心の通訳者
こんぶ煮たらこ
心の通訳者
それは突然の出来事だった。
「声が出なくなったー!?」
プロングホーンの無言の告白を前に、思わずチーターと二人で顔を見合わせる。
「ちょ、ちょっと! 声が出なくなったってどういうこと!?」
「そ、そうだよプロングホーン! スタートする前は普通に喋ってたじゃん!」
第二回ジャパリレースを目前に控えた私たちは、自主練と称して毎日のように三人でかけっこをしていた。朝、昼、晩、短距離、中距離、長距離、岩場、森林、時には湖と、時間も場所も関係なく一日中ひたすら走り続ける毎日。
今朝のコースは森林で長距離走だった。短距離は瞬発力のあるチーターが一番速いし、長距離は体力のあるプロングホーンが一番速い。私は、瞬発力も持久力もそこそこだけど、そこそこだからこそ意外な場面で二人を追い抜いたり、三人で競い合っていた。こういうのを、切磋琢磨というらしい。ナナが言っていた。今回だってそのいつもの競走の一つだと思っていた。
「………………………………」
喉元に手を当てて不安そうに俯くプロングホーンは、まだ自分自身でもその身に起きていることを理解できていないようだった。優しげな垂れ目から覗く真っ直ぐな瞳の輝きも今は影を潜め、ただ視線を地面に落とすだけだ。
「ど、どうしよう。プロングホーンが喋れなくなったら誰がスタートとかゴールの合図出すのさ!? それに、いただきますもごちそうさまも言えなくなっちゃうなんて……うわー!」
本当はもっと色々言いたいことはあるんだろうけど、考えるより先に言葉が溢れてきて止まらなくなる。喋れなくなる、ということがどういうことなのか、ごちゃごちゃになった頭の中で何とか整理して考えてみようとするけれど、何もわからなかった。
そして、何もわからない、ということが急に怖くなった。
「落ち着きなさい。とりあえず私はパークのスタッフを呼んでくるから、あんたたちはここで待機。超特急で戻ってくるわ」
「う、うん。わかった」
「プロングホーンのこと、頼んだわよ」
そう言ってチーターが私の肩に手をかける。その手が、まるであんたがしっかりしなさいと言っているようだった。
不安なのは私だけじゃない。チーターも、そして何より、プロングホーン自身が一番不安なはずだ。私が取り乱したりしたら、二人にも心配をかけてしまう。
疾風のように走り去るチーターの後ろ姿を見送りながら、きっと彼女の足ならすぐに応援を呼んできてくれるだろう、と思う。それまでは、ひとまずプロングホーンとゴールの木陰で休むことにした。
「ねえプロングホーン。大丈夫? どこか痛いところとかない? 何かあったらすぐに私に言ってね。――って喋れないんだっけ」
苦笑いする私にプロングホーンが優しく微笑む。さっきよりはだいぶ落ち着いたようで、そのいつも通りの笑顔に、少しだけ救われる。
彼女は今、何を考えているのだろうか。喋れなくなる、ってどういう感じなんだろう。目の前にいるのに、言葉が話せない、というだけで、ちょっぴり距離を感じてしまうのはなんでだろう。
ふと、プロングホーンが何かを思いついたように、私に手を出すようジェスチャーしてきた。
「えっ、手?」
頷くプロングホーンに黙って右手を差し出す。すると、プロングホーンの指がすっと、私の手のひらを撫でた。
「ひゃっ!?」
思わず声が出る。
「く、くすぐったいよ! プロングホーン」
私にはそれが最初、彼女が思いついた、ほんのお遊びか何かだろうと思った。でも、すぐに彼女が自分に何か伝えたいことがあるのだとわかる。手のひらを通して、私に文字を書いているのだと。
私は全神経を手のひらに集中させて指の動きを追う。そして浮かび上がった言葉を口にした。
「お、り、ご、と、う……?」
そのまま、もう一度口に出す。
「えっ!? オリゴ糖!? オリゴ糖って何!? どういうこと!?」
私が慌てると、プロングホーンも一緒になって慌てて手を振った。どうやら違ったらしい。意外と難しい。
そもそも彼女は今、私と向かい合った状態だ。つまり私に対してわかるように文字を書くには、まったくの逆方向に書かなければならない。これではお互いわかるものも、わからないだろう。
私は立ち上がると、改めてプロングホーンの横に座って言った。
「よし、これなら大丈夫だよね」
プロングホーンは暫く私の顔を見つめていた。やがて、また私の手に向き直って人差し指を立てる。その顔が、一瞬綻んだ気がした。
もしかして、気を遣わせてしまったな、とでも思っているのだろうか。そんなこと全然気にしなくていいのに、と思う。
もう一度、今度はしっかり一文字目から目を離さないようにする。さっきよりゆっくり動く指に注目していると、ふと、彼女の首筋からふわっと汗の匂いがした。
私はこの匂いが好きだ。誰かのため、何かのために一生懸命走って流す汗の匂いが好きだ。
いけない、今は彼女が何を伝えようとしているのか理解するのが先だ。そう思いつつも、もう一度、気づかれないように、そっと匂いをかぐ。お日さまの光をたっぷりと浴びたそれは、ほんのりと香ばしい香りがした。
最後の一文字を書き終えたところで、プロングホーンがゆっくりと、その指を私の手から離していく。
「あ、り、が、と、う……」
私の声にプロングホーンが頷いた。
「い、いや……。そんなお礼を言われることなんて何もしてないし! 私はただ、プロングホーンが困ってるなら何か力になりたいって思っただけで……」
何だか面と向かってお礼を言われるのが照れくさくて、恥ずかしくて、その顔を直視できなくなる。堪えきれず、話題を逸らす。
「それにしても、どうして急に声が出なくなっちゃったのかな?」
急に、というのは本当に急で、昨日どころか、かけっこをする前までは普通に話していたのだ。チーターとは「最速は私だ!」という、いつもの言い合いをしているのを聞いていたし、私もスタートする前、「負けないよ!」「ああ。お互い全力を出そう」と話したのを覚えている。その声が、今でも脳裏に焼きついている。
「あ、わかった! 歌いすぎて声が枯れちゃったんだ!」
言い終わってから、プロングホーンが大声で歌いながら走っている姿を想像してみると、そのあまりの違和感に吹き出しそうになった。案の定、私の手に描かれた答えは“×”だ。
「違うかあ。じゃあじゃあ、超激辛ジャパまん食べちゃったとか!?」
今度はプロングホーンがくすりと笑う。
「あっ今笑った! ってことはもしかして正解!? 大正解!?」
“×”
「難しいなあ。これじゃプロングホーンから“○”を貰うまでに日が暮れちゃうよ~!」
“△”
「三角って何!? あってるの!? あってないの!? ――って、よく考えたらプロングホーンにもわからないんだったね」
答えのわからない問題にあれこれ考えるのは時間の無駄な気がした。それに、これ以上この話を続けてプロングホーンの不安を煽りたくない。
その時、プロングホーンのお腹がぐう、と鳴った。それを聞いてあることを思いつく。
「――今、プロングホーンが思っていることを当ててあげます」
急にかしこまった話し方をすると、プロングホーンが驚いたようにこちらを見る。そして、きゅっと首元のネクタイを締める素振りを見せると、漫画で名探偵がするように、指を指してこう言った。
「ズバリ、あなたはお腹が空いているでしょう!」
“◎”
「いよっしゃー! “◎”貰ったー!」
嬉しくて、つい柄にもない喜び方をしてしまう。“○”ではなく“◎”というところに、彼女の茶目っ気が表れていた。
あらかじめ持ってきておいたジャパまんを二つ取り出して、「どっちがいい?」とプロングホーンに尋ねる。オレンジと水色、ここに来る前に走りながら適当に見繕ってきたもので、何味かはまだ確認していない。
プロングホーンは顎に手を当て、まるでどちらか一方がハズレなのではないかと思えるくらい真剣に悩み、やがて水色の方を指差した。こっちにする、と。
「はい。じゃあ私はオレンジね」
そう言って彼女に水色のジャパまんを渡し、「いっただきまぁ~す!」と二人で手を合わせる。口へ運ぶ前、ふとプロングホーンの唇が微かに動いた気がした。
その薄い唇が、確かに「いただきます」と言っていた。
ああ、とその様子を見て思う。
声は出せなくても、ちゃんと私に合わせて言ってくれたんだ、と。
そのままオレンジ色のジャパまんを口いっぱいに頬張る。次の瞬間、強烈な刺激と熱さが私の口を襲った。あまりに突然の出来事に頭が追いつかないまま、咄嗟に持っていた包み紙を確認する。
「げ、激辛タコス味ぃ!? 何だよこれ~!?」
今朝の自分を恨めしく思う。ちゃんと確認もせずに、とりあえず目についた色のものを選んだだけで、まさかこんなことになるなんて思ってもみなかった。辛さに悶絶しながら「ひ、ひふ~! ひふ~!」と、言葉にならない言葉を漏らす。もう口を開けるのも痛いくらいだった。
プロングホーンはすぐにそれを水のことだと理解してくれたようで、手渡されたドリンクスターを一気に飲み干す。
「激辛超辛めっちゃ辛で酷い目に遭った……。もう暫く喋りたくない」
なるべく口の中に空気を入れないように息をする。プロングホーンは、私の頭を撫でながら、『な、か、ま』と書いた。
「それにしてもチーター戻ってこないね」
彼女がここを出てどれくらい経っただろうか。まだ戻ってくる気配はなく、私とプロングホーンは変わらず森林地帯の開けたところで休んでいた。ゴールの目印にしていた木は、二人で寄りかかるには少し小さくて、並んで座るとお互いの肩が触れ合った。
この辺りの森は草木も少なく、程よく手入れもされているため、よく三人で走っていた場所だ。ゴール周辺のこの木の周りだけは広場のようになっており、わかりやすいというのも利点だった。ただそれでも、決まった道を進まなければこの場所には着かない。もしかしたらチーターが迷っている可能性もある。
いてもたってもいられなくなった私は、「ちょっと飛んで様子を見てくる!」と立ち上がった。でも、そこからの一歩を踏み出す気にはなれなかった。
プロングホーンが私の服の裾を掴んでいたからだ。
何も言わず、ただ顔を背け、俯き、黙って私が座るのを待っているようだった。その姿が、駄々をこねる子どものようで、その彼女らしくない仕草に、今の彼女の本当の姿を見ているような気がした。
私はまた座り直して、「ねえプロングホーン。あのね、もしもだよ? 本当にもしものことだから、不安にならないで聞いてほしいんだけど……」と前置きをする。
言おうかどうしようか、迷った。そこで言葉に詰まる。
もし、このまま――。
「――このまま声が戻らなかったらどうするの?」
プロングホーンが私を見た。その真っ直ぐな眼差しに映っているのは、たった今言ったことを後悔している自分だ。やはり言うべきではなかった、という気持ちが、強く、胸を衝く。
「ご、ごめんね! 急に変なこと聞いちゃって! ずっとこのままなんてこと、あるわけないのに」
でも一度言葉にしてしまったら、もう止められなかった。こんなことを聞いたところで、彼女にわかるわけがない。きっと誰にもわからない。だからこそ、不安になる。
「私、怖いんだ。もうプロングホーンとお話できないのかなって思うと……。また一緒にお喋りしながら走りたいし、かけっこのアドバイスも聞きたいし、もっと色んなところへお出かけもして、もっと、もっと――!」
洪水のように次々と溢れ出てくる想いを、一つずつ、言葉に変えていく。
こんな気持ちになったのは、いつからだろう。
プロングホーンと初めて出会った第一回ジャパリレース当日、彼女はピンチだった私の前に颯爽と現れて助けてくれた。
プロングホーンは体力もあるし、足も速いし、格好良くて、強くて、いざという時に頼りになって、そんな彼女に対し何となく完璧なイメージを持っていた。
でも、今日等身大の彼女を見て、もっと知りたい、と思った。一緒の道を走り続けていきたい、と。
そして、もっと――。
「プロングホーンの声を聴きたい」
その瞬間、プロングホーンが強く、私を抱き寄せた。
「プロングホーン?」
呆気にとられたまま、身動きが取れなくなる。お姫様抱っこされたあの日の時のように、私の心臓はバクバク打ちつけていた。その音が彼女にバレてしまうのではないかと不安になるほどに。
彼女は何も言わなかった。声が出せないから当然なのに、それでも彼女の想いが全身を伝って流れ込んでくる。彼女の気持ちが、言葉ではなく、心で理解できる。本当に大切なことは、声じゃなくたって、伝わるんだ。
「――うん、決めた!」
私は立ち上がると、プロングホーンに向けて宣言した。
「私、プロングホーンの声になる!」
プロングホーンが弾かれたように顔を上げる。
「私がずっと側にいて、プロングホーンの言いたいこと、考えてること、全部伝えてあげる! あっ、迷惑だなんて思わないでね!? もう決めたんだから! たとえ迷惑だって思われても、ずっとついてってやる!」
もしかしたら強引だって思われたかもしれない。傲慢だって思われたかもしれない。相手が何を思い、何を感じ、何を伝えようとしているのかは、結局のところその本人にしかわからない。でも、手助けすることはできるはずだ。彼女がいつかまた、話せるようになるその日まで。
「そーゆーの、何て言うんだっけ? えーと、えーと……」
悩む私に、『つ、う、や、く』とプロングホーンが指を動かす。「そう! つーやく!」と、私が言った。
「じゃあ私は、プロングホーンの心の通訳者だね」
その時、遠くの方から「おーい二人ともー!」という声が聞こえた。声のする方を見ると、チーターがナナを背負ってこちらへ向かってきている。汗だくになり、後ろのナナが「大丈夫?」と心配しても頑なに彼女を下ろそうとしないその姿を見て、何となく遅れた理由を察した。
「行こう! プロングホーン!」
私は彼女の手を取って走り出す。彼女と同じ道を、走り出す。
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