幻想
「おばあ様、葉っぱを頂戴な。このお金で、足りるだけ」
青白い
三枚、とイザベラが伝える。そして、ちょっと待ってくれるかい、今切ったげるから、と。しかし少女は「いいよ、おばあ様。自分でやるから」といって、葉を三枚ちぎりとっていった。
「ごめんね、自分でやってくれるのは助かるんだけれど、次から鋏を使って、優しく切ってあげるようにしてくれないかね」
「ああ、ごめんなさい。次から気をつけるから」
少女は素直に謝り、家を出ていった。彼女に悪気はないのだろう。それはイザベラにもよくわかっていた。しかしその無邪気さが、イザベラの静かな怒りをゆっくりと燃やしていた。イザベラはゆっくりと立ち上がり、幻年智草の方へ向かった。切り口に顔を近づけ、「かわいそうに」とつぶやいた。切り口からは弱々しく、幻覚性の靄が出ている。その靄に顔を浸せば、腕が千切れ悶え苦しむ兵士の姿が浮かんでくる。イザベラにとってそれは、単なる幻覚作用ではなく、植物の心からの訴えであった。
外に出てみれば、青白く燐光を発する摩天楼たちの街が眼前に広がる。空中を海月たちが、長い触手をたなびかせながら泳ぐ。無機質と幻想の芸術的な調和。この街は幻年智草の摂取による、少女たちの集団幻覚によって成り立っていた。強度と斉一性の高い幻想は、物理的現実をも超越する都市を具象化させる――それは化学、物理学、心理学理論の高度統一運動の中で純粋に理論的な可能性として予見された事実ではあったが、その実現性については誰も期待していなかった。幻年智草の発見と、幻覚成分の配合によって摂取者に見させる幻想を
*******
「すべてあなたの貴女のおかげですよ、マダム。あなたが最適な
そう言って、アネステシアは小切手を書き、イザベラに手渡した。その一連の所作は洗練されていて、大人びており、そしてまた少女の悪戯っぽさに満ちていた。それはまさにこの街そのものの特性であり、それを完璧に備えているというのは、彼女がこの街の長であるということを考えれば当然のことであるのかもしれない。
「アネステシアお嬢様。これは受け取れません」
私が欲するものは、これではないから。そんな言葉を毎回思い浮かべるが、それを口にすることは決してない。過去にそのような理由で金銭的な見返りを断ったこともあったが、結局は誰も理解してくれないのだ。結局儀礼じみた押し付けと遠慮のやり取りを数回繰り返したのち、イザベラはそれを受け取った。
「マダム、今日の本題はこれからです。先ほど申し上げました通り、この街は貴女のおかげでここまで大きくなりました。外の世界の科学者連中には、こんな展開考えもつかなかったでしょうね。ですが私たちは、より大きく、より複雑で、より美しい幻想を必要としています。そのためには、もっと多くの幻年智草が必要なのです。そこで私ども幻想街の上層部では、近々幻年智草を量産するための大規模な農園を設立しようと計画しているんです。マダム、どうかこの計画のために、お力を貸していただきたいのです」
「お嬢様、お言葉ですが、我々には『足るを知る』という精神が必要かと存じます。幻年智草は大規模な栽培には向きません。それに、幻想というものは、本来的にささやかで優しく、そして儚いもの。今この街が成り立っていることだけで、もう奇跡と言って差支えないくらいなのです。それをさらに拡張しようというのは、私にはどこか暗い予感を覚えさせてしょうがないのです」
「マダム、どうにも貴女のそういう
「幻想とは、まさしく詩人的感性の賜物ではありませんでしょうか。私は、幻想を一手に司る者として、科学性と同時に詩情を忘れてはならないと考えています」
なるほど、貴女の考えにも一理あるのかもしれないとつぶやいて、アネステシアは去っていった。だがきっと、心の中ではそうは思っていないはずだ。彼女もまた、幻想という狂気に
「あなたは、あなたが生み出したすべての子どもたちより美しく、尊いわ」
そうイザベラは、幻年智草に囁き、その植物の発する声を聴こうと耳を傾けた。だがそんな慎ましやかな努力もむなしく、いつものことではあったが彼女の耳元にこの植物の声が届くことはなかった。
「結局、私もあの少女たちと同じってことなんだね。あなたの葉を切り取らないことには、あなたの内奥を理解してあげることはできない」
イザベラにとって、どれだけ幻年智草に語りかけ、その声を聴こうと努力しても、結局その化学成分による幻覚という形でしか理解できないというのは、想像を絶する屈辱だった。長年の経験からそうする以外に方法はないのだとわかっていても、幻年智草を切る時にはいつも涙を流した。
よく研がれた鋏を使い、刃を入れたら一瞬でひと思いに切ること。それがイザベラのせめてもの気遣いだった。切り取った葉を口元に持っていき、やさしく口づけをする。イザベラにとってはそれで充分だった。
暗く冷たい闇の中に――それは「無限」という言葉を思わせる程の広がりと深みと濃度を持っていた――一株の幻年智草が生えている。虚無へと根を下ろしながら、あの幻想街特有の青白い燐光を放っていた。そしてその光はこの広大で重厚なる闇の中にあっても減衰することを知らず、いかなる距離に対しても等しくくっきりとした光芒を投げかけていた。イザベラはその光の中に、そして光の源たる幻年智草に、奇跡を再認した。そうだ、この光は単なる成分の
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老イザベラが自分だけの幻想の中で、孤独で果てしなく、しかし満ち足りた旅へと出ていった時、幻想街の大半の少女たちはいつもと変わらぬ日常を送っていた。ある者は宙に漂う海月と戯れ、またある者は少女同士で肢体を絡み合わせ、また別の者は寝転がり、ただ恍惚と空を見つめ、云々……すべてが耽美的で、優雅な気怠さに満ちていた。皆、幻年智草を摂取し、その幻覚作用を
街の中心には、ひときわ大きく高くそびえる塔があった。塔とは言ってみても、それはその建造物の縦横比から単純にそう呼び慣わしているだけであり、各階の面積は屋敷と呼んで差支えないほどに広大であった。この街の長アネステシアは、この塔の最上階に居を構えていた。
「お嬢様、イザベラ様との交渉は? 」
アネステシアの侍女が、紅茶(もちろん幻年智草のエキスを含む)を出しながら、彼女に問いかける。
「そうね、まだあまり芳しい反応はいないです。やはりあのお方は、幻年智草への愛が強すぎるというか、歪んでいるというか。正確な科学的知見を持っていながら、一方で自分の感情的な部分を抑えきることができないのでしょうね」
「では……」
「心配には及ばないでしょう。物質主義の外の世界では、幻年智草は保守的な人間たちの過敏反応のせいで、営利目的はおろか、研究目的での栽培すら禁止されていると聞きます。つまりは、彼女の幻年智草への愛が達成されるのは、この幻想街においてのみだということなのです。そして、この幻想街が私たちの幻想で維持されている以上、イザベラ様は私たちに協力せざるを得ない。きっといつか、理解してくださるはずですよ」
アネステシアは窓から街を眺めた。本当に美しい街だ、と彼女は思う。ここにやって来るのは皆、現実世界の汚らわしさに嫌気の差した者たちばかりだ。そして、全ての人類は潜在的に現実世界を嫌っているというのが、アネステシアの持論であった。金銭で欲望を満たし、幸せに見える人も、心の奥底では物質世界という牢獄から逃避したいと考えている。だから救済が必要なのだ。いずれ現実世界に生きるすべての人々を受け入れるだけの容量が、この幻想街には必要なのだ。だから、もっと多くの幻想を、その幻想を生み出すだけの大量の幻年智草を――そんなアネステシアの思考の内に、「声」が入りこんでくる。
「でもそれは、結局あなたが嫌った現実世界の発展を、同じように繰り返しているだけではありませんか? 」
それはイザベラの声であるように思われた。次の瞬間、大きな地響きがアネステシアの塔を包む。現実世界であれば地震とでも名付けられていた出来事であるのだが、幻想の世界に来て長い少女たちは、その現象の名を忘れてしまっていた。塔の住人達は突然の変異に戸惑い、普段の落ち着きはらった態度は完全に忘れられてしまっていた。アネステシアでさえ、「皆、落ち着きなさい! 」とかつてないほどに声を張り上げている。
「いやああああああぁ!! 」と、誰かが金切り声を上げる。が、それは地震に対する悲鳴ではなかった。アネステシアは言葉を失う。辺りを見回せば、割れたガラス窓、そこら中に散らばるコンクリート片や鉄の廃材、風雨に曝されボロボロになったテーブル。信じがたいことだが、自分たちがいわゆる現実世界の
泣きわめいていたり、放心状態だったりする少女たちを後に、アネステシアは廃ビルの階段を下りてゆく。確かに彼女も相当なショックを受けたが、この事態に際し、やらなければならないことははっきりとしていた。もう一度、幻想の
イザベラの小屋の場所に近づくと、そこに小屋はなく、代わりに人だかりが出来ていた。それは、亡者のごとき形相で何かに手を伸ばす少女たちの群であった。その手の先には、あの幻想街特有の青白い輝きがある。そこにあったのは、紛れもなく幻年智草であった。
「アネステシアです。通してください」
そう言ってみても、かつての街での権威などもはや役に立つ気配はなかった。気が進まなかったが、アネステシアも少女たちの為す人垣の中に身を挟み入れ、たった一株残された幻年智草へと手を伸ばした。だが、その手が葉に触れることはなかった。そこにあるはずの幻年智草は、するりするりとあらゆる者の手を通り抜け、決して掴まれることがなかった。
アネステシアは聡明にして、その出来事の意味を瞬時に理解した。つまり、「現実世界に帰してしまった」と自分たちの思う、今のこの
「イザベラ様、これが貴女の描く理想だというのですね」
アネステシアは、感嘆とも諦念ともとれる、甘くとろけるような声でそう呟いた。いくら手を伸ばしても無駄だと分かっていても、手を伸ばさずにはいられない
それは最後まで理性的であったアネステシアにしてもそうだった。彼女もまた、嘆息を漏らしながら、幻惑的に輝く幻年智草の幻影に手を伸ばし続けた。
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