレポートの提出が重なっちゃって」


 バイト先のスーパーのパートさんに、笑ってごまかしながらそう返す。最近毎日のように赤鬼の姿が見えてまいっているのだなど、到底周りの人に漏らすわけにはいかないだろう。もしそんなことを言おうものなら、精神を病んでいるのではないかと疑われるのは必至である。何とか笑顔を取り繕いながらレジを打っていると、目の前に赤鬼がやってきた。それも、買い物かごに商品を入れて。


 キャベツ、豚肉、ピーマンに醤油……まるで普通の夕食を作るための買い物。僕はそんな買い物かごを持ってきたこの鬼を許すことができなかった。お前を見たせいで、いったいどういうことなのかと解釈に頭を悩ませ、夜も眠ることができなかったというのに、何食わぬ顔で買い物なんて……気づけばそんな怒りは声となって口をついて出て、しまいには鬼につかみかかってしまっていた。


「おい! どういうつもりなんだ! 答えろよ! 毎日毎日僕の前だけに姿を見せてはすぐにいなくなりやがって! ひいじいちゃんの時みたいに、もう僕が長くないからって来てるのか!? だったらはっきりとそう言えばいいじゃないか! なあ!」


 傍から見れば、僕は虚空に向かって怒鳴り散らす狂人だろう。だが、もうそんなことはどうでもよかった。耐えられなかったのだ。騒ぎを聞きつけた店長と副店長がやってきて、僕の両脇を掴んでレジから引きはがす。


「おい! 落ち着きなさい!」


 そんな様子を赤鬼は、小さい頃僕を見つめていたのと同じ、くりくりとした大きな眼で見ていた。そのどこか間抜けな顔を見ていると、馬鹿にされているようで、また沸々と怒りがわいてくる。


「僕のことを馬鹿にしてるのか! なあ! 覚えてろよ!」


 そう叫び、周りの客には怪訝そうな顔で見られながら、僕は引きずられていった。


*********


「なるほど、つまり彼は、鬼が自分だけにしか見えない存在だと思い込んでいた。一種の精神錯乱状態にあったと」


「ええ、そのようです」


「鬼は希少であるとは言え、我々の社会に溶け込んで生活している存在。それは周知の事実です。そんな思い違い、どうして生じうるというのでしょう」


「いえ、メカニズムはわかっていませんが、実際にそういった症例はいくつも、世界各地で報告されています。彼らはあくまで鬼の存在というのは御伽噺の中だけで、それが見える自分自身というのは特別であるというか、異常であるという精神状態に陥っているようなのです」


「しかし、どのような理由があろうと、鬼が不吉の象徴であるというような、差別的発言は許されるべきではないでしょう。今後の人類と鬼の友好関係に大きなひびを入れかねません」


「その通りですね。ですから当評議会としましては、大変心苦しいですが、彼の殺処分という提言をしなければならないでしょう。人類と鬼の平和のために」


 評議会の開かれている会議室に、満場一致の拍手が響き渡る。

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